「でも、いつだったか見た夢であたしは未来のあたしに会ったけど、職業は漫画家だったし、子供がいたけど、どう見ても普通の家に住んでて」少し言葉に詰まってから、ぼそりと言う。「……あんたの影も形もなかった」
自分の記憶の中だけに仕舞っていた、いつかの夢の記憶。きっと現実の未来なのだと、確かにあたしは将来の自分の姿を夢に見たのだと、今も信じている。
けれどそれを彼の前で――花輪クンの前で言い切ってみせるには、何故か勇気のような思い切りが必要だった。
どんな反応が返ってくるかと思ったが、花輪クンはまったく動じた素振りもなく、ゆったりとした微笑みを浮かべて言う。
「そうかい。でも君は今、漫画よりも絵画に熱心じゃないか。僕と観に行った様々な絵の中で、一人の画家の絵にひどく感銘を受けた君は、進路を藝大の油画科に決めた」
あたしは言葉に詰まった。
確かに、花輪くんとの交流で絵画に親しむ機会を度々得てきたあたしは、すっかり絵画の魅力に取りつかれ、部活動は万年美術部に所属し、果ては進学先も藝大に決めた。テストの度に散々花輪クンに教えを乞い崇め奉ってきたおかげか、実際受かるかはともかく目指せる偏差値には収まっている。
それでも、今の状況があの夢の否定になるとは思っていなかった。
「しょ……将来はわかんないでしょ。漫画家にだってまだなりたい気持ちはあるし……画家になんてそう簡単になれないし。いや漫画家だってそうなんだけど。でも、もし浪人しちゃったら漫画描いて送ってみようかな〜なんて思ってるし、そしたらそれが認められてデビューなんかしちゃったりなんかしてさあ」
「もちろんキミは才能豊かなレディだからね、そういう可能性もある。でも、この間一緒に会った先生、君の絵をとても褒めていたよ」
「そ、そお? ……でもさあ」思わず照れ笑いしてから、頭を掻いて言う。「あれがただの夢だったとは思えないんだよ」
チッチッ、と花輪クンはおなじみの気障ったらしい仕草で指を振った。
「さくらクン。夢が本当だなんて誰にも言い切れはしないさ。今この現実が夢ではないと、誰にも言い切れないようにね」
形のないものの話ばかりで歯切れの悪いあたしに対して、花輪クンの口調はまるで何かの答えを知った上で、諭すような響きがあった。
あたしは何だかわけもなく不安な気持ちになってきて、花輪クンの突飛な言い回しを茶化すようにまぜっかえした。
「これが夢なわけないじゃん。つねっても叩いても痛いんだから」
「つねっても叩いても痛い夢かもしれないだろう?」
「屁理屈だねえ」
「有名な故事にあるのさ。蝶になってひらひら飛んでいる夢を見て目覚めたけれど、あるいはこれが蝶が見ている夢なのか、ってね」
あたしはその言葉の意味を少し考えてみる。夢の中でこれは夢だ、と気づいた事は今のところない。目が覚めて初めて気が付くばかりだ。そうするとこれが夢だったとしても、目が覚めなければ気付かないだろう。そうして目覚めたと思っても、見ているのは現実ではなく、目が覚める夢、かもしれない。
あたしは肩を竦めて結論を言った。
「わかりっこないこと考えたってしょうがないじゃん」
花輪クンはおかしそうに笑った。
「フフッ、そうだね。だからボクが言いたいのは、キミも分からない未来に従おうとはしないでくれ、ってことなのさ」
「だからー、あたしは未来がわかる、って話をしてるのにさ」
「本当に?」
本当……ではない。現時点では。未来ってそういうものだ。その時が来るまで現実ではない。
あたしはそっぽを向いて言った。
「いいよ。信じてくれなくて」
思いのほか拗ねたような声音になってしまった。花輪クンは首を振って、甘やかすように言う。
「キミがウソをつく人じゃないことは知っているよ」
「じゃあどうして否定するようなこと言うのさ」
「ボクがここにいるからだよ」
「……????」
完全に匙を投げたあたしの顔を見て花輪クンは笑った。そして何か考えるようなしぐさをした後、ポケットから何かを取り出して見せる。
「何それ。キーホルダー?」
「かわいいだろ?」
「まあね、カラフルで……あれ? これ……えっ!? あれっ!?」
花輪クンの手の中で揺れるキーホルダーは、小さな女の子の形をしていた。そして、見間違いでなければ、それは――それは、子供の頃のあたしの似顔絵そのもので。
「な、なにこれ? まさかあんたの手作り……」
「残念ながら既製品さ」
「なんだ……は!? 既製品!?」
「ちなみにボクのもある」
「ほ、ほんとだー!? えっ、どういうことなのさ!? なんで!? 何グッズなの!?」
花輪クンはあたしの斜め後ろを指差した。見れば、雑貨屋のような店舗が建っている。あそこにあんな店があっただろうか? 初めて見る気がした。
