四.
朝も早い内から、通りすがりを呼び止められ「永倉と家永を伴って晩まで留守にする」と土方に告げられた尾形は、そうか、とだけ言った。それ以外は何の反応も示さなかった。しかし、続けて「牛山を殺すなよ」と釘を刺されるに至って、ようやく表情に訝しげな色を乗せた。
「ちょうど永倉にも同じことを言い含めていたところだ。深夜の大騒ぎで苦情が来てな」
言われ、土方の横にいる永倉に目をやる。確かに一見冷静に座しているように見えるが、その額には鎮まり切らなかったらしい怒りが浮き出た血管として表れていた。
そういえば昨夜やかましく吼えていたな、と牛山の様子を思い返す尾形に、土方は若干愉しそうな顔をして続ける。
「あれは確かに性欲に関しては手のつけられん馬鹿だが、戦力としては使える男だ。私の許可なく勝手に殺すな。お前は私の用心棒になると言ったな? ならば、私の不利益になることはするな」
「……わかった」
余計なことは言わず、了解の意だけ伝えて尾形は口を閉ざす。
土方に言われずとも、尾形の中で“牛山を殺す”という選択肢は、既に失せていた。“そう”すると決めるには、牛山という男はまともすぎた。
殺すほどには悪過ぎず、そして――善過ぎもしない。
つまらない男だ。 そう思う表情のまま、そっぽを向いて、白けた横顔だけを晒す。
そんな尾形の様子を少しの間しげしげと眺めていた土方は、ふと、人差し指の先でちょいちょいと尾形を手招いた。
近くに寄れ、という事らしい。首を傾げながら、尾形は要求された通りに、手の届く場所まで身体の距離を詰める。
土方は目の前に座った尾形についと手を伸ばすと、無遠慮に、無造作に、まるで自分の所有物に触れるように自然に――尾形の襟元に節くれだった指をするりと滑り込ませた。
「!?」
理解の出来ない行動に目を丸くする尾形に構わず、渇いた指先は何かを確かめるように背中から項までの皮膚を滑る。そこに暴力の気配はない。
だから意図は読めないものの、現在の主人である老人の突然の奇行を、内心困惑しつつ尾形は甘受するつもりでじっとしていた。だが普段は衣服に隠れ、他人から触れられる機会もない絶妙な部位を、首筋の流れを辿るようにじっくりと撫で上げられ――這い上がる言いようのない感覚に、思わず尾形は土方の手を払い落とした。
「なんだ、一体ッ」
触られた部位を庇うように摩りながら、尾形は刺々しくなった口調で問い掛ける。寒いような暑いような妙な気分にさせられて動揺した。気づけば無意識に土方から身を引き、少し距離をとっている。
土方はまるで悪びれない様子で座卓に肘をつき言った。
「最近あいつ、取って食いそうな目をしてやけにお前を見続けていたが、成る程な。新選組でも時折あったが、お前みたいなのが一人居ると風紀が乱れてならんかった。なあガムシンよ」
振られた永倉は無言を返した。顔に「俺に訊くな」と書いてある。
尾形は言われた言葉に多く残る不可解さと理不尽さを問い詰めたい気もしたが、過去の何れかから、似た言葉を詰るように誰かから言われた記憶が蘇りそうになった。そうなる前に、唸るように低く吐き捨てる。
「……俺の知った事じゃない」
「それはそうだろうな」
軽く鼻で笑って、土方はどこか慰めるような気安い口調で言う。
「さっきも言った通り、今日我々はお前とあのケダモノを残して家を空ける。そして、お前が掴んできた夕張にあるという刺青人皮の情報だが、お前と牛山を先行して向かわせようと思う」
「……嫌がらせか?」
「勘違いするな。お前は情報を聞いた本人なのだから、確かめに行く役として一番適しているだろう。そして牛山は、派手に遊郭通いをしているせいで最近街中で噂になってしまっているようだからな。奴の刺青の情報から我々の方にまで目が向かないとも限らない。暫く遠くにやった方が良いだろうという判断だ」
「……」
「まあ夕張行きのことはとりあえず置いておこう。ひとまず今日の件については、まあ小遣いをくれてやるから、精々街の何処かにでも身を晦ませていろ。昨日は命拾いしたようだが、奴に人並みの理性など期待せんことだな。……このように、優秀な用心棒の身を雇い主として案じてやっているわけだが」
完全に面白がっている口調に、尾形は派手に舌打ちした。
「余計なお世話だ」
クソジジイ、という言葉は飲み込んだ。そして憮然としながら、とりあえず手のひらを差し出した。
土方はやれやれという顔をして、懐から財布を取り出した。
いらっしゃいませ、と店の軒先から呼び込む女の横を通り過ぎながら、尾形は出掛けの家永の様子を思い出していた。
