勝利の美酒

 とうとうシルシから自由になったらしい男の結果報告は、書面でなされた。
 森のシミ男の件で己が館を去った後もいくつかの事件を経たらしい。全体を見ればたった十日間ほどのヤマながら、関わった人間もそれなりの数に上るだろう。
 個々に事情を説明する手間を考えれば、口頭よりも手紙を送った方がいいという判断にも頷ける。
 あの男は口下手そうだしな――そこまで考えて、〝今の〟男にその印象が当てはまるかどうか言い切れないことに思い当たった。
 
 差し出された封筒の裏面を改めてしげしげと眺める。
 始めてまともに見る字。住所はあの九条館。差出人の名は、九条正宗。
 
 間の抜けた話だ。所在無げに借宿として振舞っていたあの館は、記憶の蓋を開けてみれば単なる奴の自宅だったということらしい。
 淡々と紙面に認められた、一体の人形を巡る奇妙な、とても奇妙な話。
 
 
 真下は、自身の生活基盤がある程度整った頃、男を飲み屋に呼び出した。
 何となく九条館に迎えに行くのは憚られた。己の記憶の中のあの館に立っている男と、これから会おうとしている男が、同一人物なのかが分からなかったからだ。
 ガワだけが同じ世界で、違う人間と相まみえる想像。それはどこか薄ら寒い感覚を真下にもたらした。
 
 もしかしたらシルシが消えたら一杯おごってやる約束をしたあの名前のない男は、もうこの世のどこにも居ないのかもしれない。
 しかし約束を交わした、その記憶と過去だけは真実だ。
 果たすために真下は男と会った。
 果たして、夕闇の中現れたすらりと背の高い男の印象は、記憶の中の男とまるで変わりがなかった。
 
