しあわせは歩いて来ない - 1/3

大人の孤独、自由な子供

 背後から撃たれた左腕の傷は、自分で手当てするには厄介な箇所だった。
 銃創だから毒の心配は無いものの、浅い傷ではない。圧迫しているが血はまだ止まっていないようだ。応急処置できるような持ち合わせも無かった。
 不意打ちにさえ気をつければ、尊奈門はしばらく一人でも任務を続けられるだろう。しかし時間の余裕を差し引いても、手当てのため本隊に戻るには随分と距離がある。
 どうするかと、とりあえずその場から離れながら、今後を考えて――雑渡の脳裏をよぎったのは、ここからそう遠くない、忍術学園の存在だった。
 学園内の大まかな日常の動きは以前偵察した時に把握している。この時間帯ならば、授業はもう少しすれば放課になり、忍たまたちは各自遊びに出かけたり委員会の活動へと向かう筈だ。
 暫しの思案の後、雑渡の足は学園へと向けて走り出した。

 校医の新野先生が、このあと薬草園の世話で暫く医務室を留守にすること。
 そして今日、その時間帯の保健委員の当番が誰なのか、ということに……記憶している情報の中から思い至ったのだった。

 ◇

 今日この日に医務室に居るのが、彼――鶴町伏木蔵でなければ、忍術学園へ足を向ける選択はしなかった。
 彼以外の……例えば以前助けられた、保険委員長の善法寺伊作が当番だったならば。訪問すればあの時と同じように、必ずこの傷を手当てしてくれるだろう。
 しかし同時に、己の来訪がおそらく学園側に知られてしまう。
 敵であろうが味方であろうが関係なく治療を施し、そのこと以外は常に忍術学園に忠実な行動をとる伊作の立場は明瞭だ。“忍術学園の保健委員”という行動基準が確固として彼の内にあり、そこからブレない。
 分け隔てない治療行為と、学園の六年生としての毅然とした態度は一見矛盾しているように見えるが、彼の“信条”には反していないので彼の中では矛盾しないのだろう。自身の中にある“こうすべきだ”というルールに彼は決して疑いを持たないのだ。
 そういったある種の“自信”が高じてか、自分以外の周囲への過度な信用や咄嗟の状況判断への検討不足等の一面が見られ、そのことが彼曰くの“不幸”を招いているふしもある。
 しかし迷いがない事それ自体は、人を率いる者としての適性でもあるだろう。以前迷い癖を指摘した五年の不破雷蔵とは真逆の性質であるといえる。
 ただ、自信をもって不幸を招く分、周囲への被害の大きさという点では決して褒められたものではないが。

 相手が誰であろうと治療すべきであるという己の信条を疑わないため、雑渡を手当したという事実の対外的な問題性をそもそも考慮しない伊作は、それが隠さなければならない事だと言う意識を持たない……というより、持ちたがらない。堂々と患者として扱おうとするだろう。
 しかし雑渡昆奈門は、あの学園に堂々と存在していい立場ではない。
 
 忍術学園と非友好的関係にあるタソガレドキ。その忍者隊の組頭という地位……例え個人としては友好的な態度をとっていたとしても、雑渡が“曲者”であるという事実に変わりはない。そんな人間が怪我の治療のため私的に学園の医務室を利用したと知れれば、雑渡が警戒される以上に、招き入れた医務室側の信用に影響する。それは雑渡の本意ではない。
 タソガレドキも忍術学園も、お互いの戦力は強大だ。ゆえに政治的影響力も同様であり、それぞれの領分は常に譲歩と断絶を繰り返して微妙な均衡を保ってきている。
 医療に関してだけは、そうした政治的事情と無縁であると保健委員たちは信じているだろう。
 その信条に雑渡は以前救われた身だ。彼らの在り方に雑渡はある種の、敬意のようなものを抱いている。現実はそうではないと既に知ってしまった己には持てない、“理想”という可能性を持つ彼らに。
 だから己という現実が、彼らの理想を脅かすことは避けたい。己はあくまで患者ではなく、外からの闖入者であり厄介者でいい。
 かといって“秘密”を作ることを重荷に感じてしまう子の厄介にはなれない。そうまでして情けをかけてもらう価値は己に無いと、弁えている。
 保健委員の子たちは皆、頼めば治療だけは必ずしてくれるだろう。彼らを動かしているのは保健委員としての役割を全うしようという責任感と自負だからだ。役目こそが、彼らの無私の奉仕精神を支えている。その“義務感”につけ込みたくはない。
 怪我人は治療するべきだという信条と、招かれざる客である己への警戒、怯え。その葛藤が彼らの健やかな委員会活動に影を落とすことを、雑渡は望まない。
 
