呪縛の血、祝福の肉、形代の霊、そして - 5/7

4.賛美

『戦場に行って帰ってきた時、果たしてどれだけの“虫”が残っていることやら』
 尾形の言葉は、やはり妙に頭に残っている。
 そう、まるで虫だな、と思った。攻略目標となった二〇三高地、結集した兵士の数は日露両軍居並ぶと壮観であった。見渡す限りの同じ服を着た人間たち。それらがいくらでも湧き、いくらでも死んだ。
 重い鐘か太鼓のような音が轟いた後、自軍の兵もいる領域へ榴弾砲が炸裂する。いくつか手足が千切れ飛ぶのが遠目に見えた。
 近代化とはこういうものだろうか。日清の時も酷かったがここまでではなかった。視界の端では敵方へ押し寄せる波のような隊列が機銃掃射で歪に崩れていく。
 転がっている死体の数に両軍で大差はなかった。この地が元は何もない荒野であったと信じることが今は難しい。平原は物言わぬ肉で一面に散らかっている。

 生きている者はみな、形のある亡霊だ。揺さぶった程度では取り出せないが、大きく破ればそこから流れ出す。流れ出た霊は二度と肉へは戻らず、見えぬ霊となる。
 この広い高地へ充溢した見えぬ霊と見える霊に、肉体は境界を曖昧にしていった。殺すことにどんどん躊躇が無くなるのは何故か。生きていることがただの現象になっていくのは何故か。薬のように思考を麻痺させる強烈な感情……恐怖? あるいは、罪悪感?
 だが潰せば動かぬ虫の生理を、こうまで他者へと行使しながら、それでも不意打ちで死の予感が訪れたその瞬間に身は竦む。筋肉が強張り、呼吸が止まる。
 危機を前に身を投げ出すようなその愚かさを、しかし人は後生手放せないらしい。臆病なのは出たがらぬ霊か、壊れたくない肉か。

 放った手投げ弾が即座に投げ返され、殺すつもりの武器で殺されるようになったロシア軍からは、いつしか“身投げ”する者が現れた。火の点いた手投げ弾を数個身体に括りつけ、こちらの塹壕に飛び込んでくるのだ。
 相手は既に覚悟を決めており、決して止まろうとはせず、一度侵入を許してしまえばこちらの被害は数人では済まない。
 度々現れるその存在は脅威であり、恐怖だった。我々にとっては“狂人”だが、ロシア側からすれば“勇者”と称されるであろう男達は、皆同じ目をしていた。

 こちらへ、この塹壕へ向かってくることを決めたその男を、皆必死になって撃った。しかし恐怖と焦りで浮ついた照準では狙い撃つような冷静さは無く、ただ当たればいいという弾丸しか飛ばせない。そしてそうした弾丸では、覚悟を決めた者を止めることは出来ない。
 向こうの塹壕から、走る男への称賛と応援の声が聞こえる。勝利を願う勇猛な雄叫び。感情が伝わってくる。相手の言語が分かるというのは嫌なものだ。
 詰まってくる距離に塹壕は恐慌状態になった。その中で、不意に歓喜したような、安堵したような声が響いた。震えた二等卒の声であった。
「尾形上等兵殿!」
 その声に、皆はっと我に返った。
 一番見通しのいい地点へ、波が割れるように道が空けられる。音もなく滑るようにそこへ入り込んだ尾形は、すっと銃を構え、一呼吸置くと引き金を引いた。
 走っていたロシア兵の左膝が弾けた。崩れ落ちる男の眼は驚愕に見開かれている。何が起こったのか、まだ把握し切っていない様子だった。
 もうこちらへ来ることは明らかに不可能だった。放っておけば何拍か後、男は自らが括りつけた手投げ弾の爆発により死ぬ。
 生還した安堵の感情がどっと塹壕に満ちる。その中で、歓声が上がる前に、尾形はもう一発の弾丸を撃った。
 弾丸は男の頭を貫いた。即死だろう。そして十秒ほど後に、爆発が起こった。

