0.その成れの果て
出来るからそうした。それしか出来ないのかもしれない。
◇
誰も居ない塹壕の奥、薄暗い所に隠れて出てこない外套の端を見つけ、小さく息をついて月島は中に潜り込んだ。
「尾形」
暗がりに目が慣れると、黒い目は既にじっと月島を見ている。
「師団長殿がすぐそこに来ておられる」
丸くなった肩を元気づけるように叩く。思いの外力が入り過ぎて重い音がしたが、尾形は文句を言わなかった。
二〇三高地陥落に兵たちは沸いたが、尾形は昨日からすっかり無口になってしまった。
無理もない。花沢少尉は戦死した。
どこかぼんやりとして、元々希薄だった、生きているという生身の存在感が尾形から抜け落ちていくようだった。月島は肩に手を置いたまま言う。
「将兵を労い回っておられるが。多分、お前を……」
言いかけた唇を、尾形が不意に塞いだ。
すぐに離れた感触に、月島は面食らって黙り込む。
その行為から通常に想定される意味合いに反して、微塵の甘えも無く、むしろ責めるような色で見つめてくる表情にたじろいだ。そのちぐはぐさには強烈な危うさがあった。違う原理で生きていると無防備に曝け出す、儚い存在の。
月島は尾形の頭に手を置いた。
「……それでいいのか」
疑問ではなく、確認だった。尾形のしたいようにすればいいと思った。
尾形は答えずに、頭に乗せられた手を退けないまま、行動を拒否するように銃を抱えて丸くなる。問いの答えは、尾形にも分からないのかもしれない。
以前花沢少尉と鶴見中尉の話を聞いた中で、月島の中でひとつ、引っかかっていたことがある。
”妾を持つ男など珍しくはないのに父上がそうしなかったのは、母上の実家が許さなかったため……”
”尾形本人相手だと勇作殿に言ったような態度を、もしかすると中将殿はとらないのではないか……”
もし、花沢少尉を介さずに会ったとしたら、違う可能性があったということだろうか、と。
しかし過ぎ去った別の未来のことなど、きっと考えるべきではないのだろう。
もう分かれ道は終わった。崩れた足元は向こうの道ごと連れて落ちていく。
だが通ったのがたとえ間違った道だったとしても、どこにも続かぬ悪路だったとしても。既に歩いてしまった過去を否定するのは悲しすぎる。
月島は暫くの間、静かな暗がりで、尾形の隣で虚脱し座っていた。半分眠った様に何も考えずに。
手だけが癖のように尾形の頭を撫でるのを、尾形はじっと目を瞑って、そのまま受け取っていた。
◇
「中央は此度の甚大な被害の責任が、作戦を指揮した第七師団長にあると見ているそうだ」
勿論、ただの責任転嫁だ。功を焦ったと批判しているそうだが、急かした自分たちのことは棚に上げているらしい。鶴見は内心で中央の言い分を嘲りながら、それを顔には出さずに尾形百之助を見やる。中央への不信もそうだが、それ以上に将としての花沢中将への疑心も抱いて貰わねばならない。
「矢面に立たされた花沢中将は現在も師団長としての務めに奔走なさっておられるが、周囲の者からはどうも精神の均衡を欠いているご様子であるとの話も出ている。無理もない事だな。これほどの損害、もはや責任の問題で語れるものでもない。その上、御子息も亡くされている」
尾形の表情は変わらない。鶴見は目を細めた。
花沢勇作は、頭を貫かれ戦死した。
ロシア軍は最後の最後まで抵抗を続けていた。死に物狂いの弾丸が、真正面から旗を振り進む彼の頭を貫いても、何の不思議もない。だが、尾形百之助ならば弾丸の雨の最中にあっても、彼の頭を撃ち抜ける。実際その腕を目の当たりにしてきて知っている。可能性は同じだけ存在した。
真実はどちらだったのか、聞けば正直に答えるかもしれない。保身という意識に欠けた男だ。しかし原因など、最早どうでもいい。だから訊きはしない。死という絶対的な停止、それ以上の意味ある事実などあり得ないのだから。
だが鶴見は純粋な好奇心から、揺さぶりをかけるような言葉を口にする。
「お前としても無念だろう。お前は勇作殿を生かそうとしていたからな」
尾形は、ふっと目を伏せた。ただ言えることが無いのだと示すだけの、心の滲まない表情。
