アウシュビッツの話題を見て思ったことをChatGPTに聞いてもらう

👤 自分

人気のテレビ番組でアウシュビッツの特集がやってたらしくて、全人類見た方がいいとか、勉強になるとか、つらいけど見るべきとか、戦争はいけないみたいなコメントがいっぱいついてるんだけど、既にある程度見てきた上で、なんかこういうのってどうなんだろうという気持ちがある。こんなひどいことがあったんだ、信じられない、人間はここまで残酷になれるんだ、みたいなコメントが毎回つく、全員がそういう同じ反応をしている、その同じ反応がものすごい数ついている、で?っていう気持ちがしてくる。なんか結局、そこから得ようとしてるのは今への安心感なんじゃないかって…口では将来の悲劇を避けるためみたいな建設的な結論に持っていくけど…結局エンタメ消費なんじゃないかって…


🤖 ChatGPT

その「で?」という感覚、かなり重要なところを突いている気がする。

特に気になったのは、「結局、そこから得ようとしているのは今への安心感なんじゃないか」という部分。

アウシュビッツのような歴史的惨劇を知ることには、本来、自分たちの社会や人間性についての認識を不安定にする作用があるはずなんだよね。でも、その惨劇を「過去に起こった信じられないほどひどいこと」として眺めることで、むしろ現在の自分の立場を安全なものとして確認できてしまう。

例えば、

「昔の人間はこんな残酷なことをした」
「本当に信じられない」
「二度と繰り返してはいけない」
「こういう歴史を忘れてはいけない」

という感想は、どれも間違っていない。でも、この一連の反応には、自分がその歴史のどこに位置する人間なのかを問われないまま、道徳的に正しい側に立ててしまうという性質がある。

しかもSNSでは、その反応が何千、何万と並ぶ。

すると、歴史の理解というより、一種の集団的な道徳確認の儀式みたいになってくる。

「こんなひどいことをひどいと思える私たちはまともな人間だ」という確認。それは確かに安心感をもたらすと思う。

そして、ここにエンタメ消費との接点がある。

普通のエンタメが驚きや恐怖や感動を提供するように、歴史的惨劇を扱う番組も強烈な感情体験を提供する。そのうえ、視聴後には「勉強になった」「大切なことを知った」という道徳的な満足感まで得られる。

もちろん、だからといって視聴者の衝撃や悲しみが偽物というわけではない。初めて知る人には重要な体験だろうし、感情的な衝撃が関心の出発点になることもある。

ただ、感情を動かされたことと、何かを理解したことは別なんだよね。

さらに厄介なのは、「戦争はいけない」という結論に収束することだと思う。

アウシュビッツで起きたことは、単に戦争によって人間が残酷になったという話ではない。特定の人々を社会から排除し、権利を奪い、組織的・事務的に殺害する仕組みが構築されたという話でもある。

そこには思想があり、法律があり、行政があり、職務を遂行する普通の人々がいた。

そう考えると、本当に向き合うべき問いは「人間はどうしてこんな残酷なことができるのか」だけではなく、

「自分がその社会で暮らしていたら、その仕組みの一部にならずにいられたのか」

という、ずっと答えにくいものになる。

でも「昔はひどかった、二度と繰り返してはいけない」という結論は、そこまで踏み込まなくても成立してしまう。

だから私は、あなたが感じている違和感は、悲惨な歴史を学ぶこと自体への疑問ではなく、悲惨な歴史を見て、適切な悲しみと憤りを表明することが、それ自体で倫理的な達成として扱われていることへの疑問に近いんじゃないかと思った。

そして、もう一つ皮肉なのは、その集団的な反応そのものに同調圧力のようなものが生じること。

誰もが同じように「絶対に忘れてはいけない」「全人類見るべき」と語り、それと違う角度から考えること自体が不謹慎に見えてしまう。

もちろん、それとナチス時代の集団心理を安易に同一視することはできない。でも、集団で正しい感情を共有することと、集団の判断を批判的に検証することは、必ずしも同じではないという点は考えさせられる。

歴史を忘れないことは大切だけど、「忘れてはいけない」と繰り返すことで、何を理解したのか、何が変わったのかを問わなくなるなら、記憶の継承そのものが目的化してしまう。

あなたの「で?」には、単に「感想を言うだけでは意味がない」という以上に、その感情体験が、本来残るはずの不安や問いをきれいに解消してしまっていないかという疑いが含まれているように感じた。