 わっと塹壕が沸いた。束の間恐怖から解放され、皆で肩を叩き合い、口々に尾形の銃の腕を称賛する。
 皆、尾形だけが成し得ることを、単純な技術の違いでしかないと思っている。だが尾形の銃の異質さは、もっと根本的なものだ。
 月島の眼には、二発目の弾丸を放った尾形の姿が焼き付いていた。
 あれは、あの弾丸に籠っていたのは、用心深さや念の入った止めなどではない。慈悲だった。
 命を賭した役目が果たせなかった絶望。討ち取れなかった敵の歓声。それらを実感しながら待つ自業の死への十秒間。
 それらがあのロシア兵に訪れる前に、尾形は止めを刺したのだった。なるべく苦痛のない仕留め方を心得た、狩猟者のような容赦のなさで。
 おそらくそこに深い思想はない。出来るから、そうした。尾形の行為にはそういう無垢さがある。だからこそ無欲で、だからこそ本当の施しだった。

 敵側の塹壕で、右往左往していたロシア兵が一人また尾形に狙撃される。あれほど遠くでも、少しでも見えていればそのはみ出た部分を尾形になら撃てるのだ。それを周囲が理解した時、尾形の存在はこの戦場において福の神か何かのような扱いになった。尾形が同じ持ち場に配置されると皆大喜びしたし、上官も激戦区にばかり尾形を配置した。尾形はひとつも文句を言わず敵を殺し続けた。今までと同じように淡々と。
 遮る味方さえいなければ、この見渡す限りの全てに、尾形の弾丸は届くのかもしれない。正確な厄災となって。
 不意に落ちる雷や、予告なく訪れる嵐。尾形の銃はそうした絶対的な何かだった。
 人のものではない。

 硝煙と砂埃の中で、白い肌は浮き上がり一層冷たそうに映る。遮るもののない青天の下、その瞳は一点の曇りもなく澄み渡った闇だった。
 其処に在って、なお遠い。尾形の横顔を眺めて、月島は美しいと思った。
 思い出も状況も関係は無い。それはただ、優れた一匹の動物に対して抱いた、単純な賛美に過ぎなかった。

