おそらく気にし出したのは、下宿が大水に呑まれたあの時からだろう。
鬼太郎を拾ってから十年も経っていないぐらいの時分だった。危ないところで命は拾ったものの、その頃から鬼太郎が水木の元を去ると言い始めた。
自分がいることで、妖怪に関するいざこざに水木を巻き込むことを気にしているらしい鬼太郎に、水木は当然引き留めた。実際、随分と揉めた。鬼太郎は水木から見たらまだまだ子供だった。水木は少なくとも大人になるまでは、鬼太郎の面倒を見るつもりでいた。
しかし、一人立ちには早すぎると言うと、僕には父さんがいます、と返された。そして、向こうには沢山の仲間が――妖怪の仲間がいるのだと。
そして件の実の父親は、言葉少なに、今まで本当に世話になったと深々水木に頭を下げてきた。どうやら鬼太郎の気持ちに賛成のようだった。少しだけ、目玉は湿っていた。
それでも納得は出来なかった。本当にこの二人が出て行こうとすれば己には止める術など無いのだと知りながら、やはり尚も話し合おうとしたのだけれど。
自分のせいで水木がどうにかなってしまったらという思いを抱え続けるのが、もうこわいのだと。
こわいなどと、生まれて一度も口にしたことのない子が、そう言ったので。
いつでも帰ってきていいと言って、最後に頭を撫でた。
鬼太郎は答えず、ただ俯いて言った。
「人間の家族を作って幸せに暮らしてください」
定期的に届くお見合い話の手紙を破り捨てる度、じっとそれを見ていた鬼太郎の視線を思い出して、水木は力なく笑った。
自分の幸せはこの子のそばにあった。しかし、この子の幸せは人間のそばには無いのだろうと思った。
そうして最愛の息子に二度と会うことはないまま、帰ってきていいと言った家も、やがて家主の事情で去ることになった。
――自分が全く歳をとらないことに水木が気付いたのは、親子と別れた後、更に十年以上は経った頃だ。
あの村で全身に浴びた幽霊族の血のせいか。
または身体から大量に出て行った人間の血の分、倒れた口に僅かに入ってきたかもしれない幽霊族の血が作用したものか。
あるいはあの親子のそばにいる間に、知らず影響を受けたのか。そのどちらでもない別の要因か。
何にせよ、初めはただ褒める調子だった「若いですね」の一言は、次第に気味悪そうな反応へと変わっていた。
元々あの龍賀一族の一件以来社内で浮いている身ではあったが、同期と並んだ時の不自然さは年々大きくなるばかりで、流石に異常を認めざるを得ない。
普通より若いというだけでは最早誤魔化しが効かなくなってきている状況に、さてこれからどうするかと頭を悩ませ出した。
あの村への調査を任命した当時の社長――今は会長職に就いている――に水木が呼び出されたのは、そんな折のことだった。
久しぶりに顔を合わせた会長は記憶にある姿よりも痩せ、杖をつく姿は一回り小さく見えた。
しかし眼鏡の奥の瞳は当時と変わらぬ冴えた光を湛えている。
その目がじっと対面に座る水木を見て言った。
「君は変わらないな。……という挨拶を口にするのも、果たして何度目になるか。幸か不幸か、君は元々が際立って美男子なせいで、その若さが異常のものなのか天然のものなのか判然せんところがあった」
「はは……。会長には長いこと面倒をみて頂いて、感謝しております」
「こちらこそ君には随分と助けられてきた。献血促進の閣議決定以来の事業転換が軌道に乗ったのも、君の多大な尽力あっての事だ」
「いえ、そんな。滅相もありません」
その時期は鬼太郎たちが出て行って間もなかった。ぽっかりと心に空いた穴を忙しさで埋めるように、我武者羅に働いていた頃だ。
「旗色悪しと見切りをつけて離れていく者も多く居たが、結局かつて一番野心家に見えた君が、一番献身的に尽くしてくれた。……有難う」
「……会長にも、何かと気にかけて頂いておりましたから」
「恨んでおるのではないかね。君をあの村にやった私を」
強い言葉だった。直接こうしてハッキリと問われるのが初めての問いだ。
水木は会長の目を見返して、素直に答えた。
「いいえ。あの村に赴いたことも、このような身体になったことも、全て私の責任です。私個人に関することで、会長を恨みに思う気持ちは一切ありません。……会長が私に負い目を感じておられることは分かっておりましたので、むしろ利用させて頂いた面もあります」
「はは。それも、薄々分かっとったよ」
初めて明確に耳にした水木の答えに幾らか安心したのか、会長は力を抜くようにソファに背を凭れた。
「……君のことは、社内だけの関心事ではなかった。事件直後は本当に記憶を失くしていると認められたが、それでも君はあの村で、何か国家の威信に関わる何らかの情報を握ったのではないか。そしていつかはそれを思い出すのではないか、あるいは既に思い出していながら秘匿しているのではないか。……何度も向けられたそうした探りに対して、君は自然と私に黙秘の協力をさせた」
「……。」
「単刀直入に訊こう。君は、あの村での記憶を取り戻しているのかね」
