「Благодать」
「うん」
「всепрощение」
「いい発音だ。流石覚えが早い」
「恐縮です」
「だが、あまり日常に使わない単語だな。そう……この辺の方がまだ汎用的だろう」
「はい」
尾形の手にしたロシア語聖書の頁を鶴見が後ろから繰る。引っ込めた手で、尾形の顎の下を撫ぜながら言った。
「ロシアの場合は国教だから特にだが、ロシア語に限らず他国の言語を習得するなら聖書には目を通しておくといい。聖書由来の言葉や表現が、慣用句として日常会話に組み込まれている場合が多い」
「はい」
「退屈な内容だろうがな。荒唐無稽だと思うか?」
「いえ。馴染みのない考え方で……興味深く思います」
「どこか面白い箇所はあったか?」
尾形の耳を指でなぞりながら聞く。尾形は開かれた頁に目を落とし、どこかたどたどしさのある口調で一節を読み上げた。
「……И отрет Бог всякую слезу с очей их」
鶴見は目を細めて訳を呟く。
「……“そして神によりあらゆる涙は彼らの目から拭われる”」
「И смерти не будет уже」
「“もはや死は無く”」
「ни плача, ни вопля, ни болезни уже не будет」
「“泣くことも、叫ぶことも、病になることもない”」
「ибо прежнее прошло.」
「“かつてのものは過ぎ去ったのだから”」
尾形は口にした一文を、白い指で辿った。ただの文字であるのに、まるで形を確かめるような手つきだった。
幼く見える仕草に鶴見は口元を緩めた。耳の後ろに鼻を埋めて、匂いを嗅ぎながら尋ねる。
「気に入ったのか?」
「いいえ、そういうわけでは。ただ……」
「ただ?」
「死んだ者はみな、良いところにいるのですね。どこの宗教でも」
囁くように静かな声で音にされたその言葉に、鶴見は少しの間沈黙する。
「……お前はどう思う? そのことについて」
剥き出しの肩に口づけた。尾形は真面目な口調で端的に答える。
「何よりだと」
「そうか。……お前もそこに行きたいか?」
「いいえ。そんなことは、全く」
すぐに否定しながら、何がおかしかったのか初めて小さく笑う。
「何故?」
頬の線を辿りながら聞くと、尾形は少しの間考えてから、やはり真面目な口調で答えた。
「俺が行ったら、今いる者にとって良いところではなくなってしまいますから」
鶴見は短く声を上げて笑った。
「なるほど。それは困るな。では、お前はどこに行く?」
「地獄、なんじゃないでしょうか。……ад?」
「そうだな。正しいぞ」
鶴見は慰撫するように項を撫でながら、唇を寄せて尾形と重ねた。
尾形はまるで敬虔な信徒のように目を閉じてそれを受けた。
撫で心地のいい丸い頭の感触を愉しみながら、鶴見はふと笑う。
「私もそこに行く予定だったが、お前が来るのなら、地獄もそう悪いところではなくなってしまうな」
不思議そうな尾形に、歌うように言い聞かせる。
「火の池の阿鼻叫喚を眺めながら、日がな一日こうしてお前を撫でて過ごせる。良いところだ地獄は」
尾形はきょとんとしてから、破顔して、珍しく一瞬だけ猫のように目を細めて笑った。
「Я тоже так думаю」