👤 自分

今同時期に移民を入れるな!とかムスリムが増えると手遅れになるっていう言説が同じXで流行ってるんだよね。正直アウシュビッツの特集をつらいけと見て良かった~って言ってる層とムスリムの移民反対!って言ってる層両方に所属してる人絶対いるだろうなと考えてしまう。その上で、そいつの中には本当に後者の問題を誰かが「掃除」してくれればありがたいという気持ちが一ミリもないのか?という疑いがある。あとアウシュビッツはイスラエルの肩持つようなメッセージ出したからそれから何見ても「でもイスラエルの肩持ったんだよな」って思いがあるっていうポストも見かけて、多分アウシュビッツがユダヤ人への迫害だったからこそユダヤ人への申し訳なさ・あるいは申し訳ないという態度を示さなければならないという義務感からそういうポーズをとる現状が現れているんだとして、そこから考えられるのはそもそもアウシュビッツから「学ぶ」のがその「対象」への偏見への反省なのか、その「行為」への反省なのかという問題で、本当に人類規模で考えるなら「行為」を反省しなければならないと思うけど、果たして結局そっちを反省できている鑑賞者がどれだけいるのかって…


🤖 ChatGPT

ああ、なるほど。そこまで聞くと、最初に言っていた「で?」の意味がもっとはっきりした気がする。

特に 「対象への偏見を反省しているのか、行為そのものを反省しているのか」 という区別は、ホロコーストから何を学ぶべきかという問題の核心にかなり近いと思う。

例えば、アウシュビッツの歴史を知って「ユダヤ人にあんなことをしてはいけなかった」と考えるのと、「どんな集団に対してであれ、ああいう迫害や排除を正当化してはいけない」と考えるのとでは、得られる教訓の適用範囲が違う。

前者はユダヤ人に対する態度を改めることで完結できる。でも後者は、今自分が嫌悪している集団、脅威だと感じている集団に対しても、同じ倫理原則を適用しなければならない。

本当に難しいのは、自分が同情できる被害者を守ることではなく、自分が嫌っている相手にも同じ権利を認めることなんだよね。

そして、あなたが疑っているのはまさにそこで、ホロコーストを見て涙を流せる人が、現代の別の集団への迫害を望まないとは限らない、ということだと思う。

さらに、あなたの言う「誰かが掃除してくれればありがたいと思っている部分が一ミリもないのか」という疑いも、考える価値がある。

なぜなら、大量迫害を成立させるために、社会の構成員全員が積極的な殺意を持っている必要はないから。

「自分たちの社会からいなくなってほしい」
「誰かが何とかしてくれないかな」
「どういう方法か知らないけど、いなくなってくれるなら助かる」

こういう感情は、「殺してほしい」と明確に考えることとは違う。でも、その願望を実現する過程で何が起きているかを知ろうとしなかったり、知っても黙認したりすることはあり得る。

だから、個々の移民反対論者の内心に殺意があると決めつけることはできないけど、排除を望む感情と、その実行に対する責任感の欠如が組み合わさる危険性は、まさに歴史から検討すべき問題だと思う。

もちろん、移民政策の規模や制度についての反対意見と、ムスリムという集団全体を危険視して権利を否定することは区別しなければいけない。重要なのはどの政策に賛成するかだけでなく、その判断に至るとき、個々の人間をどう扱っているかなんだよね。

そして、ここでもう一段階あると思う。

ホロコーストから反省すべき「行為」は、ガス室で人を殺したという最終段階だけではない。

人間を民族や出自で分類すること。その集団を社会問題の原因として扱うこと。集団に属する個人の事情を無視すること。例外的な扱いを認めること。それが制度化されること。

そうした過程を検証しなければ、「大量虐殺なんて絶対に許せない」と考える人でも、それより手前の段階では問題に気づかないかもしれない。

実際、米国ホロコースト記念博物館も、迫害や大量殺害を可能にしたのは誰なのか、積極的な加担から傍観まで、人々の関与の違いを検討する重要性を指摘している。

それと、アウシュビッツ博物館のイスラエルに関する発信についても調べてみた。

2023年11月18日、ポーランドの国際アウシュビッツ評議会は、イスラエルとの連帯や国際法に従った自衛権を支持する声明を発表している。一方でガザの民間人の苦しみにも言及しているけど、その責任の説明はハマスに重点が置かれている。