ガラス張りの店内をよく見ると、遠目に花輪クンの手の中のものと同じキーホルダーがいくつも並んでいるのが見える。キーホルダー以外にもマグカップやハンカチなどなど色々な商品が、驚くべきことに全て同じ絵柄、つまりあたしが昔よく描いていたクラスの友達の似顔絵そのものの絵柄で販売されているようだった。
二人の女の子が花輪クンが持っているのと同じキーホルダーを手にレジへ向かっているのを見て、あたしは呆然とした。
「いつからあたしやあんたは、グッズを作られるような有名人になったんだっけ……? しかも小さい時の……」
「さあ、いつなのかな。ところでキミは今いくつだったかな?」
「18歳でしょ。同い年のくせに何言ってんのさ」
「キミとボクはいつ知り合ったのかな?」
「そりゃあんた、……」
不意に思考が止まってしまった。いつからか、という問いを、頭に投げかけることが出来ない。
ポンコツになってしまったあたしの顔をじっと見ながら、花輪クンは次々に意味のわからない質問をしてくる。
「キミのおとうさんの職業は何だった?」 「穂波クンと卒業後について話したかい?」 「おじいさんはどんな人?」 「クラスの男子と二人で一緒に帰った事はある?」「君が清水を出るのは進学のため?」
矢継ぎ早なその問いのどれ一つに対しても、あたしの口からは何の返答も出てこない。
花輪クンは最後にゆっくりと訊いた。
「もう一度訊くよ。〝花輪和彦〟と君は、いつ出会ったんだろう?」
その答えを、〝あたし〟は持たない。
しばらく呆然としたあたしの顔を花輪クンはじっと見ていたけれど、やがて二人の前にロールスロイスが静かに停車した。
ヒデじいがにっこりとしてあたしを後部座席に誘う。花輪クンはいつの間にか既に助手席へ座っていた。ヒデじいは今いくつだっただろう?
あたしは後部座席の真ん中に座る。走り出す車窓の景色は、まるで極彩色のように広がり流れ去っていった。
不意に強い風が吹いて、被っていた帽子があっという間に後ろへ向かって飛んでいく。目で追った後、視線を戻せばミラーに映るあたしの姿が見えた。あたし? あれは本当にあたしだろうか? 自分がどんな姿だったのか記憶がぼやけている。けれど帽子が飛ばされたことを確かめるように髪を手で押さえたその女の子は、どこか楽しそうにしていた。
曲がりくねった道は、流石のヒデじいの完璧なハンドル捌きでも揺れる。それでもその揺れが楽しくて、花輪クンと二人で子供のように笑う。
不意に、遠くの方に誰かが見えた気がした。花輪クンはその人が分かったのか、ピースサインで挨拶する。少し気になったけれど、目まぐるしく移り変わる景色に浮かれているあたしの関心はすぐに切り替わった。広がる空に見とれていると、目の前にジュースが差し出される。キョトンとしてしまったあたしに、自分もグラスを持った花輪クンが、促すように微笑みかけた。見慣れた表情。頼りになる花輪クン。いつも極楽のようなロールスロイスの車内。
思い出と変わらないこの空間であたしは考える。いつから一緒で、そしていつまで一緒なのかなんて、考えたって意味があるのだろうか?
こんな話になったそもそもの発端を思い返す。あたしが一人の胸の中に長年仕舞っていた、もしかしたらここではない現実の端かもしれない未来の光景を、根本から覆すような花輪和彦の言葉。
ありきたりな、甘ったるい、今までの二人の思い出にはない言葉。
それはきっと今まで掴んでいた夢の端を解いて、別の夢に置き換えてしまう言葉だ。あたしはそれを恐れた。けれど、あたしはこうして今、花輪クンなしでは現れ得ない世界の景色に目を奪われている。
気付けば随分遠くまで来ていた。どのくらい時間が経ったのか、あっという間だった気がする。
あたしはいつか見た未来を信じていたけれど、今だってあの頃からすれば未来だろう。どのタイミングであたしはあの、花輪クンの影も形もない未来に向けて舵を切るつもりなのだろう。そもそも今更舵なんて効くのだろうか。今より過去はほとんど花輪クンで埋まっている気すらするのに?
そうしてきっとうかうか一緒にいる内に、景色だけが変わり、未来は過去になる。夢か現実か分からないままに、今この瞬間のように。
あたしはもう、それでいいような気がした。
鮮やかな色彩の鳥が、群を成して周囲を飛び交う。あたしは見惚れて身を乗り出した。
靄のような鳥たちは東の空へ飛び去り、開けた視界の先には長い長い列車が大きなカーブを描いて走っている。その列車の中に、あなたを見つけた。
あなたもあたしを見ていた。さっき花輪クンが挨拶したのはあなただったんだと気づいた。
あたしは何だかとても嬉しくなって、遠ざかる車の中で、大きく大きく手を振った。
もう道はただ真っすぐに続いている。視界の端で、いつか飛ばした帽子が舞っていた。
