叔父さんとご対面

 住み慣れた家を出る前に姿を現して以来、またチェシャ猫は消えてしまった。
 あの日、バッグもパンパンでチェシャ猫を隠せるスペースは無く、迎えに来た叔父さんを死ぬほど驚かす数分後の未来が容易に想像できた状況にじわじわ焦ってきた亜莉子は「どうしよう」とチェシャ猫に相談してみた。するとチェシャ猫は「分かった」と暢気に返したかと思えば、そのまま煙のように姿を消してしまったのだ。
 もうそのぐらいでは驚かないので消えた事自体は良いのだが、それにしてもあれから引っ越しも済んで、お母さんの納骨も済んで、転校手続きも済んだのにまだ出てこないとはどういう事だろう。

(会いたいのに……)

「ちょっと散歩してくるね」
「おお、気を付けてなー。明日は転校初日なんだから」
 叔父さんがひょっこりと顔を出して見送る。
「うん。行ってきます」
 それに手を振って、亜莉子は玄関を出た。

*

 最近亜莉子に元気がない事に、康平は気付いていた。
 この辺の地形を覚える為、亜莉子は引っ越してきてからちょくちょく散歩に出ていた。
 最初の頃は案内がてら二人で散歩に出たりして、あの白木蓮の咲く神社に連れて行った時には「この匂い覚えてる」と言ってはしゃいでいたものだが、その散歩の時もずっと何かを探すようにきょろきょろしていた。
 何を思っているのかは分からないが、一人で散歩に出るようになった今も散歩から帰ってくる度にどこかしょんぼりしたような、がっかりしたような表情を浮かべているのが気に掛かる。
 落し物でもしたのか?と訊いてみた事があるが、ビックリした顔をした後にそうじゃない、と首を振って否定され、はぐらかされた。
 昔住んでいた事があるとはいえ、慣れない土地で不安なのだろうか。
 今日も帰ってきた時の顔は落ち込んでいるのだろうか、と物憂げに考えながら、康平は仕事途中のパソコンに目を戻した。

*

「チェシャ猫やーい……」
 周りに人が居ないのを確認して、とうとう声に出して呼びかけてみる。
 しかし当然ながら「やあアリス」なんてチェシャ猫が出てくる事はなかった。
 ため息をつきながら、神社の階段を登る。
 叔父さんに最初に連れて来てもらったこの場所は亜梨子のお気に入りだ。
 おばあちゃんの家も周りの道も朧げな記憶しか無かったが、この神社の風景と白木蓮の香りだけは不思議なぐらい鮮明に残っていた。
 その樹の下で白い花を見上げて、自然とシロウサギの事を思い出す。
 シロウサギ……。
 寂しさも相まって思わず涙腺が緩みそうになる。
「もう会えないの……?」
「誰と?」
 突然した第三者の、そして聞き間違いようの無い声に、亜莉子は目を見開いた。

*

 玄関の扉が閉まる音に、康平は顔を出した。
「お、亜莉子」
「はいッ!!」
 目に見えて飛び上がる、こちらに向けられた背中に、康平の方がビックリする。
「お、叔父さんっ! た、た、ただいま!」
「お、おう、おかえり……」
 引きつった笑みで、不自然な体勢で勢いよくこちらを振り返る亜莉子。
 明らかに背中に何かを隠した。
「お、お仕事終わったのっ?」
「いや、あと仕上げが残ってるけど…」
「そ、そうなんだぁ~大変だね!」
 上擦った声で会話しながら、横歩きで壁伝いに進み、靴を脱ぐ。
 これだけ隠し事が下手な子も珍しい。
 しかし焦っているとはいえ、その顔にこれまであった翳りは綺麗さっぱり消えていた。
 康平はやれやれと内心苦笑しながら訊く。
「探し物、見つかったのか?」
「えっ?」
 目を丸くする亜莉子。
 しばらくその問い掛けを頭の中で反芻してから、頷いた。
「……うん……」
「そっか。良かったな」
 何かを後ろに隠したままの亜莉子の頭をポンポンと叩いて、あとは何も聞かず部屋に戻っていく。
「……叔父さん…」
 その心遣いに、亜莉子は感動した。

