よるの夢こそまこと、しかしうつし世もまた然り

 復員してからはずっと、戦地の夢ばかり見ていた。
 清潔で柔らかな布団の感触によって健康な生を実感しながら目を閉じ、微睡んで、不意にハッと気がつくのだ。
 ここは戦場だ。今まさに俺はここで、死体と血飛沫と銃弾の中を突っ切り、無為な玉砕命令のため、一足先に逝った同胞たちと同じ所へ向かわんと足を動かしている、その最中なのだと――そして、目が覚める。戦場で覚えた息苦しさが、布団に横たわる肉体を起こす。
 そこでようやく、夢が夢だったことを知る。毎夜その繰り返しだ。

 夢を見ている間、これが夢だと気づくことは出来ない。気付ける人間も稀に居るらしいとは聞く。しかし、少なくとも自分はそうじゃない。眠った瞬間、眠る前の己は消え失せ、夢の中の己が全てになる。逆もまた然りだ。
 現実だとしか思えない夢なら、見ている間のそれは、やはり現実でしかない。

 単純な話だ。
 何も終わっていないし、どこに帰って来てもいない。眠っている間の俺は、まだ戦場に居るのだ。
 眠る時間より起きている時間の方が長い分、国に帰ってきている時間の方が少しだけ長い。
 それだけの事だ。
 
 しかしあの夜――数日前から当主の葬式に合わせ来訪していた余所者の自分たった一人を残し、広大な村が一夜にして一人の生存者も残さず滅んだというあの惨劇の夜――村の外れで目を覚ましたその日を境に、ぱったりと、戦地の夢は見なくなった。
 それだけでなく、夢の内容を全く覚えていられなくなった。
 
 おそらく俺はあの村で少しおかしくなってしまったのだろう。
 会社の連中が腫れ物に触るようにそう噂している事を知っている。自分でも、異論はなかった。

 自身のものではない夥しい返り血を浴びて発見され、赴く前は黒々としていた髪が真っ白に退色し、村であったことの一切の記憶を失くしていた男。
 立場を考えれば異様なほど、警察の取り調べはあっさりと済んだ。
 というより刑事事件としての捜査自体が、誰が見ても不自然なほどあっと言う間に打ち切られた。
 あの村と龍賀家の抱えた秘密には国が深く関わっていたという。そして村が滅んだ原因には確実にその秘密が関係していた。それゆえの隠匿だ。
 
 『M』の秘密を持ち帰れなかった俺を、送り出した社長たちは責めなかった。それどころか生きて帰ってきたことを賞賛するような素振りすらあった。
 社長たちはあの村にそういった惨劇の引き金になり得る何かが眠ることを薄々知っていたのだろう。
 
 村へはあれから何人もの調査や救助の手が入った。そしてその多くが謎の死を遂げた。今もその状況は変わらない。
 俺は出世街道から遠のき、何とかクビは免れながら毎日暮らしている。

 夢の記憶はあれ以来一片も残らない。ただ、見ていない訳ではないのだろう。
 目が覚めた時、毎朝いつも眦から涙が垂れているからだ。
 あの夜何も思い出せないまま強烈に感じていた、強い悲しみの残滓と共に。
 
 おそらく夢の中の己は、もう戦地ではなく、あの村に居るのだ。
 だから思い出せない。あの村のことを、あの村に居る己を、俺は思い出せないのだから。
 
 辛うじて覚えている最後の記憶は、村に向かうまでの列車の風景だ。
 埃と紫煙が立ち込める薄暗い車内。
 規則的に揺れる固い座席。
 どこかで幼い子どもが咳き込む声。
 マッチを擦った瞬間香る、嗅ぎ慣れた火薬の匂い。
 蒼い燐光。
 そして――そして?
 

