生きている体 - 8/10

 家に着いた時、既に陽は橙色に染まり始めていた。
 戸を開けて帰宅を告げるが、応えの声は無く、ひっそりと静まり返った家内からは物音ひとつしない。
 履物はあるが、急いた気持ちで足早に廊下を進む。
 まっすぐに向かったのは千寿郎の部屋ではなく、仏間だった。果たして千寿郎はそこにいた。兄の位牌がある仏壇の前、畳の上に疲れ果てたように横になって眠っていた。
 丸くなって眠ったその細い肩が、寝息で緩く上下している。その姿を見て槇寿郎にはようやく――帰ってきたのだという、実感が湧いた。

 緊張が解けた途端どっと溢れ出す疲労に脱力しながら刀を置き、その場に座り、仏壇を見る。手を合わせ報告した。全て終わったと。
 瞑目していると、不意に袖が引かれる気配があった。見下ろせば、目を覚ましたらしい千寿郎が床から言葉もなく呆然と槇寿郎の袖を掴み見上げてきている。
 ぽかんと口を開けている幼い顔を暫し槇寿郎も無言で眺めた。いくらでも見ていられる気がした。
 じわじわとその大きな目が潤むのを見て、手を差し入れ抱き起こしてやる。
 そのまま首に縋りつくように抱き着いてきた千寿郎の背を掌で支えた。
「……おかえりなさい」涙声が言う。
「……ただいま」素直に答える。
 千寿郎は首元に顔を埋めたまま謝った。
「お出迎えできなくてごめんなさい」
 槇寿郎は少し笑う。悔やむような声がぐずぐずと耳元でくぐもり、反省の弁を述べる。
「一晩中兄上に祈って……朝に戦いに勝ったという一報が来て……兄上に報告して……そのままずっと待っているつもりだったのに、一体いつ寝てしまったのか……」
「緊張の糸が切れたんだろ」
「でも、家に帰ってくるまで安心できません……」
「今したんだからいいだろ」
「……はい」
 確かめるように頬擦りされる。己の半端な髭で傷めるのではないかと心配になるほど温く柔い感触がした。
「お待ちしておりました、父上」
 槇寿郎は黙ってその頭を撫でた。

 暫くして身を離した千寿郎が、表情を不安に曇らせながら訊く。
「他の方も、ご無事で……? 炭治郎さんと妹さんは……」
「……色々あったが二人とも無事だ。妹は人間に戻った。反対に兄の方が一時鬼になったが」
「えっ!?」
「だがそちらも薬で今は人間に戻っているらしい。二人とも蝶屋敷に運び込まれた」
「そ、そうなんですか……」
 狼狽えつつ千寿郎はひとまず胸を撫で下ろした。
「すごい薬が出来たのですね」
「……本当にな」
「鬼舞辻無惨さえ倒せば鬼は全て滅ぶのだと、以前聞きましたが……では今この世の鬼は全て、無惨と共に死んでしまったのでしょうか?」
「まだ確認出来てはいないが……恐らくは」
 鬼は死ねば死体も残さず塵になる。不在を確かめることは困難だ。本当に鬼が滅びたのか、それはこれから時間をかけて証明される事柄になるだろう。
 千寿郎は俯き、呟いた。
「……人間に戻ることが出来ていたら……」
 虚を突かれる。思いもしない発想だった。
 槇寿郎は眉を顰めながら言う。
「鬼である時点で多くの人間を殺して食っている」
「でも、もしかしたら禰豆子さんのように、一人も人間を食べていない鬼も……」
「そんなものは居ない。あの娘は例外だ。無惨の血に耐性がある特別な血統だからこそ自我を完全には失わず、太陽も克服した。太陽を克服した鬼はこれまで一度も現れた例がない。人間を食わない鬼もまた同様だ」
 鬼の資質とまでは見抜けなかったにしろ、やはり竈門炭治郎は特別な人間だったのだ。選ばれた人間。
 千寿郎は悲しい顔をした。
「そうなのですね……。でも少なくとも炭治郎さん達のように、望まず鬼にされた人はたくさん居たんですよね」
「……そうだ。それまで仲睦まじかった親を、子を、伴侶を、自我を失い食い殺した鬼の例はいくらでもある」
「……かわいそうです」
 心を痛め俯く表情に、いつかの花柱を思い出した。
 その時と同じ答えを槇寿郎は返す。
「鬼になってしまった時点で救いはない。葬ってやるのが唯一かけてやれる情けだ」

