湿気を孕んだ空気と、重くなっていく雲。今朝がたは晴れていたのだが、急速に模様を変えた空は、案の定午後をまわって雨粒を落とし始めた。
「降ってきたな……おい、尾形」
窓から目を離した永倉は、後ろを振り返り山猫を呼ばわる。顔を上げた尾形は、今は永倉の貸した和服姿であった。
朝食の後に何か着替えはないかと言ってくるので用意してやった。どうやら一張羅の軍服を手入れしたかったらしい。襯衣のほつれた部分を修繕して、今は軍服に染みた血を落とし終えたところのようだ。軍でこういった作法は躾けられるらしいが、器用なものだと思った。
今日は待機と聞いて、この機会に直しておこうと思ったのだろう。しかし永倉は言った。
「土方さんを迎えに行ってくれ」
尾形は眉を寄せた。
「俺が?」
「お前が」
「あの犬みてえに懐いてる兄ちゃんがたに頼めばいいだろ」
夏太郎と亀蔵のことだろう。彼らは明日まで出払っている。そう伝えると、尾形は思案した後、目を逸らすように濡れている軍服に視線を落として言った。
「アンタに借りた着物濡らしたら……嫌だから」
「お前がそんな殊勝なタマか」
永倉は鼻で笑った。行くのが億劫らしいが、下手な断り方だ。断れる立場ではないという認識はあるらしい。
それにその着物を着せた時、永倉は何となく、土方の目に見せたいと思ったのだ。渋い色合いを着流した尾形は、やけに様になっていた。元々妙に婀娜っぽいところのある男だが、組にいればさぞ周囲の気を惹いたことだろう。
土方は得体の知れないこの尾形という用心棒を、どこか気に入っているように見受けられた。能力で人間を峻別する土方にしては、珍しい素振りだ。組にも居なかったような男であるためか? あまり見ない顔を、尾形に見せる。
だから傘を持って迎えに来た猫は、いくらか心を和ますだろう。
「用心棒だろ。お役目を果たせ」
傘を二つと、迎えに行く先を書いた紙を差し出して言うと、尾形は気が進まないように頭を撫でつつ、それでも受け取る。代わりにひとつ要求した。
「じゃあ短銃くれよ。なんかに入れて持ってく」
渋っていた本当の理由は、装備が心許ないためだったらしい。用心深いことだと苦笑しつつ、小物入れに短銃を入れて持たせてやると、今度こそ尾形は傘を差して出掛けて行った。その後ろ姿はどこか、遣いに出かける子供のようだった。
*
廊下の窓から、木の枝葉がしとしとと絶えず雨露を滴らすのが見える。
「ああ、どうも本格的に降ってきたようですな。しかし土方さん、こちらの雨は降っても空気がすっきりとしていて良いですね。京の雨は、当たらずともじっとりと着物が重たくなるような心地でした」
「そうでしたな」
「こうして住処も変わってしまえば、隔世の感を禁じ得ませんが。しかし貴方には、まだあの京の空気すら残っているように思えます」
土方は笑みを浮かべた。否定ではなく、当然だというような堂々たるそれに、かつて名士として力を持っていた老翁は染みだらけの顔で呵々と笑う。
連絡をつけて久方ぶりに会ったこの翁は、土方の若さと、衰えぬ情熱と、不屈の精神を褒め称えた上で、土方の計画が実現すれば……そして尚且つその時に己が存命であるならば、助力を惜しまないと言った。
想定内の返答だ。どこを当たろうと、待っているのは揃えたような消極的肯定。年寄りだからというだけではなく、この国で、この明治と同じ速度で老いてきた者たちは皆、萎れている。
革命で、開拓で、戦争で費やされた力は消耗され尽くし、何か外部の力で押し上げられるのを待つばかりと成り果てた。
だが老いた身だけを背負う飾りの名だとしても、黄金を代替した紙切れのように力は宿る。使う者さえ現れれば。
「しかし土方さん。国というのはしぶといものですね。勝ったり負けたりしましたが、結局様変わりするだけのことで国は何だかんだと生き延びる。負けて死んだ者は悲惨ですが、否応なくそれらも国の模様として取り込まれる。その中でものを考えて足掻いている生きた国民というのは、模様にもならず、国と一体というわけでもなく、宙ぶらりんだ。時代は流れとよく言いますが、流されずに泳ぐのは辛いものです。そして同じ流れには二度とならない」
「まるで方丈記ですな」
「数百年変わらぬ真実がそこにあるという事でありましょう」
