急な電話に応じての往診から帰る途中、別の地区の往診から移動途中の龍太郎と出くわした。
山沿いに伝う細い道だ。俺が上り方向に歩いていると、ちょうど反対側の上り坂から歩いてきたらしい龍太郎が、俺の居る場所からはまだ少し先にある坂の頂点に顔を出した。しかし、龍太郎はまだ俺に気付いていなかった。顔を谷の方に向けて、眼下に広がる景色に見入っていたからだ。
陽光に照らされた田園風景と、地を覆うように生い茂る緑、遥か遠くに霞む山脈、雲の溶けた空の中を移動していく鳥の群れ。開けた視界。
龍太郎の視線を捉えている、俺自身にはよく馴染んだそれらの景色を認めた後、再びその横顔を見る。
それは異国を見つめる眼差しだった。
ぼうっと見とれながらも、自分がそこに訪れた異邦人であると確りと自覚している冷静がある。
例えばどこか名も知らぬような海の向こうの国でも、あんな風に美しい景色を余暇として目に楽しみながらも、どこか必要な場所へ黙々と向かっているその姿が容易に浮かんだ。
龍太郎には、独りが馴染む雰囲気がある。
不意に、そんな印象を覚える。
一也には重く定められた宿命があり、そして長じた後は宮坂君の存在があった。
宮坂君には隣に並び立つ一也と、生来の芯の強さ、道行きを応援してくれる家族の存在が。
富永にも同様に医者としての志の強さと、その帰還と成熟を静かに待っていた家の存在が。
譲介にはこの道へと導いた男の存在と、ようやく得たこの道そのものへの強い執着が。
この村を訪れ、そして巣立っていった者たち。彼らの背後、あるいは未来には、明確な誰かとの繋がりがあった。繋がりの延長線上にその歩みはあった。
しかし、引導を渡しても構わないと。医者の自覚に欠けた駄目な息子で、駄目な父親である己にはそれをどうすることも出来ないからと、ここに放されたその雛。
ここに来てしばらく経つ。休みは多くは無いものの、定期的にあった。それなりにまとまった休暇も何度か。
しかし、龍太郎は一度もこの村から出ようとしなかった。また、高品氏から連絡が来ることもなかった。
龍太郎が父親について、何かを語ったことはない。
だが距離があることは見ていれば分かる。その存在の中に、居場所を見出せていないことも。
彼は、何故医者になろうと思ったのだろう。
彼の後ろには彼を繋ぎ止める存在がない。
父親が言った通りだ。与えられた医師免許という資格、それが彼を今この道に繋ぎ止めているものの全て。それ以外にないのだ。だからこそ、彼の免許は重みを持たない。
それでは背後に何もないとして、この先にいつか何かが彼を繋ぎ止めるとすれば、それは何だろう。
今の彼は訪れただけの異邦人だ。
地に着いた足の下にはその実なんの根も張っていない。飛び立とうと思えば、いつでも飛び立てる。
この村は宿り木に過ぎない。
一陣の風が吹く。
頭上の樹木から、鳥がまとめて飛び去った。
辺りに響く羽音と囀りに、龍太郎の視線がこちらを向く。
目が合うと、僅かその目が見開かれた。
そして小さく崩れるように、柔和な微笑がその顔に浮かぶ。
夢の中で知己に会ったような他愛ない親しみを込めて。
その唇が「せんせい」と象られ、耳に届く声音の響きを、もうこの知覚は現在の現実の最も鮮やかな部分に据えているのに。
全ての往診を終えて診療所に帰ってきた龍太郎は、往診鞄を片付けながらテレビで流れていた天気予報を目にすると、残念そうな声を出した。
「明日雨かァ~」
横からイシさんと麻上君が声をかける。
「一日中降るみたいじゃな」
「残念ですねえ、せっかくお休みなのに」
「ハイ……」
しゅんとした顔をする龍太郎に、偶々診療所に顔を出していた村井さんが尋ねる。
「おや、どこかへ出かける予定でもあったのですかな」
「いえまあ、別に遠くへ行くわけじゃないんスけど。探検しようかなって」
「探検?」
「まあ、言ってみれば散歩っス。この村を行ける所までぐるっと」
「休みの日はいつもですよね。探検してきま~すって」
「どこに行っとるんじゃ、毎回毎回」
