予告見てもどういう映画なのかイマイチ読めず、雰囲気的に『博士の異常な愛情』みたいな感じのコメディなのかな?と思いつつ、年齢的にはそろそろおじいさんと呼んでも差し支えなくなってくる頃合いなのに全然おじいさんではないトム・クルーズを特殊メイクで老けさせるという刺身用の新鮮な魚をわざわざ獲ってきて焼き魚にするような映画のコンセプトに首をひねり、まあ他にも面白そうな映画はあるし多分観ないだろうと思ってた『DIGGER』なんですが、公開後のチラホラ漏れ聞こえる感想から「なんかどうもちゃんと面白いっぽい」のと「なんかどうも他に全然代替のない映画っぽい」雰囲気を感じ取り、無性に気になってきたので観てきました。面白かったです!観てよかった!
というわけで以下ネタバレ感想です注意。
この映画思ってた映画と全然違うので未視聴の方は本編をいつか見るまで以下読まない方がいいと思います。
ということでいや~面白かったですね。似てる映画というと確かに『博士の異常な愛情』も惜しいっちゃ惜しかったんですが、私はそれよりも『ボーはおそれている』の方が近いかなと思いました。ラストとかね。ノリとか。仕掛けの仕方とか。とにかく世界の構造によって生まれた業すべてを主人公が背負ってスクリーンの中央に立つところが共通している。
ただボーの方は家父長的な価値観と母親と息子というミクロな世界観から抜け出せない男の詰み感を描いてる一方、DIGGERで詰んでるのはこの文明社会そのものというマクロを描いてます。そしてDIGGERのすごいところは主人公が全然かわいそうじゃないところですね。
わざわざかっこいいトム・クルーズの見た目をナーフしまくってもなおトム・クルーズでなければダメだった理由も観たら分かりました。あの議場のシーンに詰まってると思います。この話にはトム・クルーズのかっこよさこそ要らなかったとしてもトム・クルーズの強さは必要だったんですよ。
ディガーが立ったあの議場、多分今まで見たあらゆるフィクションのシチュエーションの中でも最強レベルのアウェーなんじゃないかな? 絶対立たされたくない立場レベルMAX。文字通り人類すべての敵となり手が付けられないほどの怒りと罵倒と憎しみを議場いっぱいに埋め尽くされた人の群れから一身に浴びる一人の男。
もちろんヒーローものなら悪役っていますよ。世界とか滅ぼそうとしてくるやつが。でもそれって「向こう側」のキャラクターだし、遠くに配置されてます。そいつに脅かされるこっち側の人間として見てる。だからこそ世界中の恨みを一身に集めてる悪役をいずれ滅ぼされる敵として見れる。
でもディガーは主人公だしトム・クルーズなんですよね。そして倒せば世界が救われるとかそういう問題でもない。責任はある程度あるかもしれないが取れるもんでもないし、ディガーに責任を背負わせて君たちが得てきたものがあるからこそ今こうなってるんだぞということを、全世界をたった一人で敵に回しながら開き直ってちゃんと言い切ってしまう。そしてそれは言い逃れなんかではないひとつの真実であることには間違いない。
そして全人類を敵に回した上で、それでも尚たった一人のディガーが存在感で負けていない。なんか投げられようがその辺のやつに手出されようが熱の入った演説は止まらないし、人の密集して足場の悪い議場内を縫うように老人が移動して一瞬危なっかしさに不安を覚えるもトム・クルーズだから大丈夫かと納得して演説に集中できる。
ディガーはまったく反省する気なんて無いし事態はどうしようもないし議場のシチュエーションはこれぞ針の筵という地獄だけど、トム・クルーズが演じているがゆえになんかディガーの近くで観れてしまう。見た目がかっこよくないし全く良い奴じゃないので別に肩入れはしないけど、かわいそうと思う必要がないほどトム・クルーズという存在が強いので逃げ出さずに敵にも回らずになんか観客として中立で見れてしまう。この絶妙な塩梅がすごい。
そして単純に演説の中身もすごいですね。最終的に拍手半分罵倒半分という所まで持ってってるし。特に「AIに環境改善の方策聞きながらAIで電力使ってる」みたいなツッコミの内容を実際こないだやった(大西洋の海流の問題についてChatGPTに聞く)ので「サーセンwww」ってなりました。今日も暑かったんでエアコンつけちゃったし。私は地球が雄大な時をかけて蓄積した化石燃料を節度なくZIP解凍して湯水のように垂れ流されるエネルギーを浴びて贅沢三昧する悪女です。
