近界からの侵攻によって齎された甚大な被害。それに伴って世論では近界への危機意識と恐怖が日に日に高まっていった。そのエネルギーに上手く乗じる形で、ボーダー本部の設立は急速な進展を見せた。
“こちら側の世界に侵入させない為のボーダーライン”――本部最高司令官、城戸正宗の打ち出したコンセプトは明確だった。既存兵器の全く通用しないことが甚大な戦禍によって嫌でも証明された後では、その正当性と有用性にケチをつける声も歓待の声がすぐに掻き消した。
また城戸が個人的にスカウトし、計画の始動と同時に幹部ポストについた三名――本部開発室長の鬼怒田、メディア対策室長の根月、外務・営業部長の唐沢らの手腕は、古くからのボーダー隊員の目から見ても目覚ましいものだった。その采配によって短期間に新奇なシステムの基礎理論が構築され、荒唐無稽で突飛な組織が世間に当たり前に浸透し、途方もない計画を支えるスポンサーが次々と現れた。
本格始動後の上層部では、『少しでも早く多く、有用な人材を獲得・育成すること』を最優先事項とする旨で意見が一致していた。
だからトリオン研究の英知を結集した施設の中で、真っ先に鬼怒田が完成させたのはトリオンを消費せずに模擬戦ができる訓練室と、『緊急脱出装置』だった。
近界民との実戦に通用するレベルの戦闘員となると、トリオン量の資質とそれを扱う本人の戦闘技能の両方が要求される。
強くなる前に実戦に出れば命がいくつあっても足らない。しかし訓練中だろうが実戦はやってくるし、戦わなければ強くならない。そんな過酷な条件に多くの、それも若年の隊員を集める上で、“死なない”という保険を用意することは最優先事項だった。
迅悠一は、実戦で“使える”レベルのトリオン量と技量を兼ね備えた人員がどれほど貴重かについては、痛いほど理解していた。
大規模侵攻の時に、かつてのボーダーを率いていた人たち――あちら側での同盟国の戦いに参加して命を落とした十名が、存命だったならば。先の戦禍も、もう少しマシな結果に終わっただろうと、今でも思っている。
強い隊員ばかりだった。あの人たちが居れば……いや、それよりも『あの時に緊急脱出装置があれば』と考えるべきか? ……どちらにせよ、言っても仕方のないことだとは分かっていた。
件の緊急脱出装置も含めて、今のボーダーにある何もかもは“あの結果”があったからこそ実った成果だ。
ただ、それらを整備した本部の目覚ましい手腕をもってしても、例えば失われた十名分の戦力が“新しいボーダー”に補填されて“元に戻る”まで、一体どれほど掛かるか。
この世界での大惨事が現実のものとなってしまった以上は、人出が足りない事も、そして一刻も早く必要な事も、揺るぎない事実だ。
無くなってはいけないものが無くなったからといって世界は待ってはくれない。
未来視のサイドエフェクトを持っていたところで、見える未来は一度通った過去の延長だけだ。そして視えたところで、どうにか出来なければ何の意味も無かった。
今の迅が考え得る、個人として未来に打てる布石は目下ひとつしか無かった。いずれ誰の所有になるかを決めるまではと本部に保管されている、黒トリガー『風刃』。遠隔攻撃に特化した、師の形見であるそのトリガーを、己こそが誰よりも有効に使えるという自負が迅にはあった。
一先ず、確実にその所有者になること。実るか分からない人材募集の成果を当てにするよりも、己の牙を研いでおくことに専心する方が、その時の迅にとっては余程未来への安心材料に思えた。
言ってみれば迅の中で、世間に周知され、大掛かりに展開していく“ボーダー本部”との、心理的な温度差が生じていたのだった。
“これまでのボーダー”と“これからのボーダー”の考え方は、真逆の道を行こうとしている。従来のボーダーを愛した者として、形骸化していく新しい組織に持てる期待は乏しい。