 ◇

「報告します。目標一は早くにロシア軍の狙撃に遭い戦死。目標二は規定の線を越えても生存していた為、狙撃致しました」
「そうか。何よりだ、今日の二人はとりわけ重要だったからな。これで戻った後の計画もぐっとやり易くなる。よくやったぞ尾形百之助。しかし、今日そっちの方は大荒れだったそうじゃないか。ご苦労だったな」
「敵味方入り乱れておりましたので、味方に当たらぬよう狙いをつけるのに多少難儀しましたが、それだけです。混乱のぶん見つかりづらくもありますので」
「ふっふっふ、怪しまれるどころか、尾形上等兵をこっちに配置してくれとあちこちから引く手数多だぞ。“仕事”がやり易いことといったらない。お前は本当に最高だな、貴様の前では金塊の輝きすら霞む」
 冗談だか本気だか分からない声音で宣うと、意味もなく身体を抱き寄せ撫でさすってくる。
 酒が入っているのかと思う興奮状態だが、鶴見中尉は酒嫌いだ。ここに来てからはいつもこんな風な気もする。おそらく、血に酔っているのだ。人が無惨に死ぬと昂るのだろう。
 その背に宥めるつもりで手を触れながら、尾形は言った。
「だから精密射撃部隊を作った方がいいと、ずっと上申していたのに……」
 今更必要性を感じて、己一人を重用したところで焼石に水だ。一発の弾丸では一人か二人しか殺せない。
 中尉は尾形の言葉に笑ってから、甘やかすように頭を撫でた。
「そうだな。止まった連中に新しい事を幾ら言ったって無駄という事だ。だが実際、お前ほどの狙撃手はそう揃えられるものではなかっただろう」
「それでも俺が長く銃の指導をした兵卒は皆生き残っています。ちゃんと教えれば誰でも上達する。各所に専門の兵を数人でも配備できれば、こんなに死なずに済みました」
「戦友が死ぬのが悔しいか?」
「……理屈の問題です。兵は多い方がいい」
「もっともな意見だ。だが多いからいくら使っても何とかなると考えた結果がこのざまなのだろう」
 尾形は顔を逸らした。鶴見中尉は時折こうしてわざと中将閣下の話題を出す。己はそれになんと返していいか、いつも分からなくなる。どうして分からないのかも分からない。
 頬を中尉の手が撫ぜ、促されるまま振り向くと接吻された。
 脈絡のない接吻もまた、中尉がしばしば尾形に対し行う事だった。まるで耳からだけでは伝わらぬ分を埋める、別種の言葉のようだった。そこにどういう意味があるのか尾形には未だ掴めない。ただ、こうされると何故か落ち着いた。何も話さなくていいのだと赦された気がして。
「最早この攻囲戦は消耗戦と化したが、攻略が成れば海軍はそう掛からず敵艦隊を鎮圧するだろう。便利なものだ電話とは。何里隔てた先へも瞬時に伝令が叶う。少し前の指揮官が聞けば泣いて悔しがるだろうな。これからどんどんこういうとんでもない代物が出てくるぞ。飛躍的に戦争は進化していくだろう。魔法のように人が死ぬ。力がそれを推し進めるのだ。お前の手にした銃のような、圧倒的な力が」
 引き寄せられた手の指先に、恭しく口づけられる。冷たい手に人の血の熱さを感じる。
 中尉は尾形の狙撃能力をいつも褒め讃えた。皆同じ銃、同じ形の手、同じ操作。であるのにこの手から放たれる銃弾は、魔弾であると。
 尾形はその唇を感じながら、ぼんやりと呟いた。
「鳥を……」
「鳥?」
「鳥をよく撃っていました。子供の頃……祖父の銃を持ち出して。母に、捌いて鍋にして欲しかった。魚ばかり食べさせられていたんです」
「ほう! それでその神業的な銃の腕が磨かれたというわけか。聞けて嬉しいぞ、お前はちっとも自分の話をしようとしないからな」
 幼子か犬を褒めるように頬を包んで撫でられた。確かにいつも過去を知りたがっていた気がする。おそらくそれが“手”なのだろう、と思いながら続けた。
「しかし、鳥は結局使っては貰えず……その内母が死んで、それから初めて、撃った鳥を祖母に捌いて貰う機会が訪れました。でも食べてみたら、やっぱり魚の方が旨いな、と思ったんです」
「ふふ。お前は魚が好きだからな」
「銃さえ無ければ、鳥という選択肢は初めから無く、魚を食べ続けるしかなかったでしょう。でも食っている限り死ぬわけではないし、それに魚と鳥を同時には食べられない以上、結局取って代わるだけのこと……鳥を選んだその瞬間に魚は失われる。しかも結局は、失われたものの方が大きかったと知っただけでした。これを果たして、選択肢が増えたのだと言うことが出来るのでしょうか。鳥という新たな味を知ったところで、それは進化なのでしょうか?」
 中尉は尾形の問いに、目を細めた。
「しかしお前は、魚以外も食べたかったのだろう?」
 尾形は沈黙で答えた。中尉はそれを許した。穏やかな声が諭すように響く。
「銃が無ければ、魚以外も食べたいというお前の望みは叶わなかった。そしてお前の言う通り、望みが叶うことと、良い結果になることは確かに同義ではない。変化が進化とは言い切れない事もある……だが、変える力を持つ事そのものは進化だとは思わんか。変えるか変えないか、選ぶ力を得る事は」
「手にした力が一番初めに変えるのは、手にした己なのではないですか」
 中尉の瞳を覗き込む。光が無い。きっとこの昏さは、己と似ている。
「力を得た時点で、その力に変えられてしまう……新しいものを手にしようとする。既に手にあったものを放して」
「それは愚かなことだと思うか? 尾形百之助」
 静かな声が問う。
「わかりません……ですが少なくとも、人は愚かです」
「愚かかどうか、誰が決めるのだ」
「……良心……倫理?」
 捻り出した答えは、実感の籠っていない空っぽな響きにしかならなかった。だが“誰か”をそこに据えることが、尾形には出来なかった。
 中尉は破顔した。優しげな笑みだった。
「この時代にそんなものは無い」
 指の背が尾形の輪郭をなぞる。やけに丁寧な手つきだ。まるで希少な壊れ物を扱うかのような。
「今や誰もが罪人だ。だから俗人は赦されるために、かつて己で作った筈の良心と倫理を殺した。俗界が負わせた種々の罪から逃れるため、一番大きな偽証の罪を犯したのだ。こうなっては最早、純粋な罪人は穢れた罪人に紛れた聖者だ。歪められていない、自然の作り出した、美しい禍だ」
 語られるその言葉には、心からそう思っている者の発する、陶酔の響きがあった。
「お前は美しい」
 尾形は反応に困り黙り込む。美しいということが、どういう意味を持つのか分からなかった。中尉は浪漫主義者だ。尾形には時々ついていけない時がある。
 しかし中尉と話すことは好きだった。自分の考えをこの世の真理のように語る自信が眩しく、そしてその考えは、尾形自身の考えを否定するものではなかったから。
 ただ残念なのは、彼がウソつきだと尾形が既に知ってしまっていることだった。
 正確に言えば、嘘ですらないのかもしれない。嘘をつく必要すらこの人には無いのだ。例え真逆の言葉でも、彼にはそのどちらも本当のことに出来る。彼以外のすべてを偽物にしてしまえるが故に。
 ふと、己に向けて中尉と同じ言葉を言う人があった事を思い出した。
 尾形は尋ねた。
「美しいとは、正しいという事なのでしょうか?」
 中尉はその問いに驚いた顔を見せ、それから微笑んだ。愛でるようでいて、憐れむような笑みにも見えた。
「ああ。そうだとも。美しいということは、絶対に正しい」
 言い切ると、中尉は尾形を抱きしめて頬擦りした。
 そうされながら尾形は考えていた。
 それならば何故あの人は、この戦場において、動く物を殺そうとしないのだろう。
 この身を美しいと言うのならば彼もそうするべきだ。この身はおそらく、そのためだけのものなのだから。

