天国にて - 1/2

 天国の空はいつも青一色に塗り潰されている。
 白い太陽が例外なく辺りを照らして、しかし温度はない。春の真昼のような晴天である。
 野辺には色とりどりの花が所狭しと咲き乱れ、しかし風はない。完全な凪であった。

 時間、という概念もまた、おそらくはない。勇作は己が肉体の死、その事実を過去として把握していた。しかし勇作がそこに思い至った時――同時に、この場所に己という意識が存在している事を自覚した時――確かに感得した肉体の死という過去の現象から、一体どのくらい経っているのか、“今”とは“何時”なのか、全く解らず、また思い出せもしなかった。気がつけばここに居て、いつから気がついていたのかも覚えていなかった。
 おそらく、直ぐではない。しかし、遠い先という訳でもない。
 隔たった距離の分からぬ過去と、今この瞬間。その間のすべては空白だった。ここでの経験は堆積しないのだ。
 肉体に刻み込まれていた記憶、永久に静止した思い出……その完結した過去の他は、これ以上何も増えもせず、減りもしないのだろう。
 それは感情もまた同様であるらしかった。意識がある以上は、目に映る様々な事へ生起する感慨がある。此処は美しい。しかしそうして浮かび上がる感情は、留まるということを知らずに、やがて内から通り過ぎていってしまう。
 何もかもが、底の抜けた甕から流れ落ちていく水のようだった。記憶も心も、ここで在るものの全て……何もかもが。

 ここには家と呼べるような建造物は一切なく、どこまでも果てしない自然物だけで満たされている。だがそれで一向差支えはない。どこかへ“帰る”必要がないのだ。一日という概念もなく、然れば眠りという営みもない。
 する事はただ、延々と彷徨うだけだ。だが退屈はしない。あったことをまるきり忘れてしまう、という訳ではないが、記憶はどれも泡のように不確かで、連続性がない。継続した意識の流れが積み上がっていく訳ではないから、同じことをし続けているという実感もなく、また当然肉体的な疲れも無いので、まるで彷徨うことが息をすることの代わりのような有様であった。
 だから居住、と言うと語弊があるのだが、しかし居て良い場所はある程度決まっているらしい。というのも見たところ、出会う人間は皆全て同時代の者ばかりであった。明らかに古めかしい様相の者と出会ったこともなければ、歴史上見た事もないような先進的な者も終ぞ見かけたことはない。
 生前学んだ事だが、地面というものは果てしない深くまで、時代ごとに積もった層になっているという。同じように死後の世界と雖も層があり、近しい時代に死した者がこうして並び集まっているのだろう、と勇作は解していた。
 すれ違う人々と会話を交わすこともある。ここにいる人々は皆一様に穏やかで安らかで純朴だ。この世界を天国、と勇作が仮定したのは、浄土と称するにはあまりにも人々の存在が無目的で牧歌的に過ぎると感じられた事に拠る。
 居る人間は、女子供が圧倒的に目立った。軍服姿の若い将校は酷く珍しいと見え、何時だったか話した通りすがりの親子連れが言うには、もうこの付近一帯で勇作を知らぬ者はあまり居ないとの事だった。
 自身も死したあの戦場で、夥しい亡骸は一向減らずに積み上がり続けた。彼処で散っていったあれほどの、その誰一人として、此処で出会うことは一度も無かった。

 きらきらと光を反射して流れる小川の横をゆったり歩く。道の向こうから子供たちが、珍しく興奮した様子ではしゃぎながら、子犬のように走ってきた。
「あっ軍人さんだ!」
「軍人さんだ!」
 口々に上がる声に、勇作は微笑んだ。
「どうした、ずいぶん楽しそうじゃないか」
 子供たちはいつも無邪気だが、その笑い声はいつ聞いてものんびりと気が抜けていた。だからこうして“何かあったのだ”と如実に分かるような高揚を見せているのは、断片的な記憶の上でもあまり無かったことのように思う。
 子供たちの中で一番勝気そうな顔をした子供が、甲高い声で勇作に言った。
「ユーレイだよ、ユーレイ!」
「は?」
 思わず間の抜けた声が出る。
「出るんだって!」
「あっちの方で見た人いるって!」
「大人も見たって言ってた! 近付いちゃダメだって!」
 ぎゃあぎゃあと飛び跳ねる子供たちを前に、勇作は困惑して押し黙った。
 ここは死者の国であるのに、幽霊も何も……。この子供たちも、己の死を知らぬわけでもないだろうに。
 そんな勇作の考えが伝わったのか、子供たちは顔を見合わせて、もどかしそうにまた一斉に喋り出した。
「ユーレイっていうか、ユーレイみたいななんか……そういうのだよ!」
「軍人さんも行ってみればいいじゃん! おとななんだから!」
「チョウチョが! チョウチョがいっぱいいるの!」
「チョウチョがたくさんいるところは出るの!」

