不意に光る鱗の - 1/6

 一.

 チンポが誤作動した。
 これは牛山にとって青天の霹靂と言っていい出来事だった。牛山のこれまでの人生には酸いも甘いも色々あったが、重ねてきた経験すべての結論として、牛山のチンポは間違いなく女専用のものだった。
 何せ女という存在が皆無だった網走監獄に長い事閉じ込められながらも、その猛々しい欲が女以外に向かうことは終ぞ無かった。たまに前後不覚となって女以外のものをうっかり女と誤認してひと悶着あったりもしたが、それも結局は女のものではない肉体を目の当たりにすれば遅かれ早かれ萎える。発散できなかった性欲は暴力で昇華するしかない。単純な仕組みだ。
 囚人生活といえど女に触れられる機会が全くの皆無というわけではない。針に糸を通すような苦労は必要だったが、何事も工夫次第だ。その垂らされる糸のような僥倖だけを生きがいに、牛山は温い苦役を黙々とこなした。
 最近も食人趣味と弛まぬ研究により艶めかしい美女の容姿となった家永を巡って一騒動あったが、しかし正体がジジイと判明した今は、初対面時に牛山の下半身を熱くした情熱は跡形もなく消え失せている。確かに、容姿が美女であると普通よりも紳士的に接する気持ちにはなる。だが化粧が取れた所を見ると確かに記憶の中のジジイの面影だったし、身体つきも年齢にしては恐ろしく若いもののやはり肌の張りや肉付きがジジイのそれであったし、とにかくよく見るとジジイだった。少し落ち込んだ。
 そう考えるとこのアジトの面子というのは爺が多すぎる気がした。ボスも爺だし補佐も爺だし紅一点も爺だ。もしかしたらその爺三昧の干からびた状況のせいもあるのかもしれない、と牛山は思う。
 最初は確か、雨の中を濡れて帰ってきた姿だ。あの、尾形という兵隊。
 降ってきた雨に鍛錬を切り上げて戻ってきた所で、外からバシャバシャと水を跳ねる足音が近づいてきた。薄暗く灰色に沈んだ外から、目深に外套を被った男が玄関から入ってくる。あの“用心棒”、帰ってきたのか、と。牛山が最初に思ったのはそれだけだ。
 だが濡れた外套を脱ぎ、外と内を隔てる青っぽい薄闇の中、その白い肌がぼうっと浮き上がるように光って見えて、瞬間目を奪われた。
 濡れた範囲を確かめているのか、目を伏せ己の身体を検分する頬に、艶めいた黒髪がひと房落ちかかっている。硬そうな指が軍服の釦にかかり一つずつ外していった。
 軍服の方は、袖口が多少濡れる程度で済んだようだ。開いた首元に透ける緑がかった静脈がやけに目についた。
 水を吸った外套をばさりと煽り、仕方なさそうにため息をつきながら、湿った髪をかき上げる。その俯いた血の気のない横顔を、冷たそうだと、はっきり思った瞬間――チンポに反応の兆しが見られた。驚いたのは牛山自身である。
「なん……だと……」といつの間にか声に出ていたので、尾形が怪訝そうに牛山を見ていたが、そんな事を気にしている場合ではなかった。