 ◇

 鶴見中尉はとりあえず勇作殿を殺さないことに決めたようだった。尾形はひとまず安心した。殺す方針になった場合、狙撃に失敗しましたと報告し、実行が難しい落ち着いた戦況になるまで粘るしかないと考えていたが、如何せん尾形は他の狙撃を上手くやりすぎたので誤魔化す自信がなかった。
 しかし中尉はこの戦場に来て、勇作殿がまだ一度も人を殺す素振りすら見せないことを知らない。今後の中尉の計画を考えれば、殺せぬ少尉など早々にまた要らないと言われてしまうだろう。
 もしかしたら、旗手を務めながら仕留めるのは勇作殿にとって難しいことなのかもしれない。他の旗手は刀を抜いて戦っているとはいえ、勇作殿ほど周りを鼓舞してはいない。ただでさえ元々抵抗のあることを、別の大事な役目に注力するために端から避けてしまうというのも理解できなくはない。
 しかしここでしか”練習”はできないのだ。愚図愚図している内にすぐ戦争など終わる。殺されるか殺させられるか、実際に戦場に置かれる人間が選ぶことは出来ない。そこから放り出されることもまた突然だ。

 丁度いい獲物があったので捕まえて、見つからないように隠しておいた。弱っている死にかけなら、幾らなんでも狩れるだろう。やさしい勇作殿でも。
 夜明け前、周囲に誰も居ない時に会うことにする。中尉に見つかれば、勇作殿にまだ重大な不足があることがばれてしまう。あの人はどこで何を見ているか分からない。
 勇作殿は、出来ないと言うかもしれない。その時は、“俺が見たい”のだと言おう。自分のために何かをしてくれと、あの人に乞うのは初めてのことだった。
 兄弟は一緒に悪さをするもの。以前使って失敗した誘い文句が頭を過る。
 そばに居ていい理由が、傍にいるための行為が、あの人に、そして己に必要だとすれば。これがそうなるだろう。

 ここに来て、瞬く間に夥しい人間が死んだ。殺された者はみな違う世界に行く。ここではもう彼らは喋らないし、何も見ない。何もしない。
 何故殺す側と殺される側に世界が分かれるのか。何故殺した側はここに生きている? この世界は人殺しの世界だからだ。いつか殺されるまでに見る、束の間の夢。
 足元の大地は人の血によって赤黒い。彼の手は、この色に染まらなければならないだろう。何にも触れ得ずに生きていく肉体など、存在しないのだから。

 ◇

 使わなくなった捕虜は集めている場所に届けた。
 勇作殿が被弾して野戦病院に運ばれたと聞いたのは午前中、西側の堡塁を制圧した後だった。
 負傷したが命に別状は無いらしい。漠然と、よかったと思う。”死”は一人につき、一度しか訪れないものだと、尾形は既に知っていた。

 確か堡塁で迎え撃つマキシム機関銃の射手を撃ち殺した時だった。尾形は思い至った。
 自分は、彼の思うような人間じゃない。彼が求めていたのは、“これ”じゃない。
 ならば彼の言葉はすべて、己に言ったものではなかったのだ。

