毒にも薬にもならない何か

 夕飯後のまったりとした時間、アシリパは白石と一緒にキロランケの話を聞いていた。この地のアイヌについて、ウイルクの関わりについて。
 熱心に聞いていたからこそ、話がひと段落すると急に眠気が来たのか、アシリパは重そうに瞬きをし出す。目をしぱしぱさせ、尾形の傍までずるずると膝を引きずりながら移動を始めた。
 尾形はいつもこういう時、三人の話を聞くともなしにじっとしているか、銃の手入れをしたり周りを観察して過ごしている。胡坐をかいたその膝頭に、アシリパがぺしりと手を置いた。
 尾形は小さな手を一瞥すると、黙って脚を崩して前に伸ばす。アシリパはその場にごろりと寝転がると、尾形の太ももに頭を預けた。落ち着く位置を探すように何度か置き直し、丁度良い加減になったのか、大きく満足気な息を吐いて、目を閉じた。

「アシリパちゃんそれ好きだねぇ~?」
 ここ最近見られるようになったその光景に、白石は何とも言えない顔で言及した。最初は微笑ましいような、豪胆すぎのような、複雑な気持ちで見守っていたのだが、定番化しそうな気配に今となっては呆れの色が強い。
 アシリパは頬を太ももに埋めながら、夢見心地に言う。
「尾形のふとももはすばらしい……」
「ええ~~~?」
 まさかの称賛? 白石は戸惑いも露に尾形を見たが、尾形は好きにしろとばかりに無反応に目線を落としていて、心ここに在らずという感じだった。まあこいつに心が在った試しはないのだが。
「落ち着くんだろう」
 キロランケは煙管を吹かしながら静かに言った。
「ああするようになってから、よく眠れているようだ。最近あまり寝付けなかったみたいだからな。いいことだ」
「そりゃあごもっともだけどよ」
 アンタこそ最近そればっかりだね? と内心で訝る白石を、太ももを枕にしたままジトリとアシリパが睨む。
「うるさいな、シライシ。何か文句があるのか?」
「文句ってわけじゃないけどぉ……」
「お前も試しにやってみろ。すばらしさがわかる」
「ええ~~~~~?」
 勧められて、白石は反対側に寝そべり、空いた方の尾形の太ももに頭を預けた。
「あれ……何これ……すっごい……ウソ……?」
 白石は思わず確かめるようにして枕にした太ももを撫でさすった。瞬発力が必要な動作のためか、鍛え上げられた豊かなボリュームを持ちながら、柔らかく弾力を持った感触。脂肪ほど柔くなく、耐える為の筋肉ほど固くない、絶妙な手触り。ムチムチとして、しかししっかりと締まった……
「どけろ」
「痛ぁい!」
 尾形に頭をスパァンと叩かれて白石は転げ落ちた。
「何だよッ。アシリパちゃんは良くて俺はダメなのッ?」
「むしろなんで良いと思うんだよ」
 キロランケがツッコミを入れる。尾形は後ろ手をついてだらけた姿勢をとりながら真顔で返答した。
「アシリパは獲物を捌いて飯や路銀を確保している。俺は獲物は狩れるがそうした知恵はない。俺が居なくてもアシリパは獲物も狩れるから、その分俺に貸しがある。膝を貸せと言うならその権利がある」
「えぇ~? 旅は道連れじゃん? 貸し借りとかそういうんじゃなくなぁい? 助け合いなんじゃないのぉ?」
「ヒモが」
「ヒモ」
「ヒモだ」
 三人全員に言われて白石は唇を蛸のように尖らせた。それをアシリパは心なしか得意げに見やる。
「そういうわけで私は太ももの許可を得ている」
「太ももの許可?」
「わかったらお前も寝ろ。そのへんの固いところで」
「なんか羨ましくなってきた……」
 すごすごと引っ込みながら白石はクーンと鳴いた。
 言われてみれば、尾形は何だかんだ仲間の時は進んで役に立つ働きをする男だった。それもすべて借りは作らない、という態度の現れだったのだろうか。確かにプライドが高い性格なのは分かる。
 しかしそうだとしても、アシリパが寝付くまで膝を貸してやる尾形の態度は、白石からしてみれば十分甲斐甲斐しいものに思えた。親切な奴だと思ったことはこれまで一度もないが、意外に面倒見のいい奴ではあるのだろうか。……あまりピンと来ないが。
 得体が知れない男だが、裏表のない男だとも白石は評している。何か奸計を巡らす人間は、もっと愛想よくするものなのだ。例えば白石のように。
 だからいま事実として許している以上は、本当に構わないと思っているのだろう。
 そして、そういう尾形の膝をアシリパが借りる気持ちも、なんとなく白石にも分からなくはないような気がした。
 別に信用できるとか出来ないとか、そういう事じゃない。ただあまりにも色々なことがありすぎて、不安定なのだ。心が落ち着かない。そういう中で、いつも何も現さない、ただそこに居るだけの無表情な尾形の心が、壮健な肉体が、何故かやけに頼もしく見えることが白石にもある。
 先がどうなるのかは分からない。その頼もしさというのは味方である場合に限った話で、敵となれば誰よりも厄介だ。だからこそ、今そこに生きて、目の届く範囲にいる男の、その“今だけの無為さ”を確かめて安心する。そうさせるだけの明瞭さが、尾形という人間にはあった。まるで理に適った行動以外はしない動物のように。
 きっとこうして白石たちと共に過ごしても、大した思い入れも抱いていないに違いない。必要な時に必要な行動をするだけだ。同様に、何を言われたって、膝で寝られたって気にも留めない。嫌だとすら思っていない。そんな態度はやはり、許しに似ていた。
「モルヒネ……」
 ぼんやりと何事かを考えていたキロランケが、煙草を消しながらぼそりと呟く。白石は顔を上げる。
「……鎮痛剤の?」
「ああ。出征中、一度使われた事があった」
「へえ。どうだった? やめられなくなったって奴を何人か知ってるぜ。気持ちいいんだろ」
「そりゃ依存してるからだろ。真っ当に鎮痛剤として使うような状況じゃ気持ち良くなるどころじゃねえよ。……ただ、効くのは本当だ。といっても痛みを感じなくなるってわけじゃない。麻酔とは少し違う……それを痛みと感じる意識ごと、平気になるっていう感じなんだ。感覚じゃなくて、精神に効く」
「ふ~ん……」
 痛みを感じる心を鎮めてくれる薬。傷そのものを全く癒しはしない。依存性もあり、実際依存してしまえばロクな事にはならない。だがそれなしではいられない状況というものが、不意に訪れることがある。
 白石は、キロランケがいきなりそんな話をした裏に潜む感情を思った。この男も手を伸ばしたくなる事があるのだろうか。何かの痛みと、その冷却のために。
 それが沈んでいく苦しさを楽にするだけの、空しい沈静と分かっていても。

