もろい世界の堅牢な繭で - 4/9

 先に帰っててとビーデルに断った悟飯は、今日最後の授業を担当した教師と黒板の隅で楽しそうに話し込んでいる。悟飯はこんな風に授業のあと教師の所まで質問しに行くことがよくあった。
 授業は聞き流すものと言って憚らないシャプナーあたりは、最初それを良い子アピールだの何だのと腐していた。しかし質問の答えを聞く時の悟飯の活き活きした様子を見れば、すぐに違うと分かる。
 聞けば悟飯はこの高校に通うまで学校というものに通ったことがなく、すべて通信教育と独学で学んできたらしい。そんな出自で満点を取る学力なのもすごいが、逆に言えばそれで満点を取れるような人間がわざわざ学校に通う意義は、あんな風に専門知識を持つ教師の指導を対面で直接受けられるという部分が大きいのだろう。
 この学校は豊富な資金で指折りの優秀な教員を雇っているらしいが、正直生徒の学習意欲がそれに見合っているとは言いがたい。都会にあり、設備が充実していてクラブがたくさんある、そういう理由が主で入ってくる生徒の方が大半だった。だから放課後遊ぶことばかり考えている生徒ばかりの中で真面目に勉強したがっている悟飯の存在は教師たちにとっても嬉しいらしく、今も年配の教師が黒板の端っこを使って何か書きながら、ひどく熱の入った調子で悟飯に何事かを解説している。それを熱心に聞いている悟飯も楽しそうだ。

 待っているわけではないけれど何となく離れがたく、ビーデルはぼんやりとその光景を眺めながら、彼は本当に勉強が好きなのだなと思う。
 シャプナーではないが、ビーデルも初め何をそんなに興味を引くことがあるのかさっぱりわからなかった。同じ授業を聞いているはずで、そしてビーデルも悟飯ほどではないもののそれなりに良い成績を修めている。それでもビーデルにとって勉強とは話を聞いて、理解して、理解していることをテストで証明して、それでおしまいのものだ。その範囲からはみ出す知識を広範に、手当たり次第得た先に、一体何があるというのだろう?
 だって、そんなことを知らなくったって悟飯は誰よりも強いのだ。

 だからビーデルは以前、悟飯に対してストレートに聞いてみた。何がそんなに面白いのと。そんなに色々勉強してなんになるの、と。
 不躾な質問だと分かっていても、どうしても知りたかった。生意気な性格は直せない。自分の周りに自分が知らないこと、分からないことがあることがイヤだった。
 悟飯はビーデルの問いに目を丸くして、少し考え込んだ後こう答えた。
 自分の周りには自分のまだ知らないことがあるって知れる、と。

 まだざわめきの残る教室で、不意に耳に届いた通信音にハッとなる。
 銀行強盗事件発生。
 ビーデルはまだ話し込んでいる悟飯の方を少し見つめた後、教室を出て走り出した。目立たないように気をつけなければいけないけれど、飛べるようになった今は前よりもずっと早く現場に着くことが出来る。

 自分は強いと思っていた。だから目の届く範囲の悪は倒さなければならないと思っていた。
 でも本当は大した強くなんてなかったし、悪だと思っていた連中も全然大した悪じゃなかった。
 自分の世界がとても狭いことをビーデルは既に知ってしまっている。

 それでも、広い世界のことを知らなかったからといって、今までの狭い世界がウソになるわけじゃない。
 狭い世界なりにその全てを知ろうとした今までを否定してしまったら、ビーデルには何も残らないのだ。

 現場の近くまで飛んできた時点で既に銃声が聞こえて、ビーデルは舌打ちした。
 犯罪者が銃を持っているからといって、皆が皆発砲するとは限らない。いつでも撃てるのだという威嚇のために構えているだけで、トリガーにかけた指をまったく動かさない犯罪者も少なくないのだ。そういった銃を撃つことに恐れが見える相手ならば付け入る隙もある。しかし今回の犯人はそうしたタイプではないらしい。ビーデルでも流石に、銃を普通に撃ってくる相手に手出しすることは出来なかった。