感情の死んだ尾形の顔は氷のように美しい。人形、動物、植物、あるいは赤子。無駄な垢が付帯される前の研ぎ澄まされた欠落だ。
今のこの反応が、元々存在しないが故の無感動なのか、それとも表出して来ないが故の無感動なのかは読めない。尾形の昏い肉体の下に何らかの情動が現れたとしても、それは深い水底に蠢くだけの得体の知れぬ生物として表れる。引き上げる者が居なかったが故に、己でもそれを確かめる術を知らぬのか。
感情というのは真実を曇らせる塵のようなものだ。それが在るが為に人は破滅に向かう。時に選択を誤らせ、時に意志に背き、時に約束を破らせる強固な呪い。
それが尾形という現身に透かしのように表れた時、鶴見は例えようもなくこの男が可愛く思え、同時に憎らしく思える。撫で回して愛でてやりたいし、滅茶苦茶にして殺してやりたくなる。
だがそうやって己に沸いた情動によって、見えていた筈の尾形本人の情動はいつの間にか消え失せているのだ。あたかも強い炎に掻き消される儚い火の如く。
そうして目の前の男を掴み切れぬ手によって、未だしがらみの解けぬ足を目の当たりにする不毛が鶴見は嫌いではなかった。尾形を構うのは癖になる。
かといって悠長に楽しんでいる訳にもいかない。能くその心に現世の影を映すのは、汚れた水の上だからではない。透き通った向こうに闇があるが為だ。その見えぬ闇から、おそらくこの男はこちらを見ている。じっと、その能く視える眼で。
鶴見は尾形との距離を詰めた。
「しかし中央は金の工面に当分大わらわだろうな。損失を考えれば幾らあっても足りんくらいだ。だから何かと難癖をつけて普通なら昇進する兵の武功を無かったことにしたりする。そして補填の伝手があるとなればすぐに飛びつくだろう。まあ当面金塊の調査で邪魔になりそうな人間はお前のおかげで粗方居なくなったが、それもすぐにまた湧いてくる。我々の計画を軌道に乗せるには、まだ不足している鍵があるのだ。無能な上層部によって使い捨てられた数多の戦友の餞の為にも、生き残った我々はこの戦争で培われたこの団結を、更に強固なものにしていかなければならない」
姿勢よく佇む尾形の肩を撫でる。
黙って話を聞いていた尾形は、ふと口元に笑みを乗せて言った。
「帰国してから……でしょう。何かをするとしたら」
まるでまだ言わぬその”何か”を分かっているような落ち着いた口振りに、鶴見は片眉を上げながら頷く。
「ああ。無茶な作戦による消耗で戦争の継続も限界に近い。総司令部は次の作戦で雌雄を決する他ないだろう。それが終わり帰国してから、の話だ。確かに気の早い話かもしれん。また厳しい戦いになるのは間違いない、お互いどうなるかも分からんのに今から終わった後のことを暢気に話すなど、鬼が笑うかもしれんな。だがそれだけ重要なのだ、お前の存在は。尾形百之助、お前は……」
「鶴見中尉殿の言う通りに致します」
言葉の合間でするりと留め置くように、尾形は静かな声で言い切る。
目を見張る鶴見を、尾形の瞳がまっすぐ見つめた。温度のない眼差しだった。
「この戦争が終わっても、何も変わりません。同じように致します。あなたが言った獲物を、俺が狩る。異存はありません」
「……伝えるのは、直前で構わないと?」
「ええ。心構えや、そのための説得は不要です。あなたが言った事を、すぐに、何の躊躇もなくやってみせると……お約束致します」
ゆっくりと冷たい唇が言葉を紡ぐ。鶴見の身の内で、何かがドロリと流れ落ちるような感覚がした。
手を伸ばし、尾形の頬を撫でる。相変わらず常時は血潮を感じさせぬほど白い。首筋に指を滑らせても、乾いた滑らかな肌には、微塵の汗も滲んでいなかった。
首の後ろに置いた手で引き寄せると、抵抗なく身体は腕の中に収まる。鶴見はその耳に囁いた。
「私にはお前が必要だ。お前には私が必要か?」
小さく笑った気配がして、尾形の手が鶴見の背を撫でる。
「山猫でも住処は必要です」
その声にはどこか、諦めのような甘さが滲んでいた。
「あなたの傍はどこよりも居心地がいい。何故ならあなたの周りにはいつも死体の山が出来る。そして俺は、殺すことしか出来ない人間なのですから」
鶴見は低く笑った。