牛山の件に関して、土方よりも余程執拗に尾形へ釘を刺していった。約束忘れないでくださいね、と。
家永がアジトを空けるのは珍しいことではない。健康状態が快方して以来、土方や永倉が聞き込みに行く際には必ずと言っていいほど家永が同行するようになっている。相手の警戒心を解くという点において、妙齢の女の容姿は、ただそこに居るだけで驚くべき効果を発揮するらしかった。
家永としても今は他にさしたる目的も無いらしく、土方の要請にはいつも協力的な姿勢を見せている。囚人である素性を隠すのには苦労しない様態のため、刺青の写しだけ提供して去るという選択肢もあった。しかし家永はそれを辞退し、行動を共にして、金塊が手に入れば分け前を貰う……という、牛山や夏太郎達と同じ立場に落ち着いた。
元はホテルの支配人に収まって悪食の限りを尽くしていたようだが、その暮らしをもう一度送るにも纏まった金が必要ということらしい。
「趣味があるっていいことですよ」と、家永は尾形に語った。出会って暫く経った頃、眼球を舐めさせてほしいと頼んできたのを断った時のことだった。尾形は何も言わなかった。
――お前、何かしたい事とか無いのか。この戦争から帰ったら。
日露の間、そんな問いを何度も投げかけられたことを思い出す。聞いてきた人間は様々で、兵営でよく顔を合わせていた奴も居れば、一度も話した事のない奴もいた。
おそらく皆一様に、戦場に出る前は尾形のそうした個人的な事情に対して興味や、ましてや聞いてみようなどという発想は欠片も持っていなかっただろう。それでも塹壕に隠れたまま待機を命じられ、誰かを仕留めたかもしれない銃弾や砲弾の音を遠く聞きながら、緊張と疲労と奇妙な静寂に浸されると、やがて彼らはまるで定められた作法か何かのようにその問いを尾形に投げかけた。
尾形は確か、一度も答えらしい答えは口にしなかったと記憶している。しかしそれで問題は無かった。結局彼らは、自分が答えたい問いを尾形に投げかけているに過ぎないのだった。
――俺は帰りたい。帰って……そうしたら。
誰が何を言ったか、そこに違いは殆ど無かった。大体は女を抱きたいとか、うまいものが食いたいとか、清潔な部屋でいくらでも眠りたいとか、そういう即物的なことだ。
その中には「帰ったらヤらせてくれ」と言ってきた奴もいた。まるで昨晩の牛山のようだが、冗談だったのか本気だったのかは知らない。どっちでもあり得るぐらい尾形はそういう噂の種にされるには事欠かなかった。
どちらにしろ、戦場でそう言われた時には、尾形はすべて了承していた。今すぐにと言うならともかく、明日の朝日を拝める保証もない中で交わす終戦後の約束など他愛ない戯れでしかなかった。
どうでも良かった。あの戦場で、先のことを考えることに意味はなかった。ただ、今すぐには叶わない何かをしたいと口にせずにはいられない、その空虚な切実さがいつも不思議だった。
結局あの中の何人が帰還して本懐を遂げられたのかは知らない。全員死んだのかもしれない。
少なくとも、戦場での約束を理由に尾形が誰かと寝た記憶は無かった。それは確かだ。それが理由ならば、尾形は約束を果たしただろうから。
――いつかきっと。
そうして、ただ遠く待つような、ただ遠く望むような、そういった不毛さが尾形には耐え難かった。
望みを抱く時点で、それは元々そこに無いものだ。目の前にあるものを欲すればいい。叶うものだけを望めばいい。何かが叶おうが叶うまいが生きている事実は変わらないのだから、手の届く範囲で満足すればいいのだ。
例えば、下半身でものを考えている色情魔のように。あるいは、他人の肉を食いたがる食人鬼のように。
十分だろう。即物的ということは実利的ということだ。浅ましいのは、一体どちらだ?
だが尾形はそこまで考えて、件の二人の要求を当然に拒んだ癖に、いつかと望んだかつての同胞の願いは当然に容れてやろうとした己の心理を思い、鉛を飲み込んだような重苦しさを感じた。
約束は果たすべきだと思った。
それは、自分が答えたい問いを尾形に投げかけることで自身の何かを晴らそうとした彼らの心理と、変わるところがあるのだろうか。
――代償? ……何の?
憂鬱さに囚われ歩いている内に、ふと道の先にいる数人の集団に気付き、尾形は顔を上げた。一番手前にいる一人が、同じようにこちらに気付き、目が合う。尾形は立ち止まった。昨日、昏倒させたあの男だった。
すぐに横道に入り込んで駆け出したが、遠くから己を追えと騒ぎ立てる声が耳に届き、尾形は舌打ちした。
ついてない……いやドジを踏んだと言うべきか?
