ヤドカリの憂鬱

 酒井さんは穏やかな人だった。研修医のオレの拙い診察も落ち着いて聞いてくれて、帰りの時にもう一度丁寧にお礼を言ってくれた。
 検査をいくつかしたので、全ての工程を終えた今は既にけっこう日が傾いてきている。低くなった陽射しに照らされたその背を見送りながら、午前中にも同じように、帰っていく滝沢さん一家の背をこうして見送ったことが頭に浮かんだ。
 仲睦まじそうな家族だった。一歩間違えば、あの家族の団欒が壊れていたのかもしれないと思うと、あの時本当に引き返してよかったと思う。

 そういえば、とふと思い出す。
 初日のあの日、この診療所から帰り損ねて。いきなり助手についたオペで、患者さんの胸に穴を開けてしまって。
 オレの代わりに頭を下げる先生を見て胃がぎゅっとなった。あの患者さん……光造さんが退院するまでは、帰れないと思った。
 そしたらその間にあった滝沢さんへの往診で、ああいう事になって。光造さんは退院したけれど、滝沢さんの退院を見届けるまでは、やっぱり帰れないと思った。
 そしてその滝沢さんが今日、無事退院したわけだけれど。
 
 時間というのは重さだなと思う。過ごせば過ごすほど、その時間が背中におぶさっていって、どんどん動けなくなっていく。
 とんでもない所だと、誰にも歓迎されていないと。あの時点ではそう感じた時間の方が圧倒的に多かったから、動きやすかったのに。
 今は暖かい所だと、色んな人が応援してくれると。そう感じた時間の方が圧倒的に多くなってきて。
 

 陽が落ちたら先生以外の人は皆診療所から自分の家に帰っていく。イシさんの作ってくれる飯は本当においしい。おいしすぎて毎回感動してしまうので、敬意を込めて毎日イシさんが帰る時は見送っている。
 消灯した診療所はほぼほぼお化け屋敷だ。宛がわれた自分の部屋に入って、周囲をぐるりと見回してみた。
 さっぱりした、寝る為と勉強する為だけの部屋。ここに持ってきた荷物はカバン一個。全部まとめても出ようと思えばすぐに出られるほどの量しかない。
 そのことを少し憂鬱に感じる。

 手ぶらで部屋の外へ出た。廊下を抜けて、玄関から屋外に出てみる。
 診療所の前には座るのにとても手ごろな切り株があり、ここに来た初日から辛くなる度に座らせてもらっていた。既に愛着が芽生えている。
 腰掛けると、やんわりと吹いてくる夜風が気持ち良かった。山が近いからだろうか。都会の夜よりも涼やかだ。
 この切り株に座ってスマホでも弄ろうかなんて思っていたけど、なんだか手が伸びず、ぼんやり膝に肘をついて森の方を見る。真っ暗な、街灯一つない、木で出来たトンネル。あの日通り抜け損ねた道。
 そこから吹いてくる微風をただ顔に受けていた。と、背後からゆっくりと足音が近づいてきた。
 何か声をかけてくるかと思ったけれど、足音は何も言わずに隣まで来てしまう。

 何しに来たんだろう。
 疑問に思いつつ、顔だけ上げてその人を見上げる。
 無言でこちらを見下ろすその人と目が合った。
 こんばんは、とでも言った方がいいだろうか。十分くらい前に顔を合わせたばかりだけど。
 この人がどういう人かまだイマイチよく掴めないので、距離が測り辛い。よっ! とか肩を叩いてくるフランクなタイプの指導医じゃないのは確かだ。
 それに今はもう就業時間外だしな。いわばプライベートタイムだ。何話せばいいんだろう。
 
 そんな風に横着して結局何も言わないで見つめ合っていると、相手の方が口を開いた。
「……大分ここには慣れてきたか」
 静かな声だった。低くてよく響く声。優しくも冷たくもない。淡々と深い、そんな生真面目な声。
 問われたので、首を捻って少し考え込んでみる。慣れ。慣れるって何だろう。
 そこに馴染んでくること。そこの情報が自分の中に溜まっていくこと。そこから、出辛くなっていくこと?
 それは、そうかもしれない。
「……ハイ。多分」
 率直に答えた。
 先生は、ちょっと満足気な顔をした。今日酒井さんの診察が終わった時みたいな。
 その時の、モヤモヤが晴れてウオオってなった気分を思い出して、オレもちょっと笑う。
 そして静かに深く息を吐いた。

 まだオレは、あの木のトンネルを潜ることが出来るだろうか。
 洞のような暗がりの向こうを見つめた。少しの憂鬱さを感じて。

 そう、多分もう、無理かもしれない。
 そこまで、取り返しのつかないほどここでの時間が積み上がっているわけじゃない。
 それでも、多少なりとも重みを持ったそれらを振り切っていくほどには、向こう側で積み上がった時間も重くないのだ。
 結局どこにでもすぐ行けるぐらいの重さしかない。あのカバン一つに入るぐらいの。

 だったらもう、ここに置いておけばいい。
 もしかしたら入りきらないような何かが増えてしまうかもしれないけれど。
 その時はその時だ。
 
「この切り株、好きなんスよね」
 オレを励ましてくれるこの貴重な切り株の価値を共有したくて言ってみた。
 先生は切り株をじっと見下ろして言った。
「……確かにしばしば座られているのを見かけるな。よく、何かに思い悩んだような奴が座っている」
「あ~わかります。そういう切り株っスこれは」
「……何かに思い悩んでるのか?」
「そりゃまあ、色々と」
 先生が黙ってしまった。
 オレは伐られる前はさぞかし立派な樹であったのだろう大きな年輪を撫でて、ふと聞いてみた。
「先生はあります? ここ座ったこと」
 少し考える間があった後、先生は言った。
「無いな」
「アハハ」
 面白くて笑ってしまった。確かにこの人は座らないだろうなと思った。