対岸に見える大破した遊園地は、夢の跡とでもいったような風情で現実を晒している。隣接した米花水族館も閉館中なので、ここに来るまでの電車もバスもガラガラに空いていた。経済的損失はかなりのものだろう。
組織はその性質上当然のことだが、目立つ行動を嫌う。だが、本当に隠したいことの為なら、どれほど過激な混乱も破壊も厭わない。
そうして混乱の最中、実際にあの人は誰にも見えない場所に消えてしまった。永遠に。
ジンは裏切者が絡むと常軌を逸した執念を見せる。今回も規模を考えればやり過ぎと言えるだろう。でも彼が居る限り、組織に背を向けた者に安息が訪れることはない。死以外では。おそらく今回もお咎めなしで、彼の地位に変わりはない。
灰原が彼を憎んだのは、姉の死から自らの死を覚悟するまでの間だけだった。そこで一生分憎んだ後、思わぬ生を拾ってからは、ただただ恐怖した。穏やかな夢を覚ましに来る死神。過去の象徴のような黒が、ただそこにあるだけの光など容易く呑み込んでしまうことを知っていた。
それでも、ただあるだけの光でも、あるだけで救われていると気づいてしまったから。
短い邂逅の中、今の自分が好きだと語ったキュラソーの透明な瞳を思い出す。まるで夢見るような。灰原はあの時確かに彼女の中に、同じ色を見ていた。
*
わざと存在を知らせるような、ゆっくりとした足音を耳が拾った。警戒する猫のような機敏な動きで振り返った灰原に、逃げようと思えば逃げられるギリギリの位置から闖入者が微笑む。
「奇遇ですね」
あまりにもとってつけたような声のかけ方に、灰原はあきれ果てた。雄弁に非難を含む視線を気にせず、沖矢昴はまっすぐ近づいてくる。
「こんな所までお一人でどうしたんです?」
「……故意についてきて、奇遇って言葉は使わないわ。覚えておくことね」
諦めの境地で、せめてもの皮肉を言った。ここに沖矢が現れたことに深い追及はしない。スマホのGPSをハッキングして居場所を探知する程度、この男なら何の制約もなくやってのけるだろう。
案の定灰原の言葉をスルーしていけしゃあしゃあとのたまう。
「警戒心の強い君が誰にも行き先を告げずこんな所まで来るのは、よほどの事があったのかと思いまして」
帽子、似合ってますね。
少しでも身元を隠す苦肉の策というようなそれを指摘され、灰原はぐ、と言葉に詰まった。沖矢は畳みかけるように続ける。
「それに最近、元気が無いようでしたので」
何があったのかと、暗に問われている。灰原はそっぽを向いた。
「別に。……」
何かうまい言葉を探すが、見つからない。それに、一応彼が自称する“騎士”として、単独行動する灰原をわざわざここまで迎えに来たのであろう沖矢に対して、説明する義務があると思った。組織があの遊園地で大騒動をやらかしてから、そう長い日が経っているわけでもない。現場のひとつとも言えるこの人気のない場所に独りで来るリスクを、灰原も十分自覚はしていた。沖矢にしてみればそれこそ、万が一の裏切りを示唆するものでもあったかもしれない。それでも彼は観察対象として陰から伺うことはせず、直接問い質しに目の前に立った。その誠意に応えるべきだろう。
灰原は自分の手の中に目線を落とす。沖矢もその手に持つものは気付いていた。
白い百合の花。
「私は無宗教だし、くだらない感傷だとわかっているけど。その人の“死”を、私以外だれも知らないから。……」
そう言って灰原は、手に持った花を、目の前の水面にひっそりと投げた。水に浮かんだ花は、緩やかな流れに従ってゆっくりと遠ざかる。
沖矢は共にそれを見送りながら、怪訝そうに呟いた。
「死……?」
「正確には、“私と江戸川くん以外知らない”だけど……」
補足したその情報に、何か気付いたように沖矢の目が灰原に見えない位置で閃く。
「……知り合いだったんですか?」
「いいえ。初めて会って、少し話をしただけ。けど、私と……私の大事なものを、守ってくれた。お礼を言う機会は、もう永遠に無いけど」
戸籍も、証明するものも、縁者も、なにもない。墓なんてものが作られることもない。ただの現象のように滅び去っていく存在。灰原哀の確かな可能性のひとつ。
沖矢は灰原の話を聞いて、違和感のあった画のピースが埋まるのを感じていた。窮地を救った筈なのに、どこか疑問を持ったようなコナンの表情。足りなかった最後の一手……それをあの女が?