 蝶々?
 勇作は道の向こうを見た。
 此処では人間以外の生物を見かけない。しかし不思議と、蝶だけは何も知らぬ顔で辺りをひらひらと漂っているのが常であった。

 子供たちと別れ、そのまま先を進む。若い夫婦、祖母と孫、様々な人間が皆一様にひそひそと何かを囁き合いながらすれ違っていった。何かがこの道の先にある、のは確からしい。
 そして子供たちの言っていた通り、確かに蝶が。
 通行人が少なくなっていくに従って、辺りを舞う蝶の数は次第に増えていった。ここまで多くの蝶を見ることは、勇作にとっては確かに初めてのことだった。
 蝶々が沢山いる所は“出る”……昨日も今日も無いようなこの世界で、噂話が出来上がる程度には、前例のある事象なのだろうか。
 最早死という概念のないこの世界で、一体何が“出る”と言うのだろう。

 すれ違う人も見なくなり、辺りが無人になって暫く経ったが、一人だけ正面からまだ歩いてくる人影があった。
 勇作は思わず立ち止まる。見覚えのある女性だった。
 生前に関わりのあった人ではない。ここで、ぼんやりと己の死を知って彷徨い始めた頃、すれ違った事がある。
 まるで陽の光で透けてしまいそうな蒼褪めた白い肌。すっきりと涼しげに整った口元。美しい女……そして何か強烈な、既視感。
 懐かしさに惹かれ、初めて目にしたその時、思わず勇作は声を掛けたのだった。しかし女性は勇作の顔をじっと見てにこにこ笑うばかりで、結局何か言葉で応えてはくれぬまま、フワフワと何処かへ行ってしまった。それ以来の邂逅だった。
「あ、あの……」
 辺りの蝶を視線で追いながら歩いてくるその人に、また勇作から声を掛ける。
 とても機嫌が良さそうに薄く笑みを浮かべていた白い顔が、勇作を認め、その面に讃える微笑を深めた。そして初めてその声が勇作の耳に届いた。
「あなたも似てるけれど」
「……えっ?」
 聞き返す勇作に構わず、来た道を振り返る仕草。少し幼げな横顔。艶やかだが冷たそうな唇の形に視線が引き寄せられる。
 嗚呼、誰かに似ている。

「きっと誰かに会いに来たのね」
 歌うようにそう言って、女性は蝶のようにひらひらと勇作の横を通り過ぎていった。
 その後ろ姿を暫し呆けて見送り、再び歩き出す。
 あの女性が誰の話をしていたのかは分からない。だが己もおそらくここに、誰かに会いに来た。

 蝶の数はどんどん増えていく。黄泉の美観に音もなく増えていく翅のはためきは、不気味と言えば確かに不気味な光景であった。蝶は皆、生きているかに見える。理由なき生命の躍動、翅を動かす何か、それを目の当たりにして初めて、それ以外のここに居る者の真実生きていなかった事を思い知る。

 道は緩やかに下っていった後、途中から勾配の激しい登り坂になっていた。道の先はその頂上まで登った後でなければ見えなそうだ。
 得体の知れぬ焦燥感がある。急ぐことはない。この世界に目的はない。ゆっくり上ればいい。しかし明滅するような騒然とした視界と、果てしない静けさの不相応が心を落ち着かなくさせる。
 此処は、夢の中のようだ。まだ“何の夢なのか”現れていない、核心に至る途中の夢。
 そんな核心が存在するのかも分からない。だが、何かを欠いているのは確かだった。勇作は夢の先端に行きたかった。

 果たして坂を上り切ると、道の終点が見えた。まっすぐに再び下っていった先は窪地のようになっており、茂った草地の中心に、とても大きな樹が一本聳え立っている。
 そして、その樹の根本、夥しい蝶が、そこが巣ででもあるかのように飛び交う中に、立っている姿。
「ああ……」
 勇作は自身の声の震えているのを聞いた。
「……兄様……」

