野良猫が帰ってきた。
その姿を見て初めに驚いたのは、二つしかない目玉の片方を落としてきたらしい悲惨な有り様よりも、一応まだここが巣として認識されていたらしい事実に対してだった。
網走でふらっとはぐれたまま二度と戻ってこないことも十分あり得ると思っていた。というより、あり得たのだろう。しかし大きな狩りに失敗して新しい巣を断念したため、土産を持って古巣へ戻ってきたというわけだ。
挙動はすこぶる怪しく、明かした事実は不十分。本人も己の話がすべて信用されるなどとは思っていない。しかし持ってきた土産の価値は本物だ。だからまた置いてくれと、開き直って火鉢の前を陣取る様は以前と変わらずふてぶてしい。
使えるものは使う。そう割り切った土方の方針を、目いっぱい利用して傍に寄ってくるのが尾形という男だった。
「キロランケも死に、同行者と逸れ、海を隔てた異国から身ひとつでよくここまで戻ってきたものだ」
それとなく詳細な経緯を探るが、尾形は意味深に笑みを浮かべるだけで何も答えない。
用心棒として転がり込んできた尾形が手許にいる間、土方は諜報じみた仕事も含め便利に使い倒していた。そうしてみて自ずと分かるのは、鶴見という軍人がいかにこの男を重用し様々仕込んでいたかという事だ。
ロシアとの戦争も当然見据えているであろう鶴見のこと、側近だったこの男にロシア語ぐらい覚えさせていても可笑しくはない。
しかし本人に答える気がない以上、聞き出そうとしても無駄だろう。土方はその話題を切り上げ、元々聞くつもりだったソフィア・ゴールデンハンドとウイルク、キロランケとの関わりについて話の続きを促した。
札幌での殺人事件の捜査は収穫なしの日が続き、手を拡げるため土方と牛山と尾形は昨日から街中のホテルに宿泊している。
牛山は今夜は戻らない。被害者がすべて娼婦というだけあって、性欲と実益と義憤のため聞き込みと称し大手を振って何処かにしけこんでいる事だろう。
良い機会なので、まだ聞けていない込み入った話を詳しく聞くため風呂から上がった尾形を捕まえた。
キロランケとソフィアは手紙で遣り取りしていたので全ては知らんと断りつつ、尾形は素直に知っている限りの情報を話した。
混乱の最中に独断で異国まで随行し、ここまでの情報を仕入れてきた経緯が監視の二文字で片付くはずはない。
だが未だにこの男の野心がどこにあるのか、土方にも掴み切れない。
少なくとも鶴見に渡したくないのは確からしいが、土方に接触してきたのは鶴見の対抗馬の中で最も有力だと判断したからに過ぎないのか。鶴見よりも横取り出来る目があると見て一時的に与しているだけなのか?
だが初めから利用のみを考えているにしては、土方の目的を聞いた時、至って真面目にその正当性について疑問を投げかけてきた。己の目論見など関係なく、ただ土方という男の価値を測るかのように。
そもそも、この男の内に野心などあるのだろうか。
表向きの金塊を欲しがる理由については、確かのんびり暮らしたいなどと俗な理由を口にしていた。誰も信じていない。そういった凡百の感性があるのかすらも怪しいものだ。
大きな事を成そう、あるいは個という小さい単位でも、他より豊かな暮らしを目指そうという欲望……翻ってそれを叶えられない可能性への焦燥。かつての自分も含め、若い男なら顔を覗かせているそうした騒がしい気勢が尾形からはまるで感じられない。
枯れている、のを通り越してどこか人間味がなかった。何が欠けているせいでそう感じるのかは分からないが。
冷静沈着な態度は浮き上がろうとする内心を抑えるための仮面と見えて、尾形に限ってはその逆という気がしてならない。何の起伏もない滑面に、人間に溶け込むための言葉と顔が能面のように掛かっている。そんな奇妙な印象を抱かせる男だった。多くの人間を見てきたが、他に似た人間の思い当たらぬ変わり種だ。
「お前から見て、キロランケの思想はどう映った」
ふと興味が湧いて尋ねる。
尾形は肩を竦めた。
「民族どうこうの話は俺には分からん。だが、どの道アイツには無理な展望だったんじゃないか」
「その心は?」
