呪縛の血、祝福の肉、形代の霊、そして - 4/7

3.懺悔

 休日明け顔を合わせた少尉は、どこか憔悴した様子に見えた。態度にそれを出す事は無いものの、表情に陰があるような。
 ただの疲れと取れなくもないが、合間に鶴見中尉から指示があった。今日少尉が帰宅する前に、きちんと腰を据えて事情を聞くようにと。その時間帯ならこの部屋が空いているから使っていいとも言われた。相変わらず手回しのいいことだと内心驚きながら、花沢少尉に打診する。少尉は言葉少なに了承した。

「月島が、間に入り話を断ってくれて、助かった。兄様だけが相手だったなら、きっと俺は我を通してしまっただろう」
 鶴見中尉の言う通り、空いていた部屋に二人で入る。中の談話用の椅子に掛けると、少尉は沈痛な面持ちでそう切り出した。
「……尾形を御宅にお連れなさろうとした件ですか?」
 重々しく頷く。
「やはり、お忙しくてそれどころではなかったという……」
「いや、そうではないんだ。……父上は兄様の噂のことも……そして兄様が仰っていたように、それが、噂だけの話ではないことも……全て、ご存知だった」
 月島は片眉を上げる。噂の内実は想像していたより派手な話であったし、そういう可能性も、考えられなくはないと思っていたが。
 少尉にとっては全く予想していなかったことだったらしい。首を振って力なく言った。
「父上は、知っていながら何もしなかったのだ。理解できなかった、どういうお積りなのか……しかし問いただすと、逆に俺の行いを厳しく叱責なさった。前から父上は、兄様に近づくことを俺に禁じていた。であるのに、何故言う通りにしないのかと。そういう人間だと知っているから、近づかないよう言い含めていたのだ、と」
 それが本当だとすれば、少尉よりも月島よりも、中将閣下の方が尾形の動向について詳細に把握していたということになる。
 加えて、意外だったのは閣下がしっかりと嫡子に釘を刺していたことだ。完全に無関心で、居ないかの如く放置しているからこそ少尉は尾形に付きまとっていたのかと思っていた。だが実際は、わざわざ親の言葉に抗ってまでの行動だったらしい。
 少尉は拳を握りしめ、この上なく苦い表情で顔を逸らすと、低く、震えた声で言った。
「二度と自分から近付くなと。……噂通りの、あばずれだと……そんな、ひどい言葉で……俺は、初めて父上に怒鳴った。実の息子に言う言葉ではないと。そうしたら、父上は……あれを、息子だとは思わん、と」
 ぶるぶると震える拳は、記憶の中の相手に対して振り上げるのを我慢しているかのようだった。

 月島にとっては、それでも中将の態度は想定の範囲内だった。親が子に冷酷になれることなど、有り得て当然の現実だという事を知っていた。
 だが確かに、その心情を想像することは難しい。母共々捨てた子が、第七師団という己の膝元で、際立って優秀な能力への称賛と共に、人を誑かす山猫と揶揄されている……そのことを実際の尾形の行動含め聞き知っていながら、中将は黙認していたのだ。尾形が第七師団に居ることも、上等兵になることも。
 逆に分からなくなる。尾形に対し息子として……つまり、嫡子である花沢勇作少尉の兄として、その存在を認めるつもりは無いのだろう。だが、関心はあるのだ。そして近くに居ることも許している。そこにあるのは一体、どういった感情なのだろうか?

 少尉は俯いていたが、やがて顔を上げて言った。
「父上は立派な方だ。厳格で、思慮深い人だ……しかし……」
 すぐに頭を抱えて唸る。
「確かに……兄様の言った事は、俄かには信じられないことではある……どうやったらあのような発想になる? どうして平気で、身を差し出せる……? まるで何かの作業のような……父上の言い様も、兄様の行動だけを見れば、全くの見当違いとは言えないのかもしれない。……だが、そのような振舞いにも理由があるのだから……例え大きな、差異があったにしても……兄様は……」
 苦悩に陥る花沢少尉を、月島は少し、失望を感じながら見つめた。
 一度は受け入れた事実を持て余しながら、堂々巡りをしている。やはり父君の言う事は、この青年の判断基準にとって何より強い影響を及ぼすものなのだろう。当然のことだ、我々にとっても師団長という高みに御座すその方は、絶対的な存在として従うべき神だった。
 住む世界が違うのだ。

