幸福の亡霊

『この世には科学では解明できないことが数多く存在している。ほら、あなたの後ろにも……』
 一拍間をおいて、キャーッ、という女の悲鳴のSEが流れた。
 ビクゥッ! とその瞬間、隣の龍太郎の身体が硬直したのを一人は何とはなしに眺めた。
 初めはワーワー言いながら見ていたのに、このホラー番組の再現VTRが佳境に入った辺りから一切喋らなくなっていたな、と冷静に分析しながら。

「確かに科学では説明のつかない現象は時折存在するな。医療の世界にも」
 所感を述べると、龍太郎がバッと振り向く。これまでになく深刻な表情だ。
「……先生はそういうの否定派だと思ってました。くだらん! 非科学的だ! とか言って」
「俺はそんな狭い了見はしていない。経験を積んだ医者に聞けば、同じ見解を述べる人間は数多く居るだろう」
「経験っていうのは、れ……霊安室のご遺体が動いたとか?」
「何だそれは。そういう怪談の話はしていない」
「だって今のテレビは怪談の話だったでしょ!」
「あれはフィクションだ。非科学的な」
「あっ、やっぱし言うんスね〜」
 よかった〜と言わんばかりの笑顔に、若干悪戯心の起こった一人はギュッと表情を引き締めて言う。
「……だが実際、患者の身体に現在の医学では説明のつかない現象が起こる事はある。ならば当然、あまり表立っては見えにくいだけで、日常世界においてもそういった事象は当然起こり得るべきものと考えた方が自然なのかもしれん」
「…………」
 不安に曇る顔に駄目押しする。
「実際、この診療所にもそういった類の話が残っていなくはない。現代よりもっと迷信深かった時代から続いている古い家系であるから当然と言えば当然だが。記録にはお前の言ったような、死んだはずのご遺体が起き上がり託宣のようなことを述べたという真偽不明の記述もある」
「……ヒェ……」
 口元に手をやった龍太郎から蚊の鳴くような声が漏れた。
「何にせよ臨床の現場では柔軟な視点も必要だ」
 比較的雑に話を結んで、一人は時計に目をやる。麻上とイシさんは番組が始まって直ぐ位にとっくに帰宅していた。わりと長い番組だったが、龍太郎が飽きずに見入りながら番組の内容に関して色々話しかけてくるので、資料整理の傍ら終わりまで付き合ってしまった。
「いい時間だな。お前もそろそろ休め」
 一人が椅子を引いて立ち上がると、龍太郎もガタッと立ち上がった。そして慌てたように寄ってくる。
「エッ、先生っ……もう寝ちゃうんですか!?」
 深刻な表情で見上げてくる龍太郎の顔を、一人はまじまじと見下ろした。
 龍太郎は瞳を揺らしながら、固まったようにその場から動かない。
 長い沈黙が訪れた。

「違うんですって、そもそもこの診療所の雰囲気がブキミすぎるんですって! 周り森だし! 静かすぎるし! 木造だし!」
「何も言ってないだろう」
「聞こえるんス! 背中から! 呆れた声が!」
 自室の扉を開け、後ろから布団を抱えてついてくる龍太郎に一人は忍び笑う。
 静かにするから、居させてくれるだけでいいからと頼み込む医師免許まで持った成人済の男の軟弱さを許すのは甘いだろうか。
 しかしこのままだと眠れずに明日の診療に支障が出ると言われれば、こんなことで問題が解決するならまあいいかと思いもする。この研修医のありようを普通の尺度で測るのはとうの昔にやめていた。
 それにこの診療所が住環境として特殊であることは否めない。
 よって今日のところは望む通りにさせてやることにした。

「先生が居れば何が来ても勝てそうっスもんね」
 そんな事を言いながら、同室の許しが出たことにか心から安堵した笑顔でいそいそと床に敷いた布団の上掛けを剥ぐ。
「じゃあおやすみなさーい」
「……ああ」
 寝床としては固いだろうに満足げに寝転がる様を、何とも言えない心持で見下ろす。
 壁を隔てればそこに居ると分かっているだろうに、目の前に居ると居ないとでそこまで違うものか。

 苦笑しつつこちらの寝る支度を済ませていると、ふと思いついたように龍太郎が尋ねてきた。
「この診療所って、先生のご実家なんスか?」
「ああ。そうだ」
「へえー。子供の頃とか怖くなかったですか? 親御さんが居ない時とか。こんな広い家にひとりぼっちだと」
 一人は少し考え込んだ。

「……あったかもしれないな」
 今思えば、まだ子供と分類しても差支えはなかっただろう。まだ学生服も脱ぎ切らない頃。この家に独りになった時。

 あの頃、時折あまりにも重い役割が恐ろしくてたまらなくなった。何か取り返しがつかない事が起こっても、起こしても、誰もそれを知ってくれることすらない恐怖。身が竦むようなその感覚。確かに今は目の前にある他人の命の灯が、己の手ひとつによって永遠に掻き消え、独りの手術室に取り残される幻想。人の手に余る天秤。まるで神のような。

 回顧に口を噤む一人に、答えを聞いた龍太郎はやさしい声で相槌をうった。
「そうですよねえ」

 それは、いつかここにひとりぼっちだった子供をいたわるような声音だった。
 怪我をした子供の話に、痛かっただろうなと少し眉を寄せて、でも無事ではあったのだと安堵するような。

 思いがけず示された嘗ての己への慈愛の情に、一人は微かに動揺した。
 あの頃の自分が、その柔らかい声に慰撫される非現実を仮想する。

 それはきっと身を包んでくれる毛布のように己を暖めただろうが、甘く蕩ける毒のように、己を挫けさせもしただろう。
 こうしている方が幸福だと識って。

「その時お前の横で寝たとしても、大した頼りにはならなかっただろうな」
 枕に頭を預けながら、思わずらしくない憎まれ口を放った。
 龍太郎はムッとした声で反論してくる。
「そりゃ先生みたいに強くはなさそうかもしれませんけど、居ないよりはマシっスよ!」
 一人は目を伏せて笑った。
「そうかな」
「そうですよ!」

 確かに、そうなのだろうと思う。だが、叶わなかったそれを認めることは少し癪なような気もした。
 何にせよ過ぎ去った頃の幻だ。あり得ないことはあり得ない。