経験則

 山に孤独はない。
 それぞれの生き物が自然と生き、自然に生きて、それ以上の事実などない。孤独と言えば何もかもが孤独にできている。すべてが孤独に生きているなら、其処で生きることというのは最早初めからそういうものなのだ。
 アチャが死に、レタラが去っても、アシリパは山に入ることをやめなかった。むしろ、より山に親しむようになった。フチは女の仕事を覚えず家を空けてばかりいるアシリパにいつも小言をくれていたが、本気で止めてくる事はなかった。それを、有難いとアシリパは思っていた。

 コタンに居ればよく知る皆が居る。子供たちと一緒に玩具で遊んだり、フチたちから昔話を聞いたりすること、何より皆で食事を囲むこと。すべてとても楽しい。そこには確かに安らぎがある。
 しかし馴染んだ皆と居ることは、どうしてかアシリパをより孤独にした。変わらずそこに居る人たちばかりだからこそ、欠けている大きな人の存在が浮き彫りになるからかもしれなかった。ずっと、ここに“置いていかれたのだ”という意識が消えなかった。
 だから山に入れば落ち着いた。山に他者はなく、過去も未来もない。自然という絶え間ない営みだけがある。
 そして現在では、繰り返していたコタンと山の行き来すらも、遠い過去となった。杉元と出会い、自分から動いて旅の最中にいる今、かつて在った孤独は失せている。置いていかれたのではない、追っているのだという意識がアシリパの心を埋めた。

 だが静止した孤独とは別の、心を揺るがす不安が新しく居座って、ふとした時にアシリパを脅かしている。追っていいのか。追った先に何が在るのか。この道は、正しいのか?

 食べている間と寝ている間は心が平和だ。満たされて揺るがない。そこに新しい皆がいれば言う事はない、旅も悪くない。
 薪を集めながら何やらくだらない事でじゃれている杉元と白石から視線を外し、アシリパは辺りを見回した。尾形が居なかった。
「そのへんに食える物が無いか見てくる」
 簡単に告げてアシリパは山奥へと足を向けた。後ろからいってらっしゃい、という声が掛かる。
 コタンでは一人で山に入ると誰かに言えば、何かと心配されたり注意されたりする面倒があったが、この相棒はアシリパの能力を全面的に信頼している。気に入っているところの一つだった。

 尾形はしばしば一人ではぐれて単独行動をとる。だが放っておいてもちゃんとついてくる。加えて食料や安全な寝床の確保等の面で、一番役に立つ男だった。鼻が利くというか、理解が早いのだ。自然の中でどう生きればいいかを弁えている。
 だから尾形を探す時は、身軽な獣を探すつもりで見て回るとすぐに見つかった。獣は理に適った行動しかとらない。そこに居るのが自然な場所にしか居ないものだ。尾形もまたそうだった。