「ウイルクのような非情さと知略もない。ソフィアのような求心力もない。あるのは拘りと強情だけ。思想が立派であろうとなかろうと、実現する能力が無いなら結局は無責任だ」
「手厳しいな」
「少しアンタと似てたのかもな」
首を傾げて笑いながら臆面もなく言う挑発的な態度に、土方も口角を上げる。否定はせずに言い返した。
「ウイルクの計画を引き継ぐのだから知略は足りている。非情さも問題ない」
「そしてアイヌの求心力はアシㇼパに、か」蔑むような声音が言う。「所詮祭り上げた偶像だ。ソフィアにはなれない」
「なる必要もあるまい。決裂した三人の在り方が正解とは限らん。むしろそこで役割を分けなかったことが決裂の要因だったかもしれんぞ」
「正解だろうが不正解だろうが、壊れる時は簡単に壊れるさ」
「壊れようが壊れまいが、成してしまえば全ては正解だ。そのために金塊がある」
「それこそ簡単に言いすぎだな。見つけるまでも、見つけてからも、必ず血は流れるんだ。その時……」
言いかけて、ふと尾形の言葉が止まった。
同時に土方も異様な気配を感じ、辺りを見回す。
「……何か居るか?」
表情の抜け落ちた顔で尾形が土方に訊く。背後の様子を気にしているらしい。尾形の後ろの何もない空間を眺め、土方は「いいや」と答える。
二人の間に沈黙が落ちた。尾形は地蔵のように固まっている。一瞬で場を満たしたその異質な空気に、土方は覚えがあった。京では隊士の一部がよく騒いでいたものだ。
「流氷の向こうから、妙な土産も持ち帰ってきたようだな。それとも前からか?」
直截に訊くと、尾形は舌打ちした。
「……あっちで変なお祓いをされてから、むしろ出てくるようになった気がする」
「お祓い? どんなお祓いだ」
「高熱が出ていた時だったし、頭から布を被せられていたから分からん。とにかくうるさかった」
「……樺太では苦労続きだったようだな」
土方は愉快な気持ちが堪えきれず肩を震わせて笑った。渋面を作った尾形は機嫌悪そうにしながらも、未だ身を強張らせている。実際、妙な気配は依然健在だ。
「見たことがあるのか? 亡霊の姿を」
霊と言い切った土方に、更に顔を険しくしながら尾形は答えた。
「……起きてる間は見えない。気配だけある」
「では、寝ている間には見るのか」
雄弁な沈黙が返った。
「知っている人間か?」
更に雄弁な沈黙が返った。
土方は居心地が悪そうに固まっている尾形をしげしげと眺めて感心する。
「怖いのか」
「怖い?」
理解できない言葉を聞いたというように眉を顰めた後、尾形は吐き捨てた。
「不快なだけだ」
苛立って、常になく余裕を欠いたその様子に、土方は尾形という男を傍目から見た時に何か欠けていると感じさせていた単純な要因に思い当たった。つまりそれは、感情だ。
それも欲や情や思想や拘りといった、歩んできた人生の果実として宿るそうした念よりもっと低度の、目の前のことに対して反射として湧き出る原始的な動揺。
普通は幼い頃に味わい尽くして、上層の念を形成する素となって後は複雑さの裏に隠れて現れるばかりとなる。そんな根本的な精気が、常の尾形の振る舞いには欠けていた。
だがこの世のものでない何物かが現れたのと同時に、尾形自身も幽世から現世に引きずり出されたかのように、今の尾形はまるで突然血の通った人形のようだ。
形を成さない動揺そのままの衝動が尾形の内に充溢して、その心身を乱しているのが分かる。生理的な拒絶、それを突然内側から湧き出して命令する、熱病のような恐怖。
この男の人生にそれほど大きな他者の存在があったことが、ひどく意外だった。
「……部屋に戻る」
硬い声で言い、腰を上げる尾形に声をかける。
「部屋の外に立ってるかもしれんぞ」
軽い言葉で目に見えて尾形の動きがぎくしゃくと重くなる。
土方は尾形に対する認識を改めた。枯れているというより、まるきり子供だったのかもしれない。
しかも直観に過ぎないことではあるが、その亡霊に手を下したのはおそらく尾形自身だ。
随分と可愛げの出てしまった百戦錬磨の狙撃兵の横に立ち、その顔を覗き込む。