 降り立ったビルの隙間から顔を出し、事件現場の銀行を覗き見る。
 入口の所に銃を構えた男が二人。どちらも大型の銃を所持していた。どうやら見張りの役らしく、仲間がまだ中に居て金を盗んでいる最中らしい。室内から微かに聞こえてくる銃声と怒号でそれが分かる。
 離れた場所で道を塞ぐように停車しているパトカーの陰から、警察の一人が叫んだ。
「もうじき君たちは包囲される! 無駄な抵抗はやめて投降しなさい!」
 呼びかけに対し、強盗達は顔を出した警察官目がけて発砲することで応じた。幸い距離があるので被弾はせず、慌てて頭を引っ込めた警察官たちに向かって強盗のうちの一人が叫んだ。
「うっせーんだよカス!! どうせまた魔人ブウみーなのが現れてあっという間に世界は終わっちまうんだ、生きてる間に好きなことしねえでどうすんだよお!!」
「ひゃっはー!!」
 囃し立てるように横の男がめちゃくちゃに銃を撃ちまくる。周囲の建物の中から遠巻きに見ている民間人たちの悲鳴が響き渡った。
 魔人ブウの一件以来、こういう自棄になった人間の犯罪が急速に増えているらしい。テレビでは終末思想がどうのと言っている。実際ビーデルに入ってくる犯罪情報も以前より明らかに頻繁だ。
 ――必死の思いで悟飯くんたちが守ってくれたのに、どうして世界にはまだこんな……。
 ビーデルは顔を歪めた。

 以前ビーデルは、本当に恐ろしい悪も知らなかったけれど、本当に善良な人間の存在も知らなかった。名声も富も求めず、人知れず世界を救うために力を使って、何の見返りも求めないような人たちが存在することを。

 魔人ブウの事件のあと、天界から引き上げる時、ビーデルは父と揉めた。父曰く「悪いヤツではなくなった」らしいブウを連れて帰ることは、父自身の必死の説得と家長はあくまで父であるという事実によって何とか納得できた。しかし、父の功績が全部ウソだったことについては納得できていなかった。本来受けるべきではない利益を受けていい暮らしをしていた父が、そして何も知らずにその恩恵を受けていた自分が許せなかったのだ。
 そんな父を庇ったのは、本当に賞賛を受けるべきはずの人たちだった。ある意味実際世界を救った面もあるのだと、自分たちも助けられたのだからあまり責めないでやってくれと。
 全部が全部褒められた人間ではないけれど、悪い人間ではない――ビーデルは彼らが口にした父の人間性へのその評価が、まだ完全に腑に落ちてはいない。
 だって、本当に善い人間は存在するのだ。全部が全部褒められるような。
 それなら、そうではない人間は何なのだろう? 父も――ああいう犯罪者も――自分も。
 何の価値があるのだろうか。

 追加のパトカーが二台到着した。見張りの男がその事実を店内に向けて怒鳴ると、中からの騒ぎの声が大きくなる。
 やがて金が入っているであろうバッグを持った仲間の男が三名、表の二人に合流した。
 その内の一人は、銀行の制服を着た女性を引きずるようにして連れ出していた。
 警官達とギャラリーのどよめきが響く。
 銃を構えて待ち伏せていた警官達に向けて、その男は恐怖に引きつる女性のこめかみに銃を突きつけながら怒鳴った。
「銃を下ろせ!! 一発でも撃つ素振りしやがったらこの女の頭をぶち抜くぞ!!」
 空気が一瞬で張り詰める。警官達は動揺したように顔を見合わせながら、言われた通り構えていた銃を下ろした。
 それを見届けて、犯人達は悠々と笑みを浮かべながら歩き出す。一人が先行して、複数台停められている道路脇の駐車場まで走った。一般車両に紛れて逃走用の車を停めていたらしい。
 人質をとった男は、最後尾で周囲を警戒しながら、首に腕を回して抱え込んだ女性をゆっくりと引きずるようにして移動を始めた。女性のこめかみに突きつけた銃はそのまま、見せつけるようにして。