身体を離してどうにかしてやりたいような気もしたが、結局そのまま尾形の首筋に顔を埋め、じっとその身を抱く。基本的に無臭の男だが、こうして近づくといつも好ましい匂いがした。
これ以上の問いは無意味だろう。鶴見は己に分が悪いことを自覚した。
尾形が本当にそうしたいと望んでいるのかどうか。それを見通すには、鶴見自身がそうさせたいという望みが、少なくとも今は強すぎる。己の影に尾形の姿が掻き消されている間は、まだ。
◇
花沢中将閣下から、指定した時刻に滞在する部屋まで訪れるよう指示があった。報せを受けた時、尾形の心臓は跳ねた。多分、それは恐れだった。
誰にも気取られず去っていく彼の従卒を見送りながら、暫し無言で立ち尽くす。
このまま……ごっそりと居なくなった兵士達、そして己の手で永遠に失われたあの人、その荒涼の中で、父が己を見たという事実、この状況に、己が何かを感じることが怖かった。同様に、父が何を感じたのか言葉にされることも怖かった。
何を恐れているのか。
恥……だと思った。
何を望んでいたのだろう。何が叶わなかったのだろう。最早分からない。分からないが、父が己を呼ぶこと、それは望んでいたことにおそらく限りなく近い。そして、その望みがあの人を殺したことによって叶うことが、己は許せない。
あの人の喪失は、ただ喪失それのみでなければならない。彼を殺すためだけに……彼にとっての己と、己にとっての彼を終わらせるためだけに、己は彼を殺した。だからあの“死”は、何かを得るためにあってはならない。それを享受する己であってはならないという意識が、厳格な鎖として身の内に存在していた。
だがどうすればいい。拒否は出来ない。師団長の命令だ。しかし中尉の話は。少なくとも終戦までは師団長としての務めを全うして貰わねばならない。精神の均衡。苦しんでおられるのか。そのために妾の子を? 聞きたくない。必要とされないならいらないと思っていた。必要とされていても、今は、もう、己の存在が。
この手にある選択肢は少ない。
少ないから、あまり考えつくまで時間は掛からなかった。
ふと思う。
己が狂っていると思ったことはない。だが己が狂っていないと思ったこともないと。
◇
「尾形上等兵、参上致しました」
「……ご苦労」
ああ、師団長殿だな、と思う。声は何度か聞く機会があった。遠目で姿も拝見したことが、これも何度か。
誰も居ない室内。内密に呼ばれただけあって周囲に人の気配はない。
しんと静まり返った室内で互いに押し黙り、澱のような沈黙が堆積した。
迷い。葛藤?
しかし微動だにしないまま過ぎ去った時が一定の量に達し、いよいよその重い口が開かれようとする気配を感じたので、尾形は先んじて声を発した。
「失礼ながら、脱いだ方が宜しいですか。それとも、口で致しましょうか」
花沢幸次郎閣下は目を見開いた。
険しい、それでいて怒りではない、苦渋を滲ませてこちらを睨む目に、ゆっくりと言う。
「見当違いであれば、大変失礼を致しました。不敬を処罰下さい。ただ、私のような“ただの上等兵”が師団長殿にお呼ばれして、申し付けられることといえば、それぐらいしか思い当たりませんでした」
それは、息子として相対することへの拒絶だった。
ここにあるのは何からも断ち切れたただの肉。それに宿る孤立した意識。それだけの、物体。
それ以外には何もない。何のしがらみも、何の感情もない。そういうことにする。過去も未来もない、ただ生きているだけの現象として前に立つ。もしそうでないのなら、絶対にしてはならないことを、出来るのだと示して。
この人をずっと待っていた。過去など何もなかったように、その傍らに収まって、ただ訪れるであろう安寧に身を置く未来。それはきっと己の“しあわせ”だろう。
それをどうやったら捨てられるのか。尾形にそれを捨てさせようとする、過去すべての過ちが教えてくれていた。
過ちを犯すこと。そうして、そうする前には戻れなくしてしまうこと。
閣下は激怒するかもしれないが、この面会自体が秘されたものである以上どんな無礼者もそのまま帰す他ないだろう。そしてそうなったが最後、二度とこんな機会は訪れまい。この人が、己を呼ぶようなことは。こうして二人きりで目と目が合うようなことは。
