無辜の謝意

 私の命はどうなってもいいから、と願う声が頭から離れない。医者は、その願いを叶えなければならない。まるで神に祈るようなその願いを。人として。
 でも龍太郎は、どうか娘と孫を助けてくださいと祈る親御さんの言葉に足がすくんでしまった。

 ――先生があの時来てくれなかったら、どうなっていただろう。

 暮れゆく日を眺めながらぼんやりと考え込んでいると、背後の扉が開いた。
「そろそろ晩飯だぞ」
 あの時龍太郎を金縛りから解放した声がかかる。
「あ、ハイ……」
 呆けた返事を返すと、先生はそのまま部屋に入ってきた。
 そして龍太郎の隣に並んで尋ねてくる。
「……疲れたか」
 薄暗い中にぼんやりと浮かび上がる横顔を見上げてから、龍太郎はまた窓の外に視線を戻す。赤々と照っていた陽はほぼ山際に隠れ、空は群青色に色づき始めていた。
「……ありがとうございました。帰ってきてくれて」
 思わずぽつりと礼を言うと、先生はまじまじと龍太郎を見て、それからフッと笑った。
「怖いと思うのは、それだけ責任を重く感じているからだ」
 そして後ろ頭をポンと優しく叩かれる。
「今はそれで良い」
 その優しい感触に龍太郎は目を見開いた。そしてふと、今朝同じ後ろ頭を全く違う勢いで叩かれた事を思い出して、破顔した。

「どうした?」
 忍び笑う龍太郎の表情に目を留めて一人が尋ねると、龍太郎は打ち明け話をするようにこう言った。
「オレ……今日の午前中、イシさんに怒られたんです」
 思わぬ報告に一人は片眉を上げる。
「ほう。何かしたのか?」
「正月オレが帰ったのかどうかって話になったんですよ。それで、オレの親は、多分オレのことを持て余してたんだと思いますって言ったら、パコンと叩かれて。自分の子供がかわいくない親なんて、どこの世界にいるんだって」
 思わぬ発言に目を瞠る一人の顔を見上げて、龍太郎は微笑む。失敗を申し訳なく詫びるような顔で。
「うまく言えないんスけど……確かにあれは、怒られるべき発言だったんだなって今は思います。それが本当でも、本当じゃなくても、関係なく」

 一人は暫し沈黙した。
「……そうか」
 そう口を開くと、またポンポンとその後ろ頭を撫でる。
「今日はよくやったな」
 それだけを今はただ伝えた。

 龍太郎は面映そうに笑う。そして、もう一度小さな声でポツリと呟いた。
「ありがとうございました」

 それはおそらく、ひとりの母親とひとりの赤子を助けてくれた者への素朴な礼だった。人としての。