注意が散漫になっていた可能性は否定できない。尾形はそれを好き勝手言って出ていった土方のせいにしてやりたい気がしたが、それも懐の小遣いの手前若干気が咎める。
回り込まれる前に、裏から出られそうな大きい建物の中に身を滑り込ませると、中はいわゆる出合茶屋らしかった。
いきなり入ってきた男に驚いた店番に手短に、しかし反論を許さず、追われているので通り抜けさせて欲しいと伝える。店番は無言でこくこくと奥へ続く通路を示して頷いた。下手に渋って事を荒立てるよりもさっさと通り過ぎて行って欲しいといったところだろう。
足早に進んでいくと、しかし裏口があると思われる折れた通路の先から、どやどやと男の声が複数聞こえてくる。この建物に逃げ込んだ可能性を読まれたらしい。
このまま行くと鉢合わせるなと、尾形は左右にいくつもある障子のうち、適当な部屋に押し入る。
使用中の部屋だったらしく、中には男女の客がいた。男の方を一目見て、尾形は思わず呆れて立ち止まる。隆々とした肉体に刻まれた奇妙な刺青……それを相変わらず堂々と晒している人相の悪い男。牛山辰馬だった。その手は一緒にいる女の着物の衿に入り込んで今にも脱がそうとしている。どうやらお楽しみの真っ最中だったらしい。
牛山の方も、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして突然現れた尾形を見ている。女も同様だ。
尾形は状況を把握する一瞬の沈黙の後、「よう」とだけ挨拶して、その横をどかどかと土足で通り過ぎた。
そして窓から外に出て、建物と建物の細い隙間を縫って裏路地に出る。
少し話しただけだが、昨夜情報だけ分捕った時の男の様子を見る限り、殺したら面倒なことになりそうな相手だった。
金回りも良さそうだったし、元々脛に傷のありそうなゴロツキならばともかく、死体が上がれば捜査の手もある程度真面目に入るだろう。あるいは報復があるかもしれない。
近く夕張に向かわせられるというなら尾形自身に足がつく心配は然程無いかもしれないが、己の不始末で土方陣営に借りを作ると今後に響く。
――お前は私の用心棒になると言ったな。ならば私の不利益になることはするな。
憎たらしい雇い主の顔が浮かぶ。食えないジジイだ。弱味を見せれば敗ける相手だと、尾形は承知していた。
しかし複数人相手に誰も殺さず逃げ切るのは、例えチンピラ相手だろうと少々分が悪い。昨日に引き続き和装の丸腰であり、隙を見つけて銃で追手の足を止めるといった芸当も不可能だ。常に銃を携帯していたいのは山々だったが、立ち寄る程度ならともかく、いつまで滞在するか分からない街中を三十式を抱えて軍服でウロウロするのは師団の目につく危険があった。
……そもそも街中に出る必要に迫られなければ、銃と離れる必要も無かったんだが。
先ほどの牛山の間が抜けた顔を思い返しながら尾形は口をへの字に曲げる。
かといって、アジトがバレるのも問題だ。撒く必要があるだろう。
どうするか、と思案しながら曲がり角を曲がったところで、例の男と出くわしてしまった。
「止まれッ」
逃げを打つ前に、その手に握られた短銃の先がこちらに向けられているのを認識した尾形は、あっさりと両手を上げて降参する。
「……やっぱりそこそこ金持ってんじゃねえか」
昨夜の会話を思い返しながら笑った。南部式自動拳銃を民間人が持つのには、少なく見積もってもかなり金を積む必要があっただろう。
男は忌々しそうに銃を構えながら尾形に近づき、一歩引いた位置から背後のチンピラ二人に命じて尾形の動きを封じると、ようやく距離を詰めて尾形の横っ面を引っ叩いた。
「この野郎ッ!」
無抵抗に受けた尾形は、開き直った冷静さで男を静かに見返す。
右腕を拘束している手下が尾形をじろじろ見ながら言った。
「コイツですか? 欲しい情報聞くだけ聞いてトンズラこいた不届き者は」
「そうだッ。人の親切心を仇で返しやがってこのっ。なんか言う事はねえのか!」
「悪かった。顎大丈夫か?」
「もうその手は食わねえぞ!!」
撫でるような声で言って首を傾げる尾形に、男は顔を赤くして怒鳴る。なら聞くなよと尾形は思った。
「連れて行けッ」
顎で指示され、手下が両腕を拘束したまま歩き出す。情報源の男は背後から銃を構えたままついてきた。
持ち方からして、使い慣れているようにはとても見えない。人を実際撃ったことも無いだろう。余程のことでは撃たないだろうが、しかし逆上すれば初めて引金を引くのが今この時になりかねない可能性はあった。
こういう、金持ちが道楽で武器を持つような手合いは、日頃から引金を引く機会を子供のように待ち望んでいるものだ。
