不意に光る鱗の - 3/6

 三.

「……どこ行く」
「……台所だが」
「何しに」
「飯を食う」
「外で食ってきたんじゃないのか。ジイさんと一緒に」
 鍛錬帰りと分かる牛山の道着姿を見て取って、中途半端に今日の自分の動向を聞いていたらしいと知り、尾形は若干不機嫌そうに答えた。
「ジジイはさっさと先に帰った。俺も何も食ってきてはない」
「……そうか」
 尾形は台所へ、牛山は自分の部屋へ。行く途中で鉢合わせた二人は、お互いの進路を塞ぐお互いの前に、無言で立ち塞がっていた。
「……どいてくれねえか。あんたの体格でそこに立たれると鼠一匹も通れなくなるぞ」
 丁度廊下へ続く狭い通路をその体躯でもって完全に覆い隠している牛山に、尾形が淡々と言う。
 牛山は動かなかった。動かずに、珍しい尾形の和装姿を、穴の開くほど見つめていた。
 尾形はその視線に土方から先程言われた言葉を思い出し、そしてその意味を理解した。既視感があったのだった。
 
 同じような目を時々、正面から見た事がある。出自への蔑み、身を取り巻く噂への嘲り――感情豊かなそれらの罵りを口にしながら、目だけが、張り付いて固まってしまったように尾形に向いていた。
 こちらを見ているのに、全く目が合わないことが奇妙だった。視線として尾形の目の上に落ちることはあっても、その視界は尾形という“人間”に焦点が合わされてはいない。
 肉体の中に精神が包まれているのだとしたら、その包みまでしか認識していない。そういう目だった。皮膚に覆われ見えないその下には全く違う何かがあると、知らぬ筈はないにも関わらず、本当に知らぬ様子であることが異様だった。
 白痴の目だ、と尾形は認識していた。

「どけ」
 言葉は無意味だと判断して、強引に横から通ろうとしたが、腕でその身を数センチでも退かそうとして叶わぬ事実に直面し、尾形は目を見開いた。
「岩……?」
 やべえこのオッサン……重心が地の底にあるようだ……と尾形は戦慄する。
 ただ押し付けただけに終わった尾形の腕をおもむろに掴むと、牛山は言った。
「尾形。お前に頼みがある」
「……なんだ」
「ヤらせてくれ」
「死ね」
 もう一方の手で殴りかかるのも難なく受け止められ、ならばと膝で迷わず金的を狙ったが、大外刈りの要領で気づけばあっさり床に転がされていた。
「ぐっ」
「まあ待て。落ち着け」
「てめえが落ち着けッ」
「俺は落ち着いている」
 嘘を言っているつもりは無さそうな真剣な顔が殊更腹立たしかった。
 尾形は努めて静かに言った。
「……わかった。いきなり殴りかかって悪かったな。お前の頼みは断る」
「だがちょっと待って欲しい」
「あ?」
 剣呑な声が出た。
「俺は女にしか勃たん」
 断言だった。そう言いながら牛山の目は、激しく動いたことで大きくはだけた尾形の白い胸元に注がれている。
 尾形も視線を牛山の股間にやった。
「……勃ってるじゃねえか」
「そこだ、問題は。これは深刻な話だ。俺は男に興味はねえ。だが最近お前を見てると勃つ。どうしよう」
「知るか馬鹿が」
 苛つきながら、無駄と知りつつ牛山の脇腹を膝でドスドスと蹴り上げた。分厚いゴムを蹴ったような手応えのなさだった。
 牛山は気にも留めず続ける。
「考えたんだが、これは俺がおかしくなったんじゃなくて、お前がおかしいんじゃないか?」
 その言葉に、尾形は動きを止めた。
 牛山は、目の前の乱れて幾筋か額に落ちかかる髪の艶や、皮膚の下に透ける血管の色を食い入るように見ながら口を動かす。
「今までそうなってもおかしくない状況には何度もなったが、俺がそうなる事は無かった。だが、特に変わった状況でもないのに、“ただお前がそこに居た”というだけでこうなった。ということは、お前が“そういう奴”なんじゃないだろうか」
「……“そういうやつ”って、どういうやつだ?」
「なんつーか、こういうのが向いてる奴っていうか……」
「……ふうん」
 うわ言のような牛山の口調の熱に反して、芯から冷え切った声が返る。
 
「手に取りたくなるのは、“そういうもの”だから。お前に手に取らせるために、そこにあるものだから……か」
 尾形は呟いた。それは吐き捨てるような調子ですらない、平坦な、感情の死んだ口調だった。
「偉いんだなあ……お前」

 その言葉は牛山に向けたもののようでもあり、それだけのものという訳でもなかった。
 尾形の記憶の中に棲む様々な顔を眺めて、自然と零れ落ちた、独り言と称した方が相応しかった。
 皮膚の覆いで見えない、確かに在る何か。それを認識されていない以上、そこから声を発したところで、皮一枚を隔てた先に届きはしないと尾形は理解していた。