 ビーデルは唇を噛みしめる。
 人質という、この世で最も卑劣な行為。ああして人間のこめかみに銃を突きつけられたが最後、周囲の誰も逆らうことは出来なくなる。指一本引く時間があれば彼女の命は失われてしまうのだ。他人の命と良心を利用した、明確な悪。そしてその行為が最悪であるが故に、手を出せない屈辱。
 結局こうして勇んで駆けつけてきた所で、敵が躊躇いのない悪党だったら何も出来ないのだ。素手で戦えばこちらの方がずっと強いとしても、銃を持ち出されれば呆気なく殺されてしまうし、弱い者を盾にされたら傷一つ付けられない。鍛えた力など、本当の悪の前には何の役にも立たない。
 ――そのはずだった。

「ビーデルさん?」
 呼びかけに、ハッとしてビーデルは振り向いた。
 そこには何故か、教室で別れたはずの孫悟飯がいた。
 どうしてここがと問いかけて、彼は他者の気で場所を探ることが出来るのを思い出す。

 何か言おうとしても言葉が出ず、ただビーデルは今まさに逃げようとしている犯人たちと、拘束されている怯えきった女性とを見て、そしてまた悟飯を振り返った。たぶん、縋るような目をしていた。
 状況を見てとった悟飯の表情が変わる。そして気づいたら、目の前から悟飯は消えていた。

 誰にも、何も見えなかった。
 ビーデルが慌てて目を向けた時、最後尾で他の仲間から少し離れていた男の右腕はもう銃を持っていなくて、女性を拘束していた左腕は悟飯に片手で捻り上げられていて、拘束されていた筈の女性は悟飯のもう片方の腕の中にいた。
 そして悟飯が掴み上げた男の腕があっさりと、小枝を掴んだような呆気なさでベキ、と折れた。
「ぎゃああああああッ!!!」
 絶叫する男から悟飯が腕を放すと、男は膝をついて「腕が、腕が!」と泣き始めた。
 ポカンとしてそれを見下ろしている人質の女性からゆっくりと手を放し、悟飯は一歩後退る。
「て、てめえっ!!」
 車に乗り込もうとしていた男の一人が、悟飯に向けて発砲した。悟飯はいつの間にか右拳を顔の前に翳していた。その開いた手から、ひしゃげた弾丸がゴミのように地面に落ちる。
「ひっ……」
 怯んだ男の足下に悟飯は手を翳した。
 飛んでいった光弾が、銃を撃った男と既に仲間の乗り込んでいた車、近くに停車していた他の車両、外灯、ポスト、それら半径2メートルくらいを引きずり込むクレーターを作り出した。
「ぎゃああああっ」
 汚い叫び声を上げて穴に落ちていく犯人達に、悟飯がまた一歩後退る。
「ひいいいっ! ばっ、ば、化け物……っ」
 後ろから二番目だったおかげで、一人だけ運良くクレーターに落ちなかった男が、ガタガタと震えて銃を取り落とす。逃げる素振りを見せるその男に、悟飯はどこかぼんやりとした様子で動く気配がない。
 ビーデルは走り出し、男の逃亡を跳び蹴りで阻止した。よろめいた所を横っ面に回し蹴りを入れると、男はその場に昏倒する。

 場は、完全に沈黙した。おそらく追加でここへ向かっているパトカーのサイレンが遠く聞こえる以外は、誰も何も言葉を発さない空間で、不意に震えた女性の声が響いた。
「あ、あの……! 助けて頂いて、ありがとうございます……!」
 人質にされていた女性が、安堵の涙を流しながら、顔を紅潮させて悟飯の手をとった。
「い、いえ……」
 悟飯は動揺した様子でまた一歩後退る。しかし握られた手だけが、どうしていいか分からないように身体に置いていかれている。
 そのぎこちない動作に、ビーデルは急に思い至った。女子に囲まれて腕に抱きつかれたりしていた時、悟飯はそうされることを受け入れていたというよりも――迂闊に動けなかったのではないか。