目隠しもせず連行されたが、逃げる算段を立てる間もなく近場の建物に入ってしまった。土蔵のような、壁の厚い建物だ。背後で閉まった扉も重々しく、中の音が表に漏れることも無いだろう。
件の男が一人、尾形を両側から押さえている子分が二人……そしてもう一人の子分が扉に木製の閂をかける。三人とも例の商売ではなく、用心棒としての人員と見える。全員体格が良く、そこそこ腕っぷしはありそうだ。
「あんだけ必死に逃げたのに、すっかり大人しくなっちまって」
揶揄うように左腕を押さえている男が言った。
「観念したんだろうよ」
右の男が言う。
全くその通りで、尾形はもう逃げる気を失くしていた。
「さて、どうしてやろうかな」
楽しそうに、南部式自動拳銃の男が尾形の顔を覗き込む。
――例えば、気の毒な身の上だと言って……同情的に、一際親身な態度で接する裏で、誰も見ていない所に引っ張っていき身体的苦痛を与えて悦ぶ村の男。
例えば、平時は淡々とした上官が、部下に制裁を加える際にだけ見せる異様な執拗さ。あるいは、兵営で偉ぶって高圧的な振舞いばかりしていた男が、戦場で怯懦に取りつかれ抜け殻のようになる様。
例えば、ずっと大人しく虐められてばかりいた兵卒が、戦場で敵兵に対し加える常軌を逸した残虐行為。
そうした表面上からは伺い知れない人間の一面を、理屈で解することが尾形にはいつも難しかった。理由などまるで無い様子で確かにそこに在る衝動の正体も、何故、どういう時にそれが現れるのかも。
分からないから、いつもじっと見ていた。そうした人間の変わる瞬間、その目の色、そうなる前と後の差異。
平常と異常の境を超える瞬間の人間の変異を、分からないなりに幾つも見たことで、それは経験となった。相手がどんな男かは、一目見れば大体わかる。
例えば指を折られるといった地味なものも含めて、身体のどこかしらを不具にされるというような仕打ちを、虫を潰すような他愛なさで行う人間が世の中には珍しくないが……目の前の男たちがそれに該当するとは思えなかった。
それなりに汚いこともやっていそうではあるが、それでも目の前の男たちは“まとも”に見える。
それこそ、尾形が今身を寄せている連中に比べれば、ずっと。
「例の人皮の件が思ったよりやべえ話らしいって事は、薄々感じてたぜ。てめえのお陰で確信に変わったがな。訊いてくる奴が、どいつもこいつも訳アリそうなのばっかりだ」
骨董品でも眺めるかのように、尾形の顔をじろじろと眺め回しながら男が言う。
「どうせ俺は手を出す気もねえ与太話だ。今後は情報としてネタにするのもやめる。てめえみたいなのにまた狙われたらたまったもんじゃねえ」
先程殴られた頬をぴたぴたと手で触られて、尾形が反射的に少し目を眇めるのを、男はやけに嬉しそうに見つめた。
大した事はされないだろうと、尾形は見立てている。顔の形が多少変わる程度にボコボコにされるか、あるいは――
「だから俺はな、てめえに盗まれた情報自体はどうでもいいんだ。問題なのは面子よ。欲しい情報だけくすねて砂かけてサヨナラしようっていう、てめえのなめた態度を躾けてやんなきゃなんねえ」
態度。躾。耳慣れた言葉だった。群というのは何処に行ってもこういう仕組みが幅を利かせているのだろう。
尾形は続きを待つように、男の目を見て薄く笑った。
どちらでもいい、という意思表示だった。兵営において、こういう風に人目のつかない場所で加えられる私的制裁というと、ほぼ二種類しかない。ボコボコにされるか、あるいは。
「おい、よく押さえとけよ」
子分に命令すると、尾形の衣服に手がかかる。
予想通りだったので、少し愉快さすら感じた。何も抵抗しなかったが、不器用なのか帯を解くのに異様に苦労している様子なので、親切に腰を浮かしてやる。
それを受けて皆笑うどころか、何故かより焦った真剣な顔つきになって事を進めようとする。これから手術でも始めるのかといった調子だ。
その顔つきのどれもこれも、見たことのあるような顔つきばかりだった。懐かしさすら覚える。不思議なことだが、どんな場所の、どんな界隈に入ったところで、結局似たような人間が揃っているように尾形には思えた。
同じように考え、同じような態度を示し、同じような行動をとる。そして同じように尾形を“同じではない”と定めるのだった。
まるでそう取り決められているようだ。だとしたら誰が、いつ決めた事なのだろうか。
――俺がおかしいんじゃなくて、お前がおかしいんじゃないか?
――お前のようなのがいると。
例えば十人居て、その十人が同じものを見て同じことを言えば、それは本当のことなのだろうか?
