安室透のアリバイ

 小学生だろうが高校生だろうが、小五郎にとってガキはガキだ。
 だが自分の家に転がり込んでいた鼻たれ坊主が昔から知っているクソガキだったと知って、主に嫁入り前の娘と一つ屋根の下住まわせたこれまでの日々を思うと憤死しそうになり、実際本人も小五郎に対しては土下座する勢いで真実を打ち明けていたわけだが、しかしそれはそれとして案外驚かない自分が居た。意識の上には登ってこなくとも、どこかで気付いてはいたのだろうと今は思う。何せこっちだって向こうが小学校に上がる前から見知っている顔だ。荒唐無稽すぎて確定させる気が起こらなかっただけで、要素はとっくに揃っていた。

 何にせよ、そうなった原因である黒の組織とやらも、めでたくこれで解体されるらしい。

 ヤクザの摘発どころではない、ちょっとした軍事作戦レベルの攻防があったようだ。ほぼ蚊帳の外だった小五郎自身も色々あって多少巻き込まれたが、ほとんど飛び道具を持たない連中が相手だったので何とかなった。取締りの厳しい日本で貴重な銃火器持ちの人員はもっと重要な現場に集中していたらしい。それなりの人数をコンクリートに叩き付けたり締め落としたりした気がするが、必死だったのでよく覚えていない。
 とりあえず小五郎自身はめでたく無傷でピンピンしているので、件の重要な現場――銃声やら爆発音が絶えず轟いていた方面から生還した連中を、こうして見舞うことも出来ている。

 小五郎は泣きじゃくる娘と、諸々の事情をとっくに知っていたらしい向こうの両親と、応援に来ていた大阪のカップルが取り囲むボロボロの工藤新一の病室をあとにした。
 隣の病室では、これもまた実は小学生ではなかったと明かされても全く驚きが無かった理系少女が、感極まる阿笠博士と穏やかな顔で話し込んでいる。
 更に隣の病室では、禁煙のはずのベッドで煙草を吸う人相も顔色も悪い男を、そっくりな目つきをした家族が取り囲んでいた。特に蘭の友人の真純はその男の妹らしく、号泣しながらベッドに突っ伏している。

 どこも賑やかな病室を通り過ぎざまに見送って、小五郎は唯一ひっそりと静まり返った病室へと足を踏み入れた。
「……よう」
 ぶっきら棒に声をかける。
 包帯だらけの癖に、ベッドの上で開いたノートPCに一心不乱で何かを打ち込んでいた真剣な表情が、ふっと小五郎を見上げて綻んだ。
「――毛利先生」
 ノートPCを閉じながら呼びかけるその笑顔は、少し困ったような、ばつの悪いような気配を滲ませていた。

 

「お前の顔を見ると安心するよ」
「え?」
「他の奴らはみんな、だまし絵を見せられてるみてえでな」
「ああ……」
 他の病室を指して言う小五郎に、安室透――降谷零は苦笑する。
「彼らはまるで異なる正体の姿を持っていましたけど……僕には〝元の〟正体なんてありませんからね」
 謎かけのような言葉を、しかし小五郎も今はすんなりと納得できた。
 江戸川コナン、灰原哀、沖矢昴――ずっと周囲をうろついていた彼らの姿はどれも虚像だった。小学生の二人の正体は十七、八の少年少女であったし、大学院生の正体は三十過ぎのFBI捜査官だった。まるで別人の片方が消え、片方が入れ替わりに現れたとしか思えない。
 だが小五郎の前では探偵の安室透と名乗り、黒の組織ではバーボンと名乗っていたらしい彼の本来の身分は、存在だけで記録を伴わないゼロの人間だ。降谷零という捜査官はどこにも残らず、だからどこにでもいられる。姿を偽る必要すらなく。

「お前みたいな人間が、本当に居るとはな」
「はは、そんなに驚くことでもありませんよ。死んだはずの人間が生きていることだって、この国では珍しくないのですから」
「だがそういう奴は、やむにやまれぬ事情でそうなってるだけだろ。正規の公務員の進路にしちゃあまりに裏道すぎるんじゃねえか」
「そうですね……でも、日本にもそうした人材は必要です。FBIやCIAだって何人も潜入捜査官を送り込んでいました。日本で起きている事件に、日本の人間が手出しを出来ないなんて、あってはならないと思いませんか?」
「そりゃそうかもしれねえけどよ。だが、あまりに割に合わねえだろ。お前学校だってメチャクチャ優秀な成績だったんだろ? それをわざわざ全部抹消してよ……」
「成績が証明するものなんて、ただの成績でしかありませんよ」
 降谷は穏やかに笑った。
「僕は、向いていたんだと思います。僕には、素の僕を証明してくれるものがない。家族もなく、ルーツが曖昧で……始まりがなく経過だけがある人生でした。まだ何者でもない『降谷零』を証明してくれる人もみんな、もうこの世にはいません。公安の降谷零、組織のバーボン、探偵助手で喫茶店アルバイトの安室透……それぞれの社会でプログラムのように走るそれぞれの役割は、仮面なんかじゃない。僕そのものです。僕の人生には根がない。僕ではない何かを主体として動く、その時その時の振舞いこそが、僕の正体なんです」