「居なくなるまで腕に抱いていてやろうか」
揶揄いつつも肩にかけた腕が嫌そうに払われた。
「そういう触られ方は一番嫌いだ」
本心らしい苛立った、唸るような声に、幽霊の正体を少し思い巡らす。これも直観だが、そうされたことがある相手なのだろうなと思った。
〝あの〟尾形の世にも珍しい落ち着きを失った様子を、横からしげしげと眺めて尋ねる。
「では、しても構わないことは何だ」
「あ?」
「亡霊では出来そうもないことをしてやる。自ずと気も紛れるだろう」
根拠に乏しい申し出に、胡乱げに見上げてきた目と視線が合う。途端、その目は何かに気づいたように見張られ、文句も言わずにそのままじっと見つめてきた。そうする顔は、幾らか我に返ったようでもある。
今や一つだけになった大きな目玉は、底の無い穴がぽっかりとそこに開いているような、透き通った漆黒だ。覗き込むのを誘うような眼差しに見入りながら、土方は訊いた。
「……これがそれか?」
沈黙の後、掠れた声が言う。
「……そいつは……目がないんだ」
「ほう。足がないというのはよく聞く話だが」
「足はある。他は全部ある。ただ、目が……」
一旦口を噤んで、記憶として浮かぶ像から意識を逸らすように、尾形は目前の土方をまじまじと見つめた。そして「あんたは、土方歳三だな」と、まるで今初めて気づいたかのような口調で言う。
確認にしても可笑しな言い草だが、そう言われて、何故か言われた方でも新鮮な心地がした。確かにそうだ。目の前の黒い瞳が今映しているこの己は、土方歳三だと。
おそらくその言葉が問うているのは、世間的に通った男の名のことではなかった。ただ実際にその目で見知った、偶々そういう名を持つ、或るひとりの男について問うている。
「そうだ。お前は、尾形百之助だな」
倣うように呼びながら手を伸ばし、その頬の傷跡を指の背で撫ぜた。言葉では答えず、ただ尾形は今度は拒まず土方の手を受け入れ、愛でられた猫のように片目を細める。
その音のない、どこか甘い仕草に魔が差した。
土方は逡巡なく顔を寄せると、尾形の唇を吸った。
思いのほか瑞々しく、仄かに冷たい感触に、ひどく久しい快美な感覚をおぼえる。
お互い開いたまま合わせた瞳の、真っ黒な方が驚きに見開かれた。
一旦唇を解いて、一寸も離れぬ距離にあるその瞳に土方は飄々と問う。
「亡霊がこれをしたことは?」
これまで逸らされなかった目が、少しだけ泳ぐ。羞恥か、動揺か、あるいは後ろめたさか。
「……あるわけない」
ぼそりと答える言い方に滲んだ、拙い困惑に笑う。
「ほら。油断すると出るぞ。私の目を見ろ」
真っ黒な目が、きょろと素直に言われた通り見つめてくる。無防備なその様子に抵抗の色はない。そこにはどこか、土方を頼るような色がある気がした。
いけるなと思った。
後ろに撫で付けた尾形の髪から頸までを指でなぞるように撫で下ろし、自然上向きがちになった口を再び、今度は深く重ね合わせる。
柔い唇を味わった後、触れ合わせた舌先は少し怯むような気配を見せたが、逃げる様子はない。噛まれない事を確かめ、宥めるように絡ませた舌を表まで誘い出すと、強くその舌先を吸った。
びくりと震えた肩を掴んで固定し、温みのある血の通った口内を隅まで探る。
直接触れ合う粘膜は熱いほどに、生身の、生きた人間の舌触りだった。舌の裏をなぞる度、上顎の凹凸を確かめる度、体温を上げてびくびくと跳ねる活きのいい筋肉の手触りを愉しむ。
いい加減やめろと制止してくる声が鼻にかかった喘ぎに変わるまで侵犯した後、すっかり骨が抜けた身体を抱きながら口を離した。舌と舌の間を一瞬糸が繋いで途切れる。
常は白と黒の境がくっきりと分かれた瞳は今やどろんと蕩けて、薄っすらと透けた血の色が慎ましやかに青白い皮膚を彩る一方、濡れた唇だけが鮮やかなほどに赤々とその張りを主張している。
息を弾ませながらぼんやりと土方を見上げている、その色づいた頬を撫でて土方は言い聞かせた。
「この世ならざるものは、房事に弱いと相場が決まっている」
尾形の目が瞬いた。信じているのか疑っているのか読めない反応だがそこは気にせず、口の端の涎を指で拭ってやりながら続ける。