 戦地の夢は悪夢だった。
 しかし見ている間のそれは、確かにもう一つの現実だった。
 
 現実が一つだけになってしまった今、俺はずっと、身体の半分をどこかに持っていかれてしまったような空虚を感じている。

 
 ***

 
 何故起きている間は、村での事を思い出せんのだろうな。

 今はただ白いばかりの花弁を散らす、巨大な桜の下で一人、詮無い思考に耽る。
 辺りは清らかな湖と漆黒の闇が広がるばかりの静寂。
 周囲には誰もいない。ゲゲ郎も、その妻も、あの醜悪な翁も、凶骨という妖怪も。
 
 そう、あの夜からだ。あの村を出て以来、毎晩夢を見る度この場所に居る。
 あの村の悲劇を生んでいた源。ぞっとするほど美しい巨木。今はただ記憶が残るばかりの、空っぽの墓場。
 数多の幽霊族の――。
 
 あの村のこと、あの村で起きたこと、あの村で出会ったもの。その全てをここでは思い出すことが出来た。
 まるで現と夢が反転してしまったようだった。
 夢の中でこそ目が覚める。
 
 己以外の生物が全て死に絶えたような静寂の中、黒い空にはぽっかりと白い満月だけが在った。
 あるいは穴のようなそれは、禁域の島へと繋がる封じられていた出口なのかもしれない。
 何にせよそれはこの場所でのみ満ちる記憶を表すようだ。
 起きている間には欠けているものが、ここに居る時だけは完全になる。
 
 戦地の夢は悪夢だった。狂騒と狂奔。安らぎと最も遠い、終わりのない苦しみ。
 この夢もまた、別の悪夢には違いなかった。
 止まった時間。止まった空間。喪失だけが在る世界――終わりのない悲しみ。

 それでも、在ったことすら思い出せないよりはマシだった。悪夢のような現実でも、存在しないよりは。
 
「逃げちまって悪かったな。ゲゲ郎」
 呟いて、懐の煙草に火を点け一服する。
 夢の中の煙草は味も匂いもどこか曖昧だ。
 代わりに今日、起きている間に嗅いだ悪臭を思い出す。
 死病に侵され腐り溶ける肉の臭い。
 崩れ落ちそうな身体で必死に追いかけてくる、包帯まみれの大男の姿。
「悪かった」
 もう一度呟く。頬を涙が濡らした。

 お前が変わり果てた姿になった以上に、俺も変わり果ててしまった。あそこに居るのは、お前の知っている俺の抜け殻に過ぎない。
 どうか気に病まないでほしいと思う。俺のことなど忘れてほしいと思う。

 死病に侵されながらもひっそりと暮らす夫婦は睦まじく、穏やかな様子だった。
 赤子は無事に生まれるだろうか。
 せめてあとどれだけ残されているのか分からない友の余生が、幸福なものであることを願う。
 そして赤子が健やかにこの世に生まれ来ることを。
 
 ――いや、少なくともゲゲ郎に関しては心配いらないだろう。
 愛に溢れた男だった。
 あれだけ探し求めた愛する者がそばに居る今、その心に幸福がない筈がない。
 
 あの二人が外の世界に無事逃げ延び、寄り添い生きていたことを本当に嬉しいと思う。
 そしてこの祝福すらも忘れ去り、重い身体を引きずって生きるうつし世の己が、ただ哀れだった。
 

 ***

 
 そう、確か――確か、この赤子を大切に想っていた奴が居たはずで。

 思い出せない。頭痛がする。遠くで雷鳴が響いている。濡れそぼる服が重く体に纏わりついている。
 知らない男の後ろ姿が浮かぶ。
 老人のように白い髪の。
 
 腕の中で赤子が身じろいだ。
 呆然と抱きしめる視線の先で、作ったばかりの真新しい墓が永久の沈黙でもってこちらを見守っていた。

 身体を離し、改めて赤子を見下ろす。
 片方だけ開いた目が、俺を確かに見ていた。
 
「――いいさ。俺もお前も、せっかく拾った命だ」

 丸い頭を撫でる。塗れた和毛がなだらかな額に張り付く。
「生きてみるか。とりあえず」

 返事をするように赤子が喃語を発する。
 冷えないように、またしっかりと腕の中に抱き直した。
 赤子など、どう育てればいいのか見当もつかない。
 だがとうに死んで墓に入った母親の中でもなお生きていた赤子だ。普通よりはずっとしぶといだろう。

