生きている体 - 3/10

 ようやく弔問客も落ち着き、家はひっそりとした元の空気を取り戻した。動かぬ槇寿郎と、細かに動く千寿郎の二人だけが共有する静かな煉獄の家。思えばもう長い間これが常態であった。違うのは、そこに不定期で帰ってくる杏寿郎の存在がもう無いという事だけだ。

 槇寿郎はここしばらく酒の買い出し以外は部屋に篭っていたが、さして動かなかろうが忌々しくも腹は減り、空腹の感覚は不快なので、置かれた飯は黙って食った。空になった膳を下げながら、毎回千寿郎はどういう気持ちでいたのだろう。

 あくる日、部屋の前の廊下に座して朝食の膳を置く影が、何か言葉を発する前に障子を開け放った。今まさに室内に声を掛けようと、小さな口をぽかんと開けたまま、大きな目を真ん丸にして千寿郎がこちらを見上げている。
「……今日は居間で食う」
 幼い顔から眼を逸らすように槇寿郎が短く告げると、千寿郎は動揺した様子で腰を浮かし、はい、とだけ上擦った声で返事した。

 フラフラする重い頭に、濃く味付けられた吸い物が殊の外旨く感じる。おそらく冷めても問題ない味付けにしているのだろう。
 無言で箸を進める槇寿郎をちらちらと伺いながら、千寿郎はどこかほっとしたような顔をしていた。
「おかわりは……」
 飯椀を空にしたのを見て、おずおずと申し出てくる千寿郎に、無言で椀を突き出す。
 返事くらいすべきだと思ったが声が出なかった。しかし千寿郎は僅かに顔を綻ばせ、両手で椀を受け取りながら明確に喜びの感情を滲ませた。千寿郎の笑顔をひどく久しぶりに見た気がした。

 冷めていないからか、やけに飯が旨く感じると思っていると、少し緊張した面持ちで千寿郎が言った。
「ご飯を炊く時の、火加減のコツを教えてもらったんです。あの……以前来て頂いた、竈門炭治郎さんに」
 苦い記憶が蘇り、箸が止まる。千寿郎はそれを見て慌てたように続けた。
「く、くれぐれも、父上に申し訳ないと伝えて欲しいと……お手紙に書いてありました。頭突きのこと……」
 脳天を揺らした、同じ人間の頭とは思えぬ硬度と威力を思い出す。酔っていたとはいえ不意を突かれたのは、彼の身体的な実力と、それだけ本気で向かってきたことの証左だろう。
 謝罪を受ける謂れはない。完全に醜態だったと流石に自覚している。
 頭突きの件には触れず、代わりに聞き返した。
「……手紙を遣り取りしているのか」
「は、はい。送る度、きちんとお返事をくれて……」答える表情が和らぐ。「こちらの事をよく気にかけてくださいますし、隊であった面白いことや楽しいことを、たくさん書いてくれるんです。ちょうど昨日もこちらからお手紙を送りました。お返事が楽しみです」
「……そうか」
 鬼殺隊と〝楽しいこと〟という言葉が容易に結びつかないが、思えば殺伐としていたのは柱合会議や現場だけで、下級隊士の頃は様々な人間が居たなと遠い記憶を思い出す。それこそ割のいい仕事か何かのように捉えている人間も珍しくはなかった。結局志の軽重は問わず、等しくいずれ任務をこなす内に途中で殉死するのが常だったが。死なずに除隊するのは大体がどこかしら欠損した者ばかりだ。
「あの……父上。その……」
 食べ終えたのを見計らって、千寿郎が言い辛そうに、しかし意を決した様子で切り出した。
「炭治郎さんは、お家に代々伝わっていたという〝ヒノカミ神楽〟について調べておられるのです。神楽として伝わった動きながら、剣の型として通用するものだそうで……父上が以前仰っていた……〝日の呼吸〟というものと、何か関わりがあるのではないかと……」
 ピクリと米神が引きつる。
 意思に関係なく出た反応に千寿郎は怯んだ反応を見せたが、ぎゅっと目をつぶり一息で言った。
「なっ、何でもよいので、何かご存知のことがありましたらっ、ぜひ教えていただきたいのでしゅが……!」
 気合が空回ったのか思い切り噛んだが、当人は気にする余裕が無いらしい。判決を待つような面持ちで答えを待つ千寿郎の顔を、槇寿郎は眉を顰めて暫し眺め、ため息をついた。
 毒気を抜かれて怒りが身の内に訪れなければ、代わりに湧くのはただ自己嫌悪だ。大人げないと、つくづく思う。こんな子供を萎縮させて何になる。
「……俺も型の中身までは知らん。ただその存在と、使い手についてのいくつかの記述を読んだだけだ。実戦で参考になるような情報は持っていない」
「そ……そうですか……」
 残念そうに肩を落として、それでもふと目許を和ませ千寿郎は礼を言った。
「教えて頂き、ありがとうございます」
 他意なく、本当に素直に感謝しているらしい反応に、胸の奥が軋んだ。知っているかと問われ、知らんと答えただけだ。何の有難味もありはしない。

