この夜からは出られない

「ぐっあっ、うああ……ッ」
 痛みと圧迫感、不快感と嫌悪。押し込まれるたび、押し出されるようにボロボロとぼくの目から涙が流れ落ちていく。軋むベッドの音と、耳にかかる荒い息遣いが、恐ろしいほど生々しく今の状況をぼくに実感させていた。
「やめろ……やめ……」
 心底愉しげに喉の奥で笑う声がした。ぼくの静止の声は抉るような痛みに搔き消された。
 泣き声のような悲鳴を上げてしまう。
 上から、ぼそりと低い声が零された。
「熱い……」
 久しぶりに耳にする意味のある言葉に、ぼくは涙で曇った視線を上げた。ぎらぎらと、獣のような獰猛さを湛えながら、それでいてぞっとするほどの冷酷さを感じさせる目が、ぼくを見下ろしている。

 ぼくはもう、恐怖なのか、憎悪なのか、あるいは悲しみなのか、判別のつかない強過ぎる感情が胸の内に横溢して、わけがわからなくなっていた。どうするのが正しいのだろう? どう反応すべきなんだろう? いま、どういう感情を抱けば、救われるのだろう?
 混乱の中、ひときわ乱暴に腰を揺さぶられた。苦痛と得体の知れない感覚の後、ぶちまけられた熱い液体が、ぼくの下腹部を汚した。

 美樹本洋介。
 どこもかしこも死体まみれになってしまったペンションの一室で、二度と目覚めないことを願い深く深く眠っていたぼくを悪夢へと目覚めさせたのは、その悪夢を創り出した張本人であるこの男だった。
 目覚めた時、ぼくの手首はしっかりとベッドに拘束されていた。違和感に覚醒し、混乱するぼくを前にして、あろうことかこいつは――ぼくをレイプし始めたのだ。

 服を剝ぎ、身体をまさぐる固い手に、圧し掛かる重さに、生暖かい体温に、そして何よりも突き付けられた最悪の真実に、ぼくは動転した。
 唯一自由な足で抵抗し、それを易々と封じられながら、それでもぼくは美樹本を糾弾した。

 ――おまえが犯人だったんだな。
 ――あれは死んだふりだったんだ。
 ――お前がみんな殺したんだ。香山さんも、春子さんも、可奈子ちゃん達も、小林さんも、俊夫さんも、みどりさんも、みんな、みんな!

 美樹本は、それらのぼくの詰問に対し、淡々と「そうだよ」とだけ答えた。それしか言わなかった。
 ぼくは色々と喚き、非難したが、やがて不毛さに疲弊した。そして、どうしようもないひとつの感情に塗りつぶされていった。
 真理。
 真理はやはり、犯人なんかじゃなかった。
 あの長くおぞましい悲鳴……あれは正真正銘、真理の断末魔だったのだ。
 真理はこいつに殺されてしまった。
 どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。どうして真理と最後まで、一緒に居てやれなかったのだろう。
 どうして……。

 壊れたように「どうして」とだけ言って泣きじゃくるしかなくなったぼくに、美樹本は小さく笑っていた。ぐずる幼子を見守るような、奇妙な寛容さすら感じる態度だった。
 そして初めからそういう道具であるかのように、ぼくを暴き、弄び、犯した。

「まさか鍵もかけずに寝てるとは思わなかった。驚いたよ。諦めの境地か――彼女の悲鳴が堪えたのかな。まったくすごい悲鳴だった。……聞こえてたんだろう」
 一頻りぼくを蹂躙して落ち着いたのか、一段落した頃、美樹本は存外理性的に喋りだした。
 ぼくは彼女という単語に、びくりと反応してしまう。

 髭の下の唇に酷薄な笑みを浮かべて、美樹本はぼくの顔を覗き込んだ。
「悪いな。殺してやった方がいいとは思ったんだ。だが……あと残ってるのはお前だけだからな。そう考えて、寝てる顔を見てると……なんだか勿体なくなってきてね」
 そう言ってぼくの剥き出しの肌を撫でるべとついた手に、凄まじい嫌悪感が湧き上がる。
 こいつは狂ってる。

 尊厳も何もかもグチャグチャにされた酷いありさまだったが、せめてありったけの憎悪を込めて睨みつけるぼくに、美樹本は目を細めた。
「かわいい顔だな。俺の好みだよ。だから残したってわけじゃないんだが……」
 冗談なのか本気なのか判断のつかないことを言いながら、ゆっくりと撫で上げられる胴体。その胸の真ん中に、ひたりと大きな掌が当てられて止まる。
 その下ではぼくの心臓が、この異常事態に際して狂ったように脈打ち、今すぐ逃げ出したいと叫ぶように、身体中の隅々まで血液を送り込んでいる。