 言いながら、ふと冷や水を浴びせられるような発想が過った。
 鬼になれば致命傷すら癒える。老いない、病まない、死なない生物になる。
 それゆえ迫り来る死を恐れ、鬼になる事を願う者も居るという。愚かな選択だ。人間であり続けたいと人間であることを棄て人間を喰う鬼畜に成り下がる。
 ――だが人間に戻れる道があるのなら?
 一度鬼になった人間を元に戻せる。そんな事が本当に可能なら。そんな薬があるのなら。
 ――杏寿郎が死んだあの時に、その薬があったなら。

 その空想を前に、槇寿郎はそれでも尚、己の中に確かな忌避感があることに驚いた。
 人を喰わず鬼でいられる方法が仮にあったとしても、喰う喰わざるとに関わらず、あってはならない蘇生であると。
 どれほどささやかで素朴な、ただ生きていて欲しいという無辜の願いの為であったとしても――鬼という呪いを利益のための手段にする事そのものが許されざる禁忌であるという感覚。

 やはり己は骨の髄まで〝鬼狩り〟なのだと思った。
 杏寿郎自身も、例えその利益だけを享受する方法が提示された所で望む事は無かっただろう。どれほど遺していく弟が心残りでも、その罪を犯してまで生きてはやれない。それはあってはならない罪であり、滅ぼされるべき禁呪なのだ。
 〝我々に〟してやれることは葬ってやることだけ。既に出ている結論に再び立ち戻る。
 その変えられぬ信念が、死地へ赴く曲げられぬ定めが、ただただ、その帰りを待ち続けてきた千寿郎にだけは申し訳なかった。
 鬼という存在を憎み、殲滅しか為せない煉獄家の炎柱として。家庭というものを守れぬ男として。

「……一般隊士は過半数が死んだ。柱も、冨岡と不死川の二名を残して他は皆死んだ」
 千寿郎は息を呑んだ。愕然とした呟きが落ちる。
「……二名? 甘露時さんは……? 伊黒さんは……?」
「……死んだ。無惨と戦って」
「胡蝶さん……悲鳴嶼さん、時透さん……」
 杏寿郎の葬式に訪れた記憶も新しい面々の名前を挙げる声に沈黙を返す。
 震えた声が言った。
「柱、でも……」
「……柱だからだ。柱程度の腕が無ければ、無惨や上弦の鬼の前に立っていることすら出来なかっただろう」
「そんな……」
「それでも、彼らは無惨を倒した」
 絶句する千寿郎に、槇寿郎はその目を見て言った。
「すまなかった」
 ようやく口にした謝罪の言葉。混乱したように見返してくる眼差しへと懺悔する。
「俺は無惨を倒せる未来の可能性を信じることが出来なかった。根拠は無くとも信じる、そういう強い想いを持てなかった。だが、俺よりも若い隊士が多く犠牲となりながらも力を合わせて悲願を果してみせた今、改めて俺は、俺の辿ってきた道を悔いている。何より、お前に申し訳ないと思う。……もっと、上手いやり方があったのではないかと」
「上手い……やり方?」
「ああ。俺があのまま腐らず、炎柱を続けていれば……ここに居るのは俺ではなく、杏寿郎だったのではないか」
 千寿郎は目を見開いた。
「お前に、杏寿郎を残してやれたんじゃないか。こんな俺ではなく。俺が責務を全うし……杏寿郎が引き継ぎ、すべて順番通りに……鬼のいなくなったこれからの平和な世を、お前たち兄弟が、二人で」

 ごちん、と額に衝撃が来た。
 頭突きされたのだと、少し遅れて気付いたのは、それがあまり痛くなかったからだ。
 以前竈門炭治郎にかまされた頭突きに比べれば猫の頭突きぐらいの衝撃しかない。むしろ頭突きした側の千寿郎の方が痛かったのか、両手で額を押さえながら、泣きそうな顔でこちらを睨みつけている。
 千寿郎に睨まれるのは初めての事だった。
 怒っている所を見るのも。