 しかし、伏木蔵ならば。
 安寧を乱す存在を喜び、領分など意に介さない、自由なあの少年ならば。何も奪わせずに、ただ、そこに居させてくれるのではないかと思った。
 例え医務室であろうとも、雑渡の存在が公に招いてはならないものである事実に引っかかりを感じることもなく。役割に対する責任感と、イレギュラーな事態に対する決断との間で、答えの出ない葛藤を抱くこともなく。周囲に秘密を作ることを、苦にすることもない。

 以前伏木蔵が、雑渡の膝に座りながら『昆奈門さんはいつも、“私はいつだって忍たまの味方だよ”って仰ってますが、いつも昆奈門さんに勝負を挑んでくる潮江先輩や、七松先輩の味方もして下さるんですか?』と真っ向から訊いてきた事がある。
 あれは忍たまの代表として訊いたのでも、あるいは他の忍たまより雑渡に近しい者としての中立な発言というわけでもなかった。ただただ誰でもない彼自身の、雑渡という一人の人間に対する純粋な興味から発せられた問いだった。
 そこにはどういう答えが返ってくるのかという予測も期待も警戒もない。雑渡がどういう人間であっても、彼にとっては周囲の状況に過ぎない。従属意識というものが希薄なため、どんな事情も客観的に見られるのだろう。
 大事なのは“彼にとって”どうなのか。信条ではない、もっと刹那的で、周囲と関わりのない独立した意思。自分で新しく考え、自分で行動を起こし、そうして出した自分だけの結論……それが周囲と異なっていても構わない。彼にはそんな豪胆さがあった。

 初めの頃はただ、幼さ故の社会に対する無関心さなのかと思っていた。
 毒が投げ入れられている可能性があるから井戸水は飲むなという雑渡の助言に対し、しかし喉が渇いたのだという主張を、身内である伊作ではなく助言した雑渡に直接言ってきた。その時少し感心したことを覚えている。
 周りの人間が警戒している雑渡に対しても、物怖じしない主体性。それは特別子供らしい天真爛漫さに拠るもので、故に己を拒まぬのだと思えば、やがて失われる無防備さが微笑ましかった。会うとよく構うようになり、その度に彼は無邪気に喜んだ。
 しかしそれは今だけの無知などではなく、彼自身の生来の性質だった。
 伊作はおそらく大人になっても、今の信条と性格を持ち続けるだろう。同じように伏木蔵のああした独自性もまた、おそらくはずっと変わらない。
 周囲を認識しないほど幼いのではなく、彼は周囲の全てを彼自身と対置して考えられるほど自我が確かだったのだ。接する機会が増えるごとにそれが段々と分かってきた。
 何も知らぬどころか、驚くほど多くのことを観察し把握した上で、一歩引いて見ることの出来る賢明さ。
 そして何よりもそうして見知ったすべてに対して、彼曰くの“スリル”を感じるかどうかだけが重要とされる価値基準。
 自分のペースを崩さない、精神的な強み……それが理解できると彼に対して、より気安く振舞えるようになった。他の子供が揃って怖がり不安がる雑渡の存在を、むしろ伏木蔵は歓迎した。
 彼は雑渡のそばに居ても何もすり減らさない。そのことは、雑渡自身をすり減らさない事をも意味していた。彼のそばにいる限り、雑渡は安全な人間になれた。
 そんな彼の存在をこうして頼ろうとしている己の行動は、彼のそうした強かさを、利用しているのか。
 あるいは……甘えているのか。