抵抗する気は一切なかった。気の済むようにさせて、ここでこの話は終わりにしたい。
己の能力不足のせいでヘマをして、そのツケを自分の身体で支払う。馬鹿馬鹿しいぐらい自業自得だ。己だけの問題で完結しているのなら、尾形には何の文句も無い。むしろ変に尾を引いて土方達に己の要領の悪さが露見する方が嫌だった。
こういう詰めの甘さ故の些細な失敗が、鶴見の下に居た頃は何故かいつも筒抜けだった。どれほど隠そうとしても関係なく。そういう己では分からない己の性質を一方的に把握され、それを利用して良いように操ろうとしてくるような所が、鶴見にはあった。
己が関わる事柄に、己ではどうにもならない絶対的で不可知の要素が少しでも増える事が、尾形には厭わしい。
状況をどこまでも、出来得る限り自分の制御化に置こうとして、それによって例えば何も手を出さなかった場合よりも尚悪く、取り返しのつかない状況になったとしても。
それでも曖昧で、それでいて強制的な“何か”に成り行きを任せることよりはマシだった。そんな風に、盲目的になることが尾形には嫌だった、……出来なかった。
果報をただ待っていても、これまで何にもならなかったのだ。現実として。
運を天に任せた所で状況が良くなることなど有り得ない。その事は自身の賭け事の弱さも証明している。
だから根拠のない期待を当てにすることはしない。打てる手は全て打ち、出来る事は全てする。行動が招いた未来だけを信じる。
その結果がこのざまだとしても。
右隣の男が尾形の顎の傷跡を撫でる。親指が唇を押して、隙間に入ってこようとする。
目を眇める。不快感でも、嫌悪感でもなく、ただひたすら、馬鹿馬鹿しいという倦怠感が胸中を侵す。無様だという自覚を、尾形は幸か不幸か然るべき時にはいつも持っていた。
初めはいつも上手くやる。だが気がつけば、どこかで過っているのだ。
――対価は金ではなかった。ならば、何を相手に払わせるための……。
……ああ、いつも払っていたのはこちらの方だ。そこにいるツケを返させられていただけだ。
――丁だろうが半だろうが、……俺がやる限りは。
……違う。全てが初めから決まっている訳じゃない。能力さえあれば、決められる側に回れる筈だ。
――お前、何かしたい事とか無いのか。この戦争から帰ったら。
……うるさい。お前には関係ない。
――趣味があるっていいことですよ。
……それはお前にとって良いというだけの事だ。それ以上にはならないものだ。
――私は実行可能な人間にしか仕事させない。
……俺は、やれるからやるわけじゃない。お前らとは、違う。
――紳士だから。
……苛々する。非道か、道理か、そんなことはどうでもいい。お前が選ぶな。
俺の行く末を、俺がどうあるべきかを、お前が勝手に決めるな。
――いて良いはずがないのです。
…………。
――出来損ないの。
……………………。
ここには居ない、だから存在させなくてもいい筈の人間の言葉が、顔が、脳裏に浮かんでは胸の内を汚していく。
不愉快だった。食欲もないのに胃の中が空っぽであることが分かる、そういう据わりの悪い倦怠感だ。何も得ていないのに、このままではいけないということだけが分かっている、そういう類の。
早く始まらないかと、不意に思った。犯すでも殴るでも蹴るでもいい。避け得ない苦痛を、儀式として通過することで、今この瞬間の己を解消したい。そんな自暴自棄な考えが過る。
しかし尾形の耳には不可解な言葉が届いた。
「こら、やめろ。お前らは見てるだけだ」
ごそごそと何やら準備していた子分に向かって、首領の男が言い放った。
子分たちと、ついでに思考に沈んでいた尾形も、ぽかんとしてその顔を見る。冗談かと思ったが、どうやら大真面目に言っているようだった。
束の間沈黙が落ちる。一番口が軽そうな男が、少し困惑したような笑みを交えて、こわごわ問い掛ける。
「えっ……俺ら、見てるだけですか」
「当たり前だ、お前らもヤッていいなんて一言も言ってねえだろ」
あ、そうっすね、と曖昧な相槌が虚しくその場に落ちる。
微妙な空気が漂った。
「……はあ?」
一際冷たく響いたその声は、尾形の口から漏れたものだった。
全員の驚いた視線が向けられる中で、尾形はその大きく真っ黒い目を、まじまじと己の足元に座る男に向ける。
「アンタ……人使って俺を探させて、ここまで力づくで連れ込んできて、“仕置き”だの何だの言って……したかったのはそんなことか? 大の男数人、周りで木偶の坊みたいに惚けてるだけで。手を出すのはアンタ一人だけで」
問われた男は狼狽えた様子で視線を泳がせた後、取り繕うような猫撫で声を出した。
「べ、別にお前は何か取り返しがつかねえことをしたわけでもねえからな。そこまで酷い仕打ちは考えてなかったんだよ」
「……じゃあこのまま何もしないで逃がしてくれよ」
相手の思考が分からず、本気でそう言ってみた尾形に、木偶の坊呼ばわりされた内の一人が忌々しそうに言った。
「馬鹿かテメエ、それじゃあわざわざ追っかけた意味ねえだろッ」
「その意味が分からないから言ってんだよ」
子分たちが顔を見合わせる。そして面白くなさそうに雇い主の擁護に入った。
「お前旦那をユーワクしたんだろ? 堂に入った誘いっぷりだったそうじゃねえか」