 家に連れ帰り、身体を拭いてやったり、当座の身を包むものを探してきたりと色々動き回って、ようやくひと段落ついたのは草木も寝静まる深夜のことだった。
 寝息を立てている赤子の横に敷いた布団へ、ごろりと寝転がる。
 酷く草臥れていた。
 これからの事に思い巡らしながら、一先ず煙草でも吸うかと懐に手を入れて探る。
 その時、目の前に目玉の化物が現れた。
 
「水木!」
 目玉は泣いていた。おそらくは。
 どう出ているのか分からないが、後から後から目玉全体から水が溢れ、ボタボタと下に垂れていた。

 口を開けて固まる俺に、正しく俺の名を呼んだ目玉は切々と語った。
「おぬしには……おぬしには本当に何と礼を言っていいか分からん……! すまぬ……すまぬ……! どうか我が子を頼む……! 儂はおぬしが戻って来てくれて、妻を弔ってくれただけでも有難かったのに……おう……おおおう……!」
「わ、我が子……って」
 戦慄しながら、とりあえず後退り、号泣する目玉から距離をとる。
「お前はなんなんだ……!?」
 上擦った声で問うと、目玉はハッキリとした声で言った。
「儂はこの子の父親じゃ」

 我が子のことを思うとあまりにも未練でな、こうして左目だけで辛うじて現世に留まることが出来たのじゃ、凶骨を封印していた依り代がみな左目を介して縫い留められていたためじゃろう、そこだけ呪いが浅くてな、しかし我が子の目にもその影響が出てしもうた、可哀想なことをしてしまったのう、まあこの世はあまりに見えるものが多すぎる、片目が隠れているぐらいでちょうどいいのじゃが、ん、どうした水木、水木――
 
 その後も目玉は小さな体でわけのわからない何事かを捲し立てていたようだった。
 しかし異様な事態の連続に疲弊した肉体と心はそこで限界を迎え、とうとう気を失ってしまった。
 

 ***

 
「水木~~~、水木~~~~~~~」
「……」
「うおおおお~~~~~」
 ぎゅうぎゅうと抱かれながら頭にゴリゴリと頬擦りされて辟易する。
 とりあえず好きにさせつつ、懐から取り出した煙草に火を点けて一服した。

 誰も居なかった夢の中にゲゲ郎が現れたのは、赤子を拾ったその日の夢のことだった。
 突然再会できた友、それも記憶の中の健康な姿のまま。状況が分からないながら、初めはこちらも感極まって喜んだ。友と分からず逃げ帰った非礼や、その後の夫婦の事。話したい事は色々あった。
 しかし顔を合わせた途端に滂沱の涙を流したかと思うと、俺を抱きかかえたままずっとこの調子で泣き咽ぶばかりのゲゲ郎に、すっかりこちらの感情は冷静さを取り戻している。
 どれほど心が揺れ動こうと、自分よりも動揺している者が側にいると妙に落ち着いてきてしまうものだ。

「酔ってんのか?」
 コイツは泣き上戸だったな、と思い出しながら問えば、ようやくゲゲ郎は身を正して多少冷静に反論してきた。
「失礼な。素面じゃ」
「じゃあもう少しシャキッとしろよ。話が進まん」
「幽霊族の時間は長いのじゃ。一つの肴でいつまででも酔える。このまま三日三晩再会に浸り続けてもいいんじゃぞ」
「勘弁してくれ」
 言いながら煙草を差し出す。
 受け取ったゲゲ郎にマッチを擦って差し出してやると、顔を近づけ一吸いされた筒の先が赫く灯った。

