「K先生は昔からそりゃあもう真面目なお人だったのよ」
「ハイ……」
「学生時代もいつもお勉強お勉強で、ずっと学年でも一位だったって話だしねえ」
「そうそう。羽目を外したなんて噂一度も聞いたことないわよねえ」
「そうなんですか……」
「そうなのよお。だから高品先生もね、お酒を飲んで楽しくなるのは良いけども、ちゃんと締めるところは締めないとダメよお」
「そうよねえ」
「相手を見ないとねえ」
口々に同意し合いながら頷き合う婦人たちに囲まれた龍太郎は、切り株に居住まいを正し、背を丸めて深々とこうべを垂れた。
「大変反省しておりマス……」
先日の宴席にて悪ノリで絡まれていた若夫婦を庇いこの村の絶滅危惧種の医者同士でマウストゥーマウスした一件は、一時は不毛な結婚騒動にまで発展しかけたものの、話が荒唐無稽過ぎた為かあるいはフォローされた面々が訂正してくれたおかげか、そう時を待たず正しい形で伝聞される事となった。
ただ、尾ひれが付かなくなったにしたところで真相そのものが恥である以上、別にそれで傷が浅くなるというわけでもなかった。
主犯でありながら翌朝はすっかりそのことを忘れていた龍太郎も、時間が経って段々と酔っていた間の記憶を思い出し、今はその件についての話題が出る度に穴があったら入りたい心地にさせられている。
それなりに日が経ったおかげで話題の旬は過ぎつつあるものの、今日もこうして井戸端会議していた主婦の皆さんに往診帰りの所を捕まって苦言を呈されているところだ。
新顔の研修医が酒に飲まれて無礼講な振る舞いをする事自体は何ら大したことではないが、師事している診療所の主を巻き込んだという所がとにかく問題らしい。
確かにここに来てまだまだ日の浅い龍太郎から見ても、この村における彼の人の求心力は一種異様なものがあると感じている。
信頼、尊敬、恭順――崇拝?
閉鎖的な社会で醸成されたその空気には、どこか覚えがあるような気もした。
考え込む龍太郎に、輪の中でも一番年長と思われる女性が、ほっほっほと笑いながら言う。
「ええじゃないか。あのお方はずっと、遊ぶことも許されん特別なお医者様じゃった。近頃は熱心に後進育成に励んでおられるが、そこに来て高品先生みたいな軟らかくてチャーミングな人が来てくれて、わしは良かったと思っとる」
「チ……チャーミングっスか」
「そうじゃ。今までいなかったタイプじゃな。まあ、あんたは気にせず伸び伸びやんなさい」
鷹揚な励ましに、鶴の一声だったのか周りの婦人も態度を一転してそうですねと同調している。
龍太郎は恐縮しながら、別れ際に競うように貰ったおやつで診療鞄をパンパンにしつつその場を後にした。
そしてそんなやりとりからまだ間もない内に、またこの間ほどの規模ではないにしろ再び龍太郎は宴会の席に居た。
今度は隣の区で古くから商売している大旦那の傘寿の祝いらしい。国のコロナ対策が緩和された事で、この村でも反動のように宴会歓迎ムードが形成されつつある。
コロナが無くなったわけではないので警戒は怠らぬようにと釘を刺しつつ、神代一人もまた参加していた。というより、どうやら村で催されるどの宴でも彼は主賓扱いでもてなされる立場のようだ。龍太郎は完全におまけだった。
「今日は何もしねえのかい高品先生」
「おお、何かするのかい高品先生」
「しませんって! あれから無茶苦茶反省したんスから! 先生にも謝り倒したし!」
「な〜んだ残念」
「そんなこと言って、酔ったらまた分かんねえぞ」
「そうだそうだ」
「先生だってちょっと期待してるかもしんねえぞ」
「先生イジリはやめてくださいよォ! 後が怖いんスから!」
陽気な笑い声が起こる中で、笑い事じゃないと恐々龍太郎は後ろを振り返る。一人は何も言わず、意外にも口元にうっすらと愉快そうな笑みすら浮かべて静かにグラスを傾けていた。