 そうと分かり尾形は少し、安堵した。彼の言葉はいつも、尾形を辛くしてばかりだったから。

 ◇

 双方態勢を整えるため小休止のような状況になっていた時分、待機していた塹壕へ尾形が現れた。
「おお、尾形! 花沢少尉のことだが……」
「聞きました。負傷なさったそうですね」
 姿を見せた途端出された話題に、尾形は素っ気なく答えた。どこへ行っても同じ話をされるのだろう。
 疲労と緊張から、硬い表情で石のように黙っていた周囲の兵卒が、尾形の来訪で息を吹き返したように口々に喋り出す。花沢少尉が負傷した時周囲で戦っていたのは今ここにいる兵員だった。
「安心しろ、幸い腿を掠っていっただけだ」
「手当が終わればすぐ戻るつもりだと仰っていた。しかし出血が多かったから、どうかな」
「とうとう勇作殿も弾をくらったな。ゲン担ぎはやはりゲン担ぎでしかなかったか」
「いや、こっそりやる事はやってたのかもしらんぞ」
「それは無いだろ。兄様というものがありながら」
「じゃあ尾形と?」
「女相手じゃなくても童貞喪失って言うのか?」
 本人を前にして言いたい放題だ。
 その時、これより数刻、本格的な停戦に入るという報せが入った。ロシア側も態勢を整えるのに手間取っており、この機にこちらも万全に態勢を整え、一気に残りの堡塁へ攻め入る。弾薬が各所で尽きかけているからその補給と死傷者の収容等、総員協力して行うべしと。
「いよいよ戦局も大詰めだな」
 誰かがぼそりと呟いた。
 二〇三高地の陥落も、あと少しという所まで来ている。しかしそれ以前に、両軍とも消耗が激しすぎて、どの道もう長くは続けられないだろう。

「丁度いい。尾形上等兵、少尉の様子を見に行ってやったらどうだ」
 玉井伍長がそう発言すると、周囲の兵卒も口々に賛成した。
「それがいいですよ尾形上等兵殿!」
「是非そうした方がいい!」
 尾形はたじろいだ様子を見せる。
「……俺も弾薬の補給を」
「そんなものは俺達がやりますよ!」
「いいでしょう月島軍曹!?」
 尋ねられた月島は早々に折れて、尾形に向けて言う。
「折角こう言われてることだし、行ってこい。号令が掛かるまでゆっくり話してきて構わん。お前は戦闘で、何人分も働いてるからな」
 許可された尾形を差し置いて周りの兵卒が喜んだ。
「早く行ってあげてください上等兵殿!」
「さぞお喜びになるな」
「誰も文句なんて言いません。勇作殿が“兄様”を愛してやまないのは、我々皆知ってますから」
「第七師団の常識だからな!」
 皆状況を忘れたようにどっと笑った。束の間ここが、かつての兵営と錯覚するような懐かしい空気だった。随分人が少ないが、今ここに居ない戦友は皆ただ違う配置なだけで、これは全て演習に過ぎず、飯時になればまたワラワラと集まって同じ釜の飯を食うのだと。そうやって、同じ日々を分け合っていた頃のような。
 尾形は月島の横でぼんやりとその光景を眺めていたが、ふと零れるように笑った。その笑みも、やはりあの頃と変わらない。どこか寂しそうなままだった。