 どの道逃げられる相手ではない。尾形は力を抜き、完全に抵抗する素振りをやめた。
 しかしそんな尾形の上で、言われた言葉に固まっていた牛山は、ギギギ、ギギギと音がしそうなぎこちない動きでゆっくりと身を起こすと、尾形の腕から手を離した。
 そして自分の頬をいきなり張り飛ばした。
「!?」
 鼻血が出るほどの勢いで行われた目の前での突然の自傷行為に、尾形はぎょっとする。
 自らに張り飛ばされた姿勢のまま暫しのあいだ静止していた牛山は、ゆらりと立ち上がると、言った。
「俺のチンポは……紳士だから……」
「は?」
「無理強いするつもりはねえ。……邪魔したな」
 そう言い残すと、縁側から外へのっしのっしと出て行き、やがて走り出した。
 夜も更けてきた野山から獣のような雄叫びが響き始める。
 どこかの部屋で苛立ったように何かを投げつける音がした。多分永倉だろう。

 牛山去りし後の、急に静かになって体積的に広くなった部屋をぽかんとして尾形は暫く眺めていた。が、とりあえず立ち上がり、牛山が開けていった縁側の仕切りを閉める。
 そして乱れた着物を直しながら言った。
「いつまで見てるつもりだ」
 言われて、僅かに閉まり切っていなかった反対側の障子が開いた。
「気づいてらっしゃいました?」
 家永が悪びれなく笑顔で言う。
「隙間からなんか動いたのが見えた」
「やっぱり目がいいんですねえ」
「そっちこそいい趣味してるな。あのままアイツがおっ始めてもそのまま見てるつもりだったのか」
「ええまあ。興味深いですから」
「……」
「でも、惜しかったですね。アナタ完全に諦めてたでしょう。牛山様も、あのまま行けば本懐を遂げられましたのに。お心が広いんですね」
「……どっちの心が?」
「まあ、どっちもでしょうか」
 ニコニコと、厭らしいことを朗らかな笑顔で言う家永に尾形は鼻を鳴らす。
 そして言った。
「素手じゃ勝てそうもないからな。さっさとご要望通りにしてやって、明日にでも殺そうかと思っていたんだが」
 大真面目な口調だった。あまりにも当たり前のように口にされたので、家永が言葉を諒解するまで少し間が出来た。
「……殺せるんですか?」
 尾形はやっぱり当然のように答えた。
「頭を撃てば死ぬだろ」
 ひょいと軽く銃を構える素振りをされ、家永は彼を紹介された際に狙撃手だと聞かされた事を思い出す。
 驚くほど遠くから、標的を仕留められる人種……。実行に疑いのない口調から見ても、仕損じない絶対の自信があるのだろう。
 家永は乾いた声で応えた。
「……そうですね。死にますね」
「あいつの刺青は写してあると聞いたし、問題ないと判断した。あの素行だ、もう町でも派手に目立っちまってるみたいだしな。でもあそこまで行ってヤらなかったのは意外だった。分別があるのか無いのか……」
 呆れたようだが、少し見直した、という新鮮な驚きも含まれた声音に、家永の口元が引きつる。
 牛山は強者だ。肉体の強さにおいて牛山に勝てる者は居ない。しかしこの男もまた、牛山を指先ひとつで確実に殺せるのだ。いとも容易く、花を摘む如くに他愛なく。選択肢の一つとして、一方的に。
 家永の中で、整然としていたはずの理屈がかき回されるような感覚を覚える。
 予めそうであるかのように捕食される側と見えた肉体……何がそう感じさせるのか……しかしその身にも絶対的な、支配者の資格が存する。肉体だけならば絶対に牛山に敵わないにも関わらず、対等に並び立っている。
 ならばそれは何に紐づいたものなのだろうか。知能? 修練? 視力? 神経? あるいは、精神性?
 その明らかに“強さ”であろうものを、しかしどう捉えて良いのか、家永には判断がつかなかった。家永の指向は常に、物質的なことにしか向いていなかった。

「アイツも下半身以外に少しは理性が残ってるのかもな」
 尾形は暢気にそう評して納得している様子だが、今は堪えても時間の問題だろうと家永は経験から思う。酒が入るなりして少しでも前後不覚になればひとたまりもないだろう。
 何にせよ問題なのは、お互いにあまりにも簡単に相手を殺せるということだ。牛山はいとも簡単に尾形を手籠めに出来るし、尾形はいとも簡単に報復出来てしまう。
 圧倒的な強さの前ではあまりにも軽くなる“死”……何の利益もなく齎されるそれに焦燥を感じた家永は、尾形にせめてもの要望を伝えておくことにした。
「尾形さん。もし牛山を殺すなら、頭を撃つのはやめて頂けませんか? 致命傷で良いので、即死にはせず、ギリギリで生かしておいて頂きたいのですが。そしてその際、私を呼んで頂ければ」
「……何のために?」
 尾形が怪訝そうに訊き返す。家永は熱を込めて理由を説明した。
「心肺が停止すると、死後硬直まであまり間がありません。私は牛山を食べたいのです。彼ほど強い肉体を持った人間は他に居りません、食べずに死なすのはあまりに勿体ない。食べるには生きたままの状態が一番なのです。血が通っているので新鮮で、肉も柔らかく削ぎやすいですから。動けなくして頂ければ、あとはこちらでやりますので」
 尾形は目を丸くして、しばらく気圧されたように黙り込んでいた。やがて眉をひそめて言う。
「……かわいそうじゃないか?」
 そうでしょうか、と家永は返した。どうでもいいことを気にするのだなと思った。
「……覚えてはおく」
 元気なく言って、尾形は台所とは反対の方へ歩き出した。
「あら。ご飯、食べないんですか?」
 尾形は淡々と答えた。
「食欲を失くした」
 そうですか、と家永は首を傾げて見送った。
 精神に裏切られた尾形の身体が、ぐう、と腹を鳴らして抗議していた。