後にはただ凪

 蝶屋敷に運び込まれた後、最も遅く意識を取り戻したのは冨岡だった。
 右腕欠損後に激しく動いたお陰で失血が酷く、炭次郎が自我を取り戻したのを見届けた後に気絶した。右腕を失った時点で本来は危篤状態であり、残った左腕で水の呼吸すら使って最後まで戦い続けたことは執念としか言いようがないと、見舞いに訪れた師の鱗滝に隠が話していた。老いた元水柱の手は、眠り続ける冨岡の頭を、目が覚めるまで何度も何度も労わるように撫で続けていた。

 足繁く毎日通って見守っていたのもあって、冨岡が目を覚ました時に気が付いたのも、やはり鱗滝だった。
 一頻り労いの言葉をかけられた後、炭次郎も既に意識は取り戻していると師から伝えられた冨岡は、言葉少なに「よかった」と呟いた。平らに凪いだ声に、滲むような安堵が乗っていた。

 覚醒の報を受けての診察が終わると、すぐに禰豆子と嘴平と我妻が転がるように病室を訪れ冨岡を囲んだ。それぞれ見舞いの言葉と、未だ立ち歩くには至らない炭次郎の長々とした伝言を我先にとまくし立てていた。三人とも、変事の際に誰よりも早く動いて炭次郎を止めてくれた冨岡にいたく感謝しているようだった。
 見舞いというには賑やかすぎる三人に、冨岡は声を落とせと諫めながら、そうか、そうかと同じ相槌をうち続けた。朴訥にも程がある反応だが、律儀に全て聞いてはいるということが重要らしく、三人は飽きもせず長いこと居座っていた。
 そのうち冨岡の体調を案じた鱗滝に促されまとめて退室し、その懸案は正しかったのか、冨岡は病室が静かになると、すぐにまた深い眠りに落ちていった。

 ずるり……ずるり……と奇妙な音が聞こえたのは、その夜半過ぎだった。
 何かが這う音は、さながら巷で流布する怪談話のような不気味さで寝静まった蝶屋敷の廊下に響く。
 そうして近づいてくる気配が実際に得体の知れぬものであったならば、本格的に怪異を疑わなければならなかっただろう。