 離れた場所から甲高いブレーキ音が聞こえて、ビーデルはそちらに目を向けた。テレビ局のトラックだった。
 ハッとして、ビーデルは突っ立ったままの悟飯の手を掴んで声を掛けた。
「逃げよう!」
 引っ張って駆け出すと、悟飯は抵抗なくついてくる。しかしその場を無事離れて、人目につかない場所へ辿り着くまでの間、掴んだその手がビーデルの手を握り返すことは最後まで無かった。

 ようやく人気のない公園のベンチに腰を落ち着けた頃には、すっかり空が茜色に染まっていた。
 夕陽に照らされた俯きがちの横顔に、ビーデルは今更少し緊張を覚えながらおずおずと尋ねる。
「わたしの気を探して来てくれたの?」
 悟飯はばつが悪そうに頷いた。
「通信しながら、走って行くのが見えて……また何か、事件が起こったんじゃないかと思って……」
「ありがとう。助かったわ」素直に礼を言って、ビーデルは自嘲した。「来たはいいけど……わたしだけじゃ何も出来なかったから」
「いや……」
 沈んだ様子で言い淀む悟飯に、ビーデルは内心困惑しながら明るい声を出す。
「そうだっ。前にこんな風に駆けつけてくれた時……わたしが変装した悟飯くんの正体を暴いちゃった時あったでしょ? あの時も、もしかしてわたしを助けに来てくれてたの?」
「う、うん……。……危ないんじゃないかと思ったんだ。みんなが、その……ビーデルさんは、ミスターサタンと同じくらい強いって言うから」
 言い難そうに告白する悟飯に、ビーデルは笑った。
「パパは銃で撃たれたら死んじゃうもんね。わたしもだけど」
「そ、そうだよね……」
「勿論自覚はあるのよ。だから、銃を構えてる犯人には流石に手は出さないし。でもあの時は、今思えば危なかったのかもね」
「はは……」
 苦笑する悟飯の、どこか心ここに在らずといったその様子に、ビーデルは躊躇いながら核心の疑問を口にする。
「……あの犯人に……化け物って言われたこと、気にしてるの?」
「えっ?」
 悟飯は思いも寄らないことを言われたというように目を丸くして、慌てて首を振った。
「いや、そんなことは全然気にしてないよ。そういえば言ってたっけ……今の今まで忘れてた」
「えっそうなのっ? じゃあ何をそんなに落ち込んでるのよ」
「いや、その……犯人の腕、折れたな……って」
「腕? あ、ああ……そうね」
 蹲ってみっともなく泣く犯人の姿を思い返して、ビーデルは眉を顰める。
「折るつもりまで、無かったんだけど。地面にあんな大きな穴も、開けるつもりなかったし……」
 心苦しそうに言う悟飯に、ビーデルは思わず声を大きくして言った。
「べっ……別に気にしなくていいじゃない、あんな悪党の腕の一本や二本! むしろ折ってやったぐらいで丁度いいわよ!」
「そ、そうかな……」勢いに圧されるように悟飯はちょっと身を引いた。
「穴に落ちた連中だって、たんこぶぐらいは出来ただろうけど死んではいないだろうし……あの女の人を助けられたことに比べたら、そんなのどうってことないじゃない!」
「うん……」
 困ったように笑って、それでも浮かない様子の悟飯に、ビーデルは表情を曇らせる。
「人質をとって逃げるなんて……最低のヤツらよ。同情してやる必要なんて無いと思うけど。悟飯くんはちょっと、やさしすぎるんじゃない?」
 はっきりとしたビーデルの指摘に、悟飯は力なく首を振った。
「別に、かわいそうとか思ってるんじゃないんだ。そうじゃなくて……出すつもりのない力が出たってことが、単純に……怖いなって」
「ああ……」
 ビーデルは、ようやく理解した。悟飯の今の憂鬱が、何に向いているのか。
「……思い返すと悟飯くん、そういえば前よりも色んなものに距離をとるようになったわよね。話しかける時とかも一歩遠いっていうか、極力近付かないようにしてるっていうか……。でもその割に女の子に囲まれてベタベタくっつかれてもされるがままだから、ヘンだと思ってたんだけど。あれって……困ってたんだ?」
 思い切った問いに、悟飯はあっさりと頷いた。
「今の状態だと、どのぐらいの接触でさっきみたいに怪我をさせてしまうか分からなくて。女の子ってもろいし……」
 もろい。
 さらっと零された形容に、ビーデルは曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
 比喩などではなく、そのままの意味なのだろう。悟飯に掴まれたあの犯人の腕は、それなりに鍛えていたのか中々に太く逞しかった。折るつもりも無く掴んだあの腕が、あんな風にあっさりと折れてしまうなら、女性の細腕なら一体どれほど。