何だか機嫌は好さそうだと、龍太郎は胸を撫で下ろす。
それからまたじゃんじゃん飲まされつつも、今回は宴席が変な空気になることもなく、村の人たちの話をうんうんと聞いている内に夜は更け、つつがなく宴席を辞すことになった。
「わあー先生すっごいっスよ星! すごい! 田舎すごい! めっちゃくちゃよく見える!」
「そうだな。今日は快晴だったから余計によく見える」
「こんなびっしり、隙間なく見えるモンなんですねえ!」
「上ばかり見て歩くな。危なっかしいぞ」
「大丈夫ですって! こんな暗くちゃ下見たってどうせ危ないですから!」
「何も大丈夫じゃない」
言いながら一人の手が龍太郎の肩を掴み、押しながら歩いてくれた。
支えてくれるそれに遠慮なく体重をかけながら、龍太郎は嬉しげに笑って一人の顔を見上げる。
「楽しかったですねえ」
何の裏もないその言葉に、一人もフッと笑った。
「そうだな」
「みんな楽しそうでしたしねえ」
「ああ」
「オレ、村の皆さんの話聞くの好きっス」
一人は目を細めた。
「そうか」
「ハイ。先生も好きっスよね」
さらっと言われて、少し目を見開いた後、素直に頷きを返す。
「……そうだな」
龍太郎は笑って言った。
「先生って、いい先生っスよね、ホント」
一人は虚を突かれたように黙り込んだ。
「あ、着いた〜」
道が開けて現れた診療所に、フワフワした足取りで吸い寄せられた龍太郎は、扉の横に立って一人が鍵を開けるのを待った。
鍵を持っている一人は、ゆっくり後を追って扉に近づき鍵を外した。そのまま扉が開けられる。
後ろに並んで、一人の後ろに続いて入ろうとした龍太郎は、いつまでも目の前の大きな身体が動かないので首を傾げた。
「先生? どうし……」
見上げた龍太郎の言葉が止まる。
背の高い、普段は頭ひとつ分高い位置にあるその人の顔が、何だかとても近い位置にあった。
お互いの吐息がかかるほど。
それでいて離れるでも、それ以上近づくでもなく、何かを逡巡するようにただその距離で留まっている。
触れるほど近いその顔を眺めた龍太郎は、じわじわ顔を赤くした。
目の前の人が、何をしたがっているのかあまりにもハッキリとわかった。
「……もしかして先生。クセになっちゃったんスか?」
何とは言わず小声で尋ねる。
一人は少し目を泳がせた後、低くぽつりと呟いた。
「……かもしれん」
あまりにも素直な肯定だった。毒気を抜かれるほど。
龍太郎はおずおずと、残りの距離を埋めた。
今度は少し、あの時よりも遠慮がちに重ねる。様子を伺うように柔く。
合わさった唇は厚くしっかりしていて、ああそうだこの人の顔は彫刻のような造形だったなと今更のように思う。
龍太郎が唇を離すと、一人は逆に追いかけるようにその唇を食んだ。
確かめるように重ねては、納得したように繰り返す。
背に置かれた大きな手が心地よく、龍太郎は目の前の太い首に腕を回して、熱心なその頭を緩く抱くようにした。そして、その頭を撫でてみる。
一人は拒まず、ただ少し不思議そうに顔を離し、龍太郎と目を合わせた。
龍太郎はその目をじっと見つめて言った。
「先生って、ずーっと真面目に医学の勉強ばっかりしてきたんでしょうね」
単純な言葉。その声に、複雑な情がこもる。
それは自分と異なるものへの尊敬であり、また、自分と異なるものへの僅かな敵意だった。
一人はその顔をじっと見つめながら沈黙した。言われた言葉がその通りなので沈黙するしかないのもあったが、龍太郎のどこか屈折した眼差しに見入っていた。
暫し口を閉じた後、龍太郎はふと爪先立って、すっかり普段から深い皺の刻み込まれている一人の眉間にちゅっと唇を落とす。
やさしいその仕草に滲むものが、敬意なのか憐憫なのか、一人には分からなかった。
ただ、驚いた自分の顔にしてやったりと目を細める表情が、どこか寂しげに見えたことがいつまでも心に残った。