だとしたら事態は把握していたよりも複雑な展開をしていた事になる。当時は色々と立て込んでいて目を配れなかったが、かなり深くこの少女も、少年たちと一緒に関わってしまっていたとは聞いていた。それにその裏切り方……それはまるで。
見下ろせば、彼女の髪が夕陽に照らされて金色に透けている。もう日が落ちてきていた。沖矢は話しかけようと一歩踏み出して、何か言う前に、灰原が振り向いて言った。
「最後に目が合ったの。私と、あの子たちが中にいると気付かなければ……あそこまでは……死ぬような無茶までは、しなかったかもしれない」
それは訴えるような響きでもなく、ただ言い残したことを言っておくような、浮いた感じのする言葉だった。他に言う機会が無いからとでもいうような。
悲しそうでも不安そうでもない表情。そこに付与する感情を決めかねているのかもしれない。ただ、沖矢はそこに、灰原の素の言葉を聞いたような気がした。
「……帰りましょう。送っていきます」
沖矢昴が彼女に言える言葉は、それしかない。手を添えて促す。灰原は頷いた。最後にちらりと振り返って水面を見やる。花は遠く、日の沈む海へと流れている。花弁の色は今や、夕陽に照らされ燃えるような橙に染まっていた。
*
車を出す前に、灰原を拾ったことを沖矢が電話で阿笠博士に連絡すると、博士は明らかにホッとした様子で感謝を述べた。出かけることは知っていたが、博士も最近の灰原の様子に思うところがあったらしい。心配していた様子で、それでも沖矢が一緒にいることを安堵していた。
話していると無言で手を差し出され、沖矢は電話を灰原に渡す。
「もしもし、博士?……」
話し始める灰原に後部座席を開けて促すと、灰原は目で了解の意を伝えながら乗り込んだ。ドアを閉めて、沖矢も運転席に座る。動き出す車で、灰原は「そのまま二人で晩御飯でも食べて来たらいいじゃろ」という博士に丁重に拒否を伝えていた。
道路は比較的空いている。開けた窓から吹き込む風が、頬杖をついて物思いに耽る灰原の髪を靡かせる。その目が見つめているのは遠くの夜景か、それとも脳裏に浮かぶ過去か。電話を終えた車内には駆動音だけが響き、夜の静けさが満ちていた。空には大きな月が浮かんでいる。
「これは、独り言みたいなものなんだけど」
「……ええ」
「どうして……とずっと考えていたけれど、きっと、そういうことじゃないの。あの瞬間まで、あの人も死ぬ気なんかなくて……ただ命を懸けていただけ。生きるために命を懸けて、生きたいと思った理由のために、その命を使う瞬間が来てしまっただけなの。今まで私の周りで、死んでしまった人は少なくないけど……そうなってしまうまで、みんな生きようとしていた。私はそれがわからなくて、手段を目的にしてばかりいたけれど……」
沖矢はバックミラーに映る彼女の白い横顔を見つめる。
「今は、違うんですか?」
それが、それだけが今の沖矢にとって、大事なことだった。
「……わからない」
灰原は素直な気持ちを述べる。常に流れていく景色、静止した車内には灰原と沖矢昴の二人だけ。外界と隔絶されたこの空間が、灰原の心から秘密を取り除いていた。座席で遮られた彼の姿は見えずに、灰原の声に応える声だけが響く。まるで告解室のように。
「運命から逃げるなって、言われたわ。そして、彼の言葉が正しいって思う自分がいる……けれど、私は……正しくいられるような人間なのか……本当にそんな強さが、私に残っているのか……」
正しさを証明するものは何もない。信じる心がそれを担保するだけだ。彼女は自分を信じられず、代わりに他のものを信じている。裏切られる、あるいは裏切ることを恐れながら。沖矢はその残酷さを思う。
灰原は少し黙り込んで、考えに沈んでいた。やがて溶けるような微かな声が呟く。
「ただ……命を懸けても裏切れないものは、私にもわかるわ……」
*
無事送り届けた沖矢に、灰原は向き直って礼を言った。
「送り届けてくれたことには感謝するわ。頼んでないけどね」
「いえ、お気になさらず」
沖矢はにっこりと謙遜する。灰原は肩を竦めて、「じゃ」と家に入ろうとした。その背中に沖矢は声をかける。
「君の出した答えは君だけのものです。どんな理由でも、どんなものであってもね。そして僕はそれがどんなものであっても、君を守りますよ」
灰原は振り返った。沖矢は真面目な表情をしていた。
「命を懸けても」
決まりきった事を言うように落ち着いた声で言うものだから、灰原はどう反応していいかわからなくなる。
沖矢はふっと笑って、阿笠邸のドアを示した。
「おやすみなさい」
それでもその挨拶の声が、心から労わる響きで灰原の内にすとんと落ちてきたので。
おやすみなさい、と小さく返して、灰原は家のドアを開けた。それが閉じるまで、沖矢はその場でじっと見送っていた。