 お粗末様でしたと微笑んで、どこか嬉しげに千寿郎が空の食器を片付け始める居間を、据わりの悪い心持で去る。
 千寿郎が少しずつ気力を取り戻しているのは、あの竈門炭治郎という隊士との手紙の遣り取りが慰めになっているのも大きいのだろう。
 青筋を立てて怒号をぶつけてきた憤怒の形相を思い出す。
『一体何なんだあんたは!! 命を落とした我が子を侮辱して、殴って!! 何がしたいんだ!!』
 真っ当な言い分だ。返す言葉もない。
 薫陶を受けたらしい杏寿郎を侮辱されたのに加えて、年端もいかぬ千寿郎が目の前で殴られるのを見て堪忍袋の緒が切れたのだろう。
 何一つ理解出来ないものを見る目で正面から糾弾する激しさは、正しく鬼殺隊向きの気性だった。鬼の所業に対してもああして怒りを燃やしているのに違いない。
 それは、槇寿郎の内では既に燻ぶった炎だ。惰性で何百と狩る内、いちいち怒りを抱くほど鬼というものに関心が持てなくなっていた。今の槇寿郎の赤い刃を支えるのは鬼への侮蔑だけだ。
 鬼はどこでも変わらない。等しく人間を食い荒らす害虫だ。無限に湧いてきては通り一辺倒に同じような言葉を吐く。珍奇な血気術による駆除の手間の多寡はあれど、結局こちらのやることも変わらない。斬って潰して焼くだけだ。
 そして人間の死ぬ原因は決して鬼だけではない。鬼のように、殺せば除ける原因の方が特殊なのだ。それも結局根絶は出来ない。
 己が除きたいと思った原因を除く力が己には無いと悟った時、何よりも己自身に関心を無くした。

 何がしたいのか、とあの隊士は言った。別に、何かがしたいわけではない。ただ何もしたくなかった。
 煉獄の家人として生まれた時点で、鬼を狩ることは望みではなく義務だった。個人的な怒りを抱く前に義憤が既に用意されていた。
 己の義憤は瑠火が支えていたのだろう。
 瑠火にとって義務という言葉は枷でなく思想だった。正義こそが義務であり、それを果たす所に意義は自ずと生まれる。そう強く信じている強い女だった。
 その火が消えた時、ようやく現れた己の個人的な怒りが課せられた義憤にそぐわなかったとして、しかし道は一本であり、既に戻れない以上は進むか止まるかしかない。
 己の内なる火炎は道を歩ませる正しいそれではなかった。周囲を照らさず、自分の内で燻ぶり、焦げ付いていく黒々とした邪炎だ。道そのものを呪うための。

 己の進まない道を進む息子に我慢がならなかった。
 親子といえど他者であると、自明の筈の理を見失うのは如何なる愚かさによるものか。違いは己への否定と捉え、己と違う息子を否定した。
 同じである必要など無かったと、気づいた所で遅い。在るだけで十分の、そして必須のものであったと――無くして初めて気づいたところでもう。
『いい加減にしろこの人でなし!!』
 その通りだ。最低の人でなしの屑だ。正しい嫁と、正しい息子に恵まれても、なお道を誤る救えない男。
 鬼への怒りが萎えたのは、鬼と人間の境がさして遠くないと気付いてしまったからだろう。

 自室に戻る途中、換気のため開け放たれた千寿郎の部屋の文机に、己がズタズタにした古い炎柱の手記を発見した。修復しようとしているのか、破れた頁を貼り合わそうと奮闘した跡がある。
 文通の理由に納得する。こうして集めた情報を手紙であの隊士に伝えてやっているというわけだ。
 兄の最期を見送った相手だからとて、そこまでしてやる義理があるのだろうか。一瞬そう考え、しかしすぐに、千寿郎という息子は他人へ親切にする上で義理を必要としない性格だった事を思い出した。
 それに、一方的に与えるばかりの遣り取りではないのだろう。
『こちらのことをよく気にかけてくださいますし』
 千寿郎の綻んだ顔を思い出す。
 己を気にかけて色々尋ねてくる相手が、今の千寿郎には必要なのかもしれない。
 失われた兄の代わりに――ふとそんな考えが過り、胃の腑が重くなった。