それを思うと身を切り裂かれるような苦痛を覚える。どうして呼んだのか、分からないまま闇に葬られてしまうその理由を考えれば頭を掻きむしりたくなった。かといって、もう己には何も。
閣下は手で目元を覆い、長く、重いため息を吐きだした。
そうすると通った鼻筋と、削がれたような男らしい輪郭が目に入る。髪の生え方や肌の色も。
一瞬、安心するような、慕わしいような感覚が過る。やはり勇作殿に似ているんだな、と思った。
閣下は座っていた椅子から立ち上がった。
「じゃあ付き合って貰うぞ。いいんだな」
少し苛立たしげだが、思い切った声だった。尾形はびっくりして目を見開いて固まった。
「こっちへ来い」
そう言って示された寝所に、尾形の足は一瞬、震えた。
◇
服を脱ぐだけでこれほど羞恥を感じたことはない。
本気なのだろうか。服を脱げという簡潔な指示に、自分から言い出した手前確かめることも出来ない。無言でこちらを見ている閣下の前で上を脱ぎ、横に置く。パサリと心許ない音がした。
手が迷い、襯衣の釦を外すのも覚束なくなる。全部外したところで不安になり、ちらりと閣下を見上げると、見兼ねたのか膝の上で握られていた手が襯衣の襟元を掴んだ。
手伝われる格好になり、動揺しながら残りの服を脱ぐ。これではまるで幼子だ、と思い、そしてその考えの違和感に混乱した。幼い頃でもこんな事をされた記憶はなかった。
迷いなく脱がしてくる手に慌てて袴から脚を抜き、とうとう褌だけになったが、それもさっさと取り去られてしまった。微妙に膝を立てて隠す、強張った体勢のまま身動きが取れなくなる。身の置き所がない。顔が見れなくて目を逸らすが、肌に視線を感じた。
裸の肩をざらついた掌に包まれる。背筋が震えた。それは決して悪寒ではなかった。
ゆっくりと手が肩から腕へ、肌の上を滑っていく。ごつごつした手だった。力強く厳めしい。年輪を重ねた樹木のように、その身に刻んだ時の厚さを現わしている。
撫でられるとその部分の神経が、びりびりと反応して沸き立つ。もっと触れて欲しいと、肌が勝手にその手へ吸い付くのが分かる。このために作られたとでも言うように歓喜している、それは、狂うほどこの手を求めた女から生み出された肉体だからなのだろうか?
呪いのようなその望みを叶えるように、中将の手は尾形の身体の全てを刻みつけるように触れてはなぞっていった。
尾形は痺れた頭で考える。捨てた種が、時を隔て、こうして実った姿は、どんな感慨を……父親という曖昧な存在に抱かせるものなのか。
膝を撫で、脛を辿り、骨の浮き出た細い足首を柔く掴んで、踵を滑り、足の形すら確かめるように指まで検分する。
その手つきは、正しく愛撫であったが、性的な意味合いを含んではいなかった。何かとても大事なものを、手に取って隅々まで眺めるような真剣さがあった。だというのに。
不意に目が合った中将は、一瞬目を見張り、それから苦々しいような、あるいは照れたような、複雑な顔をした。
「……そんな顔をするものではない」
窘めるように言われ、尾形は戸惑い、顔を伏せる。
どんな顔をしていたのか自分では分からない。だがきっと、だらしのない表情を晒していたに違いない。尾形は恥じて顔を上げられなくなった。
自分でもわけがわからないほどに、その手に触れてもらうことが……嬉しい? よく分からない。脈絡のない感覚ばかりが浮かんでは消える。気持ちいい。安心する。もっと触って欲しい。近づきたい。あたたかい。さみしい。こわい。……うれしい。
尾形にとって理由のない感覚が勝手に湧いてくることはあまりない。だから対処の仕方に慣れていない。
中将の手つきが何故かやたらと丁寧なものであったことも尾形を戸惑わせた。暴くような素振りはそこにはなく、ただ、愛でるような……そこにどういう意味があるのか分からない。初めてまみえる息子の“出来栄え”に興味があるのだろうか?
そう、少なくとも尾形の記憶の上では初めて会う相手なのだ。初めて言葉を交わし、初めて身体的に接触し、初めてお互いをお互いと認識しながら同時に同じ場所に存在する。そんなのはほぼ赤の他人だ。だというのに、なぜ精神は、こうまで浮ついてしまう?
