七十五日は人の噂

 この辺りでは一番広い家に住んでいる主人の快気祝いは、遠方の地区からも参加者の駆け付ける盛大な規模の宴会になった。
 診療所からも一人と麻上と龍太郎が参加していたが、遅くなり過ぎるのも帰りが心配だからという事で麻上は一足先に辞している。
 一人もこれまでこういった場はある程度付き合ったら中座する事が多かったのだが、龍太郎が来てからは長く居座ることが多くなっていた。どうせ同じ診療所に帰るのだからと龍太郎に付き合っていると、人当たりが良く気安い研修医はやたらと村民から引き留められがちなため、自然と遅くまで居残ることになるのだ。
 宴もたけなわな大広間はまだまだ盛り下がる様子も見えず、それどころかいい塩梅にアルコールが巡ってきたおかげか、あちこちでひっきりなしに大きな笑い声が上がっている。
 その中でも割合静かな片隅に、龍太郎と一人の即席相談所のような空間が出来上がっていた。

「それは息子さんの言ってることの方が尤もですよォ」
「そうかい、やっぱし高品先生もそう思うかい?」
「だって奥さんのウチの人はその時誰も来なかったんスよお? 絶対そういう事ですって! ねえ先生!?」
「そうだな。俺も息子さんの方と一度話し合うべきだと思う」
「やっぱりそうかァ〜。いやあ、気が晴れたわ! 二人にこうやって話聞いてもらえて良かったよ! ま、ま、飲んでけれや!」
「いやいや〜、そんなそんなぁ」
 グラスを手渡され、トクトクと注がれるビールを条件反射のように受ける龍太郎を、一人は横から嗜めた。
「そろそろ打ち止めにしておけ。龍太郎」
 しかし顔を赤くした相談者がガハハと笑い飛ばしながら言う。
「固え事言うなってK先生ェ! まだまだ飲めるよな高品先生!」
「いやあ〜どうかなァ〜」
 龍太郎はポヤポヤした笑顔で言いながら、ゴクゴクと注がれたビールを飲んだ。
 よっ熊退治! と掛け声が掛かり、周囲がどっと沸く。

 一人は呆れながら、さりげなく龍太郎の手からグラスを取り上げて水の入ったグラスと替えた。勧められると諾々と受け入れがちなのは、医師の前に社会人として問題ありだ。

 しかし最近一人は、こうして龍太郎に付き合って宴席の終わり頃まで居ることに割と有意義さも感じていた。龍太郎はとにかく躊躇いなく人の懐に入るタイプで、村民の思いも寄らないような個人的で込み入った話にも大真面目に耳を傾ける。そして診療医であるKとしてはまず踏み込まないような領域まで平気で踏み込むため、長い付き合いの一人でも全く知らないような思わぬ話を耳にする事があるのだ。
 今までKに対してはそうした話をしてこなかった村民は、しかしKに聞かれたくない話というわけでもないらしく、むしろ決まって聞いてもらえて良かったという反応をする。
 中立な医師の態度ゆえに話す機会を得なかっただけで、案外と皆、もう少し近づきさえすれば言いたいような何事かを胸の内に溜め込んでいるのかもしれない。
 そして一人自身、そういう話を聞くのが嫌いではないのだ。
 だからそうした他人の私情に真剣に付き合う龍太郎の態度も好ましかった。

 別の村民が自分の番とばかりに話し始めようとしたその時、離れた方の集まりで、一際大きな喚声が響いた。
 高齢者の多い一人と龍太郎の居る付近に対して、働き盛りの若い衆が集まっていた一帯だ。
「うわ、なんスか〜?」
 大声に驚いたらしく、気の抜けた口調で龍太郎が反応する。一人を挟んで反対側の方角だったため、覗き込みながら寄り掛かってきた。さっきからグラグラと不安定なのが気になっていたのでそのままにさせて、一人も同じ方向を見る。
 男女入り乱れた三、四十代が車座のように集まっている一団だった。その中心で、どうやら先日結婚したばかりの夫婦が周りに囃し立てられているようだ。話の内容は聞こえないが、どうも下品な話題で揶揄われているようだった。
 夫の方はグループでも年少の方で、村の外から来たという同年代の嫁同様、大人しい印象の男だった。長い付き合いの兄貴分のような男たちに取り囲まれて困ったように笑っている。
「新婚夫婦のアツアツっぷりが見たい人〜!!」
 リーダー格の一人が挙手すると、周りの酔っ払いたちも満面の笑みで手を挙げる。
『は〜〜~~〜い!!』
 そして集団で「そーれキッス! キッス!」と手拍子して若い夫婦を煽り始めた。
 神輿に担がれた夫婦はおどおどと恥ずかしげに視線を彷徨わせ、その表情には不安と焦りが見える。明らかにこの流れを嫌がっているが、言い出せないのだろう。
「まったくアイツらはしょうがねえな……」
 酒に強く良心的な年寄連が、苦笑しつつ成り行きを眺めている。
 あまり良くない流れであることは分かるが、世代の違う連中が、ほろ酔いの悪ノリ気分で楽しげに盛り上がっている所に水を差すのもどうかと口を出すのを迷っている素振りだった。