 叔父さんになら、いつか、チェシャ猫の事……。

 そんな考えを浮かべた時、背中から不意に低い声が響いた。
「オニイチャン」
「!!」
 亜莉子は固まった。
 背中をバキバキ鳴らしてパソコンの前で伸びをしていた康平も、突然響いた男の声にビックリして振り返る。
「な、何だ?」
「いやっ、そのっ…」
「……亜莉子。お前が探してたものって何だ?」
 流石に無視出来ず、訝しそうに康平が訊く。
「け、決して怪しいものじゃあ…」
「ちょっと後ろ向け後ろ」
 指でちょいちょいと方向転換のジェスチャーをする康平にぶんぶんと首を振る。
「じゃあ詳しく言わなくてもいいから、どういうモノかだけ教えてくれ。生き物か? オモチャか何かか?」
「……猫です」
「猫?……でも何か今おにいちゃん、って」
「オニイチャン」
「ほらまた! しかも男の声だぞ!」
「ちょっと! もうチェシャ猫ったら!」
「会った事あるよ」
「え?どういう事?」
「『コーヘーオニイチャン』」
 康平は、その言葉に目を見開いた。
 その呼び方で呼ばれたのは、昔、亜莉子の小さかった時しか――
「え?……でもぉ……うん……大丈夫かなぁ……」
 ひそひそ、とアリスはこちらに背を向けて、腕の中の何かと相談しているようだ。
 やがておずおずとこちらを見て、亜莉子は言った。
「……叔父さん。あのね…私が探してたのは確かに猫なんだけど、すごく、変わった猫なの」
「おう」
「その……驚くと思うんだけど……そんなに驚かないでっていうか……」
「……」
「あの~……」
「何でもいいっ! ここまで来たらどうせ見せんだから怯えんなっ!」
「はいッ!!」
 ビシッと背筋を伸ばして、亜莉子は勢いよく隠していたものをこちらに突き出した。
 康平はその物体を見て案の定固まる。
 まず目に付いたのはにんまりと耳元まで裂けた口だった。
 妙に赤い唇に、黄色いびっしりと生え揃った尖った歯。細い顎は女性っぽくも見える。
 そう、殆どを灰色のフードに覆われてはいるが、それは紛れもなく――人間の頭部だった。
 そしてその唇が動いて、先ほど聞こえた低い声で喋る。
「久しぶり」
「……。」
 康平はしばらく固まっていた。
「お……叔父さん?」
 呼びかけに、康平は生首から亜莉子に視線をやり、再び生首に視線を戻し、そして自分の頬を思い切りよくつねった。
「いてっ!!」
 自分でつねった頬を押さえて、呆然と呟く。
「……現実なのかこれは……」
「う、うん…その気持ちはすごく分かる……」
「生きてんのか?コレ」
「うん……首だけなんだけど生きてるの……」
「……猫なのか?」
「そうだよ」
 チェシャ猫が肯定すると、康平はちょっとビビッた。
 しばらくそのまま対峙し睨み合う康平とチェシャ猫に、亜莉子は焦って提案する。
「と、とりあえず説明していい? 私の部屋で!」

 亜莉子は、どこまで信じてもらえるだろうと疑いながらも一生懸命康平に説明した。
 不思議の国の存在。その創造主が自分であった事。病院から失踪したのもそれが関係していた事。
 正直詳しい事は亜莉子自身よく分かっていない所もあるので、亜莉子に分かっている事だけをざっくばらんに説明したのだが、荒唐無稽なその話に意外にも康平はついてきていた。
「……要するに、昔亜莉子がよく言ってたシロウサギの話とか諸々は、実は全部ホントのことで、今も存在してるって事なのか?」
「はい……」
「で、引っ越しの時から今までずっと姿が見えなかったけど、それはあの街から不思議の国の住人も引っ越ししてたからで、それが終わったからまた出てきたと」
「そうらしいです……」
 正座して神妙に頷く亜莉子に、向かいで胡坐をかいて腕組みした康平が難しい顔で唸る。
「まさかなあ……」
 その茶化すでもなく気味悪がるでもない様子に、亜莉子の方が不思議そうに首を傾げた。
「叔父さん、信じられるの?」
「そりゃあ、現物目の前で見せられちゃな」
 チェシャ猫を見下ろして言うと、言われた現物は暢気にぐるぐると喉を鳴らす。
「それに、実はずっと疑問だったんだ」
「何が?」
「あの当時、俺は高校生で、今の亜莉子と同じくらいの歳だったけど……たまに、ホントにあるんじゃないかと思ってたんだよ。お前の言ってた不思議の国」
「えっ……」
「子供が考えたにしちゃ妙に詳しくて、実際に起こった事をそのまま見て話したようなリアルさがあってな……あといつの間にか、どこから持ってきたのか分かんないような色んな物持ってたりしたし。トランプとか変な服とか」
「えええ……」
「それに……お前、さっき『久しぶり』って、『オニイチャン』って言ったな」
「言ったよ」
 チェシャ猫が肯定する。
「ねえチェシャ猫、ホントに叔父さんと会った事あるの?」
「あるよ」
「……確かあの頃、よく寄ってきた灰色の猫が一匹居て、亜莉子はそれをチェシャ猫って呼んで可愛がってたんだよ。俺も煮干とかやったりしたんだけど。あれ、お前か?」
「うん」
「えええー!? そうだったの!?」
「覚えてないのか?」
「ぜんっぜん!」
 力いっぱい否定する亜莉子。
「ええー、そうだったんだあ」
「でも何で生首なんだよ」
「元々ちゃんと体もあったのよ。でも、女王様が首を刎ねちゃって…」
「ああ、女王様な。居た居た、お前の話の中に」
「…もしかして叔父さんの方があの世界に詳しかったりして…」
 難しい顔をする亜莉子を尻目に、康平はチェシャ猫に触ってみる。
 人差し指で顎をくすぐると、ぐるぐる喉を鳴らした。
「こっちの人型が本当なのか?お前」
「僕は僕だよ」
「ねー、叔父さん、チェシャ猫飼ってもいい……?」
 その問いに康平は変な顔をする。
「飼うってのも変な感じだが……ま、いいんじゃないか? よく分かんないけど」
「やったー!」
 両手を挙げて喜ぶ亜莉子。康平も康平で亜莉子に負けず劣らずさばけた性格をしていた。
「亜莉子もこれから学校始まって、一日中家に居る訳じゃないしな。最初に言ってもらって良かったよ。うっかり留守中に発見したくねーし……」
「そ、そうだね……」
「しかし母さんには見せらんねえなあ。生首だし」
 もう慣れたのか、持ち上げて向かい合いながら言う。
「そうだよね…体があったらもうちょっとショックは薄いんだけど」
 困ったようなその呟きに、チェシャ猫があっさりと返した。
「体があった方がいいのかい?」
「えっ、戻るの!?」
「戻せるよ」
「じゃあ何で戻さねーんだよ!」
「めんどくさかったから」
「……」
「えー、じゃあ戻った姿見たーい!」
 目を輝かせる亜莉子にチェシャ猫はにんまり笑う。
「じゃあアシタね」
「明日学校だよ?」
「帰ってきたらって事だろ」
「わー、楽しみだなぁ」
 無邪気に言う亜莉子。話はとりあえず一段落したらしい。康平は肩の力を解すように伸びをした。
「いやービビったら腹減ったな。メシだメシ」
「体戻ったらおばあちゃんにも会わせられるかなぁ?」
「……大丈夫じゃないか? 結構あの人大らかだし」
「そうだよね、叔父さんのお母さんだもんね!」
「どーいうイミだよ。ところでお前が食べるのはやっぱり煮干でいいのか?」
「くれるならもらうよ」
「えっ、チェシャ猫って物食べるの!?」

