あたらしい処世術

「お前を手放し……ここへ送り出した時、お前の親はいかなる心持ちだったか……察するに余りある——」
 師の言葉に、龍太郎は俯いた。
 立ち会った初めてのお産を前に、その大いなる愛情を前に、龍太郎は自分の両親を重ね合わせていたのではなかった。
 この世には、こういった世界があり得るのだと。感じているのはそういう圧倒だった。
 自分たちの赤子に、ありったけの無償の愛と祝福を示す母親と父親の姿。
 完成された幸福。
 それが、現実であることに圧倒されていたのだ。

 自分の親もこうだったのだと思うことは、正直出来ない。そして実際、この通りではなかったのだろうとも思う。彼らと赤子の関係が、今の龍太郎と両親の関係になることはまずないだろうから。
 けれど、こうなっても良いことではあったのだと思った。ひとりの人間がこの世に生を享けるということは。
 その尊さは普遍的だ。だから、実際に態度として尊ばれていることを当然と思う心理もまた必然だろう。

 それで良いのだと、龍太郎は思うことにした。
 結果としての現実がどうあったか、それは問題の本質ではないのだ。
 龍太郎はただ、目の前で生まれた赤子が、命をかけても守ると両親から愛情を注がれる存在が、無条件に祝福されて欲しかった。
 そうされるべき存在であり、だから当然そうされるのだと。何の疑いもなしに。
 そしてそれを信じるためには、例外があってはならない。
 イシさんの一喝の真意を、龍太郎は改めて理解する。
 これから出逢う他者の未来が祝福され得るためには、己の祝福もまた信じなければならない。それだけのことなのだ。
 あの赤子の誕生が彼ら両親にとっての祝福であったように。
 きっと己のそれにも、例外なく普遍的に、この世でたったひとつの命への確かな待望があったのだと。
 薄くでも、浅くでも――ほんの僅かでも。

 *

 梅の花の香りだろうか。
 外から帰ってきた龍太郎の柔らかい髪に引っ掛かっていた色鮮やかな花弁を、指で摘んで取り除く。散り際の木の下で、のんびり歩いてでもいたのだろう。
 鼻腔を掠める快いそれを感じながら、一人はふと思いついて尋ねた。
「数日だけでも、顔を見せに帰らなくてもいいのか?」

 摘ままれた花びらを見て、少し恥じらうように後ろ頭を撫でてから、龍太郎はふっと口元を綻ばせた。
「いいんじゃないですか?」
 適当にも聞こえる返答に、一人は渋面を作る。
 反対に龍太郎は笑みを深めた。
 どこか、さっぱりとした微笑だった。
「少し忘れるぐらいの方が、きっと次会った時にありがたみが出るっスよ。多少は」

 一人は言い返そうとして口を開きかけたが、結局やめた。代わりに、呆れたように呟く。
「親の心子知らず、だな」

 それを聞いた龍太郎は、緩く目を伏せて笑った。
「知らない方が幸せかもしれないでしょ」

 穏やかな声音だった。どこか、諭すようでもあった。