「ちょっと本気でその気にさせといてよ。お前がトンズラこいて逃げちまったもんだから、収まりがつかねえんだろ」
「一発やらせれば許してくれるってんだから感謝しろよ。それに俺らに見られながらヤられるってのも、まあまあな仕置きだろ?」
ハハハ、と子分たちは気楽そうな下卑た笑い声を上げた。
件の旦那はちょっと顔を赤くしている。
尾形は段々と不機嫌になっていた。何故か、無性に癪に障る。
「……なんだ。つまらねえ」
はあ、と重いため息をつくと、再び全員の視線が向いた。
身体を投げ出して、興を削がれた体で言う。
「今まで食らった“仕置き”で相手させられた人数は、こんなもんじゃなかったぞ。ただでさえ温くて退屈だと思ってたのに、拍子抜けだぜ」
舐め切った態度に、右腕を押さえている男が嘲るように口笛を吹いた。
「言いやがる、実はそういうのを期待してたのか? いい趣味してんな」
「そういうわけじゃねえ。ただちょっと、どうかと思ったんだ。あんたらの“旦那”なあ……。痛い目見せられた手前ひとりじゃ襲うことも出来ねえから、金で用心棒雇って……それでやる事と言えば、見張らせながら安心してヤりてえだけなんて」
忍び笑いを漏らしながら見つめると、言われた男は最早顔を真っ赤にしていた。
その、悪人にはなれなさそうな、しかし尾形に向けて何らかの執着のようなものが見え隠れするその目つきを昏く見据える。
何故か無性に、傷付けてやりたい気分だった。失望……と言うと、何か期待していたわけでもないのだから可笑しな話だ。だが相手から自分に向けられる感情が、自分に関することでありながら理解出来ないこと。道理として納得できないこと。相手が、こうに違いないと想定していたほどの悪人ではなさそうなこと。そうしたことがやけに腹立たしく感じられる。
その苛立ちは、昨夜の牛山に感じたものと似ていた。
「でもそこの旦那と違ってあんたらは別に男好きってわけでもないんだろうな。女好きそうなツラに見える」
先程の発言から余裕がありそうに見えた右の男に気安い口調で話し掛けると、やはり気安い反応が返ってきた。ごく私的な欲望を叶えるために自身を雇った主のことを、やはり多かれ少なかれ嘗めている印象を受ける。
「確かにいつも女ばっか抱いてるけどよ、たまには良いなと思うぜ。お前さん見てるとな」
「そうかい。どうせならアンタが先にヤるか? ある程度慣らしてからの方が“旦那”にも親切だろ」
明け透けに言いながらその男に媚びた目線を送る。男は満更でもなさそうな顔をした。そうしてあからさまに蚊帳の外に置いた、旦那と呼ばれる男を流し見る。
お前はそこでそれを見ていればいい、という意図を如実に含んだ、揶揄うような笑みを口端に乗せて。
見つめる先で男はブルブルと唇を震わせ、真っ赤だった顔が一旦白く蒼褪めた後――唇を噛み締めながら、懐から銃を取り出した。
「だ、旦那!」
ぎょっとして、慌てふためいた子分たちが立ち上がる。
右腕を押さえていた男も顔色を変えて、しまったという顔をして一歩引いた。
拘束を解かれた尾形に、歯を食いしばった男の持つ銃口が近づいてくる。
「つ、つくづく……つくづく嘗めやがってッてめえッ」
唾を飛ばしながら逆上している旦那を、一歩離れた所から子分たちが「殺しはまずいですよ」と宥めているが、届いていない様子だ。
「お、思い知らせてやる。ぶっ殺すぞ! てめえなんかもうッ、」
血走った目で尾形の肩に手を置き、顔の前に銃口を持ってこられた刹那、尾形は安全装置を押さえ銃が発射できないようにした。そしてまだ何をされたのかも理解していない男から容易く銃をもぎ取ると、男の首後ろを掴んで抱き込み、その側頭部に銃口を押し当てた。
「あっ、お、お前ッ!!」
ひぃ、と腕の中から情けない悲鳴が上がる。
尾形はニヤニヤしながら子分たちに言った。
「おい。誰でもいいから戸を開けろ。旦那を殺されたくなきゃな」
「て、てめえ……! 初めからこのつもりで」
ダシにされた右腕の男が悔しそうに呟く。
都合よく銃を持ち出してきたからこうなっただけで、実際はただ嫌がらせの意図しかなかったが、尾形は黙っておいた。
「ケッ、ハッタリかましてんじゃねえ!」
憤然として構わず向かってこようとする男に、尾形は安全装置を外すと一発躊躇いなく発砲した。
照準を合わせた銃弾は向かってこようとした男の頭すれすれを掠めて、跳弾しないよう蔵の上部に設えられた換気口を抜けて出て行く。
頭皮に熱さを感じたであろう男と、腕の中の旦那が同時にどっと冷や汗をかいた。
「い、いいから、開けろ、お前ら」
雇い主から蚊の鳴くような声で命令が下り、子分たちはぎくしゃくとした動きで扉の抑えを取り外しにかかった。
尾形は怯える男の背に腕を回し、昨夜のように、耳元で低く囁きかけた。
「悪いな旦那。別に、ヤッてやっても良かったんだぜ」
今更そんなことを言う嫌味さに、怒りからか、やはり昨夜のように耳まで真っ赤になっている。
尾形はそこに、声を潜めて尋ねてみた。
「なあ。どうして俺に手を出す気になったんだ? ……そうした先に何があるんだ?」
自身でも理不尽だと思う問いだったが、それは素朴な疑問だった。何故放っといても突き飛ばしてもくれず、引き寄せようとするのか?