 完璧な笑顔、完璧な態度。
 ポアロで接客する時も、探偵助手として話を聞く時も。笑顔を絶やさず人当たりよく、もの柔らかな青年『安室透』として一片の隙も見せない男。
 だがそれでも小五郎は、少しずつ時が経つごとに彼が打ち解けてきていることを知っていた。
 完璧な仮面が崩れているというわけではない。ただ安室透という青年のままで、彼が転がり込んできた周囲の世界に馴染んできていたというだけの話だ。
 しょうもない小五郎の行動に、たまに呆れたような、窘めるような顔を見せるようになって。
 客のいない雨の日のポアロで、一服する小五郎の雑談に笑って相槌をうちながら、大事そうにグラスを磨いて。
 それは演技が板についたというのではなく、単純に彼は元々そういう人間なのだろう。感性が素朴なのだ。
 決して闇の組織が似合う人間ではない。

「なんでたった一人で、そんなけったいな立ち位置を長いこと務める厄介事を引き受けた?」
「理由がありました。やる理由と、やめられない理由が」
「やめたい理由は?」
「やめる理由なんて、一つもありません。生きるほどに理由ばかりが増えて重くなっていきます。僕には、しなければならない理由しかなかった」
「俺が聞いたのはやめたい理由だ。やりたい理由でもいい。理屈の話はしてねえ」
 顔をしかめて言うと、降谷は困ったように笑う。言わんとすることは分かっているが何も言えないという顔だ。それでも小五郎は続けた。
「お前みたいな真っ当な良心のある人間が、人を物品みてえに平気で始末したり実験に使ったりする組織にいて、愉快でいられる筈がねえだろ」
「もちろんです。あの組織にいると本当に、不愉快なことばかりでした……。でも、僕に真っ当な良心があるかどうかは、ちょっと保証できません」
「なにも聖人君子って言いたいわけじゃねえよ」
「爆破テロ事件で、あなたを冤罪で逮捕するよう仕組んだのは僕です」
 唐突な告白に瞠目する。
「このままでは事故で処理され、捜査の継続が出来なくなり、後続の事件を防げなくなる。そう考え、僕は貴方を陥れ、勝手に国家保全のための生贄に仕立て上げました。許されることではありません。本当に、すみませんでした」
「……それであの後、やけに豪華なサンドイッチ差し入れてきたのかよ。傷だらけでボロボロの癖に何なんだその熱意はと思ってたが、謎が解けたぜ」
 降谷は少し恥じ入るような顔をして言葉を濁した。
「お詫びの品と言うには、あまりにも釣り合わない、ささやかな……自己満足な行いでしかないんですが……」
「あ? なんだ詫びだったのかよ。てっきり事後処理がうまく行ったか様子を見に来る口実だったのかと」
 小五郎の指摘に降谷は狼狽える。
「そ、それもあります。いえ、それがメインです」
 気に病んでましたと意図せず自白したようなものだ。鼻で笑う小五郎に、降谷は弱々しく視線を落とした。
「……僕の知っている人間で、身に覚えのない取り調べに耐えられて、精神的に強く、社会的信用があるため取り調べする側も慎重になるであろう人物……かつ時間のない中で工作を行える、普段の生活環境をよく知る相手……思い付いた相手が毛利先生しか居ませんでした」
「いいよ、もう。腹の立つ話ではあるがな。実際、オレ様の尊い犠牲のおかげで真犯人が捕まったんだろ」
 降谷は頷いてから、自嘲するような笑みを浮かべた。
「そういう風に、毛利先生なら……結果さえ出せば受け入れてくださる方だと、先生の強さを、勝手に頼みにさせて頂きました」
「フン。そこは甘えた、ぐらいの可愛げある言い方しとけ」
「おっしゃる通りですね。先生の強さに甘えたんです。……でも……部下から、逮捕時に蘭さんがひどく取り乱して泣いていたと聞かされて。僕はそういえば、先生という個人がどういう対処をするかばかり考えて、あなたの状態によって影響されるご家族の反応というものをまるで考慮に入れていなかったなと気がついて」
「……。」
「実感としてイメージ出来ないんです。家というもの……個の人間の変化がそのまま他の構成員の変化になる、そういう別々の人間同士の、分かちがたい塊のような……他人であって他人じゃない、そういう関係性の結びつきが、始めからそこにあるようにして在る……ということが、僕にはわからない。人間を本質的に個としてしか見れていない。蘭さんには、とても申し訳ないことをしました」
「……だが、そこで躊躇ってたら大切なもんを逃してたんだろ」
 降谷は素直に頷いた。
「より多くの犠牲が出ていたでしょう」
「なら、それは正しい選択だ。俺も蘭も多少くたびれただけで体はピンピンしてんだ。大勢の命と引き換えなら安いもんだったって、蘭も言うだろう」
 何も言わず、ただ申し訳なさそうに口の端に笑みを乗せる降谷に、小五郎は繰り返す。
