四十九日に法要を終え、納骨を済ませた。
今や瑠火に続いて杏寿郎も加わった煉獄家の墓を、千寿郎が丁寧に清める。
その立派な墓石にいくら視線を落とした所で、やはり槇寿郎にはどうしてもお館様の言うような捉え方は出来そうもなかった。石は石でしかない。石は見つめ返してくる事も無いし、呼び掛けてくる事も無い。瑠火の時と同様に。
世間では喪に服す期間の終わりとされているが、何一つ終わっていなかったし、終わっているとすれば既にずっと前から終わっていた。
しかし意識の上ではそうでも、実際は少しずつ苔が生すように、真新しかった悲愴は褪せていっているのだろうか。
最近は毎食、部屋で食べることはせず千寿郎と食卓を囲んでいた。そうすると千寿郎が嬉しそうにする上に、部屋で食うより飯が美味く感じる事に気づいたからだった。
ある日、買い物に行ってきますと一言断って出かけた千寿郎の様子が、どこか疲れたような様子に見えた事が槇寿郎は気になった。
思えば昨日もぼんやりと仏壇の前に座り、長いこと動かずにいた気がする。
千寿郎にも槇寿郎の把握出来ぬ社会があるとはいえ、また親しい人間に不幸があったという訳ではないと思うが。傍で見る限り悲壮感というよりは、ただ困っているような雰囲気に見えた。
しかし忌明けも間もなく遠出もしていない千寿郎に、頭を悩ますような新しい事件など起こり得るだろうか。
そこまで考えて、槇寿郎は千寿郎のもとに頻繁に届く手紙の存在を思い出した。
あの痣の隊士との文通は今も途切れず続いているらしい。もしかしたらその為の調べ物で行き詰まりでもしたのだろうか。
しかし修復しようとしている炎柱の手記はあくまで日記のようなものであり、技術的な指南書というわけではない。そういう用途の図書は杏寿郎が独学のため使った炎の呼吸の指南書だけだ。
何か手掛かりになるような情報など無かったように思う。そもそも、修復すると言ってもどこまでやるつもりなのか。どこまで進んでいるのか?
前に見かけた通りおそらく机の上に置いてあるだろうと、今日は閉まっている千寿郎の部屋の障子を開ける。
実際机の上には以前より修復の進んだ手記が乗っていた。地道に破けた部分を何とか判読可能な所まで貼り直していっている。
しかし槇寿郎の目は件の手記ではなく、その横に置かれたものに向いた。
何か書こうとして中断したように広げられた白紙と、閉じて置かれた手紙、封の開けられた封筒。
その差出人に書かれた名前が、母方の親類のものだった。鬼殺隊内部の者こそ居ないものの、藤の家として登録している事情に通じた家であり、瑠火の生前には家族ぐるみで付き合いのあった時期もある。納骨前にも当主が香典を持って線香を上げに来ていた筈だ。対応したのは千寿郎だが。
自分宛の封筒ではないかと思い引っ繰り返して表を見たが、手紙は確かに千寿郎宛だった。
かつて年始に杏寿郎と共に挨拶に行ってお年玉を貰う位の付き合いしか無かった千寿郎に、あえてこの時期に手紙を書くような何の用事があるというのだろうか。
胸騒ぎを覚えながら、隣に置かれていた中身に目を通す。
それは簡潔に言えば、養子に来ないかという誘いだった。
炎柱だった嫡男が亡くなり、酒浸りの父君と二人では苦労も多いだろう。この間聞いた話では炎柱を継ぐ剣士の道には進まないという事であるし、既に引退している父君にもその気が無いのであれば、こちらの家で面倒を見ようか。千寿郎にその気があるならば、お父上にはこちらから話をつけるから――というような内容が、子供向けに噛み砕いて書いてある。
読み終えた瞬間、灼けるような憤怒の情が身の内を焦がした。しかし何に対しての怒りかは分からなかった。ただ、己のものを盗られようとしているのだという感覚だけがあった。
そのままその場で立ち尽くしていた所に、玄関の方から千寿郎が帰ってくる気配がした。
既に陽は茜色に染まりかけている。鬼の世界になる前に、急いで買い物を終わらせてきたのだろう。
ただいま戻りました、と槇寿郎の部屋に声をかけている。しかし不在なことに気づき、そのまま足音は自室であるこの部屋へ近づいてきた。
そして襖を開け、微動だにせず室内に立ち尽くす父の背を前に、千寿郎は短く悲鳴を上げた。
「ひえっ、父上!? いらっしゃったのですか……」