『これからは私が、皆の父となって鬼殺隊を導いていく』
 まだ甲高い子供の声が、敷き詰められた白玉砂利の庭に響き渡る遠い記憶。
 槇寿郎と同い年だった先代のお館様が自死し、現お館様が四歳でその任に就いたのは、杏寿郎がちょうど瑠火の腹の中に居た頃だった。
 集まってくれてありがとうと微笑みかける幼い子供は、既に“お館様”の相貌だった。鏡のような目で自身より遥かに年上の柱たちを見渡し、その心の奥までを映そうとしていた。そこに、実父の死という翳りが覗くことは終ぞ無かった。

 お館様が代替わりしたその時期、柱は数名しか居なくなっていた。厄介な血気術を持つ下弦の鬼に、多くの隊士も犠牲になったばかりか柱も複数喰われてしまったばかりで、それでいて柱に昇格する条件を満たす隊士もまだ間に合っていなかった。
 件の下弦の鬼は槇寿郎が討伐に成功したが、任務から帰った時、身重の瑠火が鬼殺隊に関することで初めて涙を見せたのを覚えている。
 使命による殉死を誉と考える妻の内にも、そういった卑近な類の涙が存在したことに槇寿郎は少なからず驚いた。冷涼な目許に光る雫を愛おしいと感じたが、瑠火はその涙――安堵を喜びとした事実を、恥じている様子だった。

 槇寿郎は鬼の首を刎ねて以来、もしあと少し討伐が早ければ、“お館様”は思い留まって下さったのではと密かに思わざるを得なかった。
 元々先代が、年若い隊士たちが命を落とし続ける鬼殺隊の構造そのものに心を痛めていた事は知っている。しかしその中でも柱は特に、お館様と相見える唯一の階級だ。直接言葉を交わした彼らが帰らぬ者となった事実が先代に与えた心痛は察して余りあった。
 もし一番初めに対峙した柱が己ならば。あるいは、散っていった彼らの敵を討てたという報告をお耳に入れる事が叶ってさえいれば、その心痛を幾許か癒すことが出来たのではないかと。その時の槇寿郎は本気で考えていた。

『墓は何のためにあるのだと思う?』
 先代のお館様の事までは言わないまでも、槇寿郎があと少し討伐が早ければと思っていることを幼いお館様は見通し、出し抜けにそう尋ねてきた。
 戸惑いつつ、その者の死を弔うために、と返した槇寿郎にお館様は微笑んだ。そしてこう言った。
『死んだ彼らと私たちが話をするためだよ。黄泉の国へ行った彼らは、現世での姿を石へと変える必要があった。墓石は形を変えた彼らそのものなんだ』
 慰めのための綺語かと思ったが、そんな素振りは見えなかった。
『想いは永遠だ。早さも遅さも無い。伝えたいことはいつ伝えてもいいんだよ。必ず伝わるのだから』

 本気でそう思っているのだと、次第に理解した。先代が気に病んで命まで断った夥しい死の意味、その価値が、新しいお館様には全く異なる在り方で現れているのだと。
 実際お館様は死にゆく隊士たちの名前をすべて記憶し、毎日墓参りを欠かさない方だった。そしてその事実ひとつで、鬼に一太刀も入れられず潰えていった命も、等しく報われた重さを得る事が出来るらしい。
 目まぐるしく代替わりして若返っていく各呼吸の柱たちは皆、そうなるのが定めのようにお館様を敬慕した。お館様はこちらが言ってほしい言葉を言って下さる、すべてを見通しておられるのだと、口を揃えて言った。本当の父のように思う、と。
 信じる者は救われるのだと、彼らの反応で知った。
 お館様の求心力はある種魔術的なものがあった。それは長じて成年の声となると一層力を増し、追随するように鬼殺隊も力を増していった。
 初めての柱合会議での言葉を、〝あの〟お館様は確かに有言実行したのだ。

 だが槇寿郎は、なし崩しに引退するその日まで、酒には酔えてもその心の在り方に酔うことは最後まで出来なかった。
 就任当時の柱が少なかったのもあって、槇寿郎は柱の中でもお館様と言葉を交わす機会が比較的多かった。
『煉獄家は産屋敷家と共に、鬼殺隊の歴史をずっと創り上げてきた一族だろう。一つの家系が、一つの目的のためその志を連綿と先の者へ手渡し続けている。私は炎柱である君の存在を非常に頼もしく、親しく思っているよ』
 畏れ多い言葉に恐縮する槇寿郎の剣技も、功績も、お館様は再三称えてくれた。
 それは槇寿郎の炎柱としての働きに報いる、価値ある言葉だったが、他の柱たちが言うように〝言ってほしい言葉〟だったかというと違う気もした。