 ◇

 聞き間違いようのない声で天幕の外から名乗られ、現れた兄の姿に勇作は腰掛けていた寝台から立ち上がった。
「あ、兄様ッ……?」
 兄はそんな勇作の様子を眺め、無表情かつ平坦な口調で声を発した。
「どうも。お加減はいかがですか」
「だ、大事ありません……」
 勇作は意味も無く座り、意味も無くもう一度立ち上がった。
「お座りください」
「あっ、はっ、はい。兄様も……」
 隅にあった粗末な椅子を、せめて手で埃を払って自分の前に据える。
「お気遣いなく。止血中なのでしょう」
 兄が指し示す右腿の傷は、言う通り包帯をきつく巻かれ、血か止まるまでここで安静にしているようにという指示だった。中々止まらぬ血に焦燥を覚えていた中での停戦の報せ。そして兄の来訪であった。
「こっちの小さな天幕の中はこうなってたんですね。あっちの大人数収容している方しか知りませんでした。怪我人を運ぶ程度でしか近寄る機会も無かったので」
 中を見回しながら兄が言った。
「そのようですね……。丁度空いたからと用意されたのですが……」
 やはり、気を遣われているのだろうか。普通の少尉よりも丁重に扱われる傾向にあることは自覚していた。父の権力を理解している手前、その嫡男に贔屓のような待遇をしてしまう心理を責めることは出来ないが。
 そわそわしながら勇作は尋ねる。
「兄様は……」
「この機に、停戦の間あなたの様子を見に行けと追い出されまして。でも、お元気そうですね」
「はい。幸い手当てをすればすぐ復帰出来る程度のもので」
「何よりでした」
 そのまますぐにでも出ていきそうな兄に、慌てて再度椅子をすすめた。
「どっ、どうぞお座りに……!」
 兄は椅子を見下ろしたまま沈黙している。
「停戦の間ということは、兄様がゆっくり私を見舞って下さるよう、皆が取り計らってくれたのでは? まだここから動けぬ身で、私も落ち着かず過ごしていたのです。もう暫し……」
 必死に引き留める勇作に兄は言った。
「俺に見舞われてもご迷惑では?」
 勇作は目を見開く。
「な、何故です? これほど嬉しいことはありません」
 兄は怪訝そうな顔をして、それから渋々のように椅子に座った。不思議な人だ。謙遜という様子でもなく、本当に勇作にとって自分の見舞いが迷惑だと思っているらしかった。今更何故そんな発想になるのだろう? 勇作は、自分でもわけがわからないほど兄の来訪に舞い上がっているというのに。
「童貞でも、やはり弾に当たったかと言われていました」
「はは……そうですね。面目ないことです。受けた傷は勲章ですが、私を信じて前進する部下に申し訳ないと思っていました」
「申し訳ない?」
「ええ。童貞は弾に当たらぬという験担ぎを、本当に信じていたわけではありませんが……それがただの迷信に過ぎないと目の当たりにさせることは、士気に関わります。皆本当は恐ろしい。恐ろしくないように、振る舞っているだけなのですから」
 兄は何も言わず、ふっと小さく口元だけで笑う。そう、おそらく、この人には無縁の話なのだ。恐れを覆い隠すための偽り、などというものとは。
 勇作は包帯の巻かれた己の傷口を撫でた。
「弾丸というものは、当たると熱いのですね。恥ずかしい話ですが、一瞬身が竦みました。これが腹を破れば簡単に臓腑など滅茶苦茶になってしまうだろうと想像してしまった。……兄様は、この地獄にあっても、どんな状況だろうと端然としておられる。あなたの狙撃を、判断を、働きを称賛する声を、ここに来てから何度も耳にしました。兄様は、飛び交う弾丸が恐ろしくはないのですか?」
「ここは……そういう場所ですから。皆”てっぽう”を撃つ。食事とか、呼吸と同じように。だから弾丸が飛んでくるのは当たり前です。不思議でもないものが、恐ろしいとは思わない」
「あなたは、本当にお強い人だ」
 思わず苦笑いしてしまう。己の情けなさに。
 兄はその笑いを見てから暫し考え込むように視線を落とし、言った。
「俺は勇作殿のことがずっと不思議でした。よく、わからなかった」
 静かな声だった。でも、と兄は続けた。
「今は、それほど不思議ではありません」
 それが、喜んでいいことなのかどうか。凪いだ黒い瞳は、勇作にとって未だに、秘密を纏った湖面だった。それでも。
「兄様は、俺を知ろうとしてくれていたのですね」
 いつもその瞳は何かを問いかけていたのだった。じっと勇作の答えを待っていた。勇作から発せられるものを、受け取ろうとしていたのだ。
 その開かれた心の隙間が、何よりも尊いと感ずる。

「今朝のことも……戦場で、あのようなことを言ってはならないと、分かってはいたのですが。あなたには、分かって欲しかった。私のことを……あなたにだけは……」
 水を向けた話題に、兄は反応を見せる。やはり今朝のことで、兄の中に引っかかっているものがあるらしい。
「兄様は、私のことを気遣って下さったのでしょう? ありがとうございました」
「……勇作殿は」
 兄は目を細めた。
「俺のことを全然知らないんですね」
 勇作は恥じらいを感じ、恐縮して肩を落とす。兄を前にすると伝えたいことが溢れて、あまりしっかりと兄の話を聞けていない自覚は、元よりあった。
「た……確かに私はまだまだ知らないあなたのことが沢山あると思います。これから……」
「俺にとって人を殺すのは悪いことじゃない」
 はっきりとした声だった。
「俺はあなたのお傍にはいられないようです」