「亡霊では出来ないことを全てしてやろう。所詮血の通った肉を持たぬ、か弱い影だ。今この世に生き残って息をしている私に勝てるはずもない」
最早大人しく抱かれるばかりの腰を引き寄せ、落とした獲物に囁きかける。
「おまえの亡霊が、おまえにしたことがないことは何だ?」
尾形は間近の土方の目をじっと見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……悪いこと」
「何?」
予想しない答えに面食らう土方の、頬に触れている手へと甘えるように擦り寄る。そして目を合わせたまま、内緒話をするように、低い囁きが繰り返した。
「何も、悪いことをしない悪霊だ」
言葉遊びのような答え。それでもその目の奥には、大真面目な――怯えがあった。
土方は笑った。
「そいつはいい。お前はツイてるな」
言われ、首を傾げる尾形の腰を撫でて微笑む。
「私は悪いことなら大体得意だ。バラガキなんて渾名もつけられた事がある」
瞬きする黒い目に、少し呆れのような色が差した。
「朝までお祓いしてやろう」
親切めかした申し出に、尾形は何も言わない。言わないまま、ただ、ねだるように舌を出した。
望み通り吸ってやる。少し苦しそうに眇められた目が、縋るように土方の目を映して揺れる。
今だけ、まるでこの世で唯一頼れる相手を前にしたかのような風情だった。実際あまりに尾形は一人で、それでいてあまりにも確かに生きていた。土方がそうであるように。
何故かこうしてここに居て、血の通った肉体から逃げられず、地に縛られて生きているのだ。理不尽なほど。
その重力が、どうして亡霊などに負けようか。
笑い飛ばしてやりたくなるが、土方はそれ以上件の〝悪霊〟について何か言うことはしなかった。
子供は天井の染みすら怖がるものだ。
畏れるその目を遮ってやりながら、土方は視界の端で畳の上に滴る血を一瞥し、脈打つ白い首筋へと咬みついた。羨ましかろうと嗤って。
札幌連続殺人の犯行予定日目前、アシㇼパの一行が合流するのと同時に、尾形は再び姿を消した。
杉元と出くわした時に尾形はその場に居なかったが、知らずにうっかり現れるという事すら無かった。用心深い奴だ。騒ぎを遠くから見ていたのだろう。そろそろ鉢合わせる頃合いだと予想していたのかもしれない。
アシㇼパの連れてきた面子の中には尾形を狙っているという狙撃手がいた。尾形に狙撃手対決で負け、はるばる樺太から再戦のために追ってきたロシア人であるらしい。よくよく色んな土産を持ち帰ったものだ。
焦がれた標的が近くにいると知り、ロシア人は皆に混じらず野営を始めた。待ち伏せている狙撃手が居る以上、尾形はこのまま群から離脱するほかないだろう。
大部屋では買い出された食糧で酒盛りが始まっている。出来合いの食事は久々だった。昨日までは毎日獲物を狩ってきた猫が居た為そっちを食っていた。
左撃ちに切り替えた銃の訓練を兼ねての狩りだったようだが、ここ一週ほどは狙った獲物を完璧に仕留められるまでに回復していた。一体どれだけ練習したものやらと思う。
土方は己に宛がわれた部屋の障子を開け、縁側の上に座布団を敷いた。そしてその上に、買ってやったまま渡しそびれた弾薬を置いて障子を閉める。
今や敵に送る塩となるかもしれないが、無ければ無いでどうせ調達するものだ。それなら狙撃手復活の選別代わりにくれてやった所で問題はあるまい。
縁側は寺の裏手に面しており、周囲は背の高い草によって囲まれ、見通しが悪い。仮にどこかで狙撃手が目を光らせていたとしても、尾形なら近づけるだろう。
果たして明け方、小石が縁側の板張りに投げ込まれたような小さな音に、土方は障子を開けた。
置いてあった弾薬は無くなっていた。代わりに、仕留めたばかりと見える鴨が座布団から大きくはみ出し、ごろんと無造作に置かれていた。
律儀なやつだ。土方は鴨の首を持ち上げ笑った。朝飯にでもしろという事なのだろう。
何を考えているやら掴み切れない男だが、こういう妙な律儀さは気に入っていた。
<了>