これだけは嫌味ではなく本当に疑問なのだということを分からせるために、宥めるように男の後ろ頭を撫でる。伝わったのか、男はすっかりしおらしくなった声で、ぼそぼそと答えた。
「……未だに……アンタがどんな男か、いまいち掴み切れねえ……隠してる、ってわけでもなさそうだ。アンタ自身が、そういう男なんだろう……」
既に怒りの衝動も尽きた、なんの恨みも感じ取れない、か細い声だ。根は悪意の乏しい、欲望を持て余した小心者なのだろう。先を促すように尾形は後ろ頭から項を指先で辿った。
「全然わからねえから、都合よく考える……期待する。実際、期待通りの気がしてくる。こうしていても、アンタからは何の感情も感じねえ。まったく嫌がってない気がする。その上で、あんまりにも生々しい、この身体だけがある……」
湿った吐息を吐き出しながら、じっとりとした震える掌が、確かめるように尾形の背を辿った。
実際尾形は拒絶をしない。基本的にいつも、確かめたいだけだった。そしてそれは、肉体に関することではない。
しかし周りは……。
男の答えに、何か反応を返そうと口を開きかけた時、重い衝撃音と共に子分の男たちの驚愕の声が聞こえてきた。
何事かと見れば、開け放たれた扉の向こうから、のっしのっしと厳めしい足取りで――牛山が現れた。
「な、なんだテメェ!」
少し気圧された声が上がる中で、尾形も怪訝に思う。
何故牛山が?
牛山は状況を見て取り、おもむろに、一番近くにいた男を投げ飛ばした。
周囲から上がる悲鳴に、今後を予想し、尾形は腕の中の男をそっと放す。
そして最早その顔色が紙のように白くなっているのを横目に、脱がされた衣服を拾って着込む。そうする間に子分は三人とも、隅に積まれた藁に頭から突き立てられ滑稽な様相にされていた。
「な、なん」
恐慌の中、とりあえず何か言葉を発しようとした旦那も首根っこを掴まれ張り手を一発食らい、あえなく子分たちと共に藁に突き刺さる。
それを尾形は何とも言えない気分で見守り、手をパンパンと叩いて埃を払う牛山に声を掛けた。
「何しに来た?」
「お前が追われてたから助けに来てやったんだが!?」
目の前でたった今起こったことを見てなかったのかと憤慨する牛山に、尾形は微妙な顔で鼻を鳴らす。
「そいつは親切なこったな」
「なにそれ!? つーかお前なんか積極的じゃなかった!?」
足だけ藁から飛び出した旦那を指さして言う牛山に、尾形は澄まして言う。
「……気のせいだろ」
「ふざけんなよなんで俺はダメでこいつらは良いんだよ。というか誰? こいつら」
「情報元の……一般人だな」
「へえ」
一方的に伸しておきながらそこまで気になるわけでもないらしく、牛山はそれ以上追及しなかった。
話は聞かないわ、適当に暴れるわ……と尾形は牛山の挙動に呆れながら、気になる事を尋ねる。
「お前、さっき一緒にいた女はどうした?」
「あ? ああ……」
聞かれて、牛山はやけに不機嫌そうな顔をした。構わずに重ねて問う。
「目の前にこれから抱こうっていう女が居るのに、それを差し置いてお前が俺を助けに来るとは思えないんだが」
牛山は否定せず、重いため息をつくと、苦々しい顔で吐露した。
「……お前らが無粋にドタバタ入り込んできて、そのまま通り過ぎてった後によ、あの女郎が慌てたんだよな。どうして行っちゃうのってよ。可笑しな反応だと思って問い詰めたら、どうも一部の女郎の間で最近、俺の情報を流すと金になるって話が出てるらしい。で、お前らを見ててっきり、自分が流した情報を聞いて捕まえに来た輩だと勘違いした。でも全然俺に見向きもせずに行っちまったから慌てた、ってわけだ」
尾形は話を聞いて納得し、頷いた。
「実際、あちこちで出回ってたからな。あんたの噂」
遠回しに咎める意図で指摘したが、やはり牛山は聞いているのかいないのか、遠い目をして嘆く。
「がっかりだぜ。愛嬌のある女だったんだけどなあ……」
遺憾だが別に後悔はしていないといった様子だ。女遊び自体につける薬はないらしいな、と改めて思いながら、ふと気になって尾形は聞いた。
「で、その後どうしたんだ。あんたを売ろうとしたその女郎を」
牛山は何本か足が突き出た藁の方を指して、平然と言った。
「あいつらと似たような状態になってる」
「……“紳士”なんじゃなかったのか?」
「情報売って裏切るような女、抱く気もしねえ。あくまで俺が紳士なのは抱ける女に対してだけだ」
堂々とした様子には、一切気が咎める様子もない。
「ふうん……で、抱けなくなった女放っといて、俺を助けに来たのは、俺に恩を売って俺を抱くためか?」
「はああ? なんでお前はそういう穿った考え方をする? 俺が助けに来た理由は、俺が紳士だから以外に無いだろうが」
「だがさっき……」
抱ける女に対してだけ、という言葉を引き合いに出そうとして、そういえば自分は何故かコイツに抱けるとみなされているのだった、と思い出して口を噤む。
しかし牛山は尾形の言わんとすることを察したのか、思い出したとばかりに掌を打った。
「そういえば、あれから俺なりに考えて、何となく分かったぞ。なんで男なのにお前はアリな気がするのか」