少しの間水木は会長と無言で見つめ合った。
そして結局、その問いに対しては正直に答えることにした。
「はい。今はもう、全て思い出しております」
「そこに、当時私が探ってこいと命じた『M』の情報はあるのかね?」
水木は沈黙した。
会長はしばらく無表情で黙る水木の顔を眺めていたが、ふと声の調子を和らげて言った。
「……そう警戒しないでくれ。今更何を知っても他言はしない。何故今改まって君にこうして来てもらったかというとだね、私は今年度一杯で職を退き、隠居することにしたのだ」
「それは……」
水木は居住まいを正し、深々礼をした。
「お勤めご苦労様でございました」
「有難う。先ほども言ったように、君にも随分と助けてもらった。感謝している。そして、申し訳なく思っている。……だから、最後に唯一の心残りである君の今後について始末をつけたいのだ」
「……お気遣い、痛み入ります」
「君がそうした身体になった原因は、あの村へ訪れた一件にその端緒があると思うかね」
会長はそう言って手を差し伸べてきた。
少し戸惑いながら、こちらの手を出せと言われていることは把握し、水木はその掌に自分の手を乗せた。
軽く握られ、会長の乾いた指が水木の手の甲を擦る。
皺だらけの老人の手に対して、握られた手はあまりにもぴんと張り瑞々しかった。
「……それは、そうだと思っています」
「そうだな。それしかあるまい。……君は、自分の状態をどう捉えておるのかね。何か気付く変化は? 私から見る限りだと、本当に君は一切合切があの頃から変わらないままだ」
「正直……私自身にも分かりません。気付いた変化も特には……今後どうなっていくのかも。ただ、流石に周囲の目が誤魔化しきれなくなってきているので、どうしたものかと考えているところです」
「まさか、不老不死……ということはないだろうね」
「流石にそれは無いかと……怪我も普通にしますし、普通に痕も残ります。交通事故にでも遭えば死ぬでしょう。ただ……」
「ただ?」
「普通の寿命で自然死出来るかどうかは、かなり怪しいと思います」
「……。君が見合いの話を全て断ってきたのは、自分の身体の状態に気付いていたからだったのか。申し訳ないことをした……」
「ああ、いえ。それは違います。私も、この状態を自覚したのはつい最近ですので」
「何? では、何故頑なに所帯を持とうとしなかったのだね」
「それは……償い……みたいなものです」
「……誰か、振った女性でも? 君はもてるからな」
「はあ……まあ……その。……そんなところです」
歯切れ悪く言葉を濁す水木に、会長は息をついて水木の手を解放した。
「しかし御母堂も鬼籍に入られておるし……一人では張り合いも無いのではないかね。そういえば一時、拾い子を育てていたとも聞いたが」
「ええ……でも、その子も今はもう、本当の親と共に新しい場所で暮らしております」
「そうか……」
「……会長。詳しい製法までは分かりませんが、私は『M』の原材料をあの村で目にしました。それは、ある生き物の血です。とても残酷な方法で採取された血液です。そしてその生物はもう、絶滅してしまいました。龍賀の一族に全て狩り尽くされて」
「……なんと」
「ですからとうに『M』再製の道は断たれました。そして、仮にそれが可能であるとしても絶対に復活させるべきではない薬です。あれは、あってはならない薬だったのです」
「……もう製造不可能なことは承知した。しかし、あの薬の存在によって得た発展や利益があったことは本当ではないかね」
戦争はまだ続いていると言った、あの力強さを残した眼差しが尋ねる。
水木は静かな表情でそれを見つめ返し、言った。
「それでも……何かを犠牲にして豊かさを得ている以上は、やはりその分、何かを失っているのだと思います」
「……。そうか……」
会長は懇談の最後に、水木の今後の希望を訊いた。何でもいいから言ってほしい、出来るだけ叶えるよう手を尽くしたいと。
水木は『M』の存在と、それに少しでも関わりのある自分のこの状態が広く知られることのないように、ひっそりと社会生活を送っていけるよう望んだ。
また、今の職場にこれ以上所属し続けることも限界だと思われるので、いい働き口があれば紹介してくれれば有難いと。
中々無茶な要求だったが、会長は必ず叶えようと約束してくれた。
そして後日、会長があまり気の進まない様子で水木に提案したのは、水木という男の社会的な死だった。
時は容赦なく過ぎ、生年と経歴の違和は今後どんどん大きくなっていくばかりだろう。それならいっそのこと身元の確かな水木の籍に区切りをつけ、書き換え可能な新しい籍を用意し別人として生きるのはどうかという話だ。
流石国の機密事項である『M』の運用に噛んでいただけあって、掟破りな手段を使えるコネクションがあるらしい。
水木は是非お願いしますと承諾した。色々あったが、この人の下で働いてきて良かったと思った。
死んだという扱いになる以上、鬼太郎たちがこれから何かの拍子に水木を捜そうと思い立ったとしても、知らぬ間に鬼籍に入った養父という事実に直面することになるだろう。