しかしその混沌と湧いてくる感覚の端を、それでも後ろの方で、冷たい理性がずっと重石で止めてもいる。その理性の内実もまた混沌としていたが、そちらの混沌は感覚とは違い、ひとつのはっきりした言葉を形どる。“ゆうさくどの”。
「……嫌ではないか。こうして私に触れられるのは」
中将が静かに尋ねた。尾形は驚いて、咄嗟に首を振る。
「いいえ」
「では、どう感じている」
尾形は躊躇う。視線が彷徨った。
「何も難しいことは考えなくて良い。この手がお前に触れること、それだけを今お前は、どう感じている」
伸べられた手が、尾形の頬を撫でる。
「……嬉しい……」
抵抗できず本音が零れた。
頬のあたたかな手に縋って、懐くように頬を擦りつけた。たまらなかった。
「嬉しいです……」
口にした声には不安が滲んでいた。本心からの言葉であるからこそ。
花沢中将はゆっくりとした手つきで、尾形を引き寄せる。
真綿で包むような力で抱きしめられた。
尾形は目を見開く。
「……百之助」
掠れた声で、呼ばわれた名前。
彼の息子の名前だった。
唇が震える。
「……ちちうえ」
呟いた言葉は言い慣れないせいでひどく幼く響いた。
ずっと空だった器がやっと満たされたような心地だった。だが己の身を包む温もりによって尾形の心は同時に、あの夜明けの抱擁を蘇らせていた。
“兄様”
勇作殿に触られると、いつも離れたいという感情が湧いた。彼以外には感じない抵抗だった。熱い体温が恐ろしいような、触れられたその肩や手が溶かされそうな錯覚を覚えた。そして、その己と明らかに違う温度に、いつも何故か父君を連想した。自分にも同じ割合流れている血なのに、差異の中に父の影を見出すとは可笑しな話だが、しかし現に今こうして己に触れている手もまた、ひどく熱かった。
今となっては、この分厚い掌の熱さが、あの真っ直ぐな指の熱さを思い出させてならない。
これから先、この温もりがこの肌に触れる機会がたとえ何度訪れたとしても、その度に思い出すのだろう。少し恐れながら、何かを求めるように触れてきたあの手の感触を。一生忘れられず。
それは救いなのか、呪いなのか。
ただ、ずっと心に留まり続けたこの世でただひとりの人に抱きしめられても、もうその温かさを諦めることが出来る己の心に、尾形は深く安堵し、絶望した。
「もっと私を呼んでくれ。私に触れてくれ」
きつく抱きしめて首筋に顔を埋めながらそう乞うてくる父の背を抱き返し、身を摺り寄せる。
「父上……父上。……父上……」
胸が引き裂かれるような幸福を得た。ひととき手にしてみれば、幸福もまた現象だった。やがては過ぎ去り終わるもの。
ふと、ずっと分からないまま忘れていた問題の答えが、突然解ったかのように思いつく。
待つのではなくて、こちらから会いに行けばよかったのだと。
そうすればこうしていつかは触れられたかもしれないのだ。血の通った肉として、この世の何処かに生きている限りは、いつだって。
とても今更な気づきだった。今や待ち焦がれた大きな掌は己の青白い頰を撫でている。そして何もかもが手遅れなのだった。
◇
昔、己を犯した男が最中に言っていた。父親だと思えと。
お前の父親だと思い甘えていいのだと、何か与えているような顔つきで頭を撫でた。
守る者のいない子供を哀れんでいるようだった。哀れにしているのは誰だと思っているのかと、尾形は可笑しく思った。
本当に父親なら、その身で行っているような行為をするわけがないのに。それに、父親だと思うことが、いったい何になるというのか? そう考え、結局誰かをそう見立てようなどという発想すら持たず、ここまで来た。
だが行為として可能な以上、人は何だって犯すのだと今は知っている。血が繋がっているとしても、その血は肉に隔てられている以上、存在は他者と変わるところがない。
己が待っていたものは何だったのだろう? まだ見ぬ相手に何を見出していたのか。それを見出させたものは己の中の何なのか?