 チラチラと申し訳なさそうにこちらを見る複数の視線を感じる。実際、一人自身もこの場は自分が出るべきだろうと考えていた。
 医者として中立な、この村の秩序の一角を成す者として、この場で釘を刺す役割としてはふさわしい。雰囲気を壊すことになったとしても、元より皆とは一線を画した立場だ。畏れられた所で支障はない。
 ため息をつきながら、しょうもない騒ぎを諌めるため息を吸い込む。

 しかし一人が声を張るよりも先に、隣の男が突然膝立ちになって挙手し、よく通る声で宣言した。

「わかりました! オレに任せてください!!」

 は? と周囲が皆、動きを止めて振り返った。
 一身に注目を集めた龍太郎は、一人の方を振り向くと、その頬を両手で挟むようにして上向かせた。
 そして躊躇なく顔を寄せ、ちゅう、とその唇に吸いついた。

 水を打ったように場が静まり返る。
 そして一拍置いた後、広間が熱狂した。

「うおおおおお!!! やったッ! やりおったッ!!」
「なんてこった!!」
「あのK先生に!! キッスを!!」
「すげぇ!! えれぇこった!!」
「さすが熊殺しの先生じゃ!!」
「記念日じゃ!! 今日は記念すべき日じゃあ!!」
 何を? と頭の隅で考えながら微動だにせずいる内に、合わさった唇が離れていった。
 座り直し、姿勢を正した龍太郎が一礼する。
「ご確認よろしくお願いします!!」
 何を? とその旋毛を見下ろす中、周囲からは何故か拍手が起こった。
「どうだったK先生!?」
「ご感想は!?」
 どう言うべきか全くわからなかったので、素直に感想を述べる。
「……柔らかかった」
 その感触にか、この状況にか、とにかくびっくりして頭があまり働かなかった。
『うおおおおおお!!』と再び場が不可解に沸く。
 感想を聞いた龍太郎は頭を掻いて照れていた。その反応でいいのか。
「いいなァ〜高品先生ワシにも!」
「オレもオレも!」
 顔を赤くした酔っぱらい達がふざけて自分の唇を指しながら龍太郎に寄ってくる。
 しかし本人が何か言う前に、酔ってもしっかりしている年長者が龍太郎の肩に手を置いてこんこんと言い含めた。
「ダメだぞ高品先生、誰にでもやっちゃ。K先生だけにしときなさい」
 それもどうなんだと思ったが、諭された龍太郎はニコニコして「は〜い」と子供のように良い返事をしている。
 迫っていた酔っ払いたちも「ちぇ〜!」と笑いながら、気分を害した様子もなく引き下がった。
「いやあ〜めでてえな!!」
「二人のこれからを祝して!! 改めて、カンパ〜イ!!」
『カンパ〜〜~~〜イ!!』

 盛大に祝福されてしまった。
 呆然とする一人の横で、龍太郎が暢気に「カンパ〜イ!」とグラスに掲げた水をおいしそうに飲み干していた。

 *

「昨夜の記憶がどうもあいまいで……オレちゃんと帰れてました?」
 次の日の朝、陽の差し込む診察室に入ってきた龍太郎は眩しげに顔を顰め、頭を押さえながらそう言った。

 腕組みしてカルテの方を向いたまま、一人は低く答えた。
「……俺が背負った」
「えっ!!」
 焦りの声を上げた龍太郎は、土下座する勢いでペコペコした。
「す、スイマセンッ! ご迷惑おかけしまして……!」
「…………」
「ヒィ……」
 一人の沈黙をどう捉えたのか、龍太郎は細い声で鳴いて、その辺りを落ち着かなげにウロウロし出した。