「モルヒネがなんなんだよ」
 不思議そうに尾形が問う。キロランケは唇に笑みを登らせた。珍しく、少し困ったような笑みだった。
「お前は枕にしちゃ効きが強過ぎるって話だよ」
 尾形は首を傾げた。何を言ってるんだコイツはという顔をしていたが、ふと目線を下にやると、静かだが機敏な動きでアシリパの頭を支え持つ。そして下からサッと脚を抜き、起こさないまま本物の枕に差し替えてみせた。
 鮮やかな手つきに感心しつつキロランケが覗き込む。
「寝たのか?」
「寝た」
「すっかりお手のもんだねえ、尾形ちゃん」
「ちげえよ。うかうかしてるとコイツよだれ垂らすんだ」
 だから寝入ったら急いで退けないとやばい。
 そう言って尾形はそっけない仕草でアシリパに毛布をかけてやった。
 白石とキロランケは顔を見合わせて、思わず吹き出す。
「そうか、お前も流石にヨダレは嫌か」
「は? いいわけないだろ。きたねーし」
 キョトンとして言う尾形に、白石とキロランケは声を殺して笑い続ける。アシリパを起こさぬようにと思えば思うほど、笑いが止まらなくなって苦労した。
 そんな二人を尾形は奇妙なものを見る目で眺めていたが、不意にくわと欠伸をすると、さっさと寝る準備をし出す。といっても尾形の寝る準備はとても簡単だ。鉄砲を大事そうに抱えるだけで終わる。
「おやすみ尾形ちゃん」
 尾形は沈黙で返した。白石も返答は期待していない。

 しばらく隅っこで丸くなる背中を眺めていた。そうしていると、白い外套にすっぽり包まれたその物体よりも、一回り大きな杉元佐一の背中をふと思い出した。
 杉元は本質的に誰も信じない男だったが、尾形のことは特に信じていなかった。だが全く信じる必要のないことが逆に気楽な面もあったのかもしれない。杉元は尾形に対して、不思議と他の人間に対するより、距離の近いところがあった。
 もしかしたら誰よりも必要としていた奴だったのかもしれない。……ああいう、非常用の存在を。
 白石は眠る尾形の背中に、無性に噛みついてやりたいような、あるいは縋り付きたいような、矛盾した気持ちに襲われる。何を訊きたいわけでもないが、何かを問い質してやりたかった。これからのことや、これまでのことを、何かひとつでも。そうして情けないところの一つでも見つけて、日常用にしてやりたい。
 アシリパがすっかり熟睡した顔でごろりと寝返りを打った。あの膝で寝入るとどんな夢を見るのだろうか? 白石は明日訊いてみようと思った。
 自分で確かめるのはやめておきたい。尾形は許してくれなさそうだし、それに、依存すると気持ちが良くても後が辛い。
 そういうものだと、白石は知っているのだ。