生きている体 - 5/10

 酒をやめようと思った。
 しかし意識のある間は常に飲んでいたようなものを突然断つというのは割と困難だった。いわば水中で生きていたのにいきなり陸上生活を始めるようなものだ。
 我慢する苦痛よりも、飲みたいという己の欲望自体に苛立つ。

 心頭滅却のため庭で木刀を素振りしていると、後ろから物を落とす音が聞こえた。
 振り返ると持っていた桶を落としたらしい姿勢のまま千寿郎が立ち尽くしている。幸い桶はまだ空だったらしい。
 千寿郎は口をぱくぱくとさせて動揺したように意味もなく辺りを見回し挙動不審な素振りを見せていたが、やがてハッとした顔になるとどこかへ走っていき、すごい勢いで戻ってきた。その手には木刀が握られていた。
「あの! ご一緒してもよろしいですか!?」
 槇寿郎は面食らい、少し黙ってから答えた。
「……好きにしろ」
「はい!!」
 張り切って隣に並んだ千寿郎が槇寿郎の素振りに合わせて一緒に木刀を振る。
 毎日鍛錬している千寿郎の素振りはよく見かけていたので、その形がしっかりと整っていることは既に知っている。
 しかし真剣に持ち替えれば直ちに岩が斬れる槇寿郎の振りに比べて、やはり千寿郎のそれには殺気や気迫が足りないのも確かだ。
 本人もそれに気づいているらしく、槇寿郎の振りに近づこうと力が篭り、どんどん動作が大振りになっている。
 しかし力強ければいいというものでもない。速さや技巧で力を補う剣士も居り、千寿郎もどちらかと言えばその類型に見えた。
 何にせよ鬼殺の道に進まなくとも、身を守る術としてある程度剣の腕を磨いておくに越したことはない。
 槇寿郎は素振りを一旦止め、千寿郎に向き直った。
「千寿郎。打ってこい」
「ええっ!?」
 狼狽えた反応が返る。
「一回打ったら一回受けろ」
「ち、父上の太刀を!?」
「手加減はする。来い」
 構えると、千寿郎は気圧されたように一瞬身を引いた後、表情を引き締めて木刀を構えた。
「やあっ」
 そのまま掛け声と共に槇寿郎の構えた木刀へ横向きにぶつけてくる。
「……何だそれは」
「えっ!?」
「木刀目掛けて打ち込んでどうする! 俺の頭をカチ割るつもりで来い!」
「えええ!? 危ないです!」
「お前のぬるい太刀なんぞ危ないわけがあるか!」
「うっ……!」痛い所を突かれたのか千寿郎は言葉に詰まる。
「本気で打ってきた太刀でなければ受ける鍛錬にならん。お前も同じだ。俺はお前を怪我させるつもりで打つが、絶対に怪我を作るなよ」
「そんな……!?」
「構えろ!」
 薙ぐように胴に向けて打ち込んだ太刀を、千寿郎は反射だけでどうにか受ける。しかし腰が入っていなかったため、両腕で受けても身体ごとふらついた。
「反応が遅い! 受けたらすぐ打ち込め!」
「は、はいっ!」
 今度は袈裟斬りのように斬りつけてきた太刀を片腕でいなす。
 そのまま上段から振り下ろした木刀を千寿郎は身を屈めてぎりぎりで受けた。
「次!」
「はいぃ!」
 悲鳴のような声で返事をしながら打ち込んでくる。
 急かしながら繰り返して速さを上げていく内に、一番自然な動きでなければ間に合わぬと頭より身体の方が悟ってきたらしく、硬さが取れていい太刀筋になってきた。
 しかしどのくらい続けた頃だったか、力の抜けた千寿郎の手から木刀が落ちる。
 しまったという顔をする千寿郎の脳天目掛け木刀を振り下ろし、反射でぎゅっと目を瞑ったその額に木刀が触れる寸前でピタリと止めた。
「終わりだな」
 荒く息を切らしたまま呆然と寸止めされた木刀を見ている千寿郎の頭に、コツリと木刀の端を軽くぶつける。
 ぽかんと口を開けた千寿郎は、やがてふるふると震え出した。
 しまった、泣くのか?と一瞬思ったが、千寿郎は両手を握り感動したように目を輝かせて言った。
「すっ、すごいです! 僕、今の鍛錬だけでものすごく上達した気がします!!」
「……大げさな。たった一回だろ」
「いえっ、本当に! すごい手応えが!」
 千寿郎は何がそこまで嬉しいのかというぐらいはしゃいでいる。前向きさに呆れたが、鍛錬が嫌いではないのだなと思った。毎日たった一人で試行錯誤して鍛錬を続けてきたその内心にあったものが、義務感だけではないとすれば救いがある。
 それにしてもあまりの喜びようなので、思わず笑ってしまった。
 千寿郎は驚いたような顔で一瞬固まった後、「もう一回! もう一回お手合わせ願えますか!!」と興奮した様子で木刀を構えてきたので、結局その後千寿郎が疲労に膝をつくまで同じことを繰り返した。