「この煙草も、マッチも、お前も。全て俺の頭ン中の幻に過ぎないんだろうか」
 呟くと、空に向かって紫煙を吐き出したゲゲ郎が落ち着きを取り戻した口調で否定した。
「それは違う。儂は儂として確かにここにおる」
「どうだか……確かめる術はない」
「確かめる事など、この世の何にも出来はせぬ」
 悟った見解に、肩をすくめて賛否を保留にする。
 ゲゲ郎は俺をじっと見つめて言った。
「おぬし、儂のことを少しだけ思い出したじゃろう。起きている間に」
「……思い出した、と言えるほどの記憶ではないがな。お前の後ろ姿が頭を掠めただけだ」
「それで十分じゃ。おかげで儂はおぬしの世界に再び存在出来るようになった。こうして夢から出られぬおぬしの魂に会いに来れるようにもなった」
「夢から……出られない?」
「あの村は凶骨に溢れたことで、最早彼岸と化しておった。おぬしは凶骨の力に引き摺られ、魂の一部を現世に持ち帰れなくなってしまった。あのちゃんちゃんこを最後まで羽織っていれば、違ったとは思うが……」
「……言いつけを守らなかったのは俺だが、俺なりに考えあってしたことだ。仕様がない」
 ばつが悪い思いで弁解すると、ゲゲ郎は破顔して、噛み締めるような声音で言った。
「感謝しておる……。おぬしには」
 俺は言葉が見つからず、黙って煙草を咥える。
 ゲゲ郎は話を続けて言った。
「夢は現世と彼岸とのあわいじゃ。彼岸に引き摺られたあの村でのおぬしの魂は、現世の肉体に戻れずに、夢の中……この場所に囚われておった」
「……成る程な」
 巨大な桜が根を張る風景を見渡す。数多の幽霊族の墓標だった場所。その失われた命の永さは計り知れない。ちっぽけな己の魂など、引きずられるのも道理だろう。
「しかし今日、おぬしは僅かに彼岸から魂の一部を取り戻した。分かたれていた彼岸の端と繋がった。おかげで我が子を助け、その手に抱いてくれた。これほど嬉しいことはない」
 俺の肩をグッと掴み喜びを伝えてくるゲゲ郎に、しかし俺は浮かない気分だった。
「……だが危うくもう少しで、お前の子と判らず殺めてしまう所だった。連れ帰りはしたが、果たして何も覚えていない俺があの赤子の面倒をちゃんと見るのだろうか……。俺は俺自身のことを信用出来ん」
 煙草の先を見つめながら正直な心境を述べると、肩を掴んでいた手がバンバンと俺の背を叩いた。
「大丈夫じゃ水木。お前は信用出来る男じゃ。儂はお前よりもそれをようく知っておる。この世で最も信頼出来る場所に我が子が今おる。儂は本当に嬉しい」
 再び涙を浮かべ、今度こそ三日三晩この調子で盛り上がり続けそうな勢いのゲゲ郎に、俺は慌てて別の問いを発した。
「そういえばお前、あの目玉は何なんだ。父親と言ってたが、お前自身なのか?」
「フム、あれか。そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「なんだ、そりゃ」
「左目だけが辛うじてああして現世に留まっておるが、それ以外は最早彼岸のものじゃ。儂の亡骸を見たであろう。ここにおるのはその、一足先に朽ちた部分の亡霊のようなものなのじゃ。ホレ」
「うわっ」
 ゲゲ郎が左目を覆っていた髪を持ち上げてみせると、そこにはぽっかりと空洞が開いていた。
「死した部分を切り離し彼岸へと送ることで、左目は現世に生き永らえておる。つまりおぬしの魂の一部がこちら側から現世に戻れないように、こちら側の儂の記憶が現世の目玉の儂に戻ることはない。逆に、こちら側の儂にはあちら側の記憶が残っておるがな」
「何故こちらの記憶の方が完全なんだ。あの夜までは、起きている俺の方が、夢の俺の記憶を覚えていたのに」
「こちら側に持っていかれた魂の方が重くなってしまったからじゃよ。しかも、おぬしは元々彼岸に非常に近い所に魂があった。初めて会った列車の中で、おぬしだけが背後に彼岸を背負っておった」
「そうか……だからあの時話しかけてきたのか。……戦争で俺は、一度死んだようなものだったからかな。その上あんな体験までして、考えてみりゃあよく未だ現世に引っかかってるもんだ。我ながらしぶとい」
 笑って紫煙を吐き出す俺に、ゲゲ郎が真面目な声で言った。
「強いからじゃよ。おぬしは」
「……で、夢の中の俺は半分死んでるから、半分死んでるお前とこうして話せるようになったってわけか?」
「儂は半分死んでおるが、おぬしは死んではおらんぞ。肉体はあくまで生きておるからな。彼岸の者は、縁ある生きている者の夢を借りて現世と彼岸のあわいまで来られるのじゃ。現世のおぬしが儂の存在の端を思い出してくれたことで、儂はおぬしの夢に来られたのじゃ」
「ふうん……」
「なんじゃ。信じ切れぬという顔じゃな」
「そのもっともらしい理屈も含めて、俺に都合のいい夢って可能性は捨てきれんだろう」
「そうか。おぬしが儂に会いたいあまり夢に見ているに過ぎんと。まあそういう夢の方が多いのは確かじゃ。おぬしがそう思うのも無理はないがな」
 うんうんと頷くゲゲ郎に鼻を鳴らして煙草を吸う。
「それに、なんで夢の中でも煙草とマッチを持ってるんだ。恰好だって寝間着じゃなくて、あの村の時と同じスーツだし。見始めの頃はここで煙草を吸えば、現実でも寝ながら吸ってるんじゃないかと恐ろしかったぞ」
「では吸わなければよかったじゃろ」
「こんな暇な場所で吸わずにいられるか」
「フム。恰好は、あの村での記憶に引き摺られておるのじゃろう。場所の記憶と身に着けていたものの記憶は密接に繋がっておるからな。煙草とマッチは、おぬしが現世から持ち込んでおるだけじゃ。起きれば現世の手持ちが減っていよう」
「そうなのか? 確認したことがなかった……というか、憶えていられないのに確認など出来ないからな。確かに妙に減りが早い気はしていたが、本数なんて普段いちいち数えていない。ここで数えようと思ったところで、その決意した記憶が起きている俺には無い」
「確かに」
「……まあ、これが現実でも夢まぼろしでも構わんか。例え起きれば忘れ去ってしまう夢でも、こんな場所に一人でいるのは堪えていた。……ここで、お前にまた会えてよかった」
 嘘偽りない本心でそう言うと、ゲゲ郎は思案するように俺をじっと見つめた後、ふと思いついたように言った。
「そうじゃ。ではここで、お前の知らない、儂だけが知っていることを教えよう。それは勿論あちらの目玉の儂も知っておることじゃ。ここで儂が言ったのと同じことをあちらの儂も口にしたら、その時は信じろ。ここにおる儂はお前の作り出した夢まぼろしではない、儂自身だということを」
「ほお、面白い。いいだろう。何だ、そのお前しか知らないことってのは?」
「あの子につけようと思っていた名前じゃ」
「ああ……」
「いいか水木。あの子の名前は――」