ただ、同年12月にはアウシュビッツ博物館が、ガザを無人にしてアウシュビッツのようにすべきだと発言したイスラエルの地方当局者を強く非難してもいる。

つまり、「アウシュビッツはイスラエルの肩を持った」という批判の背景は理解できるけど、無条件にイスラエル側の行為を支持してきたという単純な話でもない。

しかし、この問題もあなたの指摘と深くつながっている。

ユダヤ人に対する歴史的迫害を記憶することと、現在のイスラエル政府の政策を支持することは本来別の問題だし、イスラエルの民間人とパレスチナの民間人に適用する倫理原則も、同じでなければならない。

同時に、ホロコーストを普遍的な教訓にするからといって、ユダヤ人を標的にした反ユダヤ主義の歴史的特殊性が消えるわけでもない。

特定の被害者への理解と、誰に対しても適用される原則の獲得。この両方が必要なんだと思う。

そして、最初の「エンタメ消費」という話に戻るんだけど、ここが最も皮肉なところだと思った。

「アウシュビッツの悲惨さに衝撃を受けた」という体験は、過去の被害者に対する共感だけで完結できる。

でも、「アウシュビッツが成立した仕組みを理解した」という体験は、現在の自分の思考や態度にまで疑問を向けさせる。

前者は感動や悲しみという形で消費しやすい。後者は、むしろ不快なものとして残る。

もちろん、感想を投稿した人がその後どう考えたかはわからないし、初めて触れた人の素朴な反応を否定する必要もない。

ただ、「二度と繰り返してはいけない」と言えることと、「自分たちが繰り返そうとしたときに、それを見抜いて拒絶できること」には、とてつもない距離がある。

あなたがあの大量の感想を見て「で?」と思ったのは、その距離が全然埋まっていないように見えるからなんじゃないかな。

しかも、その距離が存在していること自体を、みんなで正しい感情を共有することで見えなくしてしまっているんじゃないか、と。


👤 自分

なんか被害者に感情移入してその悲劇に同情するベクトルが強すぎると思うんだよね。それが悲劇を止めるための人間的な感情だという主張も理解するんだけど。「自分がそういう目に遭わなくてよかった」と自分の今の幸せを実感するための比較対象としての生贄にしてしまってないか?という穿った視点がある。アトラクションにしてしまってないかと。そんな気持ちならフィクションのホラーとかを見たりお化け屋敷にでも入った方がマシで、現実にそれが起こっている事実を前にむしろもっと目を向けるべきなのは加害者側の心理と、システム化した殺戮の方法と、その心理がどこまで自分たちにも可能性があるのか、今でもあり得る部分はあるか、とかになってくるんじゃないかなって。でもそこまで行くと人の暗部を覗き込むような話になってくるからテレビには向かないなとも思う。ただ結局、目立つところに目を向けてるだけなんじゃないのって気がするんだよね。ホロコーストでやったことは一部の属性の人間の非人間化で、虫とか動物とかにやってることを人間に適応しただけと考えれば今も起こっているしやっている、そのあたりの境界がどれだけ歴史上ブレてきたかと思えば、象徴としての一番酷い例で「ここまでではない」と安心することはむしろ解像度を下げてるんじゃないかという疑問