 ◇

 誰も呼ばずに君が手当てしてくれ、という雑渡の申し出に対し驚きを見せはしたものの、雑渡の存在を伏せることについては予想通りすんなりと納得した様子だった。呼びに行こうとするのを止めるため咄嗟に掴んだ手にも脅威を感じた様子はない。
 それよりも、行なっている自分の手当てが適切なのかどうかということをずっと気にしていた。普段大きな怪我の手当てに関しては新野先生か伊作が担当し、伏木蔵は手伝い程度の経験しか無かったらしい。
 雑渡の指示通りに処置しながら、何度も「痛いですか?」と心配そうに訊く様子に気を遣わせて悪く思う。しかしいつかは慣れなければならない作業だ。これが経験の一つになれば、伏木蔵自身の役にも立つだろう。

 静かな医務室で、指示通りに一生懸命動く伏木蔵の手元を見ながら、久しく感じていなかった泥のような倦怠感が身体に満ちる。
 尊奈門を庇ったあの時、咄嗟に飛びついて避ける外はなかった。でなければ間に合わなかった。
 部下を庇うことに躊躇はない。一番上に立つということは、一番未来の可能性を持たない存在であるということだ。何かを切り捨てるならば、より多くの可能性を残す。これまでもそうしてきたし、これからもそうすることに変わりはない。
 しかし背後からこの腕を掠めた銃弾は僅かな差で、この命を絶っていた。その事実が、生き残った身体の重さをまざまざと実感させる。
 こうして命を拾うのはもう何度目になるか分からない。常に切れかけて、故にしぶとく繋がってきたこの身は最早“いきづまり”だ。上はなく、並ぶものもない。この先は落ちるか落ちないかだけの、可能性の終点。
 そうして保たれているだけの己の存在を、傷付いた腕に触れる小さな手で……この世で最も危険から遠いものに触れられて、ふっと自覚させられる。焼けていた心が冷えるように。
 虚しさではない。ただ、やはり早く去らねばならないと思う。しがらみなど関係なしに、単に、去り時が分からなくなりそうだった。
 唯一、何者でもなくそばに居ることを許してくれる彼の前から。
 どこに居るべきでもないのかもしれない身であるからこそ。

 真新しい白い包帯を巻き終えて、詰めていた息を大きく吐き出す伏木蔵に礼を言って立ち上がる。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
 そのまま早急に立ち去ろうとする雑渡に、伏木蔵が戸惑った声を上げる。
「あっ、少し休んだ方が」
「何……これくらい」
 軽く言って、何でもないのだと思わせようとした。
 しかし常にない強い口調で「ダメです!」と雑渡の言葉を遮った伏木蔵が、行かせまいとするように腰に抱きついてくる。
 受け止めながら、予想外の行動に思わず素で驚いた。一緒にいる時よく抱き上げたりはしていたが、彼の方から断りなく飛びついてくるような事はしない子だった。そもそもこんな風に己に触れてくる度胸のある人間に他に覚えがない。
 雑渡に縋り付きながら、伏木蔵は必死の表情で言い募った。
「まだ安静にしてしないと……! 休んでいってください!」
「伏木蔵くん……」
 見上げてくる目は、ただひたすらに、雑渡の身を案じていた。
「ぼくっ、保険委員ですから!」

 誰彼構わず助けようとする彼らに、何度か“忍の立場”を考えたら助けるべきではないのではないかと問うたことがある。
 彼らからは「保健委員だから」という返答がいつも返ってきた。
 それが正しいことだと信じている伊作。その精神を受け継いでいる後輩たち。
 しかし、結局どんな理由も信条も、初めはただの願いから始まるものに過ぎないのかもしれない。そうすべきだと信じる前の、そうしたいという望み――。
 そこにあるのはただ、情けだ。人を思いやる、人の感情。

 伏木蔵にとって……彼だけの視点で物事を見る、一人の自由な子供にとって。今の己の姿は、どう見えたのだろう。
 雑渡は目を細めた。
「そうか……。君がそう言うなら、少し休ませてもらうよ」
 力を抜いて、諦める。
 ここから逃げることを。これまでとは異なる、新しい感情が己に訪れるのを、拒むことを。
 伏木蔵はほっとしたように表情を緩めて、優しく笑った。