驚きから胸を撫で下ろすような声に、ゆっくりと振り向く。
怪訝そうな表情で目を合わせた千寿郎は、ふと槇寿郎の手に握られた手紙に視線を落とし、凍り付いた。
「……なんだこの手紙は。いつ、届いた」
押し殺した声で問いかける。
強張った、か細い声がそれに答えた。
「そ、それは……一昨日、いえ、三日前に、私宛に届いたものです……」
「何故黙っていた?」
ビリ、と目の前で破りながら問う声が自然と地を這う。小さな体が竦み上がった。
「……っ、それは……」
迷うように視線が揺れる。言い淀む態度に、血が上った。
折れそうな手首を引き寄せ、手に余る両の二の腕を掴み、正面から覗き込む。
「出ていくつもりか?」
「ち、違います!」
千寿郎は怯えた顔で、しかし即座に否定の言葉を口にした。
「断りのお返事を書こうとしていたのです! 失礼にならないような書き方に悩んで、時間が掛かって……」
「嘘をつけ!!」
怒鳴ると、びくりと見開かれた大きな目が鬼の形相の男を映した。
「出ていくつもりだろう! 捨てるつもりだろう! この家を、俺を!!」
「そっ……そんなこと!」
「話をつけるだと!? 俺が認めるとでも思っているのか!?」
破れた手紙を握り締めながらの怒声に、千寿郎は一瞬言葉に詰まった後、辛そうに顔を歪めて言った。
「……父上が……そのお手紙を読んで、もし、私を手放すと決めてしまわれたらっ……そう思って……言えなかったのです!」
思いも寄らなかった理由を言われ、虚を突かれて槇寿郎は押し黙る。
「でも、どう書けばいいか、誰にも相談できなくて……」
心細そうに震えた声。その泣きそうな顔を前に、急速に頭が冷えていく。
――当然だと思った。
誰でも、他所へ行った方がいいと言う。こんな父親の許に居るよりも。
腑に落ちてしまった。……その通りだと。
張り詰めたような沈黙が暫く続いた。槇寿郎は、千寿郎の胸を力を入れず突き放した。しかし千寿郎も力が抜けていたせいか、軽い体は後ろによろめいてぺたんと尻餅をつく。
「……もういい」
絞り出して言った言葉に、千寿郎が呆然と反応した。
「父上、」
「どこへでも行け」
自身も力が入らず、その場で足を崩し座り込み、顔を覆う。
少し間を置き、千寿郎の震えた声が言った。
「どうして……」
そこに含まれているのは非難なのか、単なる驚愕なのか。
槇寿郎は理由ではなく、事実を口にした。
「……お前は自由だ」
煉獄家から、鬼から、呼吸から、日輪刀から――この父親から。
奪うばかりで何ひとつ与えないこの家に縛られずにいることが、唯一叶う子供。
叶えられるべきだ。その心は血と憎しみで踏み固められる呪われた煉獄の道を歩むには、あまりに優しい。
陽の当たる、長閑な、明るく輝いた道こそがその存在には相応しい。花の咲き、鳥の鳴くような、そんな幸福で幸運な道が。
沈黙が暫く場を支配した。やがて、抑揚のない口調で千寿郎が問いを口にする。
「父上は……私にどうして欲しいのですか?」
思わぬ問いに、顔を上げる。千寿郎はじっと、身の内を透かし見ようとするかのような眼差しで、ひたとその目を父親に据えていた。
胸が苦しくなる。
答えられずにいると、続けて違う問いが来る。
「父上は、私がここからいなくなっても、構わないのですか?」
頭が痛かった。言葉がうまく芯まで届かない。
本当に使わなければならない部分を上滑りしたまま、頭の理性的な部分が口を動かした。
「……俺が構うと構わないとに関わらず……お前には、ここを出て行く権利がある」
己の言葉に吐き気が込み上げた。
千寿郎は黙り込んでいる。
何を言うのが正しいのか、もはや槇寿郎には何一つ分からなかった。ただ一つ分かることは、俺だったらこんな男は絶対に見捨てる、という事だけだった。
不意に、千寿郎が呟いた。
「父上は、お可哀想です」
素朴な憐れみの言葉に、槇寿郎は呆然と幼い顔を見る。
それを口にしたのが瑠火ならば、惨めに思っただろう。
杏寿郎ならば、反感と憤りを覚えただろう。
だがそのどちらでもない、正しさや使命を湛えて己を見つめてきたことなど終ぞない、千寿郎という子供に言われたその言葉を、槇寿郎はどう捉えていいのか分からなかった。
千寿郎の眼差しはいつも、在りし過去も在るべき未来も求めず、ただそこにいる父を心配げに見守るばかりのものでしかなかったから。