 どきどきと跳ねるその脈動に触れながら、一人ごちるような悪びれなさで美樹本は言った。
「死体を犯る趣味はないんでね……」
 強く心臓が跳ねた。明確な怒りによってぼくの血が沸騰したのだ。
「あああっ!! うわあああああッ!!!」
「おっと」
 めちゃくちゃに叫んで暴れるぼくの振り上げた足を、美樹本はあっけなく足首を掴んで抑え込んでしまった。
 それでも藻掻くぼくを見下ろして、美樹本は少し、考え込むような素振りを見せる。
 その眼差し。その、戦慄を覚えるような冷たさ。

 ぼくは震え出した。耐えられず、その視線から逃げるように目を逸らす。
 ――殺気だ。異様なほどの。
 手に取るように分かる。こいつは今、ぼくを殺すかどうかを考えている。ここで。この瞬間で。ぼくを永遠に黙らせるかどうかを、二者択一で迷っている。一方的に。そして、絶対的に。
 
 殺すことに躊躇の無くなった人間というものは、これだけの圧を纏うものなのだろうか?
 こんな男だからこそ、この一晩の間にこれだけの死体の山を一人で築けたのだろうか。あるいは、この一晩がこの男をこんな化物に仕立て上げたのか。

 小さな笑いが空気を震わせる。
「そんなに怖がるなよ」
 そう言いながら、冷たくなったぼくの濡れた頬をあたたかな手が撫でた。
 恐怖で、悔しさで、またぼくの目からは涙が溢れていた。まるで慰めるようにそれを拭っていく親指が、忌まわしい。悍ましい。
 この涙なんかよりも、もっと夥しい量の血がこの手によって流されたのだ。

「まだ殺しはしないよ」
 慈悲のように囁かれた言葉に、ぼくは涙に溺れながら睨んだ。
 震えてしまう声を必死に落ち着けながら言う。
「……殺せばいい」
 そして、子供の強情を見守るようなその腹の立つ眼差しに吐き捨てる。
「ぼくを殺して、この死体の山にひとりぼっちになればいい」

 美樹本の表情から笑みが消える。
 ぼくは言うだけ言って、拒絶を表すように再び顔を逸らした。
 それはぼくが出来るせめてもの嘲りであり、恐怖と引き換えに言った通りの状況になることを望んですらいた。
 しかし美樹本はそうしなかった。
 気勢を削がれたように、ぼくの横にごろりと寝そべると、手遊びにぼくの髪をさらさらと弄り出す。そうしてぼくの言った言葉を思案するように、肘をついた手に頭を預けてしばらく黙っていた。
 そして不意に口元に手をやり、ぴりぴりと何かを剥がすような音を立てて何かをし出した。
「痛て」と呟いて、ぼくが何をしているのか確かめる前に身を起こすと洗面所に消える。

 暫し水の流れる音がしたと思うと、出てきた美樹本の顔からは熊のような長い髭がごっそり消えていた。
 剃ったというには短すぎる時間、そして現れた地肌を確かめるように摩るその輪郭の既視感に、ぼくは目を瞠った。
「……おまえが……田中一郎だったのか?」
 素顔を晒した美樹本は、皮肉気な笑みを浮かべてぼくの問いを肯定した。
「流石に顔を晒せば分かるか」
「……じゃあ……じゃあ、あのバラバラ死体は? 田中さんじゃないのなら……」
「お前の知らない男さ」

 美樹本はベッドに腰掛けると、どこかから持ってきたミネラルウォーターを飲みながら、すべての事件の発端の話をした。
 二人組での銀行強盗。チームの決裂。逃げ込んだペンション。殺人の隠ぺい工作。みどりさんの糾明。そして、殺戮の始まり。

「そんなことで……」
 ぼくは気が抜けたように呆然と呟いた。

 もはや怒りと憎しみに胃の腑を焦がす段階は過ぎていた。今はただ、徹頭徹尾私欲でしかない一個人の悪心のために、ここまで多くの人びとがあっけなく殺されてしまったという現実に、打ちひしがれていた。

「死の理由なんて大抵突拍子もなく、つまらないものばかりだろう。未来ある子供や社会的地位のある立派な篤志家が、暴走した飲酒運転の車にあっさり轢き殺されたりする」
「それでも……それでもその手で、明確な殺意をもって殺すのはまた別の話だろう。あんなに、あんなにたくさん……罪のない人たちを……」
「人間ほど罪深い生き物はいないさ。たくさんの命を奪って生き延びてるんだからな」
「そんなの……」
 ぼくは詭弁だと否定しようとして、言葉に詰まった。真理すらも自分を脅かす存在なのではないかと恐れ、信じられずにその手を離した結果、ぼくは今ここに取り残されている。一足先に冷たくなった真理と死に別れて。