「父上もいかがですか」
 一度奥へ引っ込んだ千寿郎が水を持ってきた。素振りを止めて有難く一気飲みする。
 良く冷えた水は頗る美味いと感じたが、同時に物足りない気もする。
 既に禁酒にしんどさを感じてきてため息をつく槇寿郎に、千寿郎が俯きがちに尋ねてきた。
「あの……どうして父上は今になって鍛錬を? 何かに備えての事なのですか……?」
 思いつめたような顔に面食らう。若干気まずさを感じつつ槇寿郎は正直に答えた。
「え? お酒をやめようと? 飲みたくなる気持ちを断つために? 素振りを?」
 ぼそぼそと答える槇寿郎の言葉を丁寧に復唱した千寿郎は、どこか安堵したような表情で笑った。
「そうだったのですね! 己を律するために鍛錬するなんてご立派です」
「いや……」居た堪れない。
「でもまだ私はお酒を飲んだことが無いのでよく分からないのですが、ずっと飲んでいたものをいきなり全く止める、というのは大変というか……それはそれで、お体に負担があるのでは?」
 純粋に疑問だけを浮かべて千寿郎が言う。
 己の酒癖で最も迷惑を被ってきた筈の千寿郎からすれば、すぐにでも酒は止めてほしいだろうと思っていたが、案外淡白な反応だ。
「まあ……多少、あるだろうな」
「少しずつ減らしていけばよろしいのではないですか。お酒は百薬の長と聞きますし」
 呑気に微笑んで言われ、微妙な気持ちで訂正する。
「……それは飲兵衛の方便だ」
「えっ。そうなのですか?」素で驚いた反応が返る。
 何故これほど鷹揚なのだろうか。最早あまりの寛容さに目の前の息子が心配になってきた。
 千寿郎は少し考え込むと、思い出したように言った。
「では、飲むのは夜だけになさってはいかがですか。昼間からお酒を飲んでいるのは良くないと、昨日のお手紙にも書いてありましたし」
 柔らかい口調で言われた言葉が刺さる。確かに書いてあったし、確かにもっともな意見だった。
 良くないと言われていることを父親がしていた事実に、思う所は無いのだろうか。千寿郎の心の広さの果てが分からない。
「……じゃあ、家にある酒は全部、管理をお前に任せる」
「え」
 妥協案に千寿郎は目を瞬かせた。
「お前の許し無しには一滴も飲まない」
 決意の宣誓に、千寿郎は目を丸くした後、笑顔で頷いた。
「わかりました。基本は晩にお出ししますが、どうしても飲みたくなったらいつでも仰ってくださいね」
「……。」

 台所の隅にまとめて置いた酒瓶を、槇寿郎は憂鬱な気持ちで見下ろした。
『私にも、もう父上しかおられないのですから』
 小さく呟かれた千寿郎の言葉が、ずっと耳に残っている。

 居ない方がマシと言われる事の無い以上は、せめて少しでも今までよりマシな居方をしたい。でなければ――杏寿郎に申し訳が立たない。
 杏寿郎は年の離れた弟を何より大事にしていた。守り、励まし、褒め、慈しんでいた。親代わりどころではない、親以上の絶対的な庇護者として。

 千寿郎は暇さえあれば家の中をよく掃除していたが、いつも一番熱心に掃き清めていたのは決まって門前の周囲だった。
 時折何かを待ち侘びるように空に、通りに視線を投げる姿を、よく目にしていた。長い間ずっと。

 仲のいい兄弟だった。
 勇ましく、快活で、忙しない気性の兄は、優しく、柔和で、おっとりした弟が可愛くて仕方がないようだった。
『こんな私しか、もう父上には残っていないのですよ』
 ――俺の方こそ言いたい。
 杏寿郎はあまりにも出来た、理想的な、お前に本当に相応しい兄だった。
 お前の優しさを、労わりを、笑顔を向けられる資格を持つ、この世でたった一人の人間だった。