 ◇

 これほど静かな時に浸るのはいつぶりだろう。
 ずっと遠くから微かに子供の笑い声が聞こえるだけで、周囲に人の気配はない。己の存在を、誰にも言わずに許してくれる小さな保健委員だけがそばにいる。
 意識が完全に目覚めても、しばらくその空気の中じっとしていた。現実感のない、夢の中じみた空間だった。

 浅く微睡む眠りは、それでも鉛のような倦怠を洗い流していた。
 完全には眠らない意識の暗闇の中、伏木蔵が雑渡を起こさぬように誰も入れまいと気を張っているのを感じていた。
 叱られることを恐れるのなら、すぐに起こして出て行かせてしまえばいいのに。そうではなく、もっと雑渡を休ませてやれるようにと。

 目を開けると、伏木蔵は戸のすぐ前で獣の仔のように丸まって眠っている。
 音を立てず近寄った。そっと起こさぬように抱き上げ、入れ替わりに寝床へと寝かせる。
 掛けてくれていた毛布を被せた。見張り疲れたのか、ぐっすりと寝入っているようだった。

 守ってくれたんだな、と。
 彼のしてくれた事と、この状況をそう理解した時に湧いた感情は、名状しがたく。
 どこか、途方に暮れたような心持になった。

 だから書き置きを残して去ろうという段になっても、気の利いた言葉など何一つ浮かばなかった。
 懐から、手遊びに作って持ったままだった竹蜻蛉を取り出す。
 昔、陣内の子供たちが療養中の雑渡の所へ遊びに来ていた時に、よく作ってやっていた。火傷だらけの男を遠巻きに少し恐れていた子供も、これをやると必ず喜んだので、小さな子供の相手をする時はいつも作った。手先は器用なので自然と上達した。
 最近は誰に作る機会も渡す機会もなかった。待機中の暇潰しに手癖に任せて出来上がった懐かしい玩具を前に浮かんでいたのは、思えば伏木蔵の顔だった。今の己にあげる相手があるとしたら、その顔しか浮かばなかったのだ。
 会う機会もしばらくあるまいと、そう考えた事もすぐに忘れていたが。

 最低限の、ひどく簡素な内容になった文を竹蜻蛉に結ぶ。
 眠る伏木蔵の手に持たせると、無意識の反射か大事そうにぎゅっと握った。幼い仕草に思わず小さく笑う。

 以前伊作にした礼を思えば随分と他愛のない礼だ。
 危険を顧みぬ伊作の善行、その恩恵にあのとき雑渡が与れたのは、見知らぬどんな相手でも治療を行うという信条を彼が貫いていたおかげだった。
 彼の立場に助けられたから、雑渡は雑渡の立場でもって礼を返した。彼が助けた男は、偶然にもタソガレドキ忍軍すべての方針を決められる立場であったので。

 しかしただの知り合いの雑渡昆奈門に世話を焼いてくれただけの伏木蔵に、立場も何もないただの人間として出来る礼など、こんな程度のものだった。子供の遊びのような、とてもちっぽけな。
 それでもこれを受け取った伏木蔵が嬉しそうに喜ぶ顔が、容易に想像出来たから。
 そして彼のくれた優しさは、それだけで許される程の、ささやかなものに過ぎなかったから。

 何を賭することもなく、ただ――そこに居させてくれるだけの。

 ◇

 再び合流した尊奈門には消えていた間の経緯は伏せておく。一時離脱していた事実そのものも、尊奈門さえ黙っていれば無かったことになる。
 医務室に居る間、誰かが勘付いた様子はなかった。伏木蔵も何の苦もなく今日のことを胸に仕舞うだろう。彼の関心は常にスリルという現在性にあるので、新たな刺激に思い出は押し流される。
 あとに残るのは巻かれた白い包帯と、おそらく今頃彼が飛ばしている、竹蜻蛉だけだ。

 別で作った竹蜻蛉を自分でも飛ばしてみると、簡単に遥か高くまで飛んだ。誰にも知られずに過ぎ去っていくあの安らいだ時間のように、軽く、不確かに。
 清涼な青空にふわりと浮かぶその様は、驚くほど鮮やかに雑渡の目に映った。