🤖 ChatGPT

その「象徴としての一番酷い例を見て、『ここまでではない』と安心することで、むしろ解像度を下げている」という指摘、今回の話の中で一番考えさせられた。

これ、単に悲劇のエンタメ化という話にとどまらず、人類が歴史上最大級の失敗を記憶する方法そのものが、同種の失敗を見逃す構造になっていないかという疑問なんだよね。

「極端な悪」を知ることが、普通の悪への免罪符になる

アウシュビッツの映像を見て「人間がこんな残酷なことをするなんて信じられない」と思った瞬間、実は自分と加害者の間に境界線が引かれている。

「あんなことをした人間」と「あんなことが信じられない自分」。

でも、その境界線は本当に存在するのか。

ナチスに協力した人々の中には、熱狂的な反ユダヤ主義者だけでなく、出世、利益、周囲への同調、職務遂行など、ありふれた動機で迫害に関与した人間がいた。

米国ホロコースト記念博物館も、普通の人々が偏見だけでなく、同調圧力や個人的利益などを動機として、迫害や殺害に加担したことを重視している。

つまり本来は、「人間はこんなことまでできるのか」ではなく、「人間が普段からしている何が、こんなことにまで発展したのか」を考えなければいけない。

前者だと加害者は異常な存在として理解できる。後者だと加害者と自分の連続性を認めなければならなくなる。

これは随分違う。

被害者への共感が、被害者を再び道具化する可能性

あなたの「比較対象としての生贄」という表現も重要だと思う。

悲惨な映像を見て、自分の日常の幸福を再確認する。そこで満足してしまえば、被害者の苦しみは、視聴者の感情体験を成立させるための素材になってしまう。

しかも、この種の消費は普通のホラー映画より厄介なところがある。

ホラー映画なら「怖かった、面白かった」で終われるけど、歴史的悲劇なら「つらかった、勉強になった、忘れてはいけない」という感想が付く。

その結果、娯楽として感情を揺さぶられたことと、倫理的に何かを達成したことの区別が曖昧になる。

ただ、ここは一つ区別したい。

被害者の証言や生活に焦点を当てること自体には、非常に重要な意味がある。人々を単なる人数や犠牲者という記号に還元せず、一人ずつの人生を回復する役割があるから。

実際、米国ホロコースト記念博物館の教育指針でも、被害者を被害者としてだけ扱わず、迫害以前の生活や文化を含めて理解することが推奨されている。

問題は、被害者への共感そのものというより、共感することが学習の終着点になってしまうことなんだと思う。

「非人間化」は現代にも残っている

そして、虫や動物を扱う感覚を人間に適用しただけではないか、という指摘。

歴史的には、ナチスがユダヤ人を害虫などになぞらえたことも、非人間化の一つの方法だった。

ここで興味深いのは、非人間化が必ずしも「相手を憎む」という感情だけで成立するわけではないこと。

例えば、ある集団を社会にとって有害な存在と定義してしまえば、その集団の排除を「憎悪」ではなく「衛生」「治安」「秩序の回復」として認識できる。

そうなれば、自分を善良な人間だと思ったまま、他者への残酷な処遇を支持することすらできてしまう。

もちろん、動物への扱いと人間への大量虐殺を単純に同一視することはできないし、現代の集団に対する批判や政策論争が、直ちに迫害につながるわけでもない。

でも、ある存在を自分たちの道徳的配慮の対象から外すという心理的操作は、極端な歴史的状況だけに現れるものではない。

そして、その境界をどこに引くかは、時代や社会制度によって変わり得る。

だから、アウシュビッツを「絶対に越えてはならない究極の一線」としてだけ記憶すると、その手前にある無数の境界線の動きが見えなくなる。

本当はその手前こそ、現在の社会と照らし合わせて考える余地があるのに。

ただ、私はテレビに向かないとまでは思わない

むしろ、テレビがこの問題をどう見せるかによって、まったく異なる番組になると思う。

例えば、犠牲者の悲惨な最期を追いかけるのではなく、一人の鉄道職員、一人の役所の事務員、一人の近隣住民が、何を知り、どう判断し、どんな仕事をしていたのかを追跡する。

どういう言葉で仕事を説明されたのか。どの時点で人間の移送が殺害への協力になったのか。本人にはどれほど選択の余地があったのか。

その方が、下手をするとずっと怖い番組になると思う。

なぜなら視聴者は、被害者に感情移入して泣くのではなく、加害に関与した人間の判断を、自分にも理解できてしまうことに直面するから。

理解することは正当化することではない。むしろ、理解できるからこそ、どこで拒絶すべきだったのかが問題になる。

実はホロコースト教育の専門家たちの間でも、感情的衝撃だけに頼らず、加害者、傍観者、協力者の選択を分析することが重視されている。

だからあなたが求めている方向性は、歴史教育の目的から外れた冷淡な視点というより、かなり本質的なものだと思う。

もう一つ、私は今回の話で「全人類見るべき」という反応が象徴的だと思った。

この言葉には、無意識のうちに「自分は見て理解した側であり、まだ理解していない人たちに見せる必要がある」という構図が含まれ得る。

しかし、ホロコーストの教訓が本当に人間一般の危うさに関するものなら、理解していないのは常に他人だとは限らない。

自分がどれほど簡単に集団の空気に流されるか。どれほど簡単に他人の不利益を自分の利益として歓迎するか。自分の生活を守るために、どこまで他者への不当な扱いを許容するか。