 勇作はしばらく言葉が出なかった。
「えっ…………」
「てっきり戦場に来てようやく俺のことを“思ったような人間じゃない”と理解し、俺がロシア兵を殺し続ける姿を見て引いていたのかと思ったんですが。まだ分かってらっしゃらないんですね。住む世界が違うと」
「で、ですからそれは……」
「いつか分かる日が来る……ですか? 今はわけも分からずに必死に殺しているだけ? いつか事の重大さに気付いて悔やんで苦しむ日が来る? 成程これだけ兵士が居れば、そういう人のいい人間もたくさんいるでしょう。耐え切れず精神を病む者も居ります。そういう兵こそがあなたの高潔な存在により心慰められるわけですな。自分が殺す代わりに御旗を背負う聯隊旗手は清くある。これは役目、役割に過ぎぬのだと。己の手の穢れとあなたの手の清さが軍という組織によって総体的に清算される。一個の意思として見做された罪は、使命という装飾を纏って正当化される。でも、人はひとりですよ勇作殿。そこに居るのは結局汚れた人殺しと、綺麗なままのあなたです」
 兄は勇作の瞳を見つめて囁いた。
「あなたはずるい人ですね」

 勇作は震え、俯き、打ちのめされた。
 言い返したいのに、何も言葉が出てこない。本当は一番恐れていた言葉を、本当は一番恐れていた相手に言われた気がした。
 兄は奇妙に穏やかな声で続ける。
「でも俺にはどちらにせよ関係のない話です。仕方なく殺す理由なんていらない。正義などいらない。俺にとって、殺す必要があるから殺す。それでいい」
「そ……それでもあなたは、殺したくて殺しているんじゃない。あなたの殺意には、昂ぶりがない。殺させる状況が無ければ、殺さずに済んだ人です……」
「どこかで聞いたような言葉だ」
 嘲るように兄は笑った。
「居ますね。何人か知ってますよ。そういう、殺すのが好きな、それこそ殺りながらおっ立ててるような男を。でもああいうのは駄目です。殺しに執着が強すぎる。単純に、殺すのが上手くない。遅いし少ないし鈍い、だから大体死にました。たまに性質を自覚して上手くやるのも居りますが、それはそれで逆に殺し過ぎる。必要な殺しを必要なだけするというのは大事なことです。ここでは沢山殺す必要がありましたが、逆に一人しか必要じゃない場合は一人だけ殺すということが出来ないと信用出来る兵とは言えない。そういう判断に、感情なんて邪魔なだけです。必要ないものをわざわざ持つことは退化でしょう。勇作殿、あの数えきれない死体の山は何で出来たのだと思いますか? 皆で殺したんですよ。確かに兵の大体は普通に生きてきた若い男だったでしょうから、罪悪感というようなものも初めはあったかもしれませんね。ならばあれだけの数を殺せたからには、それを捨てて頑張ったのでしょう。一度”適応”した人間が、捨てたそれを再び拾う理由とは何ですか? 起こった事実は消せない。一生付きまとうものをあえて拒絶することが何を生むんです? 腕は鈍り、精神の安定を欠き、役立たずが出来上がる。それが何の為になるでしょう?」
「しかし、戦争は終わります……! 終わった後、日常へ還った時に、そこにまた適応しなければならない!」
「一旦はね。しかし無くなりませんよ。でなければ何故こんなことが始まったんです」
「だとしても一時のことで、どの道ずっとは続かない。消費と破壊を延々とは続けられないでしょう? 多くは日常の中で、人は生きるんです」
「そうとも限りません。続ける難しさを克服する方法が、無くはないらしい。戦争を起こしたい人間なんて幾らでも居ます。起こさないより起こす方が簡単だとある人は仰っていましたし、それに……ねえ勇作殿、あなた聯隊旗手を務め上げたらどうするんです?」
「どう、とは」
「純潔かつ潔白の偶像。手段と存在の分化。成る程話は分かりました。でも旗手の任期は一年でしょう。終わった後、あなたも結局は人を殺すんですよね?」
 勇作は言葉に詰まった。
 兄は勇作の頬を撫でた。
「士官学校まで出たのに。勇作殿、あなた、怖いんですね」
「こ、怖い……?」
「“死”が怖いんでしょう。他人のそれすらも。怖くてたまらないんでしょう」
 見つめる漆黒は、洞のごとく、底が無く。
 まるで幽世の窓のような。
「どうして軍人になったんですか? 父上に言われたから? どうして童貞を守るんですか? 父上に言われたから? どうして人を殺さないんですか? 父上に言われたから?」
 氷の声が問う。
「あなた自身の行為って何ですか?」
 勇作は呆然としながら、震える手を持ち上げる。
「わ、私の、私自身のものだと、誓える、のは……」
 頬に触れる白い手を包むように掴んだ。
「あ……兄様、あなたを……」
 あなたを。あなたと、ずっと。

