あとは寝るだけという時間帯に、ボン、という少し大きな音が診療所に鳴り響いた。その後、しん……と不気味なほど静かになる。
消えた音が、意識しないほど絶え間なく響いていた低い暖房の稼働音だと分かっている俺は、嫌な予感と共に椅子から立ち上がった。
テーブルを挟んだ向かいでテレビを見ていた龍太郎も動揺したように立ち上がって訊いてくる。
「な、なんの音っスか? なんか爆発しました?」
「爆発ならもっと大きい音がする」
机の抽斗から鍵を取り出し廊下に出る。龍太郎は不安そうに後ろをついてきた。
診療所の奥まった位置にある扉に鍵を差し込むと、興味津々という声が後ろから響く。
「あっ、ここ地味に気になってました。鍵かかってるし扉小さいし。物置っスか?」
「違う。ボイラー室だ」
「へえ~! すご。病院っぽい」
まあこの診療所広いし天井高いっスもんね~、と暢気に言う声を聞きながらざっと点検する。
「……故障だな」
「えっ」
「元々メンテナンスの時期で、再来週に業者を呼んであった。持たなかったようだな。この雪で負担がかかったのかもしれん」
窓の外に目をやると、つられるように龍太郎もそちらに顔を向けた。真っ暗な夜を縁取るように窓枠に雪が溜まっている。甲高い風切り音がガラスを軋ませ、こうしている間にも隙間から忍び込んだ冷気が室温をみるみる下げているようだった。
「大変……っスね」
首を傾げつつ龍太郎が、よくわかっていない様子で言う。
「そうだな」
「寝る時って消してたんですか?」
「いや。冬場は基本的に24時間稼働させている。この診療所は冷えるからな」
「へえ~……」
「入院患者が居なくて幸いした。明日業者に電話してみよう。今時期は混んでいるだろうから、すぐ来てくれるか分からんが」
「えっ、じゃあ料理とか、風呂とかは!?」
「それは別の設備だから大丈夫だ。故障したのは室内の暖房だけだ」
「あ、そうスか……でも寒いのは嫌っスねえ……」
「……診療スペースには非常用のストーブがある。少なくとも日中は問題ない。点け方を教えるから来い」
「ハーイ」
診察室に戻り、普段は使用していない石油ストーブを出す。
操作を教えて、火を入れると赤々と燃えだしたのを見て龍太郎は無邪気に笑った。
「わ~あったけ~」
「起きている間はここに居れば凍死はしないから安心しろ」
「ハハハ。大げさっスねえ、凍死だなんて」
「就寝時は目を離すし、危険だから消さなければなるまい。部屋は寒いだろうが、まあ……布団に包まるしかないな」
「はあ。業者さん、早く来てくれるといいっスね」
暖房に手をかざしながら、他人事のようにぼんやりと言う龍太郎に同意する。
「……そうだな」
そしてもういい時間なので、点けたばかりだがストーブは消すことにした。
龍太郎も同意し、おやすみなさいと軽く挨拶して部屋に引っ込んでいく。
俺も自室に下がり、寝る前にインターネットからダウンロードした論文に目を通し始め、小一時間ほど経った頃にドンドンドンと部屋の戸がノックされた。
「入っていいぞ」
「失礼します!」
転がり込んできた龍太郎は身体に毛布を巻きつけ、さながら雪山遭難者の様相だった。
「あの! ヤバいんですけど! 冷蔵庫なんですけど!」
「……だろうな」
「ナメてたんスけど! 眠れないんスけど!」
「……そのようだな」
冷静に感想を述べる。
龍太郎の言った通り、診療所は広いし天井が高い。そして古い。
容赦なく隙間風が入り込む冬向けではない構造を、24時間フル稼働の暖房の存在でカバーしていた。それが止まればどうなるか。少なくとも要冷蔵のものを外に出していても全く問題ない室温となる。確かに冷蔵庫だ。
「他にちっちゃいストーブとか無いんですか!?」
「悪いが……ない」
俺も正直困っていた。俺は寒さは平気な方なので耐えられるが、龍太郎は別だろう。そして管理者として非常に心苦しいことだが、現在ここには龍太郎の急な越冬の足しになるような何かは、無い。
「先生は平気なんスか!?」
「ああ。俺はな」
「そっ……、そうスか」
そんなバカなと言いかけて俺をまじまじ見た後納得した気配を感じる。
「診察室に布団を……いやダメか」
ストーブの温もりが忘れられないのか、龍太郎は診察室に布団を運び込むことを一瞬検討したようだが自ら却下した。
確かに申し訳ないがあのスペースは土足エリアだ。遠慮してもらいたい。
「いっそ起きてるとか……いやでも眠たいし」