だから、変わっていく組織のことをあまり当てにはせず、自分はただ過去と未来に対する己の在り方だけを考えていればいい……そんな風に考えていた。
ボーダー本部始動後に初入隊する訓練生の中に、忍田真史が弟子を推薦するという話を聞いたのはその頃だった。
忍田もまた旧ボーダー時代から在籍していた古株であり、現在のボーダーでは間違いなく一番の近接戦闘能力を誇る実力者だが、付き合いの浅くない迅にとっても弟子が居たというのは初めて聞く話だった。迅よりもっと付き合いの長い林藤も同様らしい。
トリオンは関係ない、剣術の弟子として以前から指導していた少年が一人居るのだという。
まるで城戸による件の辣腕三人の招致に対抗するようだと、林藤は旧知の忍田による人事介入を揶揄った。余程その弟子の腕に覚えがあるから、この忍田の弟子だと箔を付けてデビューさせるのだろうと。
対する忍田の答えはこうだった。
「いや……筆記が不安でな。しかし腕は確かだ。必ず役に立つ、ボーダーとしても入れておかない手はない。だから万が一筆記で落とされないように、多少の便宜を図ってもらいたいんだ……」
あの実直な忍田が、裏口入学めいた手段を用いてまで何としても入れるべきと断言するほど期待されている実力に注目するべきなのか。それともそれほど絶望的と見込まれている筆記方面への懸念に注目するべきなのか。迅は林藤と顔を見合わせ、閉口した。
結局入隊試験の筆記科目で実際に手心が加えられたのかどうか、真実は闇の中だった。とりあえず件の弟子は無事にボーダー入隊試験をパスしたらしい。
昔馴染みの忍田の縁者という事で、入隊式よりも一足早く、迅は林藤と一緒にその新人と顔合わせする事になった。
そして初めて、その顔を見た瞬間――迅は眩暈がした。
眩しい、と感じた。
急速に広がっていく“未来”が。
例えるなら、真っ暗な部屋に突然カーテンを全開にされたようだった。それまで視えていた狭い空間の壁を取り払い、凄まじい量の、それも明るい未来ばかりが、予知の向こうのビジョンを溢れるほどに埋め尽くしていく。
不確定な未来は、無数の分岐線が走る盤面のようなものだった。そこにたったひとつ、その存在が忽然と登場しただけだ。それだけで盤面は、いとも容易く色を塗り替える。
そして何よりも。
「……マジかよ」
忍田と共にゆったりと近付いてくる、おそらくあまり歳の変わらない少年を呆然と見つめて呟いた迅に、林藤が尋ねた。
「どうした? ……何か見えたのか?」
迅は、何故か緩んでしまう己の口元を引き締められないまま、答えた。
「……俺が、あの新入りに勝てる未来が、全然見えない」
それを聞いて、林藤も「マジかよ」と言って笑った。
迅のサイドエフェクトでは、一度見たことのある人物の未来しか見えない。また同時に、起こるのが確定的な未来以外は、あまり遠くない直近の未来――それも起こり得る複数のパターンで――しか、見る事は出来ない。
おそらく忍田があの弟子を、ボーダーに入れない未来も有り得たのだろう。しかし入隊させることを選択し、その姿を迅の目に見せた。そうして、その存在がボーダーにある未来が迅の目の前に確定したことで、初めてその軸における未来が“視える”ようになった。
一度開ければ、何故今までこんな重要な出来事が視えなかったのか不思議に思うほどの大きな、大きな分岐点。ボーダーにとっての――そして迅にとっての。
そんな重大な未来すらも、こうして顔を出すその時までは隠れて見えない。そして選ばれる選択肢によっては、現われすらせず消えていた。
未来の前に一人で立つ迅の身に、その事実はある種の心許なさを与えるような衝撃だった。
同時に、希望に見えた。目の前に立つその姿が。
時が来るまで、未来への引き金はどこに隠れているか分からない。
そして何も無いと思っていた未来にひょっこりと顔を出したその引き金が、未来そのものを変える、この上ない強烈なパワーを持っていることも有り得る。
太刀川慶と名乗った彼は、それを証明していた。