「言う通りに、なさったらいかがですか」
 月島の言葉に、少尉はどこか愕然として顔を上げた。
 それは鶴見中尉の目論見も、尾形の立場も何も勘案しない、月島自身の正直な発言だった。
「尾形は何も求めていません。そして師団長閣下も、尾形に何も命じてはいない。貴方の行動だけを言っている。その通りに貴方がすれば、このお話は御仕舞いなのではないですか」
「つまり……兄様に、近づくなと」
「はい」
 顔を歪めた少尉に対し、月島は続ける。
「尾形が入隊してきた時、あなた方は生まれて初めてお互いの顔を認識なさったんでしょう。お二人とも既に立派な大人だ。それまでの人生ずっと、お互いどんな人間かも知らずに生きてきた。それならば疎遠なまま終わったところで、諦めがつくのではないですか。知り合う前に戻るだけのことです」
「……赤の他人のように、か」
「兄弟であることと他人であることの違いなど、家という共同体を離れれば酷く曖昧なものです。貴方が任官してから初めて出会った尾形百之助という人間と、それ以外の人間との間に、決定的な違いなど無い」
 少尉は何か言いかけて口を開いたが、一度口を閉ざし、それから自嘲するような笑みを零した。
「兄様と出会って間もない頃、同じことを言われた」
「……そうでしたか」
「他人と何が違うのかと。兄という枠組みが、それほど意味のあることなのかと。無関係に育った以上、そこにたまたま自分のような人間が入っていただけで、仮に他のどんな男が収まっていたところで兄という存在自体に変わりは無い。それならば今さら交流を図ったりしたところで大した必然性はなく、意味など無いのではないか、と」
 慇懃無礼なようで、初めから尾形はわりと言いたいことを言っていたらしい。
 少尉は懐かしむように目を細めた。
「あの頃の俺は、うまく反論も出来ず、ただせっかく出会えたのだから……とか何とか、言っていた気がする。勿論兄様はそんな理屈では納得していなかった筈だが、追及はせず許してくれた。……分かってはいるんだ。兄様は上官である俺に物申せる立場ではない。それに、優しい人だ。俺は兄様に近づくことを、許されていたというより、許させていただけなんだ。月島軍曹もしばしば忠告してくれていたな。俺は聞かなかった……」
「本気でお止めしていた訳では……ありませんでしたから」
「だが、強情だと思っていただろう。その通りだ。俺は、意義があると思っていたんだ。この世でただ一人の弟である己の存在が、兄様にとっても掛け替えのないものである筈だと、自惚れていた。態度でそれを否定されても、状況がその考えを更に強くした。兄様はあまりにも優れた人であり、そしてあまりに不遇だった。どうにかしたかった。己ならば兄様の助けになれる筈と、何か役に立てる事がある筈だと思った。だが何も出来ず、周りからただ漫然と伺っている間に、兄様はご自分で何もかも対処して……俺は何も知らず、知ったら知ったで惑い、父上すら説得出来ないまま……結局、俺はただ、あの人の側にいる理由が欲しかっただけなのかもしれない」
 薄く浮かべていた笑顔も遂には作れなくなり、大きな手が、悔いるように顔を覆う。
 肩を落とした姿には、聯隊旗手にも選ばれた立派な青年将校の面影はどこにも無かった。居るのは青さの抜け切らないただの未熟な若者だ。ありふれた、人知れぬ想いに悩む、ちっぽけな一人の男。
「血の繋がりというものが、始まりだけのものに過ぎず、離れた人と人を繋ぐものではないのなら……それ以外に何も持たぬ、思い出のない我々兄弟は、確かにただの他人に等しいのかもしれない。あの人にとって俺は、何一つ得るもののない、厄介者なのかもしれない。ただ困らせるだけの……」
 弱々しく吐露される心情は、ひどく身近なものだった。しかし花沢少尉は、月島とは根本的に人格が違う。だからこそ、次に続く言葉が月島には分かった。月島が諦めた言葉を少尉には言う事が出来る。生まれ持った、正しい自信で。

