朝、少し遅れて顔を出した槇寿郎の顔を見ると、千寿郎はどこかそわそわとした様子で駆け寄ってきた。
「おはようございます!」
「……おはよう」
「あのっ、僕きのう眠れなくて、夜なべして手記を補修していたんです! そしたら些細なことかもしれないんですが、日の呼吸の……」
「千寿郎」
「はっ、はい?」
呼びかけた声の重さを感じ取ってか、千寿郎は目を丸くして固まった。
とりあえず立ってする話ではないと、既に朝食が並べられた食卓を横目に、畳の上に座る。千寿郎も困惑した表情で向かいに正座する。
「無惨を討つための大きな戦いが間もなく始まる。鬼殺隊の、最後の戦いになるかもしれん」
「え……」
「俺もお館様をお守りする為、護衛につく事になった。急だが、昼過ぎには発つ」
絶句する千寿郎に槇寿郎も黙り込み、しばらく場に静寂が流れた。
「……話を遮ってしまったが、お前の話は何だったんだ」
「……え? ……何でしたっけ……」
「……。」
呆然と呟く千寿郎を神妙に眺め、槇寿郎は箸を手にとった。
「……食べるか」
千寿郎もこくんと頷いて箸を手に取る。
「いただきます……」
「いただきます」
放心していても礼儀正しい千寿郎に倣って槇寿郎も手を合わせる。
万が一だが、最後の千寿郎の作った飯かもしれない。相変わらず、何を食っても美味かった。
準備といっても日輪刀があれば足りる。もしもの場合の遁走を考えれば隊服はむしろ悪目立ちする。袴に着替えると、槇寿郎はもう手にする機会は無いと思っていた己の日輪刀を、庭に出て抜いた。刀身は鮮やかな赤に染まる。
――無惨を倒せる。
不倶戴天の敵。それが斃れるかもしれぬという可能性を前に、心拍は上がり、呼吸が全身の体温を上げる。
しかし今この刃を赤く染めているのは、お館様だという気もした。千年越しの怨念がこれからこの世を変えようとしている。全ての隊士の恨みも、悲しみも、憎しみも、その大いなる呪詛に取り込まれ一つの塊となって。
失礼します、と沈んだ声が響き、千寿郎が部屋の障子を開ける。庭で抜刀している槇寿郎に、縁側まで来て尋ねた。
「何か、ご準備でお手伝いすることはありますか……」
「いや。刀だけ持っていけば済む」
「……そうですか……」
千寿郎は赤く染まった刀身を、眩しいような、不安なような、そんな表情で見つめている。
槇寿郎はふと、近頃やるようになった鍛錬でも、千寿郎の型の修正ばかりで自分の型を通して見せてはいなかった事を思い出した。何となく決まりが悪かったのだ。今更、という感じがして。
「千寿郎。これから準備運動がてら、炎の呼吸の型を通して見せる」
言うと、千寿郎は息を呑むような顔をした。
「この先使う機会が無くなったとしても、これまでこの家の者がずっと使い続けてきた由緒ある型だ。……よく見ておけ」
「……はい」
真剣な顔が頷く。
正座して膝に手を置き確と見つめられる中で、呼吸を深く強く体中に巡らせる。
「炎の呼吸、壱ノ型――不知火」
長年使い続けてきた型と刀は、それこそ息をするように身に馴染む。扱うのが久方ぶりだろうと変わらずに。
赤い刃の周りから立ちのぼった紅蓮の炎が視界を染める。
奥義に当たる玖ノ型『煉獄』まで、順繰りに九つの型を日の下でなぞった。
すべて終えて千寿郎を見ると、口をぽかんと開けたまま、思わずと言ったようにぺちぺちと拍手している。
何となく居た堪れない心地で剣を鞘に納めると、千寿郎はぽつりと言った。
「兄上の型と……とてもよく似ているけど、でも、全然違っているんですね」
「……そうか」
「兄上の型は速くて鋭い、切れ目のハッキリした感じでした。父上の型は、重くて後に残る……なんというかこう、薙ぎ払うみたいな勢いを感じます。お二人ともすごい迫力なのは一緒ですが」
「……そうだったかもしれん。いや、お前が言うならそうなんだろう」