 夢の先に辿り着いた。

 消えてしまうのではないかと、この上なく焦って転びそうな勢いで走り寄る合間に、勇作の存在に気付いたらしい。近づく勇作をじっと見つめながら、しかしその場を動かずに、勇作が辿り着くのをその人は待っていた。
 手を伸ばせば触れられる距離まで来て、勇作は信じられない思いでだらんと腕を下げ立ち尽くす。目の前の姿から食い入るように視線が離せない。
「あ……あ……、……兄様……」
「……こんにちは」
 [[rb:異母兄 > あに]]は静かにそう言った。
 勇作はぽかんと口を開けて、しばらく言葉が出ず苦労した後、がくんと頭を下げ、ようやく絞り出すように「……こんにちは……」と返した。

 暫し沈黙が落ちる。

「……お会い……したかった。ずっと……」
 ぽつりと己の口から零れた言葉は、芯からの本音だった。そう、ずっと、狂おしいほどに会いたかった。叶わぬ思いは在っても無意味とばかりに、意識の表層から締め出されながらも、その想いは確かに傍にあった。
 異母兄の唇が皮肉気な笑みの形に歪む。
「そうでしょうね」
 真っ黒く浮き上がるような瞳が細められた。
「御承知なんでしょう。あなたを殺したのが誰か」
「……ええ」
 再び沈黙が落ちる。

「軍刀」
 ひたり、と白い指が勇作の腰に帯びているそれを指した。
「お持ちなんですね」
 勇作は後ろ暗いことを指摘されたような気持ちになった。
 ここでは武器に類するものを持っている人間を見た事がない。本来持ち込めるものではないのだろう。おそらくこれは、武器と見做されなかったのだ。一度も血の付いた事がないから。
「こんな所に居ますが、俺はまだ死んでいません」
「えっ!? ずっとここに居られるのではないのですか!?」
 食い気味に聞き返してしまった。勢いに驚いたのか、目を丸くした異母兄はこくりと頷いた。幼い表情と仕草に、ああ、兄様だ、というなつかしさで胸が一杯になる。
「それは……とても、残念です。あの……」
「……仮に死んだとして、此処には……あなたと同じ場所に来ることは無いと思いますが」
 冷静な指摘に、勇作は言葉に詰まった。そう諦めていたからこそ、異母兄とまさかこうして再会出来るとは思っていなかったのだ。
 異母兄は然程興味が無さそうに辺りを見回しながら言った。
「あの戦場で命を落とした者とここで会うことはありましたか?」
「……いえ……」
「そうですか。きっと殺した事がない、というだけでは駄目なのでしょうね。一人も仕留めない内に死んだ者も居た筈だ」
 確かに、そうだ。言われて初めて気づく。そこばかりが要件だと思い込んでいたが。
「皆これが最後かもしれんからと、戦場に出る前に挙って女を買っていました。勿論普段から通い詰めてたようなのも居ましたし。その違いですかね」
「ああ……」
「やはり人は清く生きておくべきなんでしょうな。浄土だか天国だか知りませんが、良い所に行ける」
「わ、私は……自分が救われるために清く在ろうとしていたのではありません」
「……ええ」
 勇作の言葉に、異母兄は笑った。やはり皮肉気だが、しかし何処となく儚げな感じのする笑みだと思った。
「わかっています」
 その時、勇作はあの女性に抱いていた既視感の正体をようやく掴んだ。あの女性は、このひとに、似ている。

「しかし、この世界が“あなたの為の世界”なのは確かでしょう。こうして俺は、本来踏めるはずのない地に訪れ、あなたの前に現れた。あなたが呼んだのでは? あなたが、会いたがっていたから」
「私が……呼んだ?」
「俺はあなたを殺したでしょう?」
 すっと異母兄の手が軍刀の柄に触れた。
「恨みが晴らせますよ」