「心強き母上も、立派だった兄上も居なくなってしまって……深く傷付いておられる。過酷な鬼殺隊で長年炎柱を勤めた、とても凄い方なのに……多くの人々を救ってきた方なのに……大切な人たちは皆、父上の前から喪われてしまった。苦しんでおられる姿を、ずっと見て参りました。千寿郎には言葉のかけようもありません」
――それは。
それは、お前こそが。
「でも……兄上も、母上も……優しいお二人は、きっと私たちの事をとても心配して、別れを惜しんで、それでも置いて行かざるを得なかったのですから、それはもう……仕方のないことなのです。お二人とも、帰ってきては下さらないのです。だから父上には、もう……この千寿郎しか、居らぬのですよ。何も持たぬこんな私しか……もう父上には残っていないのですよ」
ぽたぽたと涙を溢しながら、震えた声が諭す。自分の言っている言葉に傷ついているように。
言葉もなくその涙をただ見つめるばかりの槇寿郎の前に、千寿郎は破かれ打ち棄てられた手紙を丁寧に伸ばすと、畳の上へと置いた。そして折り目正しく姿勢を正して言う。
「私が居らぬ方が心が安まると仰るのでしたら、父上が追い出してください。この手紙の方に、父上からお返事をお書き下さい。千寿郎は父上のご意向に沿いたいと思います。私から承諾のお手紙を出すことはありませんから」
そして腰を浮かし、話は終わりとばかりに立ち上がった。見上げた顔は、涙に濡れてはいても存外落ち着いていた。それは取るべき態度を決めているが故か。あるいは、半ば諦めているのか。
ぽつりと呟くように、最後に千寿郎は言った。
「少なくとも私から、どこかに行くことはしません。父上に私しか残っていないように、私にも……もう父上しか居られないのですから。他に寄る辺など、あるわけがないのですから」
一礼し、一歩引いてその場を去ろうと背を向けかける腕を、手を伸ばして衝動的に掴んだ。
そしてこちらを向かせた千寿郎が何か言う前に、その細い胴を両腕に抱いた。
強く、一部の隙も無く抱え込んだ、その薄い胸に顔を埋める。
詰まる喉で、ただ一言だけ絞り出した。
「……どこにもやらん」
頭上から息を呑む気配がする。
決壊したように己が目から溢れ出す涙が、千寿郎の着物の襟を濡らしては染みていく。
「絶対にどこにもやらん……」
それだけを、まるで駄々のように繰り返した。
これほど情けない父親はこの世に二人と居ないだろう。
だが、今手を離してしまえば、本当に千寿郎はいなくなってしまうと思った。この父の前から。
必要な筈のものが無くなり、大きく欠け落ちてしまった今、残ったひと欠片だけが全ての要を成している。
――たとえ千寿郎にとって、己が必要でなくとも。
己には千寿郎が必要だった。どうしようもなく。
千寿郎はされるがまま、しばらく無言だった。しかし不意に、押し付けた頭が柔らかく抱き返される。
己を包む小さな身体は熱いほどに暖かい。
宥めるような囁きが落とされた。
「なら、お側におります」
微かに涙に掠れた、それでも安心させようとするかのような声色が、耳を打った。
「それなら、千寿郎は……ここにおります。父上のお側におります……」
守るべきはずの小さな身体に、何からも守るように胸元へ抱えられていた。
他人の温もりを感じるのはひどく久しい。脈打つ鼓動が、その血潮が生み出す熱が、寄せた額に伝わる。他に誰一人いない家にはそれ以外の何一つ動きがない。
あまりにも静かだった。それでも、他の何も必要ではなかった。
この世で唯一必要なものが既に腕の中にある。これ以上増やせるものは無いし、これ以上減らせるものも無いと分かっている存在が。
後にも先にも行く必要のない、涅槃のような時間が過ぎた。
暮れゆく部屋で、どのくらいそうしていたか分からない。
ひしと離さぬ己を、千寿郎も同様に飽きもせず腕に抱き続けていたが、不意に微かな、子犬の鳴き声のような音が静寂を破った。千寿郎の腹からだった。
思わず今までの今だというのに普通にその胸元に伏せていた顔を上げ、千寿郎の顔を見ると。千寿郎はやってしまったというように目を見開き、頬を羞恥に赤く染めていた。
目を泳がせ、所在無げな、か細い声が言う。
「……お……お腹が……空きませんか。父上」