「じゃあ、行ってきます!」
「おう。しっかりな」
「イッテラッシャイ」
「うん!」
 弾けるような笑顔で亜莉子は元気よく玄関を出て行った。
 あれなら大丈夫だろう。昨日までの表情だとちゃんとやっていけるのか、友達が出来るのか不安だったが、本来のあの明るさがあれば友達なんてすぐに出来る。
 コイツのお陰だな、と手の中の頭を見下ろした。
「亜莉子の転校初日に合わせて帰ってきたのか?」
「急いだよ」
「……そっか」
 中に戻りながらポンポンとその頭を撫でる。
「コーヘイ」
「……何だよ」
 呼び方はそうなったのか。確かにお兄ちゃんって歳でもない。
「昨日すぐに話し掛けたのは理由があるんだ」
「ほお?」
「あっちの世界の、真実の番人と女王と話し合って、コーヘイには全部話しておこうって事になった。あの世界のこと」
 『アリス』が居なくなった途端急に話の通じる感じになったな、と思いつつ首を傾げる。
「女王の名前は昔聞いた事あるけど……真実の番人って誰だよ。仰々しい名前だな」
「トカゲのビルだよ」
「ああー……なんか聞いた事ある。で、全部話すって…何をだよ。確かに亜莉子の話だとハッキリしない部分があったけどさ。お前が説明してくれんのか?」
「僕はそういうのはニガテ」
「まあ……っぽいな」
「ビルが説明するよ。一番アリスから遠いのはビルだから。だから、ビルに会ってもらいたい」
「どうやってだよ。ていうか俺が会えるのか? お前には会えてるけど……亜莉子の精神世界みたいなもんなんだろ。いやお前には会えてるんだけど」
 口にしていてもこんがらがってきた。それをのんびりとチェシャ猫がまとめる。
「そういう事をビルが説明するんだよ」
「……そいつはありがたいな」
 チェシャ猫はそこで、現実に市内にある地名を口にした。
 市街地の一角にあるビルの名前らしい。ややこしい。
「そこがビルの引っ越し先」
「ホントかよ。賃貸か? 空きがあるビルなんてあったかその辺に」
「さあ?」
「……まあ、行きゃあいいのか、とりあえず」
「ウン」
「なんだかなあ……まあ、今日仕事は休みだけどさ。今からか?」
「アリスが帰ってくる前の方がいいかもね。行かないと体戻せないから」
「現実だよなあ……」
 頭を掻きながら、康平は簡単に外出する格好を整え、財布と鍵と携帯だけ持って、沈黙した後、少し大きめの布の袋を引っ張り出した。
 そこにチェシャ猫の頭をサッと入れて、奥の母親に声を掛ける。
「母さん、ちょっと出掛けてくっから」
「はいはい。私も今日は夜まで出てるからね」
「あーそうだったな。送ってかなくていいんだっけ?」
「ええ。待ち合わせは近くだから」
「そっか。気を付けてな」
「そっちもね」
 玄関を出る。
 車の鍵を開け、助手席にチェシャ猫が入った袋を置き、ちょっと迷ったが出してやった。
 シートベルトは締められないからそのまま乗ってもらう。運転中にゴロゴロ転がるかもしれないが仕方ない。その図を想像して、康平は複雑な表情で笑った。