 ***

 
「この子の名は、鬼太郎じゃ」
 赤子の父と名乗る目玉は、目覚めた後もそこにいた。
 現実として受け入れるのにはかなり抵抗があったが、墓から生まれた赤子と生前の男の姿の記憶がある以上、そういうこともあるかと受け入れざるを得ない。

 だから父として子の庇護を改めて頼んでくるその目玉に、赤子の名を尋ねた。赤の他人の己が頭を捻るよりも、本当の父親がつけた名の方が子にとって良かろうと。

 実際以前から決めていたらしく、間を置かずに告げられたその名を胸中で反芻する。
 そしてついでに尋ねた。
「では、お前の名は?」
 目玉が返事をするのに少しの間があった。
「……ゲゲ郎、と。おぬしは呼んでくれ」
 変な名前だな、と思いつつ素直に復唱する。
「ゲゲ郎」
 何か、妙にしっくりくる響きだった。
 同じ名前の知り合いが、以前に居たような。

 何故だかまた水を垂らしている目玉を放っておいて、赤子を覗き込む。
 静かな赤子だ。赤子とはこれほど泣かないものだろうか?
 黙ってこちらをじっと見ている右目へ、そっと呼びかけてみる。
「……鬼太郎」
 赤子は反応して、手をこちらに伸ばしてきた。
 指を差し出してみると、小さな手がきゅっと握りしめてくる。
 確かにこの子は〝鬼太郎〟らしい。
「鬼太郎」
 破顔してもう一度呼ぶと、そうだと言わんばかりに腕を振って見つめてくる目を見返していて、ふと気づいた。
 手鏡を引き寄せて覗き込んでみる。
「……なんだ。ひと房だけ黒くなってる」
 あの夜以来ずっと真っ白だった筈の髪の毛の一部が、前髪の端だけ黒くなっていた。