しかし水木はそれでいいと思った。
欲しいものを我慢する子供のようないじらしい目で、普通の人間の幸せを持ってくれと願い自ら離れていった繊細な子だ。
幽霊族の最後の子供。
万が一でもあの忌まわしい『M』の、あるいはこの不老の身体の、唯一の鍵として狙われてしまう可能性を残した存在。
きっと今のこの現状を見たら、悲しむだろう優しい子。
ならばいっそ、自分はもうあの子の世界から退場した方がいい。
元気でやってくれているのなら、それだけでいい。
――一年ぶりに訪れた廃村は、未だトンネル越しでも明確に分かる禍々しい気配に満ちていた。
「お客さん、悪いことは言いません。この先は……」
「ああ、分かってる。これ以上は行かないよ」
ここに来るたび感じる、最早慣れ親しんだ頭痛を覚えながら、トンネル前に花を置く。
線香に火をつけて、手を合わせた。
「すまないな。俺にはこうすることしか出来ない。また狂骨に襲われたら、今度こそこうして参ることも出来なくなるかもしれないから……」
せめて、生きている間は毎年こうして来続けるつもりでいる。何があっても。
一番大変な役割は、鬼太郎に背負わせてしまうけれど。
「悪いな、鬼太郎。……頼むぜ。ゲゲ郎」
タクシーに戻って、下山を頼む。
行き先は通ってきた方角とは反対の村だ。
「今の哭倉村跡といい、変わった所ばかりですねえ。行きに通りがかった街があったでしょう? 逗留するなら皆さんあっちに行きますよ、温泉もありますし」
「残念ながら観光じゃなくて仕事なんだ。ちょっとした調査でね。今のはその寄り道さ」
「はあ、お仕事ですか」
下り坂の悪路にがたつく車内で、眼下に広がる風景を見下ろす。森とそれを切り拓いた市のせめぎ合う混沌とした風景。
会長が用意してくれた新しい働き口は、依頼を受けて調査する、いわば探偵のような仕事だった。
ただし依頼主は国ないし地方公共団体であり、調査対象は警察や検察の管轄から外れた奇妙、あるいは秘匿された特殊な事象――主に、目には見えない世界に関わる案件が中心になる。
あの村から帰って以来水木はこの世ならざるものを視るようになった、と社内の一部で噂になっていたことは知っているが。
まさかそこから働き口の伝手を得られるとは思わなかった。よくよく自分は見えない世界に縁があるらしい、と水木は自嘲する。
「あのう、失礼ですがお客さん」
「はい?」
「以前、ずっと前に……それこそ哭倉村がまだあった頃に……いえ、そんな訳はないんですけど……」
うーん、と首を捻っている運転手の顔を、バックミラー越しにまじまじと見る。
帽子を被っているから分かりづらいが、運転手としては高齢のその男は、もしかしたら――あの日あの村に送ってくれた運転手かもしれなかった。
「いえ、すみません。何でもないです」
運転手は撤回して、誤魔化すように笑った。
常識が勝って思い直したのだろう。実際、勘違いかもしれなかった。お互い今となっては分かりようもない。
水木もふっと笑って窓を開ける。
「そうですか」
風が吹き込んで前髪を揺らす。煙草が吸いたかった。
別れる前に、まだまだ凶骨はあの村に残っているとゲゲ郎は言っていた。
すべてが浄化されるのには、長い年月がかかるだろうとも。
人間も妖怪も幽霊族も、生きている者は皆、どこかから出られない定めなのだろうかと水木は考える。
誰も彼も、何かから出られない。例えば戦場から。悪夢から。あの村から。地獄から。肉体から。時代から――この世から。
時弥くんを、紗代さんを、結局あの村から出してやれなかったこと。
全てを思い出した時、そればかりが悔やまれて堪らなかった。
何も恒久的に面倒を見ようなんて大それたことが出来るとは今も思っていない。
ただ、あのトンネルを抜けて、車に乗って、電車に乗って、乗り換えて、歩いて――銀座でクリームソーダをご馳走してやるぐらいは。
たった一日あれば出来るそれぐらいのことは、どうにかしてやれる道は無かったんだろうかと。
それが何にもならないとしても。一緒に東京タワーを見て、あの村以外の、一人の人間としての楽しい思い出を僅かばかり持つぐらいのことは。
ずっと変わらずに居たい場所というものも、この世には存在する。
狭い家で、誰も完全な生き物のいない歪な家族で何とか日々を暮らしていた頃、水木はそれを知った。
あの思い出さえこの胸にあるならば、もうこの先何も良いことが無くてもかまわない。
だからこそ悲しかった。
村の外れで目覚めたあの夜から、胸の底でずっと。
自分には恨みはない。
身体も相変わらずよく動き、行こうと思えばこの足の届く限りはどこにでも行けるのだろう。
ゲゲ郎の話してくれた狂骨の定義には当てはまりようもない果報者だ。
だが、未練だけは溢れている。未練ばかりが溢れている。
どちらかといえば、そう、幽霊ならばきっと近いのだ。
「見えないぐらいがちょうど良いのに」
見えなくなる日はまだ遠い。
終