 女を目にした時の“渇く”感覚は、例えるなら食い物が食い物としてしか目に映らない事と似ている。水中を泳ぐ魚を眺めて食いたいとは思わないが、香ばしく焼いて皿に乗せられた焼き魚となって出てくれば、もう食う事しか頭には無くなる。それは食う物だからだ。
 女という生物、柔らかな脂肪の乗った背を、乳房を、唇を想像する。そうすれば撫で回して、啄んで、埋める事しか頭には浮かばない。それはそうするものだからだ。
 同じ人間の形をしていても、男という生き物とはどれだけ近付き、物として触れ合ったところで、必ず皮一枚を隔てている。別個のものが塊としてそこにあるだけだ。それは食い物ではない。牛山にとって、勝手に水中を泳いでいる魚である。
 尾形という男は女ではなかった。阿呆のようだが事実確認だ。屈強な、しかも北鎮部隊の兵士。牛山はその場に居なかったが、茨戸では土方と永倉を相手に大立ち回りを演じたらしい。あの爺どもを出し抜いてまんまと転がり込んできた時点で、相当な手練れだ。
 今まで数えきれないほど千切っては投げてきた、骨と肉の塊だと思おうとする。やれない事はないだろう。あの体を組み伏せ、軽々と投げて、畳んでやれば男や女ですらないただの物になる。実際油断ならない相手だ。女と見れば反射のように口説きにかかる自らの性分を考えても、決して女のように扱おうと思った事は無かったし、今後も同様だろう。確かに牛山は尾形を男と見なしていた。
 しかしそれとはまったく別に……いや、同居するようにして、“その感覚”がある。
 確かに男だった。柔らかそうでもないし、無駄な物を削ぎ落したような静かな佇まいはいっそ人間味に欠けていて、性別以前に人並みの性欲があるのかどうかすら疑わしい。
 だが味のしなそうなその身体を、それでも牛山の下半身は“食い物”だと言っていた。
 人形のように表情のない端正な容貌を、生白い肌を、冷たそうな唇を思い描く。そうすれば、牛山の中に、覚えのある“渇き”が訪れる。
 それが決して微かな衝動ではないことに、牛山はただ、愕然とした。

 その衝撃の日以降、牛山は、尾形の姿が視界に入る度にそれとなく注視するようになった。一時の気の迷いに過ぎなかったのではないかと確かめるためだ。
 実際、その姿をパッと見ただけで何か特別な感慨が起こるかというと特に何もない。女を前にした時、牛山の胸には「おっ女だ」という無条件の高揚感が湧く。だがそこにいる尾形の存在感は男のそれでしかなく、やはり凪いだ気持ちで「ああいるなあ」と思うだけだ。
 ならばあれは気の迷いだったのかというと、しかしそうとも言い切れずにいる。
 別に普通だな、と気を抜いて見ていると、いつの間にか、その何とも思っていないはずの男から食い入るように視線を外せなくなっている自分が居た。そして、例の渇きを覚えている。牛山にもわけが分からなかった。いつそんな気分になったのか、境目が皆目見当たらないことが殊更奇妙だった。
 ただの別個の塊、皮一枚を隔てた、水中の……しかしこちらを見もしないその身を、もしこの手に掴み、引き寄せてやったなら。今まで思いつきもしなかった想像が降って湧く。女ではない、あれは食い物ではない。だが、もし撫で回して、啄んで、埋めたならば。どんな味がするのか?

 ある晩牛山が飯を食って帰ってくると、アジトには居間で茶を啜っている永倉と家永しか居なかった。
「なんだ、珍しい組み合わせだな。土方と尾形は?」
「お二人でお出かけになりました」
 家永が澄まして答える。意外な答えに牛山は目を見開いた。
「どこへ」
「さあ。でもきっと、何か特別なご用事かと。連れ出す時、わざわざ尾形さんをお着替えさせていかれましたから」
「お着替え?」
「素敵な藍の着流しで。よくお似合いでしたよ。彼の艶めいた肌が一層引き立って」
 妖しく笑う家永の顔には、余人に理解されない特殊な嗜好を語る時のような、独特の卑しさが透けて見えている。
 牛山は自然と顔が険しくなるのを感じた。
「……食うなよ」
 家永はその咎めを聞いて、“鈴が鳴るような”声で笑った。そして牛山を見て、妙な、含みのある言い方をした。
「横取りはしませんよ」
 どういう意味だろうか。牛山は訝しげな顔をする。
 しかし聞き返す前に、わざとらしい永倉の咳払いが場を遮って、結局会話はそこで終わってしまった。