 晩飯と共に、千寿郎は銚子に入れた酒を猪口と共に持ってきた。
 見覚えがあるが何時ぶりか定かではない、それこそ瑠火が臥せる前に使っていたのが最後かと思われる酒器だったが、どこかに仕舞われていたのを引っ張り出してきたものらしい。
 千寿郎は槇寿郎に猪口を持たせると、どこかわくわくした表情で銚子を手にした。酌をしてくれるつもりらしい。
 息子に酌をされるなど初めてだったし、照れくさい気がしたが、明らかにやりたそうだったので黙って注いでもらう。千寿郎は何が嬉しいのか、にこにこしながら小さな猪口に酒を注いだ。
 深みのある色合いの猪口に揺れる酒精に喉が鳴る。
 縁近くまで満たされてもささやかなそれを、槇寿郎は一気に煽り、そしてあまりの美味さに呻いた。
「くっ……」
 反応を見て、千寿郎は感心したような声を上げる。
「本当にお好きなんですねえ」
「いや、別に好きじゃない」
「えぇ……?」
 自分でも無理があると思う否定に、千寿郎は困惑した声を返す。「でも、すごくおいしそうに飲まれているように見えますが……」
「確かに唸るほど美味い。しばらく間を置いた分なおさら美味い」
 丸一日以上飲まずにいるなど久しく無かったため、喉を通った酒が五臓六腑に染み渡る気すらする。
 千寿郎はもっと不思議そうな顔をした。
「おいしいなら、好きなのでは?」
「……だが美味いと思う自分が嫌いだ」
 千寿郎はぽかんとして、それから困ったような顔で笑った。
「ご飯も召し上がってくださいね」
 やんわりと言われ、大人しく箸をとる。
 酒にもよく合う、美味い料理ばかりだった。
 特に胡瓜の和え物が美味い。
 千寿郎の料理は大体美味いが、和え物の味付けに関しては今まで食ったどの料亭の品よりも美味いと思っていた。

 食後、千寿郎が手紙を抱えておずおずと槇寿郎の部屋を訪ねてくる。
「あの、父上。昨晩のお手紙へのお返事を書きましたので、確認して頂けませんか?」
「……お前に届いた手紙だ。俺が口を出せる立場ではない」
「でも、父上にも関わりのある事ですから」
 律儀に差し出してくる手紙を受け取り、正座する千寿郎の横で黙って目を通す。
 手紙には丁寧な文面で、気遣ってくれた事への礼と、申し出への断り、心配している父の生活態度も長男を喪った心痛に拠る所が大きく最近は改められている旨等が綴られている。
 槇寿郎は手紙を返しつつ、思わぬ養子の誘いを持ち掛けてきた親類への拭えぬ忌々しさから憎まれ口をきく。
「……丁寧すぎる。余計な世話だとだけ書いて送ってしまえ」
「そんなのだめです。もっと心配させてしまうじゃないですか」
 正論を言われ閉口する。千寿郎は安心したように「丁寧なら大丈夫ですね」と言って手紙を封じた。
「明日出しますね」
「ああ。……千寿郎」
「はい?」こちらを向く千寿郎から若干目を逸らしつつ問う。
「あの隊士……竈門君との文の遣り取りは続いているのか」
「炭治郎さんですか? はい、続いておりますが」
 頷く千寿郎に、自然重くなる口調で願い出る。
「……次の文を出す時は、俺の文も一緒に送ってくれ。詫びの手紙を、出そうと思う」
 千寿郎は驚いた顔をした後、顔を綻ばすと大きく頷いた。
「はい! 是非! きっと喜ばれます」

 喜びはしないと思うが。そう思いつつ、次の日筆をとった。
 千寿郎との手紙の遣り取りは既にあれから結構な回数を重ねているらしい。情報提供だけではない、最早単なる友人としての手紙でもあるのだろう。

 非礼を詫びる手紙は、自然と懺悔のような内容になった。こちらの詳しい事情など相手の知った事ではないとは承知しているが、己で認識している限りの正直な動機を述べる事が、示せるせめてもの誠意だった。
 炎柱の手記に関しても、姿を見た時から符号を見出していた痣の記述について書く。

 しかし痣の事が無くとも、何となくあの隊士には特別な感じがあるように思えた。強さ弱さといった事ではなく、端的に言えば、死ななそうに見えたのだ。鬼殺隊士にしては珍しく。
 勿論確信のある勘――例えばお館様のそれのような――では、全く無かったが。

 書き終えた手紙を、千寿郎が受け取り言う。
「炭治郎さん、父上のことも心配しておられましたから……僕も嬉しいです。お手紙を出してもらえて」
「……心配も何も、会った時のこちらは、同情の余地のない態度だったと思うが。……人が好いんだな」
「そうですね」千寿郎は穏やかな笑顔で同意する。「炭治郎さんは本当にいい方です。父上の申し訳なく思う気持ちも、分かってくださいますよ」
「……手紙、頼んだ」
「はい」
 微笑んで頷く千寿郎の部屋から、槇寿郎は重い足取りで去る。