「……そんなこと、言わないでください!」
 苦し気な声で千寿郎は叫んだ。
「出来なかったんでしょう! 叶わなかったんでしょう! 僕だってそうです! 兄上に生きていて欲しかった……! 出来ることなら一緒にお供して、大した助けにはなれないかもしれないけど、盾ぐらいにはなりたかった! でも僕にはそれすら出来なくて……父上は出来たんですよね! 助けになるどころか、代わりに戦うことすら出来た! 貴方は強いから……! だからこそ叶えられたかもしれない過去が悔やまれてならないのでしょう! でも僕に言わせればそれは、傲慢というものです!!」
 立ち上がる千寿郎を呆然と見上げる。

 瑠火は厳しかったが感情を態度に出す事はなかった。杏寿郎はじっと問いかけるように見つめるばかりで責める言葉ひとつ向ける事は無かった。お館様も、静かに笑って見送るばかりだった。
 だが最も甘い態度ばかり見せていた千寿郎が、今はっきりと激昂し、真っ向から槇寿郎を責めていた。

「炭治郎さんは何度も謝って下さいました、及ばなかった実力を……兄上と一緒に戦えなかったことを。そしてお礼を言ってくれました。手も足も出なかったあの時の自分たちを兄上がお一人で庇い、命をかけて戦ってくれたから、今の自分があるのだと。だから必ず修行を積み、強くなって兄上の意思を継ぐと! 本気でそう言ってくれる人が居たから、僕も兄上の刀の鍔を炭治郎さんに託したんです! 炭治郎さんはその刀で戦って、勝ってくれました! 兄上も一緒に戦ってくれていたんだと思います! それに、薬が出来たのも兄上のおかげです! 上弦を初めて倒した時、炭治郎さんが諦めず戦えたのは兄上のおかげだって……その時に採ることが出来た上弦の血は、妹さんを治すために一番重要な血だったって、お手紙に書いてありました! 兄上はずっと、亡くなってからも使命を果たしていたんです! そしてそれは、兄上にしか果たせなかったことです! すごいことです! 父上には無理です! それを後になってから、こうしていたらああしていたらと後悔するのは間違ってます! その時出来なかったのなら、やっぱりそれは出来なかった事なんです! 仕方がないじゃないですか! 時間は戻ってはくれないし、先のことが分かりもしないのですから!」
 ぼろぼろと千寿郎の目から涙が零れる。そこに籠っているのは槇寿郎への非難以上に、千寿郎自身の悔恨の情である事が伺えた。

