「どうして! どうしてなの……!」
机を強く叩き付けて、女王がヒステリックに叫ぶ。
アリスは“歪みの国”を閉じてしまった。
『オカアサン』に強く歪みの国を否定され続け、次第に歪みの国から遠ざかっていたのは事実だった。
しかしこの間、久しぶりに強く、とても強くオカアサンは“アリス”を拒絶した。
そしてとうとう歪みの国も拒絶されてしまった。アリス自身から。
世界は閉ざされアリスの意思から離れ、住人達は自由になった。
それでもアリスが居なくなって得られた自由など空虚なものだ。アリスが居ないのに時間を進めるなんて許さないとばかりに、女王は時間くんを捕えてしまった。
いつまた動き出すのかわからない世界。女王はヒステリックに家臣の首を刎ねまくっているし、帽子屋とネムリネズミのお茶会は終わらない。不毛だ。
ビルは夜の薔薇園を見下ろせる小高い丘に来た。
そこにじっと座り月を見ているチェシャ猫の背後に立つ。
「お月見ですか」
「……そうだね。キミもかい」
「そんなところです」
「座ったら?」
「……失礼します」
隣を空けるチェシャ猫の横に座る。
そのまま静寂が訪れた。時間くんが捕えられている以上、どれほどこうしていても時計の針は進まずここは夜のままで、女王の城の周囲は昼のままだ。
ビルはアリスから一番遠い存在だった。
真実の番人として客観的な視点を持たされたビルは、世界が閉ざされる前から元々アリスの意思を離れて行動していた。
アリスの知らない事を知り、望まない事を出来、その意思に無い事を思える。
現実に例えて言うなら、他の住人がアリスにとっての親類のようなものだとしたら、ビルは他人に近かった。勿論アリスを愛してはいるが。
そしてアリスから二番目に遠い存在がチェシャ猫だった。
あくまで二番目である最大の要因は、『導く者』であるチェシャ猫は同じ他人のような立ち位置でありながら、アリスの意思を越えた行動は取れないという所にある。役目である導きの先はアリスの意思の先でなければならないからだ。
なのに何故チェシャ猫がアリスから遠いのかというと、偏にそれがアリスの望みである事による。
アリス自身からかけ離れた、不思議で、傍に居ると新鮮な事だらけのアリスの猫。
残酷な話だ、と思う。
誰よりもアリスにとって魅力的な猫は、その心はアリスの意思を離れ一個の存在として確立しているのに、アリスの望まない行動は取れない。つまり、アリスがこの世界から離れようとする限り、チェシャ猫の方からアリスに会いに行く事は絶対に出来ない。
シロウサギは会いに行ける。一番アリスに近いからだ。
本来なら、チェシャ猫もアリスに会う権利は十分あるのに。チェシャ猫だって、アリスの歪みをずっと吸っていたのだから。
「……フードは取らないんですか?」
ビルの問いに、チェシャ猫は少し間を置いた後小さく言った。
「……やな事言うね」
すみません、と言いながら笑う。
もう顔の殆どを覆い隠す灰色のフードは要らない。だってその下を見てはいけないアリスとは、きっと遠い先までずっと会えないのだから。
ビルは手を伸ばし、撫でるようにそのフードをとる。
現れた青みがかったグレーの猫毛と耳、そして美しいエメラルドグリーンの瞳に目を細めた。
繊細な横顔、細い顎は中性的で美しい。
「どうして取るんだい」
「貴方の顔が好きだからです」
フードを取られても興味なさげにこちらを見向きもしなかった顔が、初めてこちらを見た。
「初めて聞いたよ」
「初めて言いましたからね」
でもずっと好きでしたよ。
ふうん、とチェシャ猫は相槌をうつ。
「じゃあイミあったね。この顔」
「……ええ。非常に」
さらりと言われた台詞が何だか殺し文句のようでビルは笑みを深くする。
「僕の顔を見にここへ来たのかい?」
「まあ……それは結果の一部ですね」
「じゃあやっぱり月を見に?」
「貴方が可哀想だったので」
変わらない口調で続けた。
「私の家にご招待しようかと思って来ました」
エメラルドグリーンが、じっと不思議な光を湛えてビルを見つめている。
「寂しいでしょう?」
「うん」
素直にチェシャ猫は肯定する。しかしその声は意外にのんびりとしていた。
月に視線を戻して、目を細めながら囁く。
「でも仕方ないね。僕は導く者だから」
哀しみと諦めが入り混じった切ない響き。それを抉るような質問をあえてぶつける。
「シロウサギが羨ましいですか?」
「……嫌なトカゲ」
ビルは喉を鳴らして笑った。
確かに自分でもサディストだと思う時がある。特にこの猫を前にした時は。
手を伸ばして、その喉元をくすぐった。巧みな撫で方にぐるぐるとチェシャ猫は喉を鳴らす。
「で、どうですか?」
「なにが?」
「私の家に、来ませんか?」
チェシャ猫はにぃと笑った口のまま、目元を緩めた。
「……行ってもいいよ」
そうしてビルは、可哀想な捨て猫を拾って帰る事に成功した。
捨て猫が、自分を捨てた飼い主を諦められる事は、一生無いけれど。
