テンポラリーコレクション
テキーラが目にした教会内の惨状は、さながら審判の日といったところだ。原罪の総決算が来たかのように、夥しい死体が神の御許でゴミのように折り重なっていた。
ヴァレンタインの企てにより操られ、殺戮衝動のまま生み出された即席の地獄。ここをたった一人、自分の足で後にした男がいる。
おそらく無抵抗で撃たれたのであろう上等なスーツを着た紳士は、相当な経験を積んだ手練れの様子でありながら、どこの所属のスパイかは終ぞ分からなかった。優秀さの証左だろう。
アルファジェルによって回復した男は記憶退行を起こし、何も知らない無垢な少年のような挙動を見せた。監視のため宛がわれた白い室内で、思いの外居心地が良さそうに過ごしている。テキーラは任務のない時、よくそこへ訪れるようになった。
別にこの男に関して何かしらの担当に命ぜられた訳でもない。保護という名目で扱いかねていたとして、それを継続することなどステイツマンの資金に何の影響も及ぼさない。
彼の母体組織がその内彼を取り戻しに来るかもしれず、もし行動を起こすならばその時にすればいいだけの事だ。それまでは飼い殺しておけばいい。記憶のない男は羽毛のように無害だ。
しかしテキーラは個人的な熱心さで、彼の何かしらのトラウマを想起させ、記憶を取り戻させようとした。
暇潰しというと語弊があるが、しかしテキーラの心には事実としてある種の空虚があった。常に根本の部分が乾いているような感覚。酒で潤せるのも、マリファナでぼやかせるのも限度がある。浸かるような何かが必要だった。
白紙で綴じられた分厚い秘密。未知の塊のような男は、テキーラに可能性を感じさせた。或いはただ惑わされたのかもしれない。男にはどこか蠱惑的な雰囲気があった。
今この男には、肉体があるが魂がない。左目の穴から抜け出してしまったのであろうそれに触れてみたかった。そうして完全な状態の彼を知りたい。成虫となった姿でどのように振る舞うのかを。
「それは?」
「虫ピンだ」
図々しくベッドの上で隣に座るテキーラの手元を、少し怯えた瞳が覗き込む。嬲るような尋問と、甘やかすような親切を交互に与えられ続けた男は、テキーラを恐れながらも心を開いていた。
わざと恐怖を煽るように、近い位置で虫ピンを上に向ける。少し身を引くが、先端恐怖症の気は無いらしい。あっさりピンを引っ込めて、手にした展翅のための道具とセットにし、膝の上に置いてやる。
「鱗翅類学者ならその内必要になるだろ。こういうのでチョウチョを剥製にする」
姿のない蝶の死体を辿るように、男の膝の上の展翅板を指先で撫ぜた。それを見つめる男の瞳が揺れる。初めての反応に、テキーラは食い入るようにその顔を見つめた。何に反応したのか分からないが、何か記憶の端緒に触れたのかもしれない。
男はしばらく忘我の表情で思考に沈んでいた。しかし不意に顔を上げると、残った右目でまっすぐとテキーラを見つめた。
思い出した様子ではない。その目は、遭難者が唯一見えている目印を必死に見失うまいとする様にも似ていた。ともすれば縋るような目だ。テキーラは思わず優しくする。
「……気に入ったか?」
柔そうな頬をからかうように少し撫でた。ひんやりとしていた。撫でた頬が、安心したように綻ぶ。無警戒に、無防備にテキーラを受け入れる。
「ありがとう」
妙に耳に残る男の声が礼を言った。
ふと、テキーラは既にこの男が完全に自分のものであるような錯覚に陥った。
普通なら死体だった筈の男の姿を思い出す。教会内で折り重なるそれとは全く違って見えた。世界に磨き上げられた特別さ。蝿の群れの傍をひらひら浮かぶ蝶のような。
眼帯の上から、その下の空の眼窩を愛撫するように指先で撫ぜた。男は逃げない。一個の無垢な瞳がじっと不思議そうに成り行きを見つめている。
テキーラは、触れたその場所に刺さる、一本のピンを想像していた。想像上の展翅板に、初めて見たあの時の、眼を閉じたスーツの紳士が磔にされている。奇妙な特別さ、奇妙な美しさで。
荒唐無稽なイメージだった。そしてその想像に、妙な執心が起こってくるのを、テキーラは他人事のような驚きをもって感じていた。
