長くこの村で医者をやっているためか、急患が出る可能性が高い日と、低い日が何となく分かる。そして、その勘は結構な確立で当たる。
流石に村の外から掛かってくる依頼電話の有無までは分からない。そこまで分かれば千里眼だろう。しかし村の中の様子については、具体的にどこという定義は出来なくとも、おそらく兆候があるのだ。突発的なイベントの有無や、その大小、内容、あるいは天候。村の人が話す内容から読み取れるちょっとした環境の変化。
医療に直接関係があるとは思えないような些細な要因のすべてが、複合的なインシデント要因になり得る色を帯びているかどうかを無意識に読んでいるのだと思われる。
いつ頃からか、言わば村の空気とも言えるようなそれが危ういと感じた日、龍太郎が診察室から離れないことに気が付いた。
俺は電話が診察室のデスクにあることもあり、当然診療が終わった後もほぼ常に診察室で過ごすが、龍太郎はいつも決まった行動をとるわけではない。基本的には同じ空間にあるテーブルで勉強道具や資料を広げていたり、テレビを見ていたりすることが多いが、日によっては部屋から出てこなかったり、ちょっと外の空気を吸ってくると言い出すこともある。
そして目の届く所にいない日は、ほぼ確実に、急患が出る可能性が低いと俺が感じた日に限っていた。
おそらく龍太郎もここで村の皆を診ている内に、俺と同じものを感じ始めているのだろう。
そうであってもおかしくないと思う。龍太郎は実に村の皆をよく見て、よく知っていた。医者としてそう在ろうとする誠実さから努めてそうしているというよりは、無意識に目に入ってくるというような自然さで。
俺があえて触れずにいるような事も、龍太郎は世間話としてあっさりと口に出して尋ねる。その結果、俺でも知らなかったような個々の事情まで把握していたりする事も少なくない。
無私に他者の事情に没入することを、己に課した義務としてではなく自然の癖のように行っているのが龍太郎という人間だった。
その振舞いには全体の職分としての未熟さに反して、長く勤めてきた者だけが自然と行う態度を既に身につけているような奇妙なアンバランスさがある。
得た情報の結果によって行動選択をする際も、そう己に強いるというよりはぼんやりと流れに従うようで、やはりそこに積極的な決意といったものは欠片も窺えない。
本人に問うても、曖昧な表情で「なんとなく」としか言わないのだろう。
龍太郎がじっと診療室にある窓から外を見ている。どう過ごす日であれ、龍太郎はよくこうして窓の外を確認していた。天候を見ているのかもしれない。そして今日は、急患の可能性はまず低いであろうと感じられる、穏やかな夜だった。
「先生。オレちょっと外の空気吸ってきます」
振り向いた龍太郎が笑顔で言った。
就業時間後は、急患が出ない限りは自由時間だ。そして最近、龍太郎はこう断って外に出ていく頻度が増えていた。
長時間留守にするわけではない。ちょっとという言葉通り、本当に小一時間程度で戻ってくる。
いつもは気を付けろと送り出していた。しかし、今日はふと、違う言葉を口に出す気になった。
「いつもどこへ、何しに行っているんだ」
我ながら不躾な問いだった。
人にはそれぞれのパーソナルスペースがある。その問いは、他者のそれに相対する普段の俺の感覚からすればまず口にしない範囲の質問だった。
しかし、今日の村はあまりにも穏やかで。
同じ空間から龍太郎が居なくなった後、この診療所に流れる時間の暇さを思うと聞かずにいられなかった。
龍太郎はちょっと照れたように頬を掻きつつも、あっさりと答えた。
「空がきれいなんで~、ボーっと星を眺めてるんス」
思いも寄らない回答に、鸚鵡返しに呟く。
「星」
「そうっス。いいっスよ~、星。ここからあんま遠くない場所に、最高の観賞スポットを見つけまして。今日みたいに天気がいい日は、もうホント隙間がないぐらいメチャクチャ見えるんですよ。全然飽きないんですよ。やっぱ田舎ってすごいっス」