 
「正直、まったく実感がない」
 九条正宗という男に対して、九条正宗という戸籍を持つ男はそう言った。
「記憶は全て戻ってきた。しかし、それはどちらかといえば記憶というより……記録という感じだ。他人のデータを見ている感覚に等しい。そっくりそのまま、ある一人の男の身体と社会的身分をポイと渡されたような、そんな感じだ」
「フン。じゃあ、それを受け取った貴様は一体誰なんだ?」
「……さあな……」
 顔を顰めて男はちびちびとグラスを傾けた。本当に、数日間共に過ごしたあの時の延長だ。場所が飲み屋のカウンターに変わっただけで、助手席から眺めた運転席の男の横顔と何も変わりがない。
 どこか毒気を抜かれたような心境で懐から手帳を取り出す。
「……だが実際、九条正宗という男がいまいち掴みどころのない人間であることは確かだな。あまり表舞台に出ず、そもそものデータが少ないというのもあるが……足跡を辿ってもどういう人間なのか、人物像が見えん」
「調べたのか」
「性分なんでな」
 といっても言った通りデータが少ないため、大した情報はない。
 見せてやった手帳の内容にざっと目を走らせると、男はため息をついた。
「……九条正宗という男は、感情の起伏に乏しい人間だった。九条という家は特殊だったが、他の世界と交わりさえしなければその特殊さが障壁になることはない。淡々と適応していた。学究肌で、特定の分野の知識をひたすら蒐集するような生活が苦にならない性質だったしな」
「しかし五年前、その社会的引きこもりは突如海外へと拠点を移したわけだ。自宅の中から忌まわしい呪いの人形が発見されたことを契機に」
「そうだな」
「よくそんな世俗に疎い男が海外進出なんぞしたもんだ」
「実際、彼の中に葛藤はなかった。事態に対する本能的な危機感はあったが。渡航の必要があると判断してから速攻で段取りを決め、詰め込んだ語学の知識と共に海を渡るまでの間に不安の記憶は一切ない」
 彼、ときたもんだ。真下は呆れつつもグラスと耳を傾ける。
「事故に遭い、半年の意識不明から回復し、リハビリしながら状況整理する間も至極冷静に対処していた。妹の九条サヤも流石に呆れていたようだ。……正宗は、九条家という狭い世界の中で見るのならばお誂え向きの性質だったのだろう。世間と異なる特殊な家の者としての役割を自覚し、如才なく振舞うことに長けていた。だが……向こうの世界の摂理に適応し過ぎたその合理性によって……あの人形への対応を見誤ったのではないかという気がしてならない」
 ぽつりと零す表情は苦々しい。
 人間らしいその表情と、男の語る人物像には齟齬がある。本当に、別人なのだろうと感じた。理屈でなく感覚で。
 だとすれば九条正宗が死に、この男が代わりに生まれたのは――やはり、あのシルシが刻まれた瞬間なのだろう。あるいは、本当の名を忘れた時か。
 真下は沈む男の横顔に言った。
「それでも……他に方法が無かったのも事実なんだろう。一度は取り出してリセットしてやらんと、ヤツを抑える手段そのものが永遠に失われる瀬戸際だったという話じゃないか」
「それはそうなんだが……それでも踏み切るのには、時期尚早だったんじゃないだろうか。実際に出た被害を考えると……」
「代案が無いのならば仕方なかろう。事実、貴様だって今の時点で他の手立てなど思いついていないじゃないか」
「ぐ……」
 苦虫を嚙み潰したような顔で男は黙り込む。
「あんなシルシを刻む力を、そこら中の怪異に無差別にばらまけるような強大な力だ。今のこの状況が、最も被害規模の少ない結果である可能性は十分にあると思うがな」
 男はぐうの音も出ないのか、グラスを傾けるピッチを上げている。
 その何も刻まれていない右手首をまじまじと眺めた。
 そう、自分も含めた他の印人たちは、己の生活圏の延長に現れた怪異にそれぞれ痣をつけられた。しかしこの男だけは、その力の中心である人形自身にシルシを刻まれたのだ。
 〝怪異は生者を殺すだけでは飽き足らず、死の淵へと追い詰めて恐怖と絶望に染め上げることが望み〟。
 かつてメリイが語った言葉だ。そして事実、それこそが一連の怪異を生み出したメリイの目的だったらしい。
 他のすべての印人を解放した最後、それまでの過程でこの男の恐怖と絶望を味わいつくした人形は、仕上げとばかりに男を殺そうとしたという。
 おそらく、メリイにとってはこの男以外の印人はオマケに過ぎなかったのだろう。よりメインディッシュを美味くするためのスパイスのようなもの。奴は初めから、この男だけを見ていた。どれだけ怪異を倒したところでこの男だけはシルシから解放されることなど無いと知っていたから、惜しみなく協力もしたし、一人また一人と館を去っていった所でなんの問題にもしていなかったのだ。
 花彦の事件が終わった後、二人きりになった時、真下に館に残ることを打診してきたメリイの様子を思い出す。
 表情も声色も変わらぬ人形の親切ぶった口調は丁寧で、その態度は心からこの男の身を案じている素振りに見えた。
 結局それは偽りの態度だったわけだが、だが本当らしかった所も一部あったと思っている。
 奴の話す内容のすべての主語はこの男だった。そこには確かに、熱意と呼べるようなこの男への異様な関心があった。それだけは嘘ではなかったのだ。
 真下は全ての真実を聞かされた今になって、メリイという存在のことが急に理解出来たような気がしている。
 その裏に見えるのは家のためや主人の遺志のためといった立派なお題目より、余程身近な動機だ。刑事生活で数々の陰惨な事件の裏に多く見てきたもの。
 攻撃性。残酷さ。それを悦びとする昏い欲望。相手の全てをズタズタにしたいという、狂った執着。
 目の前の他者が自分のものなのだという傲慢。

 アイツには確かに魂が宿っていたのだと思う。薄汚い、悍ましい部分を煮詰めたような、それでも間違いなく――人間のそれが。

「探索中に貴様が怯える度、アイツはさぞかし楽しんでいたんだろうな」
 シルシを通じて男の恐怖を常に味わっていたというその愉悦は如何ほどのものであったか。
 遠慮なく述べた感想は痛いところを突いていたらしく、男は口をへの字にした。
 それからちらりとこちらを見て言った。
「……それを言ったら、お前でだってかなり楽しむ機会があったと思う」
「フン。貴様に比べれば眼中にも入ってないだろうよ」
 苦し紛れの嫌味を鼻で笑ってやると、男はへの字の口のまま追加注文のためメニューを熟読し出した。