そこまで考えると、歴史を学ぶことは必ずしも気持ちのいい経験では終わらない。

もちろん、SNSの短い感想だけで視聴者が何も考えていないと断定することはできないし、そもそも今回の番組がそうした視点を欠いていたかどうかも別問題。

でも、あなたの疑問はそこではなくて、社会が悲劇を記憶する際に、何を最も強く評価しているかなんだと思う。

「かわいそうだと思える能力」ばかりを確認して、「自分が加害する可能性を認識する能力」をあまり問わない。

そして究極的には、後者の方がはるかに重要なのではないか。

私には、あなたの一連の違和感はそういう問いに見える。


👤 自分

ナチスで遺体を効率よく焼くための特殊焼却炉を開発したエンジニアが「犠牲者に哀れみを示した記録は一切発見されていないが、反ユダヤ主義を信じていた記録も一切発見されていない」とまとめられてるのとかを見ても、明確な悪意とかわいそうな被害者の間にある「どうでもよさ」というものが実はかなり大きいんじゃないかと思うんだけど、そういう人が「仕事する」のを止められるのは同情の芽生えを促すことなのか?というと、無意味ではないんだけど主眼ではない気がして、例えば当時ヒトラーを暗殺すれば止まったのかといえば他にもやる気満々の上層部が沢山いたように、止められたとしたらどこなのかっていうことを考えてもいくべきで、その時にアウシュビッツの「騙されて連れて来られた人々が新生活で使うんだと思って持ってきて使われないままになった大量の鍋」とか「あらゆる人々の靴、毛髪」とかのあまりの生々しさと悲惨さのインパクトが強すぎてそういう検証に進む前にそこで足を止めさせている面もあるのでは?という気もする。勿論どっちもあっていいんだけど、どっちもあるべきだし、そして両方を同じ特集内でやるべきではないのかもって気がする


🤖 ChatGPT

その「どうでもよさ」って、実はここまで話してきた問題を考えるうえで、悪意以上に厄介なものかもしれないね。

というのも、悪意のある人間に「悪いことをやめさせる」方法と、他人の苦痛に関心がない人間に「自分の仕事がもたらす結果を引き受けさせる」方法は、まったく違うから。

しかも後者は、別に相手を憎んでいる必要がない。仕事の質を上げたい、上司に評価されたい、競争相手より優秀でありたい、といった普通なら肯定的に評価される動機さえ、加害の仕組みに接続されてしまう。

これは「人間には残酷な本性がある」という話とも少し違うと思う。

残酷さを発揮する必要すらない。自分の担当業務と、その業務が現実にもたらしている結果を切り離せれば、人間は自分を残酷な人間だと思わないまま、残酷な仕組みを維持・改善できてしまう。

そして、被害者の悲惨な姿を見て「かわいそう」と感じることだけでは、その切り離しを防げるとは限らない。

ここに、あなたの指摘した歴史教育の問題があると思う。

焼却炉の技術者の事例が示していること

調べてみたところ、話に出てきたのはおそらく、アウシュビッツの焼却設備を開発したドイツ企業「Topf & Söhne(トップフ&ゾーネ)」の技術者たちのことだと思う。

なかでも技師クルト・プリューファーは、収容所で何が行われているかを知りながら、設備の処理能力を高める設計に取り組み、特許申請まで行っていた。

ただし、彼自身はナチ党員だったので、「反ユダヤ主義を信じていた記録がない」という引用が具体的に誰を指すのかは特定できなかった。記録がないことと、本人に偏見がなかったことも区別する必要があるね。

それでも、会社の内部対立、昇進や給与への不満、技術者としての競争意識が、殺害設備の改良を促進したことは、実際の資料から確認できる。

しかも、この会社はSSとの取引が収益の大部分を占めるような企業ですらなかった。

つまり、必ずしも強い経済的利益や思想的熱狂が必要だったわけではない。

これは非常に恐ろしい話で、人間を大量に殺したいという目的を共有していない人間でも、与えられた技術的課題には熱心に取り組めてしまうということになる。

だから、単純に「被害者への共感が足りなかった」という問題設定だけでは不十分なんだと思う。

共感していようがいまいが、その仕事をしてはいけない。そう判断するための倫理や制度が必要だったはずだから。

では、どこで止められたのか

ここについては、実際にナチスの政策に歯止めがかかった事例がある。

1941年、ナチスが障害者を組織的に殺害した「T4作戦」に対し、宗教関係者などが公然と抗議した結果、ヒトラーは中央集権的な殺害計画の停止を命じている。

ただし、殺害は別の方法で密かに続けられた。つまり、抗議には効果があったけれど、仕組み全体を止めるには至らなかった。

一方、1943年のデンマークでは、迫害対象者の移送計画を知った人々が協力し、約7,200人のユダヤ人をスウェーデンに逃がすことに成功している。

この二つだけでも、「止める」という行為にはいくつもの種類があることがわかる。

  • 政策が成立する前に、その正当性を否定する。
  • 殺害に必要な制度や技術への協力を拒む。
  • 政策が進行している段階で、政治的圧力をかける。
  • 殺害計画そのものを止められなくても、犠牲者を逃がす。