「ほう……」
身振り手振りでその良さを伝える龍太郎に、俺はいつもの椅子に背を預けながらぼんやりした相槌をうった。
感心しているのだが、何か気の利いたコメントがうまく思い浮かばない。
そんな俺を見て龍太郎は微笑むと、何でもない事のように言った。
「先生も来てみます?」
目を瞠る俺に、楽しそうに続ける。
「よろしければご招待するっスよ。そこ、診療所までの一本道が見えるんで、誰か患者さんが来たら分かるから安心なんです。今のところは誰も来たこと無いっスけど」
俺は少し考えてから聞いた。
「……いいのか。秘密にしておかなくて」
龍太郎はきょとんとした後、笑った。
「勿論です。でも、先生はとっくに知ってる場所かもしれませんね」
言う声は優しげで、来ることも、来ないことも、等しく俺に許していた。
「普通にこっからでも見えるっちゃ見えるんですけど」
診療所の外でそう言いながら、龍太郎は木々に覆われた一本道に入った。
来た当初は熊に怯えていた道だが、何度も繰り返した往診ですっかり慣れたらしい。
真っ暗な人通りの少ない夜道である事に変わりはないので無警戒過ぎるのも考え物だが、今それは言わずにおく。
道がまだ村道に出る前の途中で、龍太郎がスマホのライトをつけ、横に外れて木々の間に入った。
「この先、なんか通れるんスよ」
確かに外から一見すると他の木の周りと大差なく、とても先に行けるようには見えないが、一歩入ればそこだけ奥まで地面が踏み固められて通りやすくなっている。
「昔、この奥で伐採作業をした名残かもしれんな」
「あ、そうかも。この先行くとそんな感じっス。こっから上り坂なんで気を付けてください」
言いながら、ライトの灯りを頼りに真っ暗な道を進んでいく。
龍太郎が研修の日々の合間、独りで付近を探検し、この抜け道を見つけ、時折通っていたのかと思うと不思議な印象を覚えた。
当たり前だが龍太郎にも龍太郎の世界があるのだ。目の前の他者に関心の全てを割き、自分への関心は誰にも求めない無私の態度でも、本当に私が無い筈もない。
「ここっス!」
弾んだ声で示した地点は、思いの外診療所からそう離れていなかった。
それなりに急な坂の上で、かつ少し窪地になっているため、そこだけ最も強い光源が空しかない暗い空間になっていた。その結果夜空の明るさが浮き立ち、夥しいほどの星が視界一面に映っていた。
「……すごいな」
素直な感想が零れる。
「でしょ? で、座るのに丁度いい倒木もあるんスよ」
一足先に座りニコニコと勧める龍太郎に従い、一人分離れた隣に腰を下ろす。
そこから視線を下にやれば診療所と、一本道の村道への合流地点が遠くに目視出来た。
「そういえば一度、お前が外に出ている間に書置きを残して診療所を出たら、道の途中で戻ってくるお前と鉢合わせたことがあったな」
「あ、ハイ……。先生が診療所から出てくのがここから見えたんで、慌てて戻ったんです」
「フ……成る程な」
「外出る時は絶対ここにいるってわけでもないんですけどね。でも寒くなってからは特によく来てます。空気が澄んでるからか、一層キレイに見えるんですよ。今日は雲が少なかったから格別っスねー」
膝の間に両手を挟んで温めながら、楽しそうに空を見上げる様子はリラックスしていて、普段からそうやって過ごしていることが窺い知れた。
「……ここまでよく見えるとは思わなかった」
「先生視力いくつスか?」
「両目2.0ある」
「それはバッチリ見えますねぇ〜」
「無限に見えるな」
「先生、星の大きさとか宇宙の距離とかの解説見たことあります? 木星のデカさとかヤバいんスよ結構」
「ああ。アレだろう」
指差すと、龍太郎が頭を寄せてその方向を確認しながら意外そうな声を上げた。
「え? アレなんスか?」
「多分な」
「へえ〜。覚えとこ」
「好きなのか。天文学が」
