猫暖房

 底のない水の中でもがくような夢を見ていた。夜の山の堪え切れぬ寒さを感じて、浅い眠りから目覚める。未だ闇は深く周囲は暗い。火は消していたが、月が明るいために物の輪郭はよく見える。近くでアシリパさんと白石が平和な寝顔を晒していた。しかし、尾形の姿がなかった。
 おそらく周囲の様子を見に行っているのだろうと、杉元は当たりをつける。ひとまずは第七師団の追手を撒いたが、十勝方面へと下山する動きを読まれ、再び距離を詰められていないとも限らない。日の高い内はなるべく見つかり辛い場所から、そして日が落ちてくれば見晴らしのいい場所から、尾形が定期的に周囲を哨戒しているのを杉元は知っていた。
 よく働く男だと思う。銃が撃てる時は狩りを、それが出来ない今は哨戒を。杉元の周りの上等兵という人種はやたらと威張っていてうるさかった印象があるが、尾形という男はおそらく師団に居た時もこうやって黙々と動いていたのだろうという気がする。しかし指示する時の判断は迅速で、無駄がない。優秀な兵士だったのだろう。杉元の銃の扱いに関していちいち呆れたような顔を見せてくる所は少し癪に障るが。

 多分皆で就寝してから、それほど長い時間は経っていない。本格的に寝入る前に、もう一度周囲を警戒して、ようやく眠るつもりなのか。用心深いことだ。杉元は考えながら、無意識のうちに、尾形が戻るのを待っていた。
 外套を纏った影は、ほどなくして草を踏む微かな音と共に視界へ現れる。
 少し離れた場所に落ち着こうとするその影に、杉元は寝ている者を起こさぬよう小さく、小さく声を掛けた。
「尾形」
 尾形は顔を上げて、杉元を見た。無言で問いかける視線に、杉元は言った。
「さみいから、もっと近くで寝ろ」
 体の細かな震えと共に発した掠れ声は、思ったよりもみっともなく響く。言い訳するように付け足した。
「血が足りねえ」

 本当のことではあった。撃たれた傷の痛みは大分引いたが、血を結構流したのと、大きな狩りが出来ずあまり食べられていないために熱が足りない。日中は割合暖かかったため、山の中とはいえこれほど温度差があるとは予想外だった。
 尾形は少し間を置いてから、のっそりと立ち上がる。音も無く寄ってきて、傍に膝をついた尾形は、無造作に杉元の頬に触れた。その手の暖かさに、ああこいつも人の子なんだなあという今更な感慨が沸く。

 小さくため息をついたような気配がして、尾形はまず律儀に一緒に持ってきた銃を下ろすと、外套の釦を外して、ついでに軍服の上も脱いだ。薄い襯衣は見るからに寒そうに見えて、杉元はどうするつもりかと面食らう。
 尾形は脱いだ外套と上衣を、既に毛布のように掛けていた杉元自身の外套の上に更に被せると、まるでその毛布を分け合うように、杉元の隣に滑り込んできた。そのまま杉元に背中を向けて、眠るつもりらしい。

 近くでと言ったが、ここまで近くとは想定していなかったので杉元の思考は停止する。
 しかし考えるよりも先に、一気に暖かくなった環境へ身体の方が順応した。向けられた背中に張り付くように寄って、待ち構えたように後ろから抱きかかえてしまう。
 尾形はちょっと嫌そうに頭を置き直したが、文句を言わず大人しくしていた。想像よりずっと冷えていたのか、震える杉元の身に尾形の身体は信じられないほど暖かい。旅順の身も凍る寒さを思い出す。低体温症になった白石への対応も的確だったし、寒中での対処に慣れているのか。

 強張った体が少しずつ溶かされていくようだった。冷えた鼻を襯衣の肩口に埋める。同じ旅をしている筈なのに、尾形からは何の匂いもしない。柔らかい感触と暖かい温度だけがある。
 杉元は温い身体に顔を埋めたまま、くぐもった声を発した。それは礼とも謝罪ともつかない不明瞭な、音にするとぐもんとかむぐうとかいう響きになった。尾形は小さく、訝しげな「は?」という声を出した。初めての発声だった。
 しかし背中に取り付いたままそれきり黙り込む杉元に、興味を失ったようにもう一度頭を置き直して、今度こそ尾形は眠るつもりのようだった。杉元はただ目を閉じた。そして息をする。暖かい。何も考えられはしなかった。