本物の父親を前にしても尾形の胸に実感と呼べるものは訪れなかった。目の前の人を父と保証してくれるものが、思い出が何一つ尾形の中には無いから。
あるのはただ、そう思いたいという、信仰のように根拠のない願望。
もしかしたら、勇作殿は己を“愛していた”のだろうか、と尾形は思った。
「っん、んっく、れろ……ん、っんむ」
口腔に突っ込まれた指で舌を捏ね、摘み、なぞられ、這い上がる掻痒感のような快感に涙が滲む。その指が父の指であるというだけで箍が外れたように全ての感覚が開いてしまう。零れるほど唾液が溢れてその指を濡らしていることが恥ずかしく、畏れ多い。しかしその指をしゃぶり、舐める行為は、尾形に恍惚とした感覚を齎した。
尾形の表情をじっと見ていた父は、濡れた指を口から引き出す。
思わず名残惜しむように舌が付いていくのを低く笑った。
「美味そうにしゃぶる」
揶揄するように言われ尾形は恥じて顔を伏せた。
父はその背を抱き寄せると、たっぷりと唾液に濡れた指をその場所へ宛がう。
「は、……」
思わず震えて父の肩に縋る中、その指先は尾形の腑を暴いた。
「あ、ああっ……」
蕩けたような声が己の口から上がるのを、遠くから聞こえたもののように錯覚する。口内の粘膜を愛撫されすっかり高められた身体は、侵入してくる指をこの上ない至福のように歓待した。
こんな事をしなくても、通常ならばこうして身体が使われる予定がある時、尾形はいつも予め潤滑油を塗って行為を簡略化していた。女の代替が欲しいのなら、望むものをやれば早く終わるだろうと。男に濡れる機構は無いから。
しかし今日はそれを忘れていた。意識に上らなかった。息子として存在することを望まぬと決めながら、しかし今まで頓着なく捨ててきた男という己の性質を、滑稽にも手から離さぬまま捨てた振りをしたのだ。今更、猫を被るように。そこに無意識の未練のようなものを自覚し、それを尾形は嫌悪した。
現実に確かなものは、この身体が汚れ切っているという事実だけなのに。
「っ……!」
少し奥の、弱い部分を指が掠めていき、思わず身を竦める。息を呑み声を殺したが、父の指はそこを容赦なく抉った。
「あッ、あ、あッ♡ ちちうえ、だめっ、です、そこは、ッあああ♡♡」
そこばかりをぐりぐりと指で捏ねる狼藉に尾形は背を反らして悶えた。
父は差し出された胸に顔を寄せ、ねっとりと舌で乳首を舐る。背筋を駆け上がる官能に頭が痺れた。
「あっ、あっ、父上ぇっ、だめ、だめです、……御召し物、が……っ」
父はため息のように笑う。
「そんなことを気にしておったのか」
「気に、します、だって……っ」
「なんだ。もう気をやりそうか」
尾形は赤面した。
「そ、そんな風に、されたら……あっ、あっ」
「ほら。気にせず善がれ。汚しても構わん」
そう言って二本の指で中を掻きまわし、胸元の肌を吸われ、尾形の目に極まる前特有の涙が浮かぶ。
ただでさえその指に、その手に、その口に愛撫されることは、尾形の肉体に信じられないほどの悦びを与えるのに、その膝の上に乗せられ、巧みな手管で翻弄され、尾形の堪え性のない体は早々に限界を迎えた。
「あっ、あ、う、……~~~~~ッ♡♡♡♡」
父に縋り付いて、降りかかる深い深い快感に声もなく身悶える。
きゅうきゅうと躰が指を締め付けるのが分かった。頬を押し付けた太い首が、ごくりと上下するのを感じる。不安定な精神が肉の悦びに引き摺られて異様な高揚感を覚えていく。
服を汚してはならないという意識が歯止めをかけたのか、もはや癖のようになっている達し方をした。快感に晒されるばかりで解放のない、苦しい逝き方。
「はぁっ、はぁ……っ」
上擦った荒い呼吸を必死に整えていると、父の手が吐精しないままの先端を親指でくじる。
「はぁっあっ」
「……女のように達しおって」
耳元で低く囁く声にぎくりとした。その声は苦笑しているような、忌々しげなような、興奮しているような、軽蔑しているような……複雑な色に満ちていて、判別がつかない。
父は尾形が正しく“山猫”であったことを、知っているのだった。
胃の腑が掴まれたような息苦しさを感じた。
「それほど気にするのなら、お前が脱がせてくれ」