「学、ってほど本格的な興味ではないっスけどねぇ。でも雑学程度の宇宙の話は好きっスよ。なんつーかこう、オレなんかが右往左往したって、宇宙のスケールから見たら砂粒にも満たないちっちゃな出来事に過ぎないんだよな〜って思ったら、ちょっと安心するっていうか」
「……そういうものか?」
「だってですよ、今ここからこうして見えてる星も、例えば一万光年離れた星の光なら一万年前の光なわけでしょ。それはもしかしたら九千年前に爆発してて、実はもうとっくに無くなっちゃってる星なのかもしれないんスよね。でもオレにそれを知る術はないわけです」
「確かに」
「結局オレはオレに見える範囲の星を眺めるしかないし、それだけでも実際こんなに数え切れない。そういうことを思いながらボーッと星を眺めてるのが、いいんスよね。なんか落ち着くんです」
「……高尚な趣味だ」
「アハハ。ありがとうございます」
龍太郎は冗談のように笑ったが、俺は本気で感心していた。
そんな風に他者をまったく介在しない個の世界で、世界に楽しみを見出すことも確かに出来るのだと。この村の中でも。
その思考を読んだように、龍太郎が言った。
「だから、ここで研修させてもらって、初めはどうなることかと思ったけど……いや、実際研修医としてはどうともなってないかもしれないっスけど。生活的には、案外平気でした。楽しいっス、それなりに」
「……そうか」
「ハイ。むしろオレ、前の……オヤジの病院だと、他の研修医のみんなと上手くコミュニケーションとったり出来なくて。別にみんながどうとかじゃなくて、ただ単にオレが居づらくて絡むのを拒んでただけなんスけど。実際独りの方が気楽です。みんな優秀だし、やる気もあって……オレ浮いてるなって、どうしても思っちゃうから」
「そうか……」
俺も、ドクターKとして招かれた大学病院や、一也の話を聞く中で、考えたことはある。自分がもしこの一族の人間としてではなく、普通に医大を出て、普通に臨床研修を積んでいたら、どんな医者になっていたのか。
出る結論はいつも同じだ。
どんな環境だったとしても、独りでこの村を守ってきた今ほどの研鑽は積めていなかっただろうと。
龍太郎は飾り気のない吐露を続けた。
「良くないことだとは思います。大体どんな病院だって他の医者と働くんだから、横の繋がりをちゃんと作れた方がいい。他の病院のどこかにマッチング出来てたら、ちょっとは違ったかなって思いますけど……でも、それも無理だったから」
「……親の経営している病院がある医者は、マッチングし辛いと聞く。お前のように誰もが知る大病院なら尚更だろう」
「ハハ。それだけが理由なら、ちょっとは救われるんスけどね。……何にせよ、おかげ様でここじゃ居心地よく研修させてもらってます。感謝してます……色々気遣ってもらって」
俺は空から視線を外して龍太郎を見た。龍太郎は星を見上げたままだった。俺も再び視線を上に戻して言う。
「なんだ。突然改まって……」
「いや、聞いておきたくて。逆にオレが来て、先生居心地悪くなったりしてないかなって」
「……俺が?」
「ハイ。オレ診療時間終わった後も結構診察室に居着いちゃってますけど、ウザくないですか? 今言ったみたいに、オレ独りでどうとでも楽しくやれるんで、邪魔なら部屋でもっと過ごしたりします。いちいち外出る時報告するのも要らなかったりします? 勝手に行った方がいいならそうするんで」
「待て。なんでそういう話になる? 俺がそう思ってそうな素振りに見えたのか」
「いえいえ、全然! そーいうわけではないんス。むしろ全然、受け入れてもらってる感じしかしないから……」
「……何だ」
「このまんま置いてもらえるように……ダメなところがあったら直したいなって」
俺は再び龍太郎を見た。ただ遠い星をひたむきに見上げる顔は、吸い込まれそうなほど果てしない夜空の下で、ひどく所在無げに見えた。
この地球上の何処へでも、居ようと思えばこの調子で居れてしまえるのだろうと思えるほどに。己と関わらぬ星だけを慰めにして。