「だから俺が聞きてえのは、そうやって色んなモンを一人で切り捨てて綱渡りで正義にしがみつくような面白くもねえ役回りを、どうしてお前は引き受け続けてんのかってことだよ」
「……僕はそれを出来る人間だからです。今言ったように、僕はあらゆる他者とのつながりが希薄な人間です。引っ張られるものがない。最短で大局にとっての最善手を選び取れる」
「それは、」
「その上、僕は組織の一部として動いた時、能力的にも非常に優秀な働きが出来る人間です」
 遮るように言って、降谷は微笑んだ。
「降谷零では重要な任務を単独で遂行できるし、バーボンでは素性がバレないまま幹部にまでなれるし、安室透では……色んなおいしい軽食が作れます。サンドイッチとか。おいしいコーヒーも淹れられますよ」
 小五郎は思わず何も言い返せなくなる。
「……お前の飯が美味いのは認めるけどよ」
 降谷は嬉しそうに笑った。安室透の顔で。
 愛嬌のある顔だった。彼がポアロで働き出してから、老若男女問わず好感をもって彼を迎えた。小五郎自身、授業料という餌があったとはいえアッサリと弟子などという近い距離まで彼を迎え入れたのは、彼の物腰による所が大きい。
 そこにいるだけで光っているような際立つ印象があり、それでいて端正な顔には常に誠実さが滲んでいた。
 生まれ持った華は、確かに潜入捜査にはうってつけの才能だったのだろう。闇の組織でも通用するほど。
 やりきれない思いで黙ってしまう小五郎に、降谷はしばらくその顔を見つめた後、言った。
「……幼馴染の同僚がいました。子供の頃から友達で、一緒に警察学校に入って、同じ公安に入って……共に組織に潜入しました」
 話す声は静かだった。小五郎は黙って聞く。
「彼が死んだ直後に僕は駆けつけて。そこにはもう一人、同じ組織の人間がいました。銃を持って、自分が殺したような事を言っていた。でも血痕の付き方から見て、友人が自分で自分を撃ったとしか思えない状況でした。友人は胸ポケットに入っていた携帯端末ごと心臓を撃ち抜いて、情報と共に自らを葬ったんです。それでも僕は、傍にいた奴を恨みました。裏切者を始末したと嘘を言って、友人の死を土産に組織でのし上がっていく奴が許せなかった。悪い関係ではなかったし、僕より優秀な人間なのに、それなのに何故、友人の死を止めてくれなかったのかって……ずっと憎んでいました」
「……そうか」
「でも、勘違いだったんです。奴は、自分の銃を奪って自殺しようとする友人を、止めていたんだそうです。同じNOCであるという自分の身分を明かして。でも、階段を上ってくる足音がして……情報が露見する前にと、友人は命を絶った。登ってきたのは僕でした」
 小五郎は絶句した。俯きがちの降谷の目は、長い前髪に隠れて見えない。
「僕も公安の人間だと気付いた後、そして奴が組織を抜けて共闘関係になった後も、何故奴は僕にその事実を伏せ続けていたのかは分かりません。真実を知ったら僕が自殺するとでも思ったのかもしれませんが」
「だが、隠すってもよ……! どの道お前のせいじゃねえだろそれは!?」
 答えない降谷の肩を掴んで揺する。
「たまたまお前だっただけだ! 他の奴かもしれなかったんだろ! どうであろうと、お前の友人は己の任務を全うするプロだったって事だろうが!」
 叱咤激励するような響きになった小五郎の声に、降谷は力なく頷いた。
「……その通りです。友人は立派な警察官でした。そして……組織で一人になった僕を、彼を死なせた奴への怒りが支えていたことも事実です」
「だからってなあ……」
 小五郎は唸った。例えば降谷は、他者の生活への干渉――環境の操作はしても、内心の操作には良かれ悪しかれ無頓着だった。だがその相手は、降谷の人生に干渉したのだ。内心の操作のために状況を操作して。
 それは良かろうが悪かろうが、傲慢のような気がした。
「きっと、僕のモチベーションは怒りなんでしょう。あの組織の全てが不愉快だったと言いましたが、だからこそ絶対に根絶しなければならないという思いが募りました。警察官として奔走する時もそうです。頭にあるのは、正しい在り方を乱す存在を、排除しなければならないという義務感……それだけです。最後まで、それを揺るがす何物も持たない。願望よりも義務、それが僕の全てであることを……間違いだとは思っていません」
「そりゃあ、そうだよ。間違っちゃいねえ。むしろ正しさじゃ花丸だ……けどよ……」
 自身もかつては刑事として奔走していた身だ。犯罪を憎む、いっぱしの正義感だってあった。
 だが小五郎は違う道を選んだ。家族がいたからだ。単純な話だった。己を本当に守ってくれるのは、何よりも家族の存在だった。だから、両立できない他の何よりも優先して守らなければならなかったのだ。
 小五郎が公僕として在れるのはそこまでが限界だった。だが、目の前の男は。己という私人をすべて擲って、国を守る機関そのものとなる人間は。
 ――僕の人生には根がない。