碌でもないことを言われそうな気がして胡乱な顔をしたものの、尾形は視線で先を促した。
「まず、お前は人間臭さがない。まるで死体か人形のようだ」
指差していきなりあんまりなことを言われて口をへの字に曲げる。牛山は構わずに続けた。
「で、そもそも人間っぽくないわけだから、当然男っぽさも女っぽさもない。それ以前の問題だ。だがお前はハッキリ生きてはいる。それだけは分かる。それがなんかイイ」
「……は?」
「動いてるのもそうだが、たまに珍しく血色いい顔してたり汗かいたりしてると尚イイ、生々しくて」
「……全然分からないんだが」
「つまりだ。例えばこう、“生きている感じ”と“女”の両方が同時に揃っているのが美味そうな女だとして」
その二者を表すように、牛山は両拳を顔の横に挙げた。
「そして男は、“男”である時点で生きてようが死んでようがどうでもいいとして」
両拳が容赦なく下げられる。
「お前は男とか女とかが目につかないが、“生きている感”だけがすごい目につく」
右の拳だけが頭上まで高く掲げられた。
「というわけで最終的に普通にアリになる。要するに珍味だ。食える」
「……知るかと言ってんだよ」
吐き捨てた声は、しかし勢いがない。好き勝手なことを言われても、もう昨晩のような怒りは湧いてこなかった。
代わりに胸に湧いてくるのは……名状しがたい、虚しさだった。
尾形はちらりと、あと数分は目覚めないであろう先程の男を見つめた。
確かに己は生きている。そして。
「……じゃあ、紳士的なあんたにひとつ聞いてみたいんだが」
「おう、何だ」
「例えば、あんたが一時、気に入って抱いていた女が居たとする。金で抱いていたんじゃない、ただ単純に、懇ろになった女だ。今は疎遠になって何年も会ってない。その女が、死んだという報せがある日入った。葬式の案内状だ。女の実家は遠く、県を跨がなければならないが……あんたなら、その葬式に参列するか?」
「なんだ、お前の話か?」
「違う。……いいから、答えは」
牛山は、妙な質問だなあと顎を摩りながら、ちょっと考え込んだ。
「こないだまで監獄暮らしだった手前、俺には縁が無さそうな話だが。まあ実際そういう状況だったとしたら……あー、まあ行くかな。……いや、やっぱ行かねえかな」
「どっちだよ」
寄せた眉に少し苛立ちを滲ませて催促する尾形に、牛山は数秒考えて、はっきりと頷き答える。
「やっぱ、行かねえだろうな」
「……へえ。……冷たいんだな」
ぽつり、と呟いた尾形に、牛山は頬を掻いた。
「死に目に会うとかならともかく、もう死んでるんだろ? 死んでる女はもう俺にとっての“女”じゃねえ。生きてる女だけが女だ。さっきも言ったが、俺が紳士なのは抱ける女に対してだけだからな。もう死んでる相手に優しくしたって、仕方がないだろ」
尾形の手が白くなるほど握り締められていることには気づかず、続ける。
「まあ、イイ仲だった女って事なら、墓参りは行くかもな。だが……やっぱ、抱いた女の死体は見たくねえなあ。イイ仲であればあったほど、な」
しみじみとそう結び、尾形の様子を見下ろして、牛山はぎょっとした顔になった。
「おい、大丈夫か? 顔色が尋常じゃない青白さになってるぞ。元々白いのに」
指の背で頬を撫でられ、触れた部分が酷く熱いことに、自分の頬が冷え切っていることを知る。
自分を求めてきた様々な顔が過る。それは、俺が生きているからで。
そして、顧みられなかった顔が過る。それは、俺が。
そうなるのか。俺がやる限りは、何をやっても。
払ったツケは、何かを得るためのものじゃない。ただ負債を返し続けていただけなのだろう。俺がそこにいることの。
先刻思い浮かんだ顔が再び過る。
――これからどうするんだ?
わからない。どうしようもない。どうにもできなくなった。
――お前のようなのがいると。
そうかもしれない。どうしようもなくしたのは、俺だからな。
――趣味があるっていいことですよ。
何がいい? 何にとっていい? 俺のために? それとも俺が生きるために? だとしたらそれは、誰にとっていい?
「とりあえず出るか。あいつら目覚ましたら面倒だしな」
尾形の背を押して促す牛山の腕に触れる。
「……なあ。牛山」
「何だよ」
「やっぱり、試しにやってみるか」
「何をだよ」
「お前が昨晩やろうとしてたことだ」
「……えッ!? なん……は!? いいの!?」
尾形は頷いた。
牛山は混乱した様子で尾形の両肩を掴む。
「なんでだよ! 昨日すげえキレてただろ! え、助けたから? お礼に?」
「いや。別に助けてもらう必要なんてなかった」
「可愛くなッ! え、じゃあなんで? なんで突然?」
「やりたくねえのか?」
「いややるけど! やるけども!」
痛いほど鷲掴まれた肩に、温められた血が通っていく。
尾形はその手に触れた。生きている。まるで……罰のように。
牛山を見上げて、目を細めた。
「……案外、楽しいかもしれないしな」
身体が強張っているから、上手く嗤えたのかは分からない。
だが牛山は納得したのかどうなのか、とにかくそれ以上は理由を尋ねず、ただもう一度温めるように尾形の頬を掌で摩った。