炎柱となり完成された杏寿郎の型を、通してきちんと見てやった事などない。
千寿郎だけが両者を比較出来る。そしてそう言う千寿郎の型もまた、二人のものとは異なっている。
型はあくまで大枠なのだ。家も、肩書も。
揃いでそこに収まっていたからとて、人が違えばやはり内実も違う。
その枠である以上、出る結果は同じ無為の死のみであると思っていた。そして実際杏寿郎は死んでしまったが、しかし何を以て事を為したと見るか、それを決めるのは型では規定できぬ人の心だ。
一度でも確と見てやればよかった。杏寿郎だけが形作る炎の型を。
だが何もかも過ぎた悔恨だ。鬼殺隊は終わりに向かう。多くの人生を賭けて継承されてきた鬼殺の法の全てが無為と化す夜を招かんとして。
「俺は前線には出ない。出番があるとすれば、考えにくい事だがお館様の場所を知られた場合か……これから始まる戦いの結果、無惨を仕留め損ねた時になる。その場合俺はお館様を安全な場所まで逃がさなければならない。しばらくは帰れんだろう。だが、それは本当に最悪の事態だ。無惨を逃がした時点で終わりだと思うべきだろうな」
「終わり……」
不安そうに呟く千寿郎の頭に手を置く。
「何にせよ、夜明けには答えが出るだろう。じきに結果の報が飛ぶ。お前はそれまで、戸締りをしっかりして……」
続く言葉が、千寿郎の目から零れた涙で止まる。
泣くにしてはその予兆のない静かな表情だったので、不意打ちだった。瞬間的な悲しみというよりは、ずっとあった何かに気づいたような、落ち着いた沈痛がその面を染めていた。
「……父上。私の刀の色が変わらない理由が、いま、分かった気がします」
「……なんだ?」
「行って欲しくないと思ってしまっているのです」
槇寿郎は言葉を失くした。
「父上も、……兄上も……立派な炎柱で……鬼殺隊に必要な人だと、分かっているのに。どれほど尊い使命か、分かっているのに……」
己を恥じる千寿郎の透明な涙が、日の光を弾きながらきらきらと袴の上に落ちる。
「不心得者です。私は……大切な人がもしかしたら死んでしまうかもしれない、大怪我するかもしれない、……もう会えないかもしれない、……そういう所に行ってしまう事を……もう僕は……例え嘘でも……誇らしく、笑って、見送ることが……」
掠れていく言葉を受け止めるように、槇寿郎は千寿郎を抱き寄せた。
胸元に顔を埋め、嗚咽を漏らす後ろ頭を撫ぜながら「いいんだ、それで」と言い聞かせる。
「……お前は強い。己を恥じるな。千寿郎」
それは、己が言えなかった言葉だ。煉獄家では誰も言えなかった言葉かもしれない。だが少なくとも、己も言うべき言葉だった。
恥であると教えられ、恥をかくのを恐れ。望んでいながら口にせず、誤った態度で息子を孤独にした。
だが千寿郎には弱さを認め、涙を零せる強さがある。恥を忍んで素直に願える優しさがある。
己が口を閉ざした長く取り返しのつかない間、口に出来ずとも千寿郎は目で、表情で杏寿郎を想い、引き留め続けてきただろう。名残惜しんできただろう。
それがどれほど杏寿郎を救っていた事か。
己の生還へ妻がたった一粒零した涙に、槇寿郎がどれほど救われたか分からないように。
そして今懐を濡らす千寿郎の涙が、槇寿郎をどれほど救っているか分からないように。
「待っていてくれ」
掌の下の小さな頭に言う。
「お館様は、この戦いで永き鬼との因縁に決着をつけると仰っている。鬼殺隊の最後の戦いならば、煉獄家の果たす役割もまた最後だ。この役目を終えたら、もう俺はただ……お前のために生きる」
体を離し、不安に揺れる瞳を見つめた。
「お前の所に帰ってくる。その後はもう、どこへも行かん。お前の側にいる」
そう誓うことだけが、今出来る全てだった。
千寿郎は唇を噛み締め、涙を拭うと、掌を床につけてゆっくりと顔を伏せた。