「しかし岩は磨かれながらも流れることはない。そうして留まり続けた岩は、流れを方向づけるでしょう」
「なれるものでしょうか、人間が岩に?」
「なってみせましょう。私はあと百年生きるつもりです」
「貴方が言うと法螺に聞こえないから不思議です」
一頻り笑って、翁は膝を気遣うようにゆっくりと下駄を履きながら、戸口から外を眺めやった。
「ああ、やはり降っています。傘を持ってくるべきでしたな。帰りはどうされるおつもりですか? 店の者に傘を用意出来るか聞いて参りますか」
「……いえ」
同様に外を覗いた土方は、通りの反対側の軒下で佇む男の姿を認め、少し黙り込んだ。
傘を差して、あるいは何かで頭を庇いながら、忙しなく行き交う人々の向こう。その男の周りだけ、空気が違っている。
沈んだ色合いの天地に誂えたような暗い色味の着流しに、肌だけがまるで浮き上がるように生白い。曇天の雨が似付かわしい、植物のような朱のない白だ。
傘を二本ぶら下げて、ぼんやりと雨の落ちるのを眺めている横顔は、風景から切り取られたように静止して見えた。その男だけ世界から取り残されている。
「風情のある画ですなあ」
土方の視線と同じ方向を見た翁は、知り合いとは知らずともその姿から何かを見出したのか、小さく呟いた。
二人の視線を感じたのか、尾形は不意に顔をこちらに向け、土方の姿を認める。
特別な素振りも見せず、すっと傘の一本を差した尾形は、悠々と通りを真っ直ぐ横切って土方の所へ歩いてきた。そして無言でもう一本の傘を差しだす。
迎えに来たの一言も無いらしい。真っ黒い大きな目でじっと見つめ、受け取れと促す尾形に土方は笑った。
「こちらをお持ち下さい」
受け取った傘をそのまま翁に差し出す。尾形は目を丸くした。
「よろしいのですか?」
その白い顔と土方の顔を交互に眺め、翁が尋ねる。土方は是非どうぞと頷いた。
ではお言葉に甘えて、と翁は受け取ると、礼をするように尾形に向けて被っていた帽子をちょっと脱いでみせた。尾形は相変わらず無言で目を丸くしてそれを見ている。
「すてきな用心棒だ。流石は副長殿、やはり法螺では終わらなさそうですな」
「いえ。挨拶も出来んドラ猫です、頼れるのはこうしたお遣いくらいのものです」
ポンと頭に手を置く土方に尾形は餌をとられた猫のような顔をした。翁は愉快そうに笑って、丁重に土方に礼をし、傘を差してゆっくりと去っていった。
少しの間それを見送った後、尾形が不機嫌な猫染みた顔のまま言う。
「あげちまうのかよ。せっかく持ってきたのに」
「そう拗ねるな」
土方は笑み混じりに言うと、尾形の手から傘を奪う。
そうして近くに身を寄せ、二人ともが入るように差しかけた。
「こうすれば良いだろう」
尾形は虚を突かれたように間近の顔を見上げる。土方もそれを見下ろして、暫し見つめ合う。これほど近くで見るその瞳は、それでも尚吸い込まれそうなほどの漆黒だった。
「……さっきの爺さん、そんなに偉い人間だったのか?」
去っていった翁を振り返って、尾形が怪訝そうに言った。土方は軽く尾形の頭を小突いた。
「野暮天だな。おまえは」
「は?」
意味が分からないという顔を横目に、土方は歩き出す。濡れたくはないと、尾形も大人しく一緒に歩いて付いてくる。
「いい着物の色だ。お前の肌によく似合う」
「ふうん。永倉の爺さんの趣味がいいってことかい」
「永倉を見ていてそう思った事は無いがな」
「可哀想なこと言うなよ」
「お前こそ思ってもないことを言うな。しかし、腹が減ったな。蕎麦でも食っていくか」
「奢りなら構わないが」
「それは奢られる態度じゃないぞ」
くだらない話をしながら、自然な速度で通りを歩く。早いというわけでも、遅いというわけでもないが、二人の歩調は往来の流れからは浮いていた。
土方は目を細める。雨の北海道の空気は確かに湿気を孕んでいても澄んでいて、京のそれとは異なっていた。そしてその冷涼な空気が、隣に添った男の纏う雰囲気によく似合うのだった。
良いものだと思う。それは未来もなく過去もない、刹那的な面映ゆい陶酔だった。
「高い店に行くぞ。天婦羅が食いたい」
「お大臣様の仰せのままに」
二人はそのまま、どこか周囲から浮いた空気を纏い、雨の街を寄り添い歩く。
その姿を、遊郭の軒先から偶然見かけた牛山は呟いた。
「なにあれ……」