「辛くねえのか」
 零れた声に滲んだのは、問いというよりも、純粋な労わりだった。
 ただ単純に、目の前の男が心配だった。
 降谷は何か言おうとして、口を閉じ、そして言葉より先に、柔和な青い目を細めて小五郎を見つめた。
 そこに滲むのは感謝だった。

「……さっき言ったように……僕はそう振舞っている時、別の本当の自分なんて無いんです。バーボンとして在る時、僕はそれ以外のものではなかった。そして安室透として在る時も、それ以外のものじゃありませんでした。詭弁の域を出ない話かもしれませんが……」
「いや。……そうは思わねえよ」
 ありがとうございます、と降谷は呟く。
「公安の降谷零として動く時、僕は大局のために他人の環境を操作します。組織のバーボンとして動く時、僕は任務のために犯罪行為の手伝いをします。どんな時も迷いなく、迅速に。僕は――善い人間ではありません」
 言い切る言葉に異を唱えたい気もしたが、降谷はそれを求めていないだろう。小五郎は、黙って続きを待つ。
「でも……安室透として、毛利先生やコナン君と一緒に町の人の探し物を解決して喜ばれたり……ポアロで色んな人たちに料理をおいしいと言ってもらったり、たまに子供たちの宿題を手伝ってお礼を言われたりなんかしていると……ああ、楽しいなって……」
 懐かしむように訥々と語る表情には、あどけないと言っていいほど何の飾り気もない。
「僕はこういう人たちの暮らしを守るために、働いているんだなって。本当にそう思っていたんです。たとえ、組織犯罪の捜査の合間でも……その晩に組織の仕事で、人が死ぬのを見過ごして、何もせずにいても……」
 言いながら小五郎を見つめて、ふと笑う。そのどこか申し訳なさそうな青い目をじっと見る。
 それは自分の言っている内容よりも、自分の言葉に信憑性を持たせられないことを辛く感じているような……分かって欲しいことを相手に分かってもらえるのを諦めているような、そういう目だった。終わらない寂しさを覚悟しているような。

 同じ姿で違う名を名乗る男の現在がどんな名前かなんて、小五郎にとってはどうでもいいことだった。
 いつもその目の色は同じだ。日の名残りを残す宵の空のような淡い青。
 綺麗な目だと思っていた。

「俺にとっちゃ、今までお前はずっと安室透だった。俺の前にいたお前は、安室透以外の人間じゃなかった。お前の言った通りに」
 小五郎は、その遠くからでもよくわかる色の頭をワシワシと撫でて言った。
「アリバイ証明してやるよ。そこにいたのは、降谷だのバーボンだのじゃねえ。やたらポアロの新メニュー開発に熱心で、頼まれてない所の掃除までやる働き者で、俺がたまに起きたまんま推理当てると失礼なぐらい驚いて、いっつもニコニコ笑ってなんも考えてなさそうな、そういう本物の安室透だったって。師匠であるオレ様が直々に」
 だから、そんな後ろめたそうな顔すんな。

 垂れ気味の柔和な目が、丸く見開かれる。そうしているといよいよ童顔だ。前にポアロの客が、学生さんかい? 偉いねえ、と声を掛けていた場面を思い出して可笑しくなる。

 安室透だった降谷零は、今まで見た事のある笑顔よりも少しだけ隙のある、柔らかい顔で笑った。
「毛利先生が証明してくれるなら、安心ですね」
 その表情は本当に、安心したように気が抜けていて。小五郎は何だか無性に、彼の淹れたコーヒーが飲みたくなった。