 別に、機会の多寡だけでそう思ったのではない。質の話だ。過去も記憶も人格もすべてを奪い、まっさらにした精神が伝えてくる新鮮な恐怖と絶望は、さぞ美味かったに違いない。
 元の人格が感情の起伏に乏しかったというなら猶の事、あの日々に見せていた素朴な感情は人生経験の縛りのない純粋で、根源的なものだったということだ。
 果たして人形なのはどちらなのか、という残酷な考えが頭を掠めた。
 コイツが生まれるずっと前に九条家に巣食い力を蓄えていたメリイと。力の満ち切ったタイミングで相対せざるを得ない立場を持ち、まんまと人生を漂白され掌の上で踊らされたコイツと。
 
 あの時も今も、コイツの印象はまるで陽炎のようだ。
 成熟しきった中年男性でありながら、過去の抜け落ちた男。歴史の延長線上に形成された世界の中で、その存在は周りと切り離されぽっかりと空気の中に浮いている。
 断ち切られたその来歴とこの男が再び接続されることは二度と無いのだろう。
 煮え切らない感情に憂うその横顔を眺める。
 あの人形に生み直されたようなこの名前のない男は、あの人形を完全に滅ぼすことを目標にこれから生きるのだ。肉体が動きを止めるまで、あの館の中で、人形とふたり。
 
 ――ふざけるなよ、と思った。
 真下は自分の考えに苛立ち、残ったグラスの酒を一気に干す。
 男の運命を変えた恐怖の日々を支配していたのがあの人形だったとしても、その隣に居たのは俺たちだ。奴にとってはダシに過ぎなくとも、男の苦闘を直に共有し、その心のより近い場所に陣取っていたのは共に運命を狂わされた俺たちの方なのだ。
 離れた位置から一方的な捕食者として悦に入っていた奴は、結局終わりと始まりだけをこの男に与えて桐箱の中に戻っていった。そこまでが奴の限界だ。
 生き残った限り、これからコイツには新しい歴史が始まっていく。そこにアイツは関われない。だが俺は関わり続けられる。ざまあみろだ。呪いの人形風情が人間様を嘗めるな。俺の方が間違いなく強い。コイツの中でよりデカい存在になれるし、コイツでより楽しんでいる存在になれる。そしてコイツだって、呪われていようが楽しく生きることは出来るだろう。やろうと思えば。

「探偵事務所、お前も一緒にやるか」
 出し抜けに言うと、男は「?」という間抜け面をしていた。本気なのか冗談なのかこっちの顔を見つめて計りかねているようだった。
 まあ別に答えは必須じゃない。どちらにしろ手伝わせないという選択肢は真下の中には無かった。

 そろそろ会計するぞと財布を取り出すと、男は何か思い出したような顔で自分の財布も取り出した。
 奢ると言っているのにどういうつもりだろうか。まさか一杯奢ると言ったから二杯目以降は払えなどとみみっちい事を言うと思われているのか。
 眉を顰めていると男が取り出したのは金でもクレジットカードでもなく、免許証だった。自分じゃない気がする、と言っている名義での。
「再発行したぞ。もう無免許じゃない」
 どうだ、という顔だった。
「………………」
 真下はしげしげとその顔を眺めた後、その手を叩き落とした。
「飲酒後に見せられてもどうにもならんだろ。まさか乗ってきてないだろうな」
 男は「乗ってくるわけないだろ」とボソボソ言いながら叩き落とされた免許証を拾っている。
 
 思わず笑いが漏れた。
 珍妙な奴だ。つくづくと。
 こんな変な人間と知り合うことは後にも先にも無いだろう。
 この先の自分の人生にはずっとコイツの存在がいると思うと、ひどく愉快だ。
 
 メリイのお陰だな。
 真下は素直にそう思う。
 自分がそう思うことが、アイツにとっては憎らしくて仕方なかろうと思えば思うほど。とても、とても気分がよかった。