水底の静寂

 気の抜けた、いやに静かな、空気が昼寝をしているような気候の日だった。学校が休みの夏目は浮かれた様子で塔子の掃除を手伝っていて、私はすることがなくヒマで、こんな日柄だというのに生憎と全く眠くない。しかし眠くないが怠くはあり、中級どもとどんちゃん騒ぎという気分にもなれない。かといって気まぐれに遠くまで足を伸ばすようなパッションもない。
 こんな時はあそこに限ると、私はすっかり馴染みのさーどぷれいすに向かった。つまり、田沼の小僧の家だ。
 
 親子二人が暮らす広い寺の敷地は、人間の世でも比較的静かな方に違いないここら一帯の田舎の中においても尚一層静かな場所だ。この世の静寂をかき集めて更に清めの塩を振ったようなキンと澄んだ気に満ちている。有能らしく、仕事でしょっちゅう家を空けているあの住職の法力のせいもあるだろう。
 しかし、あの家で最も静かなのは伽藍堂の境内などではない。中に住んでいる、生きた小僧の傍だ。

 普通生きている人間、しかも若い男の傍などはこの世で最も騒がしい場所のひとつだろう。しかし田沼の小僧というのは、周りの友人からもたまに揶揄されているが、例えるなら枯れた老木のような気配を漂わせている。
 勿論小僧は小僧だ、その肉体は瑞々しい。精神性もともすれば幼子のように素直で正直だ。しかしそれでも心にどこか、時の流れがゆっくりであることを既に悟っているかのような鈍重さが田沼にはある。
 それが余人と異なる世界を一人感じ取りながらも、力を持たぬが故に脅威の正体を知らず、ただ自身への害となる何物かが過ぎ去るまでじっと息をひそめて生きてきた諦念によるものなのかは知らない。
 何はともあれ、その佇まいにはあるがまま流れに身をさらすような無防備さがある。妖に取り付かれやすいのも道理だ。無力だが我欲のまま泣く赤子よりも更に無害な、都合よくそこにある木のような命。皮に包まれた餡子のように、本人には一切使えないまま仕舞われた高めの妖力。
 奴のそばにいるとしみじみする。ああ、弱者は弱者なりの摂理で世界に存在しているのだなと。
 己の弱さを知り、それでいて僻む心も持たず、分を知って振舞う田沼の慎ましい仕草は好ましい。この仮初の身を抱き上げ、戯れに毛並みを撫でる指先、その一連の動作に強引さの覗く気配は微塵もない。
 ただ温い体温を持つ、無害な心の無害な生きものだ。
 

 八ツ原の古寺、その勝手知ったる敷地内を母屋の庭まで移動し、妖の池を横目に田沼の部屋に回り込む。都合のいいことに、庭に面した障子は開いていた。
 感心なことだ、私が来るのを予期してか? と一瞬考えたが、ひょいと覗き込んですぐに違うと知る。
 田沼は折った座布団を背にして仰向けに寝転がり、ただただぼんやりと、天井に揺らめく水面の影を見ていた。
 翳る室内、きらきらと光る水紋が静かな横顔を照らして揺れる様を、私はどこか呆けたような心地で暫し眺め入る。
 まるで、水底のような光景だった。眠そうというわけでもなく、かといって熱心というわけでもなく、そこに動いている模様が確かにそこに在るということだけを追って、沈んだ色の虹彩が透明な視線を頭上に注いでいる。

 ふと、何故こいつの傍が静かなのかに気がついた。
 こいつの他に周囲に何者もいないからだ。
 
 私はこの庭に池のない光景を知らない。夏目も同じだろう。しかし普通の人間に妖の池は見えない。あちら側の目では、この庭はおそらくカラカラに渇いた野原にしか見えていない。
 二つの世界の景色はまるで違う。視えなければ、無いのと同じだ。しかし田沼には、その存在だけは視えるのだ。影として、模様として、残滓として。
 田沼の父親は天井の水紋が見えない。しかし田沼には、我々の見える池が見えない。
 普通の人間の視線は乾いた地と茂る雑草を見る。我々の視線は水面を漂い、その上を滑る。
 そして誰も気づかない。田沼が水底にいることを。
 

 室内に入り、私のために隅に畳んで置かれているタオルで足を拭く。私としては田沼の部屋が土まみれになった所でどうでもいいが、後でそのことが夏目にバレたら面倒だ。
 そして寝そべる田沼の傍まで行くと、私の存在に気付いた田沼が目を僅か見開いた。夢から覚めたように。
「先生」
 誰も居ないのに、息をひそめるような密かな呼びかけが空気を揺らす。
 田沼が起き上がるよりも先に私がその脇に入り込み、ぴったりと収まり良く落ち着くと、田沼はふっと破顔して頭を撫でてきた。その仕草はやはり慎ましい。
 何も問うてきたりもしない。私が目的もなくここに立ち寄ることもあると知っているからだ。 
 そんな弁えた小僧の指に、私は勝手にゴロゴロと鳴る喉を放置しつつ呟いた。
「お前、猫じゃなくてよかったな」
「ん?」
「食えない魚の影はさぞかし口惜しかろう。そんな風に暢気に眺める余裕など持てはせんだろうな」
 田沼は虚を突かれたように瞬きして、それから目を細めて笑った。
「そうかな」
 そして何かの答えを知っているような、やけに大人びた表情で問うてくる。
「目の前にあるのが食べられるものだったとしても、先生だってすぐに食べちゃうわけじゃないだろ?」
 私は鼻で笑って否定した。
「なにを言う。私は躊躇などせんぞ。すぐさまペロリだ」
 そうして答えてから、ふと閉口する。
 すぐにでもそう出来ると知りながら、泳がせている実に様々なものが頭に浮かんで。

 田沼はそれ以上の反論も追従もせず、ただ穏やかに私の頭をひと撫でした。それは宥めるというよりは、敬うような丁寧な手つきだった。
「頂き物の大福があるんだ。あとで一緒に食べよう」
 ゆったりと吹き込まれる甘い誘いに鼻を鳴らす。
「フン。あとでか」
 呟く私に田沼は微笑んだ。
「うん。もう少しだけ、あとで」

 私は何も言わずに、ただ少しだけ座り位置を修正した。
 田沼はそよ風のような控えめさで私を撫で続けながら、再び視線を上へと向ける。
 そこには相変わらずゆらゆらとゆらめく光る水紋。
 魚の影は思い思いに翻り、田沼の顔の上を悠々と横切っていく。
 
 この光る水面だけは、同じように見えているのだろう。こうして水底にいる限りは。
 どこよりも静かな場所の眺め。本当に、たまに立ち寄るには悪くない場所だ。素直にそう思う。

 すべては余暇に過ぎない。
 私がそのために様々なものを見逃しているように。
 田沼がそのために影だけの魚をじっと見つめているように。
 強かろうと弱かろうと、永かろうと短かろうと。今という時間は等しい遅さで身を過ぎる。
 それを知っているかのようなこの温い生きものの傍で過ごす一時は、無為で、虚無で、長閑で、静穏で、心地好い。

 田沼の言う「もう少し」が、あとどの位なのかは分からない。
 だがもうしばらくは、この景色に付き合ってやってもいい。
 今はまだ。時がもう少し、流れるまでは。