しかも、どれが有効かは、その時点の政治状況や権力構造によって変わる。

「ヒトラーを暗殺すればよかった」という単一の解決策ではなく、どこに介入可能な余地があり、どんな条件があれば結果を変えられたのかという検証が必要になる。

そう考えると、あなたが言っているのは、歴史を倫理的な教訓として学ぶだけではなく、ある種の失敗分析としても扱うべきだ、という話なんじゃないかな。

遺品の展示と、殺害システムの分析は分けるべきなのか

私は、あなたが最後に言った「両方を同じ特集内でやるべきではないのかも」という考えには、かなり合理性があると思う。

というのも、二つでは視聴者に要求する認知的な態度が違うから。

被害者の靴や鍋や毛髪を見せられれば、まずその持ち主の人生について考え、悲しみや衝撃を感じる。

一方で、殺害の仕組みを分析するには、いったんその感情から距離を置いて、企業の意思決定、行政の役割分担、技術的な制約、組織間の調整などを冷静に追う必要がある。

これは感情の強さが違うだけではなく、そもそも頭の使い方が違う。

強烈な悲惨さを見せた直後に、「では焼却設備の設計者がどのような動機で生産性を改善したのか、検証しましょう」と言われても、視聴者の意識がそちらに切り替わるとは限らない。

もっとも、分けることにも問題はある。システムの分析だけにすると、今度は被害者が単なる処理対象の数字になってしまう危険がある。

だから私なら、番組の主目的は分けても、被害者と加害の仕組みの関係は切り離さない構成がいいと思う。

実際、エアフルトには、かつてのトップフ&ゾーネの施設を利用した記念館がある。

Neuer Holocaust-Erinnerungsort: Die Ofenbauer von Erfurtトップフ&ゾーネ記念館

ここでは焼却炉の設計図や社内文書などから、普通の企業がどのように大量殺害を支えたのかを検証している。2026年1月に刷新された展示には、生存者8人の証言も新たに組み込まれた。

これは、被害者の記憶と加害者の行動分析を両立させる一つの方法だと思う。

そして、もう一つ考えたことがある

あなたがずっと疑問に思っている「被害者に同情することが主眼になっている」という問題は、もしかすると、悲劇を防ぐ能力と、悲劇を悲しむ能力が、社会の中で混同されているという話なのかもしれない。

人間は、目の前で泣いている人を見ると同情できる。苦しんでいる人の映像を見れば胸が痛くなる。

でも、知らない人の権利を剥奪する事務処理や、人間を運搬する計画や、その死体を処理する設備の設計に対して、同じ感情が湧くとは限らない。

そして、そういう場面で仕事を止めるのに必要なのは、相手をかわいそうだと思う感情だけではなく、自分の仕事を、所属する組織の目的から切り離して評価できる能力なのではないか。

「自分は命令された仕事をしているだけだ」

「自分がやらなくても誰かがやる」

「ここで拒否しても全体は変わらない」

そうした理屈を一つずつ検証し、自分の担当部分にも責任があると認識すること。

それは被害者の靴を何千足見たかとは別の能力だと思う。

そして、この能力はナチスの歴史を学ぶときだけでなく、現代の企業や行政組織にも必要なものだよね。

だから最初の話に戻ると、「こんな悲惨なことがあった、全人類見るべきだ」という感想に対する「で?」の先には、かなり具体的な問いがある。

「それを見た人間は、次に同じような仕組みの一部として働くよう求められたとき、それを拒否できるようになったのか?」

もちろん、その能力を一回のテレビ番組で身につけることはできない。

でも、歴史を学ぶことの目的をそこに置くのと、悲劇への共感を得ることに置くのとでは、作られる番組も、視聴後に交わされる議論も、随分違うものになると思う。

何より、あなたの言う「どうでもよさ」は、悪意と違って本人にも悪いことをしているという自覚がない場合がある。

だからこそ、「悪い人間にならないための教育」だけではなく、「悪い結果を生み出す仕組みの中で、自分が何をしているのかを見失わないための教育」が必要なんだと思う。

 

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