でも量の問題で言えばAIへの質問一回分の電力なんて他の電力消費に比べたら雀の涙くらいなもので結局AI自体への批判をエネルギー問題と接続して過剰に取り上げてる面は否めないしぃー。私が使うのを止めようが止めなかろうがAI全体のエネルギー消費には影響ないしぃー。エアコンだってエネルギー気にして使わずにいて仮に熱中症になったら今度は病院施設へ負担をかけるかもしれないしぃー。そこでまたエネルギー消費が発生するしぃー。
結局便利さという希望へ船を漕ぎ出してしまった後に人類が止まれた試しは無いんですよね。今のAI開発競争にも通じると思います。アンソロピックがガチでAIが人類滅ぼすかもって警鐘鳴らしたり実際サイバー攻撃が連日起こっててんやわんやになってたとしても、ソフバンの人とか革ジャンの人とか名だたる投資家はAIへの投資をやめないじゃないですか。
わかる気がしますよ、だってAI企業に出資するようなレベルのお金持ちはもう金で買える今すぐ手に入れられるものは手に入れつくしてるでしょ。そうなればあとはワンチャン不老とか不死とかガン治療とかハゲ治療とかエネルギー問題解決とかの切符になるかもしれないAIという技術にBETしたくなっちゃうのは自然な欲求だと思います。実際そういう期待があるから数学者連盟に苦言を呈されててもOpenAIがガンガン数学の未解決問題とか計算資源ぶん回して解いてるのかなと思うし。
ディガーが環境安全責任者の助言とか提言とかをまったく聞いてないように見えて実はちゃんと理解はしていた、その上で無視していたということが分かるのも、結局すべてを聞いたところで止まれない、自分が環境学者の懸念の伝書鳩になってそのまま大統領とかにヤバイって伝えたところで帰ってくる答えは結局GOなんだからそんな無駄なことはせずもうここで全部止めてGOを返すだけっていう割り切りなんだと思います。
で、この映画の目的が「警鐘」ならこの「劇中劇」を本編にすれば別にいいんですよね。でもこの映画はそうしなかったのは何故かというと、まったくの潔白で警鐘を鳴らせる立場の人間なんか誰もいないからだと思います。
「こういう物語を作った」ということを物語の中で宣言することで、ディガーという議場で勝利したあの老人を虚構にすることで、結局誰が元凶なのかという議論「ではない」構造に持っていきたかったんだなと。
ではこの映画が何をしたかったのかというと「活写」なのかなって。問題提起はした。それが劇中劇のディガーの物語。ただ結論は「解決」を向いていない。問題がある、今もある、「解決していない」。その時点での作品化。
物語化をすると結末が必要で、結末を作ると何らかの結論が出てしまいます。メッセージ性は何?ということになってしまう。そのメッセージ性を劇中劇のディガーの物語で作るわけにはいかなかった。何を言っても嘘になるから。
では現状言える真実は何なのか?この映画のメッセージ性、結末、結論というのは何だったのか?というと、私は「人間はミクロでしか動けない、マクロはその結果に過ぎない」ってことなのかなと。
つまり、それぞれがちょっとずつ利己的に行動した結果デカい環境問題が起こっているように、マクロを代表するような人格なんかこの世のどこにもいない。ディガーは猫のことにずっと囚われているし、大統領はケツに爆弾を抱えているし、皆youtube見たりTiktok見たり車乗ったり飛行機乗ったりしている。
同じように、現実サイドのプロデューサーの彼も別にフィクサーみたいにこの公演で何かを起こそうと企んでる子孫なんかではなく、一連のカタストロフィが起こった事実に対して本質的に彼は何の影響も及ぼせる立場ではなくて、すべては手遅れで、それでも無関係ではないという微妙な立場で、ただ彼自身の言う通りどうしようもない祖先の行いを劇画化して、そのストーリーに観客となった人々が没入し、まるで恨みをぶつける機会を得たかのように目を爛々と輝かせてブーイングをして、何か意味のあることが出来たという気分で晴れやかに劇場を後にする、そういう光景に自身の気持ちも救われるのだと、そういうエゴで動いていることが分かるわけですよね。
現場を仕切っていた女性も彼女なりの劇のテンションやトーンへの持論があり、現実の状況と取り上げるテーマの近さに思う所もあって、激して泣いてしまうぐらいには仕事として割り切っていない思い入れの強さがある。