「やっぱり……このままで、うまくいくわけないよな」
 ふと零れた独り言のような、すっと冷えた声音だった。ビーデルはぎくりとする。自信に満ちあふれた最近の声ではなく、しかし前のような柔らかさは無い、どこか――遠くに行ってしまう前のような声。
「今はよくても、そのうちきっと何か……大事なものまで壊してしまう。自分でも分かってるんだ。ちょっとおかしくなってる……口調とかも変わってるでしょ?」
 ビーデルは答えられなかった。悟飯は構わずに続ける。
「ちゃんとそれを認識してる元の自分が、どこかにはいるんだ。でも夢を見てるみたいに、今この瞬間からは遠い場所に追いやられてる。……昔からそうなんだ。一気に大きなパワーが解放されると、精神がそっちに引っ張られるようで……自分が自分じゃなくなるようで……こうなってからもずっと、変な万能感っていうか、何でもうまくいくような気になってた。でも、そんなわけないんだ。わかってる……強くなり過ぎた自分は信用できないって、もう嫌ってほど知ってるんだから」
「知ってる、って……」
 ビーデルは疑問の声を上げるが、悟飯は答えない。以前、こんな風に強くなって、何か――それこそ、大事なものを壊すような失敗を、したことがあるのだろうか?
 戸惑いつつ、ビーデルは違う問いを口にした。
「じゃあ、悟飯くんは……戻りたいんだ? 魔人ブウが現れる前の状態に……」
「……。」
 躊躇うように視線を泳がせるが、表情を見れば答えは明らかだった。
「戻れないの?」
「……戻れるなら、戻りたいよ。……でも、しばらく時間を置いても、前みたいに気を抑えようとしても、やっぱり駄目で……いつかは戻れるかもしれないけど、少なくともすぐには無理だと思う。多分、もう、変わってしまったから」
 苦しげにそう言う顔が、ひどく寂しそうに見えて、ビーデルは息を呑む。
 ふと気づいたのだ。
 強い力を持つ者が、弱い者を守ってくれるとして――それなら、一番強い人は誰に守ってもらえばいいんだろう?
 彼は、世界に知らないことがあると知るのは嬉しいことなのだと言った。ビーデルが自分のことを知っているのが心強いのだとも。
 力で守ってもらう必要は無いのかもしれない。でも、少なくとも彼は他人を、世界を必要としている。
 そして、そんな風に他人を必要としている彼、それでも誰より強い彼が、他人と一緒に居たがっているとして――そのそばに居てあげられるのは、彼より弱い人間だけなのだ。

 父は、世界一強い人ではなかった。そう知ったあの時から、ビーデルの世界は変わってしまった。でも、父もあれから変わったのだ。
 ブウは明らかに父よりも強い。その気になれば、また世界を恐怖に陥れることまでは出来なくても、人間の親子なんて簡単に殺してしまえるだろう。
 でも、父はブウのことを信じているようだった。そしてブウも、父を必要だと思っているようだった。
 彼らは、うまくやっていた。一番強くなくても。完璧な善人ではなくても。うまくやれるように、自分を変えたのだろう。