「行ったことない辺りとかー、往診の途中で気になった所とかー、まあ色々っス」
「ほっほ。元気ですな」
「そんな見て楽しいモンがあるんか、この村に」
「ありますよぉ。景色キレーだし」
「でも、雨の日はさすがに行かないでしょう?」
「そっスねえ……まあゆっくりゴロゴロするだけでも休みは満喫出来ますけど」
「それがええ。山の辺りなんかは、土砂降りになったら何があるか分からんからな」
「そうですよ。無理は禁物ですよ」
「ハ~イ。ゆっくりしてまーす」
素直な返事が子供のようで、傍で聞きながら密かに忍び笑いを漏らした。
翌日は、予報通り雨だった。午前の外来も閑散としていて、予約の数名に対応した後は誰も居なくなった。
別室に資料を戻してから診察室に戻ってくると、イシさんと麻上君が何事かを話し合っていた。
戻ってきた俺に気付くと、二人は少し心配そうな顔で声をかけてきた。
「K先生。高品先生ってお出かけしたんでしょうか? 今日まだ姿をお見かけしていないんですが……」
「朝食にも起きてこなかったから、てっきり寝てるんだと思っとったが。もう昼近いしのう」
「いや。……まだ寝てるんだと思うが」
「え。こんな時間まで?」
「子供じゃあるまいし、そんなに寝るかの? ……いや、アイツなら寝そうじゃな」
「だったらいいんですけどね。昨日イシさんも仰ってましたけど、この辺り結構土砂崩れとかありますから、ちょっと心配で」
「……見てこよう。だがおそらく寝ている。朝食時にも覗いたが、やはり寝ていたからな」
なーんだ、とほぼ安心した様子で脱力している二人を置いて、龍太郎の部屋に向かう。
「龍太郎。入るぞ」
部屋の前で一声かけるとすぐにドアを開けた。
果たして、龍太郎はやはりまだベッドの住人だった。
ドアを閉めてベッドの傍まで近付いても全く起きる気配なく、健やかに寝息を立てている。
よくそこまで寝続けられるなと、呆れ半分感心半分で見下ろした。
まあ、普段の疲れも溜まっているのかもしれない。寝溜めはあまり良くないとされているが。
窓の外では相変わらずしとしとと雨が降り続けている。
そのために室内は昼だというのに薄暗い。
絶え間ない雨音は無意識の内に入り込み聴覚を麻痺させる。閉ざされた四角い空間は、時間が止まったかのように静かだ。体力の限り寝続けてしまうのも仕方がないのかもしれない。
なんとなく立ち去り難く感じた。患者も居ないことだし、出しっぱなしだった椅子に腰をかける。そうして、机に肘をついてベッドを見下ろした。
薄い掛布に包まって眠る姿は、繭のようだった。
そこからはみ出ている踝の浮いた細い足首が妙に寒々しく見える。
緩く弧を描いた長い睫毛、顔の横に投げ出された指先の爪の形、骨ばっていない均整のとれた身体つき。清潔感の漂う端正な肉体はどこか育ちの良さを感じさせた。
そう、環境は豊かだった筈だ。黒々とした髪も、整った歯並びも、艶のいい肌も。端々から、大事なものとして保全されてきたのであろう特有の毛並みの良さが滲んでいる。
であるのに、あくまでその存在は、どこかに存在していればそれで良かったのだろうか。
あまりに目の前の存在は身一つだ。ただここにいて、他のどこにもいない。
で、あるならば。
今ここにいるこの身で、その全てであるのならば。
雨は予報通り、まったく止む気配を見せない。
龍太郎が夢から目を覚ます気配も未だない。
往診もなく、探検にも繰り出せず、この部屋のこの白いベッドに龍太郎を閉じ込めさせたこの雨を、この一時を、不意に僥倖と思う。
すぐそこにいるだけで、こんなにも現実は鮮やかだ。
俺はずっとここにいる。
お前もいればいい。ここが気に入ったのなら。この道を悪くないと思っているのなら。ずっと。
異国のように、夢の中のように今は不確かな足場かもしれない。それでも居続ければ、やがては根も張るだろう。
今のお前にとって一番近い他人はおそらく俺だ。
であるならば。このまま居ればいいのだ。
今の俺にとっても一番近い他人はお前だ。俺はそれを、不意に訪れた僥倖と思っているのだから。