言いながら尾形の手を襟元に導く。尾形は飽和した頭で、言われた通りにしようとするが、三本に増やされた指を突き入れられてがくんと背が撓った。
「あぐっ、い、……っ」
ぐっと唇を噛んで悲鳴も嬌声も殺す。
息を震わせながら合わせ目に手を掛けるが、拡げるように抜き差しされる指に気が散って上手くいかない。痛みではない。圧迫感にすら、湧き上がるのはただただ快楽だった。頭がくらくらする。正気を保てない。
「それほどにいいか」
呟く父の声。いくら声を殺しても、感じ入っている事など感触や表情から丸分かりなのだろう。顔を歪ませ、尾形は父を睨んでしまう。たがきっと泣きそうな情けない顔にしかならない。縋るような、哀れな視線にしか。
中の指が突き込まれ、同時に前を扱かれ、尾形は喘いだ。
「あっ、あ、あ! やめっ、やめてくださいっ、もうっ、もう、大丈夫、です、からっ、」
「大丈夫だから、なんだ」
尾形は一瞬怯んだが、快楽に呑まれ、押し出されるように口にする。
「……父上の……ッ」
泣きそうな声になった。
それは乞うてもなければ、拒んでもいない、ただただ困惑した子供の声だった。
父は半端に止まった尾形の手を外させ、残りを寛げながら、指をまた尾形の弱い所にばかり擦り付け始める。
「やっあっ、ちち、うえっ♡♡ だめれす、また、っ、あ、あ」
逃げようと揺れる腰が、しかし絡み付くように父の指を咀嚼する。
勝手に深い快感に陥ろうとする身体が忌まわしく、恐ろしく、尾形はわけがわからなくなって、気付けばぎゅっと目を瞑り、謝っていた。
「ごめ、ごめんなさっ、ごめんなさいっ……」
指の動きが止まる。尾形は行き場のない快感に震えた。
この現実が呪わしい。実の父親に愛撫されて、こんなにも身体は狂喜する。明確な形のある反応として。
大したこともしない内からこれほど乱れる姿を、父にどう思われているだろうという羞恥が狂おしく尾形の心身を焼いた。噂以上の淫乱だと呆れているだろうか?
こんな肉体が、こう成り果てた己の歩んできた人生が、つくづくいやらしく、惨めで、恥ずかしい。消えてしまいたい。見ないでほしい。己は、この目の前の立派な人に関わる存在として相応しくない。あまりにも卑小で、あまりにも無残な、出来損ないの人間。
どうして己の父はこの人なのだろう。何故こんな様で己はここに居るのだろう。どうしてあの人だけがこの世に現れなかったのだろう。
そう、母が。
尾形は涙に滲んだ視界で、母に申し訳ないと思った。あれほどこの人の手に抱かれる日を待ち望んでいた女。狂ったその身でも、きっとここまでみっともなく乱れはしなかっただろう。ここに居るのが、母だったらよかったのに。
何も取ろうとしなかったのに、いくつも奪ってしまった。望んだものはすべて、望まぬ場所に落ちてきた。どうやったらうまくいくのだろう。どうやったら。
父は尾形の身体をきつく抱き寄せた。
「謝るな……」
それは深く、苦い、懇願の声だった。
◇
「はっ、あ゛ッあっ♡♡♡あああッ♡♡」
ずぶ、と繋がった肉体に尾形の背が浮く。
「はいって、あ、ちち、うえ、父上ぇっ」
唇からはひどく嬉しそうな声が漏れた。もう精神など置いていかれている。純粋な肉体の反応だった。
幸福などいらないとこの行為を覚悟した筈なのに、今この瞬間に幸福と定義づけられそうな何かが身の内に存在することに、尾形は心の底で呆然としていた。
中を探るようにゆっくりと抜き差しされ、ひくひくと下腹部が震える。
「ん、んっ、っく」
「……すごいな」
深く感心したように呟いた父は、白い下腹部に掌を当て、押し込みながら中を抉った。感じる場所を刮ぐように。
「〜〜〜〜ッッ♡♡♡♡」
仰け反って悶える。どっと汗が滲んだ。大きく動く”膣肉”に、父は息を荒げながら逆らって動く。
「吸い付いてくるぞ」
「あっ、あっ、あっあっ♡♡」
ひと突きごとに濡れた音を立てる粘膜が、周囲の空気までも犯していく。
わけがわからないほどきもちがよかった。
「百之助……、百之助。お前はいつもこれほど乱れるのか?」
尾形は必死で首を振る。いつもはこんな、こんな風には、とても。
「私のせいか?」