「……もう少し、色々やってみましょうよ!」
 ビーデルは勢い込んで言った。
 立ち上がり、ぽかんと見上げる悟飯の逞しい肩を掴む。
「他の人……あなたのお父さんとかには相談してみたの!? 戻りたいけど戻れないってこと!」
「あ……それは、まだ……」
 思い至らなかったように目を丸くする悟飯に、ビーデルは励ますように掴んだ肩を揺さぶった。
「諦めないで、もっと色々試してみた方がいいわ! 強くなれたんだから、弱くなることだって出来るはずよ!」
「そう、かな」
「そうよ! こんなんじゃ、デートも出来ないじゃない!」
「デ、デート?」
 驚いたように一段高くなった悟飯の声に、ビーデルは顔を赤くして慌てて言い添える。
「べ、別にわたし相手ってことじゃなくても! 今の悟飯くんじゃ手も握れないでしょ? 女の子相手ならみんな!」
「う、うん……」
「必要なら、わたしも組手の相手ぐらいなら出来るし!」
「それはちょっと……」
「……無理かもしれないけど!」
 撤回せざるを得ないビーデルに、悟飯は少し気の抜けた表情で沈黙した後、ふっと表情を緩めて笑った。
「ありがとう。ビーデルさん」
 心のこもった声で礼を言われ、ビーデルは照れる。
「結局、その……わたしは、応援しか出来ないんだけど……」
「ううん。すごく、ありがたいよ」
 噛み締めるように言って、悟飯もベンチから立ち上がった。
「オレ……いや、ボク。ビーデルさんの言う通り、もっと色々試してみるよ。元に戻れるように……みんなと、これからも学校で一緒に勉強していけるように」
 遠ざかった感覚を手繰り寄せるように、思い出すような慎重さで口にされた『ボク』に、ビーデルは微笑む。
「うん……待ってる」
 力を込めて言うと、悟飯は少し面映ゆそうに目を細めて、ビーデルに微笑みかけた。
 その甘さにドキリとする間もなく、悟飯は言った。
「もし無事に元の状態に戻れたら、ビーデルさん……ボクと、デートしてくれないかな?」
 ビーデルは目を見開いて、そして今まで生きてきて一番激しく赤面した。
「は……」喉がカラカラに乾く。「はい……」思わず敬語になった。
 悟飯もちょっと恥ずかしそうに、それでもにっこりと笑って礼を言う。
「ありがとう」

 ビーデルは頭から湯気が出そうだった。
 これも、この状態になってからというもの彼に付いて回るという、精神的万能感のなせるわざなのだろうか? だとしたら、元に戻るのを応援した直後だけれど、この変身に感謝せざるを得ない。

 まだ甘い笑顔の余韻が残る悟飯の唇が、おそらく別れを告げようと開きかけるのを察して、ビーデルは慌てて口を開く。
「あっ、ね、ねえっ、じゃあ……」
 先を促すように首を傾げる悟飯に、ビーデルはそっと、自分の小指を差し出した。
「約束、してくれる……?」上目遣いに伺って囁く。「小指なら、何ともないでしょ? ……約束しよう? 元に戻ったら、デートするって」
 ビーデルはチャンスを逃がさないタイプだった。
 目を丸くしていた悟飯は、少し恥じらうように躊躇った後、おずおずと右手を挙げる。
 その手つきはやはり照れているというよりは、壊してしまうのを恐れた慎重さだった。
 そして悟飯の少し長い指が、細く小さなビーデルの指までゆっくりと近づいてきて――やがて、とても控えめに、おっかなびっくり絡められる。
 触れ合うその指の熱さに、ビーデルはこのまま、永遠にこの指を切りたくないと思った。