楓の所でりんが暮らすようになってから、季節が一、二巡するぐらいには過ぎて、りんもすっかり里の暮らしに馴染んだ頃。
珍しい状況になった。邪見が所用で楓の家に留まり、殺生丸とりんだけでしばらく時間を過ごしていた。村から少し離れた林で、大木の根元に腰を下ろして。
滅多にない事にはしゃいで、初めは言いたいことに口が追い付いていないかのようにあれもこれもと喋り続けていたりんだったが、やがてそれも話の種が尽きてか段々と落ち着いていった。自然に訪れる沈黙の合間に、ぽつりぽつりと思いついたことを話すような、静かで穏やかな時が流れる。
木の根元に座る妖怪の殺生丸に飽きもせず向き直って、嬉しそうに座っている人間の娘。他に誰をも待たず、目の前にいるお互いだけが関心の内側に入り込む単純な世界。
初めて会った時を思い出していたのは、殺生丸だけではなかったらしい。
おまえが私の所に何度も食い物を運んできて、挙げ句の果てに鼠まで持ってきた時――と、唐突に話題に出した殺生丸に、りんは驚いた顔をしなかった。ただ懐かしそうに、おかしそうに少し笑う。殺生丸はその顔を見ながら訊いた。
――何故、あの時笑った。
投げかけられた殺生丸の問いに、りんは瞬きして、首を捻り沈思する。
殺生丸はそれを、何のことを言っているのか自体を思い出せないが故の沈黙と解した。己の内で何故か強く印象に残っているだけで、当人にとっては記憶の端にもかからない、単なる反応に過ぎなかったのかもしれぬと。
――覚えていないのなら……。
いい、と言いかけた殺生丸に、りんは慌てて首を振った。
――まさか! ちがうよ、ただね、どうしてかなあって考えてたの。
度し難い返答に、殺生丸は訝しく聞き返した。
――己の事なのにか。
――だって、うれしい時にどうしてうれしいか、なんて考えないよ。
確かに、道理かもしれない。殺生丸はその答えでも納得した。しかしりんなりに、振り返ってその当時の心境を言葉にしようと試みているらしい。腕を組んで目を閉じ、珍しく眉など寄せて考え込んでいる。
殺生丸は催促も制止もせず、続く言葉を気長に待った。当時は表せる語彙を持ち得なかったものが、時を経た今になって表し得ることもあろう、と。
そこに映っている過去を見でもしているかのように、りんは暫く空に目を向けていたが、結局考えながら喋ることにしたらしい。
夢の話をするような、覚束ない口調だった。
――なんでだろう。そういえば、おっとうとおっかあとにいちゃん達が死んじゃってから、りん笑ったことなかったかもしれないなー。
きれいなお花とかね、お月さまとかね、かわいい動物とかを見たらちょっとうれしかったけど……でもそれって笑っちゃうぐらいうれしいってほどでもないし。
どうしてだろう。あのとき殺生丸さま、りんに質問してくれたでしょ。それがほんとうにうれしくて……うん、やっぱり、それだけかなあ。
あたし、しゃべれなくなって、村のみんなもそれをわかってるから、りんに何かを聞こうとしてくれる人なんてずっといなかったの。
聞いたって、どうせ何にもしゃべれないもんね。答えがないと、言葉自体わかんないんだって思えてくるのかな。通じるなんて思ってないような、動物を叱るみたいな感じでしか、みんな声をかけてくれなかった。
だからあたしが、“りん”が何かを考えて、何かを思ってるって誰かに思ってもらえたこと、すごくすごく久しぶりだった気がするの。
ふしぎだね。うれしかったの。うまく言えないんだけど……つながった感じがしたの。あのとき殺生丸さまがりんと話そうとしてくれた時にはじめて、あたしはそういえば“あたし”なんだなあって思い出した気がするの。
あたしはここにいて、周りから見えてて、お化けなんかじゃないんだって、そんな感じ。当たり前のことなんだけど……でも、あんなにうれしいこと、なかったんだよ。
そこまで言うと、りんはにっこりと殺生丸に笑いかけた。あの時と少しも変わらない笑顔。屈託のない、ただただ嬉しそうな。
そして結びに、こう言った。
――だからきっと“りん”は、あれからずっと、殺生丸さま越しに世界にいるの。