そしてディガーを演じたカーティスは、一人の俳優として大きな舞台にプレッシャーを感じ、娘が無事なのかを一人の父親として案じ、妻と口論して、ディガーという役に向き合い演じる内にディガーは人間としてここまで劇画化されるほど奇異な人物ではなかったと一人の人間として演出への不満を抱きぶつけたりする。
誰もが一人の人間でしかない。誰もが世界に対するイニシアチブをとれない。それぞれがそれぞれの役割で、それぞれが思う事を持ち、それぞれのエゴを昇華したいと願っているだけ。
それが世界をめちゃくちゃにしたとしても、人間とはそれでしかなく、それを束ねたレイヤーなんてどこにも存在しなくて、上位の存在なんかいなくて、マクロは結果であって、ミクロに対置されるマクロという登場人物なんかどこにもいない。人は神とか陰謀とかそういう存在をすぐに夢見るけれども。
そしてそういう「個人が個人という役割を演じることしか出来ない限界」というテーマの帰着を、トム・クルーズが最後にカーテンコールに浮かべた表情一本で説明している気が私はしたんですよ。
あの表情の演技、それだけがこの脱物語をギミックに使った物語をひとつの物語として辛うじて成立させまとめてると個人的に思うんです。
なんかこう、すごい素じゃなかったですか?見た事ない顔してた。自宅でトイレから出て手洗った後みたいな本当に一人の物考える人間って感じの顔してた。サイモン・ペッグすら見た事なさそうな顔してた(根拠なし)。
俳優っていう仕事してる一人の男として「これでいいのか」と迷うような顔というんでしょうか。俺が出来ることはどこまでなのか?とふと自問するような眼差しというか…。すごい俳優だなあと思いました。
トム・クルーズはたまに映画を救えるし映画の中で世界を救えるけど世界は救えないんですよね。世界は映画じゃないから。
だからこの映画を作って出来る限りのことをしたのかもしれません。
何にせよストーリーとして感動する場面はないし、面白いっていうのはファニーとかインタレスティングであってスペクタクルとかでは一切ないんですが、でもこの話が関係ない人は現代人類には存在しないので、どんな人が見ても「ある程度は面白い」映画なんじゃないかなと思います。そしてあくまで「ある程度」に留めてるところが別に欠点ではないというところが面白い。
まくし立てるような早口だからついていくのは大変っちゃ大変だし、人によってエネルギーの使用率は違うし、エネルギー問題への意識も違うし、基本的に笑いごとではない、背後にリアルのある笑いばっかだから人を選ぶと言えばそうなんですけど。
下品なこと言って、女性のいる場でそんなこと言っちゃマズイだろ!って声上げた後全員で部屋中見渡して女なんてこの意思決定の場に一人もいねーwwwwって爆笑するとことかハッハッハ!(笑うしかない)という感じだったし、なんか政治の場に常に牧師が混じってて何か詰んだ事態になれば全員ドタバタ集まって大真面目に祈ってヨシ!する最高権力者たちの図とか福音派云々の話見た後だとハハ…!(笑うしかない)という感じだったし、手術を終えた大統領が完全に陰謀論に目覚めてアッチ側に行ってしまってたのとかアーッハッハッハ!(笑うしかない)という感じでした。
あとこの津波の動画見覚えあるぞ!っていうまんまの画を〝欧州の被害として〟描いていて、それをアメリカの面々が画面越しに見てワーキャー言うシーンも賛否分かれそうですが「必ず火事の対岸が発生する」という皮肉を描いてるのかなあと。
あとエンドロール、BGMなしで静かな空間に響く虫の鳴き声の癒し系環境音だけになって、IMAX音響だし心地よくはあるけどなんか曲とかかかんないのぉ?と思ってしばらく聞いてたんですが、よく考えたら劇中のラストの世界ではもう虫とか環境的に死に絶えてそうだし、もはやこういうネイチャーな音は〝環境音〟ではなく現実にはない音を描いた〝娯楽〟の〝音楽〟と化してる…ってコト!?
何にせよ色々語りたくなってしまう見応えのある映画でした。IMAXで観たらポスターもらったからグローグーの隣に貼ってみた。なんか対照的すぎる。自然のフォースを敬いましょう。


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