「……あなたはッ……何も分かっていないのですね!」
 勇作が大声を出した拍子に、周囲の蝶が一斉に飛び退いた。
 目を丸くする異母兄の前で、自分の腰から軍刀を鞘ごともぎ取る。
「こんなものでっ……あなたを刺し貫くために、私があなたに会いたがっていたとでもっ? 断じて違いますッ!!」
「……では……何のために?」
 じっとこちらを見つめて問う異母兄は微動だにしない。彼の周りだけ空気が冷たく変質しているかのようだ。
「復讐すらお望みではないのなら、俺がここに居ることであなたが得るものとは何ですか?」
「あなたが目の前に居るということ以上に、得るものなどありません!」
 わけがわからないという顔をしている異母兄の前で軍刀を地に落とす。
 震える手を前へと伸ばすが、こんなにすぐ目の前の身体に、触れることが出来ない。
「どうしてあなたに触れることが出来ないのです? 兄様は私に触れることが出来るのですか」
「……いえ。あなた自身には、どうやら触れません」
 軍刀のように勇作に付属するものへ触れることは出来ても、勇作自身に触れられないのは異母兄も同じらしい。
 触れようとしても、何かが阻んで手が避ける。勇作は異母兄の肩の横で、震える拳を握りしめた。
「軍刀などで……そんなものであなたに触れても意味はない。あなたは本当に私のために現れたのですか。本当に私のために現れたというのなら、あなたに触れられないのは何故ですか。私はあなたの、そのお姿が懐かしい。懐かしくて懐かしくてたまらない。叶う事ならば今すぐその頬の線を、肌の温みを、この手に確かめたいのに!」
「……俺は……後ろから、あなたの頭を」
「分かっていますッ! 何度も考えたのです! 何度も! あなたは私を拒絶した! 私はあなたに殺された! しかしそんな事はもう……私には関係ない! あなたがあの戦場で、あの会話で何を思い、何故ああしたのか私にはわからない! 他に言えることが、出来ることがもしかしたらあったのかもしれない! しかしそういった何もかもを、私はもう考えなくてもいいのです! あなたには私を殺す前後に連なる現実があるのでしょうが、私の中では、殺すことの是非を真向から私に問うてきたあなた、まるで幼い子供のような表情の、あの時のあなたが最後なのです、私の中のあなたの思い出の全てなのです! 私は肉体を持っていた時に感じていたあなたへの情、それ以上のものをあなたに感じることは最早出来ない! 生きていた頃にあなたに抱いていた思いを繰り返すことしか……! 私の……私にとってのあなたは……!」
 勇作の激昂に対し、長い睫毛が伏せられ、その下に烟る瞳がすぐ横で震える勇作の手を静かに流し見る。どこか、痛みを感じているような表情だった。
 少しの沈黙。それから上目遣いで、異母兄は勇作の顔を真っ直ぐに睨んだ。あの日のように、試すような眼差しで。
「……触れられないのは、おそらく俺の存在が此処では穢れているからでしょう。あなたがその軍刀で俺を殺せば、俺は死んで地獄に行き、あなたも人を殺して地獄に落ち、共に居られるかもしれませんよ」
 勇作は顔を顰めた後、思わず破顔してしまった。きっと泣き笑いのような酷い顔になっている。
「また……あなたはそういう……」
 曖昧さを許さぬ、変わらぬ異母兄の潔癖さが、今はただ、愛おしくてならなかった。自分でも呆れてしまうことだが。
「もしそれで、兄様は全然別の所へ行ってしまうばかりで、もう二度と会えなかったらどうするのです。私は悔やんでも悔やみきれない……ただあなたをこの手で殺して失ったという事実だけが残ることへの恐れが、殺してあなたと共にいられるかもしれないという甘い希望に勝る。これは、あなたを傍に欲する私の想いが嘘だからですか。覚悟が足りぬと、兄様なら仰いますか」
 異母兄はその勇作の答えに、否とは言わなかった。納得したような穏やかさを湛えて勇作を見つめていた。そして、何の慰めにもならない言葉をくれた。
「……あなたは善い人です」
 勇作は口元を歪めた。その拍子に頬を冷たい感覚が流れて、自分が泣いていたことに気がついた。
「ならば」
 八つ当たりのように、この上もなく傲慢な言葉が勇作の口から零れ出る。
「ならば、愛してください」
 拗ねるような声音になった。それは、稚拙な本音だった。

 異母兄は一瞬目を見張って、それから錯覚だろうか、まるで慈しんだ微笑のように、柔らかく瞳を細めた気がした。
 一拍の後、間にあった距離が触れそうなばかりに埋められる。
 異母兄の顔が近づき、唇が頬の下の方へ寄せられる気配があった。
 そして勇作の頬を伝って顎の先で雫となった涙を、おそらく、口へ含んだのだろう。温度でそれを感じ取る。