何度も頷いた。
「言わなきゃわからんぞ」
「あっ、あ、すみませ、っん♡ じぶん、でも、わからなっ……ちち、うえに、さわられる、と……!」
泣きそうな声で言う尾形の頬から耳の後ろにかけてを、愛でるように大きな手が撫でた。
「あ、あ……ッ♡」
くたりと全身の体の力が抜けて、中が大きく収縮しきゅんきゅんと締め付けてしまう。
父が気持ち良さそうに息をつき見つめるのを、褒められたように感じて恍惚とした。
軽く達したような感覚が断続的に続いていて、使われぬ性器は先走りと精液の合間のようなものを垂らし身に訪れる絶え間ない悦楽を示している。涎のように浅ましく。
尾形の唇を親指でなぞって、父は訊いた。
「私が好きか」
それは静かだが思い切った声だった。
尾形はすとんと腑に落ちたような気持ちで、陶然として囁く。
「好きです……」
その言葉は尾形の見えぬ心を綺麗に規定した。父が好きだった。そこに理由はない。それ自体が理由だった。この、理不尽な信仰の。
父はどこか安堵したような、望むものを手に入れたような顔をして、身体を倒し尾形を抱きしめた。
深く刺さり奥まで入ってくる。
「はッああ♡♡」
「百之助……ッ、呼んでくれ。聞かせてくれ。もっと……」
「あっ、父上っ、父上っ♡ 好き、好きです……ッすき……♡♡」
全身でしがみ付いて蕩け切った声で繰り返す尾形を、父は何より優しい手つきで撫でた。
「私もお前が可愛い」
陶酔と喜悦の中、尾形はぼんやりと父の気持ちが分かった気がした。
父は今、己を求める誰かの存在が、どうしても必要だったのだろう。二度と帰らない夥しい命。そのすべての咎が己に向く窮地。今この世に父の味方はどこにも居ないのだ。
お可哀想な父上。尾形は覆い被さる父の頭を、慰めるように柔く撫ぜる。誰も己を赦さぬ辛さを尾形は知っていた。
必要だから招かれた、その開かれた胸を心の底から尊く思う。そこには施しがない。純粋な要求だけがある。
この人の役に立てる瞬間が訪れたことが今はとても嬉しい。
ただ、もし息子として、存在を認め合うだけの出会いを出来ていたのなら。それでも、その時でも父は、己を必要としてくれただろうかという疑問が、それだけが尾形の歪に満たされた胸の内で未だに諦めきれず残っていた。
こんな風に、これほど深く、繋がって、中にまで入ってくるような触れ合いなど要らなかった。ただ頭を撫でるだけでも、いや、ほんの少し触れてもらえれば……むしろ、指一本触れなくても構わなかったのだ。
何も奪いたくなかった。何も汚したくなかった。ただそこに、そばに居られるだけで。けど出来たことがないから、やり方が分からなかった。
自分で招いたことの最中に、過ちを自覚する既視感。
何がしたかったわけじゃない。何が欲しかったわけじゃない。どうにかしたかった。どうにか諦めたかった。
ここではないどこかにきっと行けるのだと思っただけだったのに。
ああ、でも、と尾形は思い出した。
一度だけそれを確かめられる機会がある。
予定があるのだ。この人の血を浴びる。この手はまた穢される。
赦されぬ望みでも、二度と叶わないと確定した瞬間なら、失われていく最中になら、それを問えるだろう。
彼の本当の息子の、本当の最期も、その時なら伝えられる。
出来損ないの身を再び父に捨てて欲しい。遠い何処かで伝え聞くのではなくて、その声ではっきり。そしたらようやく、本当に、諦められる筈だから。
尾形は笑い出したくなった。
まるで悪い冗談のようだ。いや、悪い、夢?
この身に張り付く白い肌を父の口が食んでいる。いっそこのまま食い殺して貰えたら、どんなに良いだろう。ここで終わりにしてもらえたら。
しかしそれを望むことは出来ない。歩いてきたのは逃げ道ではないと、そう信じられなくなることだけは、耐えられない。
ずっと本当のことが知りたかった。本当は、どうすればよかったのか。……どうすればいいのか。
今もまだ分からずに、止まらぬ生が続く。内に流れる呪いのような血、移ろう外界を感ずる肉、形のないものを映ずる魂が、どう始まったかも知らぬまま。
そして失ってしまったものだけが、いつまでも尾形の中で、本当なのだった。
終