 むしろそうした賞賛よりも、強く印象に残った会話がある。
 初めの頃、まさにこれから自身が父親になろうという立場の槇寿郎に、しかしお館様はいつもこう尋ねた。
『槇寿郎の父はどんな人だったのかな』
 見えぬ輪郭を思い描くようにその目は遠くを見ている。映したその輪郭を、なぞろうとしているのかもしれなかった。
 槇寿郎は答えに困った。任務で死没し前年に炎柱の後任を譲った父親がどんな人間であったか、改めて考えてみても一言では到底言い表せない。語り尽くせぬ諸々があり過ぎた。
 曖昧に答えを濁し、明確な回答を避ける遣り取りが続いた。しかし純粋に興味があるのか、いつまで経っても思い出したように尋ねてくる。
 ある時槇寿郎は、己の父の複雑な人となりでなしに、ただ己にとってどういう存在だったかを簡潔に答えることにした。

 あまり好きではありませんでした。
 その正直な、若干稚拙さが否めない回答に、お館様は僅かに目を瞠った。それから小さく、声を上げて笑った。笑うと初めて年相応に見えた。
 お館様の笑い声を聞いたのは、後にも先にもあれ一回きりだった。そしてその後同じ質問をお館様が投げかけてくることは無くなった。

 杏寿郎の葬式に際し、贈られた塊のような香典と共に、久しぶりにお館様からの文が届いた。杏寿郎の死に対しての弔辞という体をとりつつ、死を経過と捉えるお館様のそれは等しく簡素だ。己もすぐ行くから、寂しい思いをする事はない、と。
 杏寿郎もあの声に父を見ていたのだろうか。

 回顧しながら自室で湯水のように飲んでいた酒が、急に全身に回った。
 耳元でガンガンと鐘を撞かれているような前後不覚の悪酔いは、長年飲み続けてきた中でも覚えのない最悪の感覚だった。
 筆舌に尽くしがたい不快感に部屋を出て、荒く便所の戸を開ける。
 込み上げる嘔吐感のまま胃液を吐くと、己の肉体が己を拒絶しているような気がした。

 吐き続ける後ろから、不意に千寿郎が呼びかける声がした。そしてすぐに、小さな暖かい手が背を摩り始める。
 ただただ楽にしようという意図でもって慰撫される感覚は、この世の終わりのような心身の不快感を確かに紛らわせた。
 いつまでも終わりの無いような苦しさに、千寿郎もいつまででも甲斐甲斐しく付き添う。
 どういうつもりで、その子供の掌はこの身を労わるのか。
 親をやらない親などに何の価値があるのか。

 息を荒げつつも何とか復調し、ぐったりと座り込んでいると、千寿郎は小走りに一旦その場を離れて水を持ってきた。
 心配そうに差し出すそれを何も言えぬまま受け取り、一気に飲み干す。生き返るような心地がした。

 言い訳しようもない無様さに、暫し言葉に窮した後、結局「手間をかけた」の一言だけをようやく口にする。
 千寿郎は少し驚いたように目を瞬かせた後、何も言わずにただ微笑んだ。
 心配を滲ませつつも、ただひたすら労わりと優しさにだけに満たされた柔らかい笑顔。槇寿郎は座り込んだまま茫然と見入る。それは、誰とも似ていない笑顔だった。

 瑠火は元々あまり表情の変わらない性質だったので、笑う時も本当に微かに笑った。何か暖かい場に一時置かれ、束の間氷を溶かしたように涼しい目元と口元がふと緩む、そういう笑い方だった。
 杏寿郎は笑う時は明瞭かつ快活に、顔全体で笑った。文字通り煌々とした炎のような、明るく強い笑顔だった。
 各々にとっての理由で浮かべる、確固とした個の笑み。二人の笑みはそういう強さを持った、こちらと完全に離れた他者のものだった。
 しかし千寿郎の笑い方は。目を見つめて、そっと滲むように面に浮かぶ、灯るような微笑は――とても儚く、弱かった。
 他者として抱く、何の理由もそこにはない。異なる個であるという壁を形作る断絶がない。ただ槇寿郎のためだけに、心を映して笑いかけている。すぐ側で、息をするように、とても自然に。