 よもつへぐい、という言葉が記憶の端を掠め、勇作は立ち尽くした。
 これは、異母兄の示す、愛だろうか。もし黄泉の世界のものを口に含み、その魂が二度と此処から戻れなくなったら。永遠に傍に居てくれるというのだろうか?
 それはこの世で最も幸福な想像だった。

 しかし突然、蝶が一斉に二人の間を埋め尽くさんばかりに飛び交い始め、その勢いに異母兄が数歩後退る。
 まるで手に入れてはならないものを欲した己の罪を咎められたように感じ、勇作は狼狽えた。
「あ……兄様!」
 蝶は異母兄を取り囲んでいくようだった。
 まるで靄のように身体の周りを覆っていく蝶を静かに見下ろして、異母兄は呟く。
「夢の終わりのようです。勇作殿」

 無数の翅に飾り立てられたようなその姿は、“この世のものとは思えない”ほど幻想的な光景だった。
 これはやはり、夢なのだろうか。目の前の異母兄は、その存在をずっと求めていた勇作の願望が見せた、都合の良い幻に過ぎないのだろうか?
 しかし、例えそうだとしても、最早、その姿の見えぬ世界など。

 言葉にならない勇作に、異母兄もまた言葉を探したのか、少し考え込む素振りを見せた。
 そして不意に、初めて見るような表情をした。ばつが悪そうな、苦笑いのような、弱々しい笑顔。

「――に、宜しく」

 異母兄が何事かを口にした瞬間、無い筈の風が吹いて、言葉の始めが掻き消えてしまった。聞き返す前に、蝶がその姿の全てを覆ってしまう。飛び去った後には、まるで妖術か何かのように、忽然と異母兄の姿は消えていた。

 勇作はしばらく呆然と立ち尽くし、どっと力が抜けて、その場に座り込んだ。
 あれほど居た蝶の姿はもう辺りに一匹も見えない。

 涙が止めどなく流れ出る。拭う事もしないままに、勇作は一つの結論を得た。やはりこの世界は、己の為の世界などではないのだと。
 永久に手に入れられないものがこれほど恋しく、失われるだけの姿のこれほど愛しい事が、一体罰でなくて何なのだろう。

 胸にぽっかりと穴が開いたようだった。喪失の痛みが、無い筈の肉体の重さを思い出させていた。もう一歩も動けない気がした。
 しかしこの感慨も、肉体という確たる底を持った器がない限りは、いつか単なる夢まぼろしと成り果てるのだろう。何時とも知れぬ思い出となってこの心から零れ落ちていく。此処はそういう場所だ。そしてまた、あてどなく歩き始める。だがそれは単なる彷徨ではない。今なら分かるが、きっと此処の者は皆、何かを待っているのだ。
 己の待ち人は来た。束の間の寄り道でも、確かに目の前に現れた。去っていった以上は、再び待ち続ける。昨日も明日もない世界に、もう二度と訪れぬかもしれぬ姿が忽然と現れる日をずっと。
 夢は覚めた時に初めて夢だったと知る。己の瞼の向こうに居るのはあの人だ。あの人の姿だ。それ以外には無いのだから。

 待ち続けることは苦ではない。此処に時間という概念は無い。また彷徨い始めるその時には、今この瞬間の痛みは通り過ぎて、此処は再び穏やかな微睡みの世界に戻っている事だろう。
 だが今しばらくは無理だ。

 天国となる可能性を持った地であるならば、それはやはり天国なのだろうか?
 仮に結果が、永劫の喪失に終わるとしても、それでも?

 勇作は顔を覆い、全てが等しく照らされた目の前の明るく清らかな風景を遠ざけ、一人の暗闇に篭った。過ぎ去った似姿の残像が擦り切れてしまうまでずっと。
 いつまでかは分からない。おそらく直ぐではない。しかし、遠い先という訳でもない。例え感じているのがこの世で最も激しい悲嘆であろうと、此処での経験は堆積しないのだ。
 嗚呼、彼の人のいないこの世界は、まるで何もかもが底の抜けた甕から流れ落ちていく水のようだった。確かに在る筈のものの全て、何もかもが。

 

天国にて