 丁度少し前から目を覚まし、寝台でぼーっとしていた冨岡も、その音と気配に気付いて息を潜める。
 引きずるような音が止み、同時に、冨岡の驚愕の声が夜の病室に響いた。
「炭次郎……!」
「ぎ、義勇さん……」
 まさかという兄弟子の声に対して、死にそうな声で呼びかける炭次郎は、そのままずるずると重い足取りで這うように冨岡の寝台に近づいた。
 どうやら不気味な音の正体は、炭次郎が壁に凭れながら体を引きずるようにして移動していた音だったらしい。
 明らかにまだ出歩いていい段階ではない炭次郎の訪問に、冨岡は困惑した。
「一体何をしているんだ。まだ出歩く許可は出ていないだろう」
「す、すみません……義勇さんが目を覚ましたって聞いて……いてもたっても居られなくて……」
「抜け出してきたのか? 皆が寝入ったのを見計らって?」
「は、はい……」
 ゼェハァ言っている炭次郎はようやく寝台脇まで辿り着き、鱗滝が座っていた椅子に満身創痍で腰を落ち着ける。
「何故そこまで……あの三人にも伝言を頼んだんだろう。ちゃんと聞いた」
「わ、わかってます……でも、やっぱりどうしても、直接謝りたくて……」
「謝る?」
「お、鬼になって……周りの人を、殺そうとする俺を……義勇さんが必死に抑えてくれたと聞きました。本当に、本当に、ありがとうございました。義勇さんが気付いて、すぐ動いてくれなかったら……もし仲間の誰かを、この手で殺してしまっていたら……俺は、誰にも……本当に誰にも……顔向けが出来なくなるところでした……」
 声に涙が混じる。
 それは昼間の三人が、くれぐれも、くれぐれもと伝言に託されたと言ってしつこいほどに繰り返した内容だった。
 黙っている冨岡に、更に震えた声で炭次郎が続ける。
「そ、その時に……俺は、義勇さんを、鬼の力で、思い切り殴ってしまったと……眠っている間、ものすごく頬が腫れていたと、伊之助から聞いて……」
 これは伝言には無かった言葉だった。思わぬことを言われたというように、素っ気ない応えが返る。
「……起きた時には腫れは引いていた。今は痛くもない」
「でも、俺は……申し訳なくて……! 義勇さんに、俺は、本当に、数え切れない恩があるのに……俺は……! どう、お詫びすればいいのか……っ」
 湿り切った声での謝罪に、しばらく困ったような沈黙を返していた冨岡は、やがてぽつりと言った。
「……それを言うなら。あの時お前が、俺を庇ったことの方が酷いと思う」
「え……」
「あの、無惨を壁に縫い留めた時だ」
「……あれは……でも」
「お前に庇われて、死なせてしまったかと思った時も……お前がそのせいで鬼にされ、死よりも望まぬだろう在り様に成ってしまった時も……俺は生きた心地がしなかった。いや、そんなものは元々、していなかったのかもしれないが」
 また少し考え込んでから、冨岡は言葉を継いだ。
「姉にも守られ、錆人にも守られ……俺のようなものがずっと守られて、残されて、そうして生きているのは……俺よりずっと立派な人たちが先に逝ってしまう中で、まだこの世に、引っかかっていたのは……お前に繋ぐためだったのだと思う。それなのに、お前は俺をまだ後ろにやろうとした。俺はもしお前の妹が鬼として人を食ったら、腹を切ると誓った。お前は鬼になり、妹を噛んだ。……終わったと思った。よしんばお前をどうにか人を殺す前に殺せたとしても、俺があとやることは、腹を切るだけだった」
 淡々とした容赦のない言葉に、炭次郎が堪え切れなくなったのか咽ぶ。
「ううっ……すびばぜん……すみませんっ……ほんとうに……でも、でも義勇さんがいてくれたから、俺はこうして、ここにいることが出来てっ……義勇さんが生きていてくれるから、俺は、俺は」
「わかっている」
 静かに冨岡は言った。
「だから、いい」
 簡潔な赦し。
 凪いでいるが、しかし、その声は穏やかだった。
「俺はお前に助けられ、おかげで俺も、お前の助けになれた。お前は戻ってくることが出来た。鬼は、滅びた。だから、結果的によかった。もう俺は……お前に庇われた己のことを許せる。お前も同じことだ」
 もしかしたらその無風は、ある種の慈しさの顕れであるのかもしれなかった。
「お前も自分を許していい」

 少しの間、無理に抑えて引き攣れたような、ひっくひっくという呼気が続いたが、やがてそれも限界を迎えた。
「うっ、うぐう……ぎ、ぎゆうざん、……義勇さん……うあ゛ぁああ」
 派手に泣き崩れる炭次郎を、珍しく少し狼狽えた調子になった冨岡の声が咎める。
「シッ……うるさいぞ。声がでかい。不死川が起きる」
「すびばせ、ぅぉぁぁぁ」
 途中から寝台に突っ伏しでもしたのか、豪快な泣き声は布地に顔を押し付けたようにくぐもり、それでも結構な音量で病室内に響いた。
(……起きないわけねェだろ)
 一人胸中でごちて薄闇の中、悟られぬように一瞬だけ不死川は薄目を開け、やかましい兄弟弟子の方を一瞥した。
 予想通り、炭次郎は兄弟子の膝元に突っ伏して決壊したように咽び泣いている。窒息しそうなほど押し付けているおかげで音量は抑えられているが、ほとんど雄叫びと言っていい勢いでオイオイ泣いている弟弟子に、冨岡は未だかつて見たことがないような困り切った顔をしていた。
 所在無げに炭次郎の頭に置かれた左手は、撫でるような細やかさを見せるでもなく、ただ途方に暮れている。
 兄貴分というには頼りないその様子は妙に幼げで、不死川は鼻を鳴らして笑いたいのを堪え、再び目を閉じた。
 起きているとバレたらまた一悶着あるだろう。そんな面倒は御免だった。少なくとも今は。

 ――お前も自分を許していい。

 今はただ、妙にはっきりと胸裏に引っかかったその言葉の意味を、ぼんやり考えていたかった。

<終>