 非礼を働いたあの隊士に、謝りたかったのは本当だ。しかし最も謝らなければならない相手は、どう考えても今他人への謝罪文を預けたばかりの、己の息子だとも思っていた。
 だが取り返しがつかない過ちを詫びた所で、それが何を生むのだろうという考えが安易な謝罪を躊躇わせる。
 それは己の気持ちを楽にするための、己にとってしか価値の無い、都合のいい言葉にしかならないのではないか。体よく許させようと強制する言葉にしか。
 会う機会の殆ど無い関係なら、蟠りは解いておくに越したことは無い。しかし千寿郎とは今までも、これからも、一番近くで継続した時を過ごす関係なのだ。
 そんな風にありふれた、すまなかったという一言だけで、あっさりと清算されるような罪にしてしまう事はむしろ――より重い罪なのではないかと。

 その自責の念は、二か月以上の間を置いて届いた竈門炭治郎の返信により一層強まった。
 上弦の鬼を倒したという。上弦の討伐に成功した例は、槇寿郎が知る限りでも長い間全く無かった。
 音柱の宇随天元と、同郷の三人の嫁と、竈門炭治郎含めた同期の三名、鬼化したという炭治郎の妹。八名掛かりで臨み、隊士の四人が半死半生の重体になったが、全員生還した。
 相手の鬼は性質の悪い毒を持っており、八人中三名は普通なら少なくとも死ぬ所だったが、鬼である妹の血鬼術で解毒が叶ったらしい。
 鬼が鬼殺隊内で容認されているという話を知った時、槇寿郎自身は信じられない思いだったが、今際の際に杏寿郎は人命救助に奔走した件の鬼を認め賞賛したという。炭治郎はその言葉に深い感謝の念を感じているらしいという事を、千寿郎が以前しんみりと口にしていた。

 特殊な条件が多すぎる。そんな風に都合よく鬼殺隊に都合のいい働きをしてくれる鬼など聞いたことがない。上弦を仕留めた上で、相討ちにならず全員生還するために必要だった要素の大部分が一期一会の運だ。
 しかしそれでも、杏寿郎が一人で夜明けまで戦い抜き命を落とした上弦相手に、数の力を集約すれば討伐に成功した上で全員生還を果たす事も可能だったという事実は槇寿郎を打ちのめした。
 最後に上弦を倒した記録は百年以上前。当時の隊士は複数名の柱を含めて何十人も犠牲になった。討伐に成功した柱は相手の血鬼術の性質に対し対策出来る技を持った唯一の隊士であり、討伐時に相討ちになって死んだという。遭遇したのが自分ならば相討ちすら叶わなかっただろうと、当時の炎柱が記していた。

 多くの人間を喰い、鬼舞辻無惨の血も濃い上弦の鬼。相対した者の死は必定なのだと思っていた。
 だがもしかしたら何処かには、杏寿郎が生き残る道もあったのだろうか。

 晩飯の席、二か月意識が戻らなかったが今は回復したという炭治郎の現状を心配した後、千寿郎は塞いだ表情で言った。
「今日、久しぶりに日輪刀を抜いてみました。……色はやっぱり、変わりませんでした」
 千寿郎との鍛錬は日課になっていた。素直で飲み込みが早い千寿郎の剣は、指摘するほど洗練されていっている。
 炎の呼吸自体、型に関してだけなら驚くほど様になってはいるのだ。杏寿郎から基礎的な部分に関しては手ほどきを受けていた上に、同じ指南書を読み込んで勉強もしていたらしい。
 鬼殺の法としてではなく、単なる剣の流派としてならば、十分相伝に適う見込みがあると言っていいだろう。実際に生物を斬るとなると、やはりそこに必殺の気合が足らないのも事実だったが。

 剣士は諦め、違う道を探す事に決めたと以前言っていた筈だ。しかし上弦の鬼討伐の報を聞いて、千寿郎にも思う所があったのだろうか。
 槇寿郎は黙って注がれた猪口を干した後、尋ねた。
「……入りたいのか。杏寿郎の居ない鬼殺隊に」
 言葉に詰まる千寿郎に重ねて問う。
「命を危険に晒してでも鬼を狩りたいか」