「……外に出る時は言え。必ず。部屋にも行かなくていい。むしろ居れるだけ診察室に居ろ。寝る時以外はずっと居ていい」
「え。そうスか?」
龍太郎は嬉しそうな声を上げてこちらに振り向いてきた。そんな反応をする癖に、窺うように距離を取ろうとした消極的な態度に呆れてしまう。
今度はこちらが星を見上げたまま続けた。
「お前は確かに他の研修医に混じったら上手く研鑽を積めないタイプかもしれん。テンポが違うからだ。お前がモヤモヤと患者の症状を検討している間に、〝普通の〟研修医は学生時代に覚えた代表的な病名を次々と列挙して、早当てしようと先を越していくだろう」
「うっ……ハイ……あります……心当たりが……」
「だが以前も言ったが、それは診断であって診察ではない。じっくり患者を診るお前のテンポは正しい。患者にとっては早さより確実さの方が余程重要だからだ」
「へ……」
「それを伸ばせない研修先より、お前はこの村での研修が向いている。だから余計な事など考えず、居続けろ。お前がしてはならない事があるとしたら、サボることと逃げることだ。……いいな」
念押しして、龍太郎の表情を盗み見る。
龍太郎は言葉の意味をじっくり考えるようにじわじわと目を丸くした後、にっこりと笑って答えた。
「……ハイ!」
その笑顔は暗がりの中でも、満天の星より余程明るく見えた。
「わー! 綺麗っスねえ! ここってアレですよね、甚平川の上流の!」
「ええ。高品先生もご存知でしたか」
「ハイ! オレもあの場所好きっス。よく描けてますねえ~」
定期検診の終わった秋葉さんに絵を見せてもらいながら、龍太郎が感動した様子でしみじみと声を上げた。
そんな龍太郎に秋葉さんが言う。
「しかし、最近あの辺りもキャンプする人が増えておりましてね。次はどこで描こうかと考え中なのですよ」
「ああ、確かにちょくちょく見かけますねえ。そうだ! じゃあもう知ってるかもしれませんけど、オレにもオススメスポットがあるんスよ。是非秋葉さんに見てほしい絶景で」
「ほう。是非教えていただきたいですな」
「えーっと地図で言うとですね、倉野沢からこっち方面に向かいましてー」
スマホで地図を表示しながら一通り説明を終えた龍太郎に、秋葉さんは感謝したように言った。
「まだ知らない場所でした。ありがとうございます、是非行ってみます」
「ハイ! 是非是非!」
ニコニコしている龍太郎に、横で聞いていた俺は思わず呟いた。
「俺も初めて聞いた場所だな」
龍太郎は瞬きした後、悪戯っぽく笑って言う。
「スミマセン、先生には秘密にしてた場所でした」
面食らう俺に、秋葉さんが穏やかながらも少し楽し気な口調で言った。
「おや、それは申し訳ないですな。先生にも秘密の場所を教えて頂くなんて」
「エヘヘ。まあ、先生にしか教えてない秘密の場所もあるんで大丈夫っス。でもそうすると、今の場所は先生にも聞かれちゃったんで不公平ですね。別のオススメスポットも今度教えますよ、結構いっぱい見つけてるんで!」
「フフ、それはありがたい」
俺は龍太郎に聞いた。
「教えて貰えるのは一人につき一ヶ所なのか」
「うーん、先生もオススメスポット教えてくれたらオレも追加で教えますよ。無いんですか? どこかお気に入りの場所」
興味津々というように逆に尋ねてくる龍太郎に、俺は腕を組んで少し考えた。
そもそもそういう場所を探そうという発想が無かった。無かったが、長くここで生きてきた以上は。
「あるかもしれんが、思い出せんな」
率直に答えると、龍太郎は答えに予想がついていたというように微笑んだ。優し気な笑顔だった。
「じゃあ、思い出したら教えてください。先生は絶対すごい場所知ってるんで、期待してます。先生はこの村の端から端まで知ってるんスからね」
俺は小さく笑った。
あの時、俺を初めて『秘密の場所』に連れて行ってくれたのは、公私の区別無くこの診察室から動かない俺への龍太郎なりの礼だったのだろうと思った。
「気長に待っててくれ」
「勿論です!」