「ご武運を、お祈りしております」
それは見惚れるように美しい一礼だった。
結果的に、無惨は耀哉様の戦略通りに斃され、槇寿郎は鬼の追跡から輝利哉様を庇いつつ先の見えない遁走を図るという大任から免れた。
だが無惨を倒し、極度の緊張から解放されたお館様が束の間の休息に入った後、一時は死んだものと思われていたあの竈門炭治郎が鬼として息を吹き返し現場が絶望的な修羅場と化した旨の急報が鴉から入った時は終わったと思った。
鬼になるだけならまだしも、太陽を克服した竈門禰豆子の血縁者だけあり、鬼の唯一の弱点である太陽をもその場で克服してしまったらしい。
眠るお館様と姉妹を別室に、槇寿郎と宇随と鱗滝三人で一足早い通夜のような空気になった。お館様を起こした所で最早どうにもならない状況だという事は分かりきっていた。
特に竈門炭治郎の育手であり、兄妹揃って面倒を見ていたという鱗滝の沈黙が重かった。かつて同僚だった時期と変わらず身に付けている天狗の面は表情が読めず、ただ息詰まるような心痛だけが伝わってくる。
例の研究によって作られた薬で事なきを得たという続報が届いても、安堵に脱力する槇寿郎と宇髄に対し鱗滝は微動だにしなかったので、死んだかと思った。実際生きてるのかと尋ねれば、膝を殴られたので無事と分かったが。
最後の最後まで波乱に満ちた、紙一重の戦いだった。
そして戦後処理に戻ったお館様の下に続々と届く、戦死者の報。
夥しい数だった。無限城に送り込まれた隊士の半分は内部で殺された。地上に出て来れた隊士も、挙って無惨の広範囲攻撃から柱を守るため肉の壁となって落命したらしい。その柱も、二名を除いて他は皆殉死した。以前己が助けた時は痩せ細った子供だったものを、鬼殺隊に入り柱にまでなった伊黒小芭内も。杏寿郎の継子から柱になった娘も。あれほど素晴らしい素質を持った悲鳴嶼も。胡蝶カナエの妹も。最年少で柱になったという十四の子供も。
更なる休養を勧める周囲に向かって、真っ青な顔で名簿の死亡者名に印をつけながら、お館様は首を振った。
「これは私の役目だ」硬い、しかし毅然とした声が言う。
悲哀を隠し切れぬその顔に、槇寿郎は彼の祖父を思い出した。繊細な印象がどこか似ていた。
死んでいった柱達と現お館様が直接言葉を交わす機会を持たなかった事は幸いだ。
昏い気持ちで、そう思った。
死傷者が全員搬送され、市街の封鎖も解いたという隠の連絡を受け、護衛の三人も現産屋敷邸から引き揚げる事になった。
本当にもう警戒を解いていいのか三者とも半信半疑だったが、脅威が残っているとすれば無惨の細胞を本体の崩壊前に取り込んだ竈門炭治郎を監視していれば足りる、というのがお館様の判断だった。
鬼から人間に戻った妹の経過も含め、監督の任は搬送先の蝶屋敷へ向かう鱗滝に託される。
護衛の任を労うお館様に畏まりつつ、三人は既に中天も過ぎた日の下へと出た。
現実感に乏しい終局だった。今がもう鬼の居ない世なのだと、言葉で理解できても実感が伴わない。
それは生まれてから一度も醒めた事の無い夢の終わりだった。
「アンタ、末の息子とちゃんと上手くやってんのか」
だからなのか、解散前の門前で宇随は鬼の事でも、鬼殺隊のことでもない、そんな浮いた問いを口にした。
槇寿郎は一瞬言葉に詰まる。上手いか下手かで言えば、上手くやれているわけがない。何もかも下手を打ってばかりいる。だが。
「……帰りを待たせてる」
答えになっていないその答えに、宇随は目を丸くしてから、笑ってバシンと背中を叩いてきた。
「なら、早く帰ってやんな」
「あまり苦労ばかり掛けさせるなよ」鱗滝もついでのように叩いてくる。
忌々しいが、過去の素行を知られているだけに言い返せる立場ではない。舌を鳴らして、槇寿郎は言う通り二人に暇を告げた。