やはりストーブのことが忘れられないらしい。悩ましげに腕を組んで考え込む龍太郎に、俺は見かねて、深夜だが村井さんの所にでも連絡して泊めてもらう提案をしようとした。
しかしその前に龍太郎がもうこれしかないというヤケクソな表情で申し出てきた。
「じゃあもう先生のベッドに一緒に寝させてくださいよ!」
俺は発想に無かった提案に面食らって、少しの間沈黙した後、答えた。
「……構わんが」
構わんが、お前はそれでいいのか? 等、あらゆる疑問が浮かんだが、とりあえず結論だけ述べた。
「ヒィ~先生体温高ぇ~。助かる~」
隣に潜り込んで、ガタガタ震えながら暢気に喜んでいる龍太郎を不憫に思う。
それなりの期間預かってきてしみじみ思うのは、甘ったれた坊ちゃんに見えてその実この研修医はかなり打たれ強い性質らしいということだ。
根本的に、環境に対する期待値というものが低い。
「……思ったより冷えているな」
思わず確認もせず、すっぽりと抱え込む。
龍太郎は感謝するようにくっついてきた。
「あったけえ~。冬山で遭難しても、先生が居たら乗り切れそうスね」
「まあ……居ないよりはな」
龍太郎は可笑しそうに笑った。そして目を閉じて言う。
「ありがとうございます。なるべく邪魔にならないように寝ますから。オレ、寝相は悪くない方だと思うんで……。おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
龍太郎は本当にそのまま寝る体勢に入り、そしてあまり時間をかけずウトウトし出して、寝た。
なりふり構わず眠ったという印象だ。今日の往診先は遠かったし、急患も出た。眠たいと言っていたし、疲れていたのだろう。
もうその身体は震えていない。温まった身体は、逆に俺にとっても温かい。
毒気を抜かれた気分で旋毛を見下ろす。
整った姿勢で、静かな寝息を立てて眠る身体は、元々ベッドが大きいのもあって自己申告通り邪魔ではなかった。
俺の熱を借りてこじんまりと寝ている。
治療というわけでもなく、全くの健康な他人の身体が腕の中にじっと収まって眠っている状況というのは、不思議な感覚だった。
緩く上下する背中に手を当ててみると、規則的な落ち着いた鼓動が掌に伝わってくる。
――生きている。
なんだか、ひどく心地が好かった。
一応目覚ましはかけているが、いつも鳴る前に目が覚める性質だった。
今日も同じ時間に覚醒し、鳴る前に目覚ましを止める。しかし、いっそあえて鳴らそうかとも思った。
「……龍太郎。朝だぞ。俺はもう起きるが」
同じベッドで埋もれるように寝ているその背中を叩いて告げると、少し反応まで間があった。
「……先生って、早起きっスよね」
それだけむにゃむにゃと言って沈黙した。
どうやら起きるなら勝手にしたらいい、自分はまだ起きないが、という事らしい。
確かに普段、龍太郎は俺よりかなり遅れて起き出してくる性質だ。それに対して何か言ったことは無かったが。
布団をあえて半分剥いで身を起こすと、龍太郎が虫のように丸くなった。
「うう……寒いぃ……」
キンと冷えた室温に晒され、弱々しい声が漏れる。
その目を閉じた顔を俺はまじまじと見下ろした。
幼い顔だ。元々童顔だが、まるで高校生ぐらいに見える。何故かと思ったら、朝だというのに全く髭が生えていない。
確かに薄い体質の者も稀にいるとは思うが、それにしてもだ。
観察して、尋ねてみようか考えている間に、龍太郎がずりずりとずり下がって布団の中に舞い戻ろうとしていた。
主不在の部屋に残してまで惰眠を許すのはどうかと思ったので、俺はその身体を布団から出して縦にした。
龍太郎から情けない悲鳴が上がった。
業者に電話すると、やはり繁忙期らしかったが何とか週末には来てくれるらしい。
龍太郎はストーブに手を翳しながらその報せを喜んだ。
「やった~よかった。再来週なんて流石に死んじゃうっスからね」
出勤してきたイシさんと麻上くんが呆れたように笑う。
「やれやれ。都会育ちは大げさじゃな」
「だってストーブ焚いてる間はいいですけど、夜になったら冷蔵庫っスよ。いや冷凍庫っスよ」
「風邪ひかないように気をつけてね」
「いや~。何かこう、寝る時にあったかいアイテムとか無いですかね? 安全なヤツで」
「ウチに使っとらん湯たんぽが一個あったが。取りに来たら貸しちゃるぞ」
「マジすか!! お願いします」