 遠くまで見えて、かつ周囲からは見え辛く、静かな場所。ほどなくして尾形の姿を認める。木の上で、双眼鏡を覗き込んでいる。
 追うように木を登り始めるアシリパに気付き、見下ろしてきたが、尾形は何も言わずにそこにいた。尾形の乗る何重にも重なった太い枝まで辿り着くと、無言で横にずれる。隣に座るアシリパに、尾形は初めて声を発した。
「身軽だな」
 感心したような声だった。アシリパはふんと笑う。
「このくらい登れないんじゃ、すぐヒグマに食われてしまう」
「成る程ね」
「でも、尾形の方が身軽だと思うぞ。銃を抱えて登るのは大変だろう」
「……見晴らしのいい場所は有利だから」
 尾形は遠くを見やった。その白い横顔を見ながらアシリパは、個で生きる動物の習性だなと思った。
 例えば狼は、群れで生きる獣だ。今頃は家族と共に山で生きているであろうレタラも例外ではない。だが群を作らず、個で生きる獣もいる。例えば……。
 考えていたアシリパの横で、尾形が突然銃を構えた。
「どうした? 何かいたのか?」
「でかい鳥がこっちに来る」
 尾形が双眼鏡を寄越してきた。アシリパは尾形の見ている方角を覗き込む。初めてこの双眼鏡を覗かせてもらった時は、その便利さに思わず長いこと放さずあちこち眺めてしまったものだった。
「おお。脳みそが美味いやつだ。けど遠いし、止まる気配がないぞ」
「あの感じだとこっちに旋回してくる。そこを狙う」
 無理だろうと思ったが、尾形は出来ないことを出来ると言ったりはしない。アシリパは黙って見ている事にした。
 そして尾形が予告した通りに旋回して、こちらに横面を見せた鳥に、これも予告通りに、狙い撃った尾形の弾丸は見事に命中した。
 落ちる鳥を前に、思わずアシリパは「当たった!」と驚きの声を上げてしまう。
「すごいな!?」
 尾形は無言で髪を撫でつけた。レタラだったら撫で回しているところだ。
 まるで弾丸が獲物に吸い込まれるようだった。あるいは獲物が弾丸に。
 アシリパは双眼鏡を返しながら言う。
「アイヌでは、カムイたちは人間に狩られるのではなくて、自分から銃や矢に当たりに来ているのだと考えられているんだ。私たちが彼らの肉や毛皮が欲しいように、彼らも私たちの持つイナウや煙草が欲しいから、代わりに差し出しているのだと」
 尾形は鼻で笑った。
「都合のいい考え方だな」
「私もそう思ったことがある。だがお前の銃は、本当に彼らの方から当たりに来ているようだ。そんな風に見える」
 尾形はアシリパの言葉に少し沈黙してから、銃を背負い直し、木から降りようとする素振りを見せる。
 降りる前に、こちらを見ずに言った。
「俺はイナウってのがどういうものかも知らなければ、煙草も吸わない。奴らの欲しいものをくれてやることは何ひとつできない。だが、今日の晩飯は鶏肉だ」
 その場で枝からぶら下がると、大きな音を立てず柔らかく地面へ着地する。そして未だ木の上のアシリパを見上げて続けた。
「死人に口はない。獣は喋れない。好きに思い込める。生きた人間にはそれが出来ないから、お前は……お前たちは、人を殺したくないんだろ」

 口調に反して、その声に責めている響きは無かった。むしろ穏やかに、分かっていると、ただ肯定する……あるいは何か、諦めているような。
 不意にアシリパの中に奇妙な感覚が過る。
 獣と喋っている気がした。
 かつてアシリパが屠ってきた熊や鹿や鳥、数えきれないほど様々な、それらの仲間のひとつと今、偶々言葉を交わしているのだという、馬鹿馬鹿しい空想。

 いつだったか、杉元が鹿を撃てなくなったことがあった。怪我を負い向かってくる鹿を、”自分と同じもの”だと感じて殺せなくなったという。
 あの時の杉元にとって鹿の眼は人の眼に、鹿の足は人の手足に見えていたのかもしれない。
 こちらを見上げる尾形の顔は、人が人を模して彫った面のようだ。周囲の緑と鮮やかに対比する肌は均一で血の気がない。よくできた獣のように、そこに立っている。山に棲む生き物の空気……隙のない、自然に完成された孤立を纏っていた。
 ”違うもの”に見えた。他者ですらない、あの慕わしさだ。

 アシリパは木を降り、落ちた鳥の許へ向かう尾形の隣に並びながら、その顔を見上げて言う。
「何も貰えなくても当たりに来る場合だってあるのかもな。カムイはただ、お前のことを好きなのかもしれないぞ」
 ただの思い付きだが、あながち冗談では終わらない何かがそこにある気がした。しかし尾形は短く笑い飛ばす。呆れた笑いだった。
「カムイってのは馬鹿なのか」
 アシリパは肩を竦めた。
「カムイはカムイだからカムイなんだ。こちらから見てどうかなんて関係ない」
「結局言ったもん勝ちなんじゃねえか」
 全く興味の無さそうな尾形に言い聞かせる。
「だがありがたい存在だ。人の力の及ばない、人に何かをもたらすものこそが、カムイとされるんだからな。丁重に扱わないと、人間の世界へ来てくれなくなるんだぞ」
 尾形はちょっとの間考え込んで、それからぼそりと、内緒話をするような声音でアシリパに言った。

「ある人間にとってありがたい生き物が、他の人間にとっては耐え難い生き物だったりすることも、たまにあるもんだぜ」