「何か、あの村に関することで思い出したことがあるのではないか?」
「え?」
 いつの間にか机の上にいた目玉――ゲゲ郎が、俺の髪を見上げながら言う。
「おぬしはあの村であちら側に近付き過ぎた。近い記憶ほど戻ってこられずに、あちら側で燻っておるのじゃろう。しかし失ったわけではない。記憶を取り戻していけば徐々にこちら側のおぬしの髪の色も戻っていくのかもしれん。髪は見えぬ世界へのアンテナじゃからな」
「何を言ってるのかさっぱりわからん」
 率直に言うと、目玉のゲゲ郎は鷹揚に頷いた。
「何にせよ、髪の色が戻るとよいな。せっかくの男前じゃ」
「そりゃどうも……」
 何だか力が抜けて、全てを知ったような口をきく目玉を頬杖ついて見下ろす。
 あの湿っぽい家の中、溶けかけた包帯まみれの姿に会った時にも水木水木と、初対面なのにこちらの名を旧知のように呼ばわってきて空恐ろしく思ったものだが。どうやら本当に先方にとって俺は見知った存在らしい。

 しかしどこで? やはりあの村だろうか。
 昨晩から意識の切れ端に浮かぶ後姿が蘇る。
「……お前、ずっと前からあの包帯姿だったのか?」
「とんでもない。諸事情でああなったが、儂だって以前はもっと男前じゃったよ」
「お前も、白髪じゃなかったか?」
 ゲゲ郎はハッとした様子でヨロヨロと近づいてくる。
「水木……やはり儂のことを思い出して……」
「いや、わからん。何となく見た気がしただけだ。夢かもしれん」
 迫ってくる目玉に自然身を引きつつ言い訳すると、ゲゲ郎は納得したように頷く。
「そうか。夢は彼岸とのあわいじゃからな。村におった男も、憶えていない妻の姿を夢で見たと言っておった。夢の中でなら、おぬしも全てを覚えておるのかもしれん」
 ぼんやりと頭にあった考えを指摘され、俺はまじまじと赤い目玉を見下ろす。
 やはりあれ以来、夢の俺は滅び去った村の周辺を彷徨い続けているのだろうか。新たな地獄として。
 
「……戦地の夢と違って、今の夢は憶えていられんが……やはり悪夢なんだろうな」
 ぽつりと呟くと、腕を組みながらゲゲ郎は答えた。
「うむ……あるいはそうかもしれん。しかし……」
「……しかし?」
「もしかしたら、一足先にあっちに行った儂の左目以外が、夢のおぬしに会いに行っているかもしれんな」
「はは。なんだそりゃあ」
 奇妙な話だと笑い飛ばそうとして、ふと、いつか誰かと一緒に酒盛りをした光景が思い出された。
 青白い幽灯に照らされた墓場。泣き上戸の男。

 これまで飲んだこともないような美味い酒の味。
 
「あー」
 いつの間にか這いずってきていた鬼太郎が、自分も話に混ぜろと言うかのように胡坐をかいた膝によじ登ろうとしていた。
「おお鬼太郎や。どうした、水木に抱っこしてもらいたいのか」
 ゲゲ郎が愛好を崩して可愛い我が子に気をとられる。
 お望み通り膝の上で抱っこしてやると、鬼太郎はまた近くで飽きもせずこちらの顔を見つめてきた。どうやら俺の顔を見るのが好きらしい。
 ふっと笑ってゲゲ郎に言う。
「おい。夢がほとんどあの世だってんなら、来るのに通行料が要るんじゃないのか」
 思わぬことを言われたというように、目玉がきょとんとしている気配を感じる。
 

 そう、地獄だろうと極楽だろうと、所詮夢は夢だ。
 いずれにせよ起きている間は現世で働き、口に糊して、やむにやまれぬ業を背負いながら日々を暮らしていくしかない。生きている限りは。

 しかしこの赤子を今抱いてやれるのは、他のどこにも行けないこの俺の腕だけなのだ。
 
「どうせ来るなら、天狗の酒でも持って来いと伝えてくれ。あっち側のお前に」
 そして精々楽しくやるといい。

 いつか俺が完全にそちら側に行く、遠い遠いその日まで。

 終