 確実に覚えていない。

 あの後帰ってからも唇が合わさった時の濡れた感触が妙に残り、微妙に眠れぬ夜を過ごした一人としては誠に遺憾だったが、こんな話を自分から言い出す気には到底なれない。

 今日は午後出の麻上が合流するまでは当分あり、それまでこの異様な雰囲気に包まれたまま状況は推移するかに見えた。しかし診療所を開けるか開けないかの早い時間に、診察というわけでもなく訪問してくる二つの人影があった。
 昨日騒いでいた一団の内の二名だった。

「いやあ、面目ない。つい酔っ払って悪ノリしちまって……。あの二人にも今朝方早く謝ってきたよ」
 重く頷いて一人は釘を刺す。
「今度から酒の席ではもっと自重するように」
「ハイ……。身に染みました。本当、あのまま二人が止めてくれなかったら、みんなに嫌な思い出残しちまう所だった。フォローしてくれてありがとう、先生方」
 ヘヘッと鼻の下を擦りながら礼を言われ、龍太郎は首を傾げた。
「? ?」
 そのままコソコソと機嫌を伺うように一人に耳打ちしてくる。
「あの、オレ、なんかありがたいこと言ったんスか? 先生と一緒に」
 一人は頭を押さえ、深くため息をついた。
「ハァ……」

 事態が進展したのは、揃って生暖かい目で二人を見つめてくる外来患者の診察を数名終えた後、遣いにやった薬品庫から戻ってきた龍太郎が転がるようにして診察室に駆け戻ってきた時だった。

「あっ、あのっ、先生! 今さっき村井さんから聞いたんスけど! な、なんかオレが昨晩大勢の前で『オレを嫁にもらってください』と叫んだあと先生と熱い口づけを交わし先生が『わかった』って了承して皆でオレたちの門出を盛大に祝福したという噂で村がもちきりになってるとか!?」

 ビキ、と一人の表情筋が固まった。
「うわあ!」
 恐ろしいものを見たように震えあがる龍太郎に、一人はどうにか気を落ち着けながら、抑えた声で滔々と昨日の正しい経緯を話して聞かせた。

 引きつった顔で顛末を聞き終えた龍太郎は、納得したように頷く。
「な、なるほど。つまり、人助けだったと……」
「……」
「い、いやあの! フツーに止めろよっていうご意見もご尤もなんですけども!」
「……」
「そこはまあ……その……じ、人工呼吸の練習ということで……?」
 ヘヘッと笑いながらとって付けたようなその言い訳に、一人はイラッとした。
 無言で立ち上がり、つかつかと近寄ると問答無用で足払いをし、龍太郎の身体を診察台に転がす。
「ヒィッ」
「あんなものは人工呼吸とは言えない。人工呼吸はまずこうして顎を上げ気道を確保する」
「あわわわ」
 仰向けにされ顎を上向かされた龍太郎は青くなってもがく。その鼻をつまむと一人は顔を近づけ目線を胸にやった。
「次に肺の動きを確認しながら口を覆うように密着させる」
「し、してます! 確認せずとも! 息してまっもがっ」
 口を覆うと龍太郎の抵抗が大きくなった。「んんんん!!」と口の中でくぐもった悲鳴が響く。
 一瞬息を吹き込む素振りをすると口中の悲鳴が大きくなった。
 一旦解放すると、必死の涙目で訴えてくる。
「まって! こわい! 死んじゃいます! 先生の肺活量で息吹き込まれたらオレの肺バクハツしちゃうから!!」
「一旦口を離し息が自然に吐き出されるのを待ってから二回目の呼気を吹き込む」
「やめてえぇ~! ごめんなさい! ご迷惑おかけしました! すみませんでした~!!」
 その時、ガチャリと背後の扉が開いた。
 あ、という空気が、入ってきた村井と二人の間に流れる。
 村井はコホン、と咳払いすると室内にそそくさと入ってきて、目的の棚を開けながら言った。
「失礼。お楽しみ中でしたな」
「ちがいます」
 デカめの声で否定したが、村井は「はっはっは」と鷹揚な笑いを返すばかりで、用事を片すと邪魔者は退散とばかりにさっさと出て行ってしまった。
「……」
「えっ!! 今のはオレのせいじゃないっスよ!! ちょ、せんせ、わああああ!!」