その晩、帰宅するイシさんについていった龍太郎はブリキ製の湯たんぽを持って帰ってきて、そしてお湯を入れたそれを抱えて俺の部屋を再び訪ねてきた。
「湯たんぽとか使うの初めてっス」
いそいそと足元に設置してベッドに入り、「うわあったけー!」とはしゃいでいる。
特にまた部屋に来た事について何か断ったりしない所を見るに、一個しかないそれを自分だけ使うという発想が無かったらしい。
俺も別に異存はないので、何も言わずに寝床に入る。
「めちゃくちゃあったかくないですか? 先生湯たんぽ使ったことあります?」
「いや、無い。低音火傷に気を付けろよ」
「クールな感想スねぇ~」
「当然、温かくはある」
言い直すと、龍太郎は面白そうに笑った。確かに素っ気ない感想だった。
俺としては必要性が薄かったので、薄い感想しか言えない。
温かさという面で言えば、龍太郎の方が余程温かかった。
結局その週、龍太郎はもう寒さに対して文句を言うことは無く、寝る時間になったら俺の部屋に来て健やかに眠った。
布団の中のひとり分のスペース以外何も求めず、俺を熱源として利用し粛々と睡眠だけ摂って出ていくので、俺ももうそういうものだという気がしてきて慣れてしまった。
すぐそばで生きて呼吸しているだけなのに、それだけで役に立つこともあるのだなと思う。
業者が来る前の晩になると、龍太郎は布団の中で俺に言った。
「明日いよいよ業者さんが来ますね。お世話になりました。先生のおかげで凍死しないで済みました」
「いや。……俺もお前がいい湯たんぽになった」
素直に心境を述べると、龍太郎は可笑しそうに笑った。
そしてやはり素直な口調で感想を述べた。
「当たり前かもしんないけど、先生と一緒に寝る方が暖房よりあったかいスね」
温かいからか、よく寝る同衾者につられるのか、この週は毎晩いつもよりも深く眠った感覚があった。
そして龍太郎も俺の起きる時間に徐々に慣れたのか、毎朝少しずつ寝起きが良くなっていた。
布団から出ている頭部だけがひんやりとした朝の空気を感じ、他の部分はぬるま湯に浸かっているように温まっている。
もう最後と思うからか、ひどく布団から出難かった。
龍太郎は既に覚醒はしているようだが、相変わらず自分から起きようとはせず、目を閉じて微睡んでいる。俺が起き出して強制的にこの温さが断ち切られるのを待っているらしい。
聞きそびれていたことを思い出して、俺はその顎を撫でた。
龍太郎が不思議そうに、ゆっくりと目を開ける。
「お前は髭が生えないな」
寝起きの掠れる声で聞くと、龍太郎は眠そうな顔で小さく笑った。
「気になってました? ……ヒゲ脱毛ってのがありまして。都会には」
「ああ……。……流石に存在は知っている」
地味に田舎を揶揄われたので、あてつけるようにその頬を摩る。本当につるつるだった。
好き勝手触られていても気にせず、龍太郎は眠そうなまま言った。
「けっこー高いんですけどね……。学生時代オレは、オヤジに金をせびるのが趣味だったんです」
「……高品氏に?」
「はい。病院行って、院長室にアポとって、小遣いくれ~って」
「……」
反応に困り黙ると、龍太郎はくすくすと笑った。
「金をせびるのが先で、使い道は後で考えてるような始末で。ヒゲ脱毛は友達がやってて、オススメって言ってたからオレもマネしてやってみたんですけど。朝とかめちゃくちゃ楽だし、やってよかったです」
「……そうか」
龍太郎は俺を見上げると、お返しのように布団から手を出して、俺の顎をさりさりと撫でた。
「いいな先生。ヒゲも似合って」
真面目な顔でそんなことを言う表情と仕草が、あまりにあどけなく見えるので、何だかたまらなくなった。
顎を撫でる手を掴んで、布団の中に引き戻すと、龍太郎を抱え直して目を閉じる。
「え? もしかして二度寝ですか?」
期待するような声が尋ねてきた。当然龍太郎はまだ布団を出たくないらしい。
「……五分な」
「五分かあ……」
短いと思ったのだろう。複雑そうな声で繰り返したが、異は唱えてこない。
居心地のいい姿勢を探して少し身じろぐ身体を捕まえたまま、ぼそりと言う。
「暖房が直っても、肌寒ければ眠りに来い。……早起きが嫌じゃなければな」
返事には少し間があった。そして姿勢も何もなく、飛び込むようにぴたりとくっついてくると、龍太郎が言った。
「ここ最近は、嫌じゃないっス。早起きも」
嬉しそうな声だった。
俺は小さく笑って、束の間の惰眠を自分たちに許すことにした。