 死ぬのが怖かったのだ。他人を押し退けてまで生きる覚悟があるわけでもなかったのに。
 それはこの男の狂気とは関係ない。ぼくが内包する、ぼくの弱さだ。その罰を今、受けている。

 美樹本は黙りこくるぼくの顔をしばらく眺めてから、気だるい動作でぼくの手の拘束を解いた。
 突然自由になった手を持て余して、ぼくは他人事のようにベッドに投げ出されたぼく自身の手を見る。

 真意を問う意図で美樹本の顔を見ると、美樹本は何を考えているのか分からない無表情で言った。
「縛ったままってのも、フェアじゃないよな」
 そしてゆっくりとぼくの上に再び跨り、上から見下ろしながら言った。
「もう一回頑張って、俺を返り討ちにして、ひとりぼっちになってみるかい。この死体の山に」

 こいつは、ぼくがもうそんなことは出来ないと分かっているのだ。だから拘束を解いた。もう意味がないから。
 それならいっそ、縛ったままの方がよかった。動けなければまだ、抵抗を放棄する言い訳が立つのだから。

 ぼくはもはや無気力に美樹本の顔を見上げながら言う。
「……今更フェアもなにもあるもんか……お前は初めから卑怯者だ。人をだまして、人を殺して、人を貶めて、そうして平気な顔をしてる」
 美樹本は何も言わない。否定もしない。ぼくを見つめるその表情も凪いでいる。
 感情が死んでしまったがゆえに、ぼくの頭にはいくらか冷静さが戻ってきていた。多少クリアになったその頭で言う。
「顔の割れた相手をいちいち殺しながら、盗んだ大金を持って高跳びなんて、うまくいくはずがないんだ。そんなのはドラマの中だけの話だ。いつかは逃げられなくなる……いや、せいぜい今夜までだろう。お前が自由に振る舞えるのは……。朝になったとして、無事に金を受け取れると思うのか? この吹雪できっとすぐには来れない。すっかり明るくなった頃に、この夥しい殺人の痕跡が残るペンションに外部の人間が来て、気付かないと思うのか? この空間と、お前の異常性に」
 美樹本はため息をついた。
「そうだな。そのまんまってわけにもいかないだろう。ある程度、掃除する必要はある」
 実務上の痛いところを突かれた、というような気負いのない様子だった。こいつにとっては、何もかも等しく重さを持たないのかもしれない。自身の破滅の可能性であっても。
「まあ落ち着いてゆっくりやるさ。すぐには来れない以上、時間はたっぷりあるからな」
 そう言いながら美樹本は無造作にぼくの腰を持ち上げ、下に枕を挟む。
 ぼくは何をされようとしているのかが分かって、本能的に逃げるように身を捩ったが、容赦なく太い指がまだヒリヒリするぼくのお尻の穴にぐいぐいと突き入れられた。ぼくは鼻を鳴らす子犬のような情けない声を小さく上げてしまう。
「はっ、はやく……」
 切羽詰まった声で、言いかけて、でもその先がどうしても言えなくなった。

 はやく――はやく殺せばいいのに。
 どうせいつかは殺されるのに、こんなことをされるぐらいなら。いっそのこと。

 そう頭では思うのに。
「はやく?」
 美樹本は小さく笑って訊き返しながら、具合を確かめるようにぐにぐにとぼくの肉の内側から粘膜の壁を押した。
 痛いに決まっているのに、構わず二本に増やしてとんとんとぼくの知らないぼくのどこかの場所を突かれる度、勝手に変な声が漏れる。
 ぼくは力なく首を振った。
「いやだ……やめろ……」
「どうする?」
 美樹本は玩具のようにぼくのアナルと、ぼくの萎えたペニスを弄りながら言った。
「やめたら、その後どうする?」
 その声はぼくに問うているようでもあり、自分に問いかけているようでもあった。
 内側の重い感覚と、外側の鋭い感覚を刺激される度にひくひくと腰が震える。
 その光景を他人事のように見つめながら、ぼくは悪寒に震える頭で考えた。

 どうする? ……どうもしない。
 ぼくはもうなにもしない。
 するとしたらお前ひとりだけだ。
 ぼくはもう疲れてしまった。
 あとはただ眠るだけだ。今は少し、それが遅れているだけ。
 生き延びたくもないし――死に急ぎたくもない。