 杏寿郎が死ぬ前に、無惨を殺せる薬でも鬼を人間に戻す薬でもいい、どちらかが既に存在していたらと。しかしそれは杏寿郎が死ぬことで、初めて開いた活路だったというのか。
 あの兄妹が特別な人間なのではない。特別という結果を引き出すために、礎となった存在が居た。そしてそれは。
「途中のどこかが変わっていたら、それはもう今のようにはならないのだと……兄上が……命を落とされた皆さんが、最善を尽くした結果今があって……だとしたら、もう僕たちに出来るのは、これがきっと最良の結果なのだと信じることだけじゃないですか! そう思わなければ……そう思うことでしか……僕たちは、自分を許すことが、出来ないじゃないですか……」
 内に抱えていた葛藤と後悔を滲ませる慟哭に、槇寿郎は顔を歪めて、震える千寿郎の両腕を掴んだ。
「……悪かった。すまん、千寿郎」
「だから……どうして謝るんですか」
「愚かな事を言った。すまない」
「そんなの今に始まったことじゃないでしょう!?」
 泣きながら詰られて槇寿郎は思わず納得してしまった。案外怒ると容赦が無くなるのだなと思う。
「その通りだ。お前に酷いことを沢山言った覚えがいくらでもある。たまに手も上げた」
「父上はよく分からないです……ご自分は怒ると時々手が出るのに、他の誰かに僕がちょっとでも叩かれたりすると烈火のごとくお怒りになります」
「俺だけは別と思っていたからだ。どこの馬の骨とも分からん奴が手を上げたとなれば怒り狂う」
「勝手では……!?」
「そうだ。本当に自分勝手だった。この人間性を杏寿郎は瑠火が居なくなったせいだと思っていたようだが違う。元々こういう人間だったものを瑠火が真人間にしてくれていただけだ。俺は最低の父親だった。その自覚があるから、なおさら立派な兄だった杏寿郎の方がお前の隣には相応しかったという気持ちが拭えなかった。すまん」
「だからそういうことで謝るのをやめてくださいと言ってるんです!」
 千寿郎は憤慨の声を上げた。
「やっても仕方がないと思った事はとことんやらないのに、言っても仕方がないことはどうして言うんです! よくないと思います!」
「だがお前だって杏寿郎の方がよかっただろう」
「なんでそういうこと言うんですか!? 確かに兄上のことは大好きでした! この世でいちばん好きでした! 兄上と比べろと言われたらそりゃあ父上のことなんてきらいです! すぐ怒るし怖いし頑固で偏屈です! でもそれがなんだって言うんです!? 兄上ほど優しくしてくれなくたって父上だって替えのきかない大切な人です! いなくなったら困る人です! 比べられるものじゃないでしょう! それとも父上は母上さえいてくれたら僕はいらないんですか!」
「そんなわけないだろ!!」
「どうしてそこで怒鳴れるんですか!!」
 信じられないと言うように慄く千寿郎に言い返す。
「俺とお前は別だろう! こんな俺相手にも優しかったお前と違って、俺はお前の言う通りお前に優しくないし、多少マシだった時期すらお前の物心つく前までで良い所を見せたことなど一度も無いし」
「父上だってたまには優しいです! それに僕だって別に良い所なんて父上に見せた覚えは無いですが!」
 何を言ってるんだこいつはと思った。そっちに良い所しか無いからこっちは面目が無いというのに。
「昔の父上は素晴らしい人だった、いつか戻ってくれるって兄上はいつも仰ってましたが、僕はその頃の父上を知らないし僕の中では初めから父上は今の感じだったので、僕としては正直そうなんだ……と思うだけでした! だから昔と比べてどうとか僕に対して言われても困ります! ご自身の態度がよくないって思ったなら……謝りたいって、そういう気持ちがあったなら……僕が謝って欲しかったのは兄上に対してだけでした! でも、もう居ないじゃないですか! 僕に謝ったって仕方がないじゃないですか!」
 泣きながらの叱咤に、千寿郎の不可解なほどの寛容さは、初めからこういうものだと納得していたからだと知る。
 どこまでも情けない。槇寿郎は穴があったら入りたいと思った。
「……すまん」
「だから……!」
「杏寿郎に謝れなかった」
 分かりきった、揺るがぬ事実。もう遅いということ。
 行き場のない懺悔に、千寿郎はくしゃりと顔を歪めて、力の抜けた槇寿郎の手を腕から解く。そして、また抱きしめてくれた。
 慰めるようなその腕の中で、涙を堪えながら呻く。
「許してくれ……」

 千寿郎は、許すために怒っていた。
 だから槇寿郎も懇願する。厚顔無恥に。
 どれほど間違っていても、好ましくなくても、相応しくなくても。許して貰わなければならない。
 これからこの二人で、ずっと一緒に生きていく事になるのだから。

「……兄上はきっと、許してくれます」
 気勢も凪いだ元の穏やかな空気を纏い、千寿郎は懐かしむような声で囁いた。
「優しい方でしたから……」

 共に謝る立場であるかのような甘い言葉。
 しんと静まり返った仏壇が返すのは、線香から立ち昇る細い煙の揺らぎだけだった。

 鬼殺隊としての最後の務めも終え、胸に蟠っていた負い目も吐き出し、許され、項垂れる槇寿郎の腹が不意に鳴る。
 既視感を覚える状況だった。体を離した千寿郎が顔を覗き込み「お腹空いてますか?」と尋ねてくる。
 昨日からずっと何も食べていないと素直に答えると、千寿郎は「もしかしたらそうかもしれないと思って」と、すぐ出せるよう飯の支度をしていたことを告げた。
 気遣いに胸を打たれつつ、台所で千寿郎が飯を盛る横で「お前の作った和え物が好物だ」と何気なく言うと、目を剥いた千寿郎から「なんでそういうことはもっと早く教えてくれないんですか!」とこれまでで一番の口調で責められた。大変な秘密を作られたというような非難ぶりだった。
 よく分からないがまた怒らせてしまったと思っていると、その後出された膳では大根の和え物が山盛りにされていた。