 件の上弦との戦いを終えて、宇随天元は一線から退くという。左目と左腕を失ったらしい。
 元忍という奇異な経歴ながら派手で荒々しい気性の宇随は、同僚だった頃の槇寿郎にもよく突っかかってきた。一度稽古で手合わせしボコボコにした事があるが、こちらも無傷では済まなかった。宇随の強さは本物だ。しかしあの頃から更に実力を伸ばしているであろうその実力をもってしても、上弦相手には五体満足で帰ることが出来ない。命が助かっただけで奇跡だ。
 況や、修羅場の経験に乏しい千寿郎などは――。

 千寿郎は暫し黙り込んで、銚子の中にある酒を全て注いでしまってから、沈んだ口調で答えた。
「……入らなければならない、狩らなければならないとは思います」
「入りたいか、狩りたいか、と聞いている」
「……わかりません」
 でも、と千寿郎は続けた。
「そんな自分が嫌いです。恐れなのか、自信が持てないせいなのか……入りたいと、迷いなく願わない自分が……それ以前に、入る事すら出来ない自分が」
 槇寿郎は何も言わず、今晩最後の一杯を飲み干す。どこかで聞いたような言い回しだと思いながら。

 捌け口のない感情は苦しい。
 心を蝕む悲惨に対して、慣れるまでの時間を過ごす術に乏しい子供たちに怒りという答えを、日輪刀という手段を与えて、向かって流れる出口を作ってやる組織が救う心も確かにあるのだろう。それが未だ見ぬ他者に起こり得る同じ悲惨を未然に防ぐことに繋がるというのならば尚更。理不尽な暴力から人命を救うその行いは、紛うこと無く正義であり善行だ。
 しかしその結果、子供たちの時間そのものは火花のように短くなる。その事を、例えばその子供を残し命を落としていった親、姉、兄――その中に、誰か一人でも望んでいた者があっただろうか。遺された子が、どうか少しでも永く生きるようにと望まない親きょうだいが。
 何も失っていない子供に対し、全てを失った子供の人生は確かにまるで違うものになってしまう。だがそれが即ち前者と違う人生の使い方に身を費やす道理にはならない。
 想いが永遠だと言うのなら、遺していく愛し子の命の永さを願う身勝手な親の想いも、兄の想いも、また永遠だろう。

「柱稽古というものが始まったそうです。炭治郎さんの妹さんのおかげで鬼の活動が止んでいる間、柱の皆さんが隊士の皆さんを鍛える事になったそうですよ。炭治郎さんも回復訓練が終わって参加中だそうですが、様子を聞いているとすごく何というか、楽しそうなような辛そうなような」
 また新しい手紙を受け取り、興奮した様子で話す千寿郎に「柱の連中が稽古をつけて、辛くしない訳がないだろ」と返す。
 不死川辺りの稽古は特にえげつなさそうだ。在任中、手合わせと称して挑んできたのを返り討ちにした時に、血走った目で己を睨み付けてきた狂犬のような顔を思い出す。
 悲鳴嶼も内心の得体は知れない男だが、あの尋常ではない鍛えようからして修行内容も壮絶さが約束されたようなものだろう。
 千寿郎は曖昧な笑顔で頷いた。
「甘露寺さんも伊黒さんもとても優しい方たちでしたが、稽古はとっても厳しいそうです。やはりそれぞれ柱になる方は、すさまじい研鑽を積まれておられるのでしょうね……」
 答えない槇寿郎に、何か思い返すように視線を落としていた千寿郎は、ふと顔を上げて口を開いた。
「兄上なら、どんな稽古をしたんでしょうか? きっと兄上も、……厳しく……」
 明るく、思い出のように言おうとして、笑おうとした千寿郎は――失敗したらしい。
 言葉尻が震えて、堪える間もなく、その目からほろっと大粒の涙が零れた。

 自分の身体の挙動に吃驚したように、千寿郎は呆然と目を見開く。
 そして動揺に目を泳がせ、焦りだすその頬に手を伸ばして、槇寿郎は無言で涙を拭ってやった。
 しばらく涙は後から後から零れ出た。
 どうしたらいいか分からないように、されるがままになっている千寿郎の涙で指が濡れていく。
 お互い無言のまま、槇寿郎は涙が止まるまで拭い続けた。槇寿郎も他にどうしたらいいか分からなかったからだ。

 あるいはこの冷たい涙も、義憤という熱を、復讐という捌け口を与えてやれば止まるのだろうか?
 そうさせてやるのが千寿郎のためなのだろうか。
 ――だが少なくともそれは、俺のためにはならない。
 槇寿郎の持っている道理はそれだけだ。親としての我だ。だがどうしても譲れない我だった。生きている限りは。