 兄は手を振り払った。
「俺はあなたのそばに居て良い人間ではありません」

 冷え切った眼差し。拒絶する唇。絶対的に勇作を否定したその顔を愕然と見つめ、今更、しかし今だからこそ、勇作は自覚した。勇作は兄に惚れていた。この世の誰よりも好いていた。
 何にも代え難いほどに。
「それに師団長閣下がそのようにあなたへ命じたのは、あくまで“この戦場”での兵の士気高揚のためであり、後に帰還する兵自身の実人生のためなどではないと思いますが。でなければこんな作戦を立てないでしょう」
 遠くを望むようにそう言う兄の表情に滲むものが、嘲りではなく慕わしさのような色であったことが尚更勇作を絶望させた。
「その閣下の嫡子であるあなたが、どうして“生”にしがみつくような考え方をなさるのか……」
「……あなたのせいです」
 絞り出した言葉に、兄はこちらを見た。
「あなたと、ともに生きたい……その気持ちが、私に“死”への忌避を生んだ」
 兄の目が見開かれる。

「あなたは美しい」

 かつて言った言葉を再び口にした。その瞬間に己は、信じた使命に相応しい人間ではなくなってしまった。
 その手を血が、罪が穢していようとも、彼は勇作の世界の何よりも美しい。
 愛とは、己の大切な何かを奪われることなのだろうか。

 兄は深く、傷付いた顔をした。

 何故そんな顔をしたのかは分からない。ただ決定的に勇作を受け容れられないものとして見つめる、悲しみに彩られた顔に見惚れる。彼に傷をつけたということすら最早、甘美だった。この人の瞳に映れるのならば、もう、何だって、かまわない。

 熱に浮かされたように勇作は語り掛ける。
「もう、あなたを他人と思い生きていくことなど出来ない。知らなかった頃へ戻ることなどは……」
 いつか月島軍曹に言われた言葉に、今ならハッキリと反論できる。選択の余地は既に無いのだと。
 もう出会ってしまった。言葉を交わしてしまった。その記憶は今まで生きてきた人生を鮮やかに塗り替え、目の前に広がり、今はもう、消せぬ現実となった。
 ならば勇作に出来ることはもう、一つしかない。愛するしかない。
「分かち合った思い出が足りぬのなら、分かり合いましょう。少しずつ教え合って、知っていきましょう。顔も知らぬ他人であったこれまでの人生など、遠い過去に出来る。今あなたは私の目の前に居るのだから。何よりも鮮やかな面影で私の心に焼き付いているのだから」
 振り払われた手をもう一度強く掴んだ。
「私にとって、あなたに出会えた運命は、この世の恵みでした」
 たとえ、誰に許されなくとも。

「私は、あなたを……」
 言いかけた唇が不意に塞がれた。無くなった距離、鼻腔を満たす彼の香り、どうしようもなく柔らかな、冷たい唇の甘さ。
 それらの感覚に、勇作が持っていた言葉はいっぺんにまるごと奪われる。魔法のようにあっけなく。

 完全に意思を失い、ただ飽和し固まるばかりの一人の男の肉体から唇を解くと、兄の瞳は凍り付くような眼差しで勇作を睨んだ。
 まるで咎めるような接吻だった。それ以外の全てを明け渡しながら、ただ一つのことを絶対に赦さぬような。

「勇作殿。それなら、昔話をしましょうか」
 一瞬で何もかもを支配してみせた唇が囁く。
「あなたに知ってもらいたいのです。あなたの知らない”思い出”で……俺という、人間を」
 そしてもう一度、今度は憐れむような唇が降りてくる。
 勇作は最早、首を縦に振るだけの、木偶でしかなかった。