「なにをしても、結局お前だって……ここを自由の身で出ることなんか出来ない。真っ直ぐ……留置所行きだ。そして、……これだけ殺したんだから、……間違いなく死刑になるだろう」
 好き勝手に弄られたせいで、ぼくのペニスはもう完全に勃ちあがって、濡れて滑りのよくなった親指が尿道を掠める度びくびくして、声はみっともなく上擦る。
「遅かれ早かれ……ッ!」
 喋っているのに、一切構わず、むしろぼくを黙らせるように、美樹本は自身のペニスをねじ込んできた。
 大きくて、苦しくて、痛くて、ぼくの身体がずり上がろうと足掻く。
 でも駄目だった。美樹本はぼくの片足を肩に担いで、荒く息を吐きながら腰を前後させて、無理矢理結合を深めていく。
「ひっ、あっ、んう、あっ、あっ」
 指でしつこく押された場所を大きなぬるついたカリで何度も抉られる。ぼくの喉からは勝手に混乱したような変な声が漏れてしまう。
 痛いのは嫌がる臆病な身体が、勝手にそれ以外の感覚を拾おうとがんばってしまう。
「はー……」
 重く掠れた、ため息交じりの声を漏らしながら美樹本は感じ入るようにぼくの中を揺すった。
「すごいな。気持ちいいのか。さっきと全然違う」
 愉しそうにそう言いながら、ベッドのシーツに頬を擦りつけて耐えているぼくの頭を撫でて笑う。
 犬を撫でるみたいに。
「気持ちいいな」
 確認するような声に、僕はシーツに顔を埋めて首を振った。
 全身が燃えるように熱い。
 恥辱のせいなのか、快感のせいなのかぼくには分からない。
 育ち切った長大なペニスがぬめりを借りて何度もぼくの中を行き来する。その度に濡れた粘着質な音がして、その度にぼくの身体がおかしくなっていく。
 
「っはやく……」
 はやく終わってほしい。
 何もかも。

 途切れたぼくの言葉に美樹本は笑って、低く囁いた。
「いきたい?」
 ぼくはこくこくと、何度も頷いた。

 美樹本は正面から、ぼくの上に覆いかぶさるような体勢になる。
 顔を逸らすのが辛くなって、ぼくも美樹本に向き直る。
 そのぼくの喉に、美樹本の大きな手が回された。ぼくの望み通りに。
「……あっ……」
 きゅう、と少し締まる手の圧迫感、期待感に、ぼくの声がか細く上擦る。
「はあ……」
 美樹本は気だるげな、艶めいた吐息を漏らした。どうやらぼくの中も締まったらしい。
 温かい手に血も息も堰き止められて、どくどくと、頭が膨らんでいく。視界が暗く、狭くなっていく。

 気持ちいい。

「どうしようかなあ……」
 低く呟きながら、美樹本はあの怖い目でぼくを見下ろして、ぱちゅぱちゅとぼくを犯し続けている。
 ぼくは苦しいけれど、すぐに死に切れるほどでもない圧に気が遠くなって、勝手に飛び出す舌もそのままに、どんどんと心臓の鼓動を強めていく。
 もうぼくを犯す美樹本のペニスも、ぼくを締める美樹本の手も、ぼくに嫌悪感をもたらすものではなかった。
 むしろそれは今や、歓迎すべきものだ。

 はやく殺してほしい。
 もう少しでいけそうなのにいけない。
 助けてほしい。

 ねだるように見上げると、美樹本は表情なくぼくを見つめ返して、不意にぼくの唇を塞いだ。
 息苦しさが強まる。
 覆い被さる重たい身体、温かい粘膜の感触を舌に唇に感じながら、ぼくは引き攣れのようにびくびくして、やがて、とうとう真っ白になった。
 身体の奥に吐き出される毒の感触がする。
 ぼくはなにも聞こえず、なにも見えず、なにも思い出せない忘我の境地の最中、ぼくを殺すものの背を抱きしめた。
 その身体は燃えるようにあたたかい。

 いつか、遠からずこの男も死ぬだろう。
 でも凄惨な地獄へと落ちるであろうこいつとは、あの世でももう二度と会うことは無いに違いない。
 死体に囲まれたふたりぼっちのこの場所にあって、それだけを奇妙に名残惜しく思う。

 だからぼくは、遠く落ちていくこの意識が次に目覚める先が、向こうでも、このベッドのままでも、もはやかまわなかった。
 どちらにせよ同じことなのだから。

 この夜からは出られない。