「しかし、それでも……」
 それでも。例え幸せには出来なかったとしても、俺は。

 その時、突然どこからか、何かをぶつけたような音がした。
 張り詰めていた静寂が断ち切れ、唐突にそれまでの空気が霧散し、二人で一瞬呆然とする。
 奇妙な音は、この部屋と小さめの扉で隔てられた、倉庫として使われている場所から響いてきたようだった。重要度の低い備品が置いてある以外に中には何も無く、普段は外から鍵が掛かっている場所のため、人がいるなどとは全く想定していなかったが。
「誰か居るのか?」
 月島が声を上げると、扉越しなのでくぐもってはいるが、快活な返事があった。
『ああ、すまんな。驚かせてしまったか』
 間違いなく、鶴見中尉の声だった。

「鶴見中尉殿?」
 花沢少尉が戸惑ったように呟く。
 月島は瞬間、言いようのない悪寒に襲われた。何か良くないことが起こるかもしれないという、原初的な不安。あの人には、そういうものを連れてくる、禍々しさがある。普段は思わないようにしている事だが。
 何故ここに居る? 因果関係ならば自明のことだ。この部屋が空いていると指定したのは鶴見中尉だった。そこに居る、理由はなんだ?

『手を“うっかり”ぶつけてしまった。話の腰を折ってしまって申し訳ない。だが、このまま聴き続けるのも忍びない深刻な話題のようだから却って良かったな。邪魔するのも悪いと静かにしていたんだが、結果成り行きとはいえ盗み聞きのような格好になってしまった。許して欲しい』
「いえ、構いません。何かお探しですか?」
 それまでの苦悩を気丈に打ち消し、少尉は声を張って尋ねた。
『そんなところだ。もう少しで見つかりそうなんだが……』
「お手伝い致しましょうか」
『いや、それは悪い。狭い所だ、そう掛かるまい』
「しかし、皆で探した方が早く見つかるのではないですか」
『クッ、ふふ、そうだな。それはそうかもしれないが』
「それならば、私も……」
 今度は先ほどよりも弱々しいが、また何かをぶつけた音がした。中尉が含み笑い言う。
『ははッ、流石に嫌か』
「……? 何がですか?」
『すまない、こっちの話だ。手伝いは遠慮する。そして申し訳ないが、こちらは手が離せない。別に話を続けても構わないが、聞かれていると分かっていて集中出来ないだろう。場所を移して貰っても構わんか』
 少尉は沈黙した。その顔からは奇妙なほど表情が抜け落ちている。やがて言った。
「おひとりですか。中尉殿」
 感じていた不穏さを直球で暴くような問いかけに、月島は思い切り苦い顔になる。
 そして中尉は、面白そうに答えた。
『いいや。連れがいる』
「この扉を開けても宜しいですか?」
『まあ……』
 曖昧に、思わせぶりな答えが返ってきた。少尉は取手に手を掛ける。
 その音に、とうとう別の声が上がった。
『開けないで下さいッ』
 悲鳴のような声に滲む色に月島は頭を抱えたくなった。想像の中でも一番あり得ない、いや、あって欲しくないと思っていたことが中で行われているらしい。扉越しの中尉の声は、妙に昂っていた。だから話せば話すほど嫌な予感はしていた。
 少尉は、扉を開けてしまった。

 中は薄暗く、思っていたより雑然としている。両隣に積み上がったさまざまな備品の合間を縫った向こう、その光景に暫し、少尉と月島は立ち尽くした。
「おお、見られてしまったぞ尾形上等兵。どうする」
「つる、み……中尉いッ……!」
 真っ赤になった顔で、我慢ならないというように怒りの滲んだ口調で尾形が中尉の名を呼ぶ。しかしその歪んだ顔には隠し切れない悦楽が滲んでいた。悲痛さと共に。
 中尉と尾形は、狭い室内の中央に据えられた簡易な机の前で、まさに情交の真っ最中だった。
 こちらを向く形で机に縋り付くように伏せた尾形の両手は前で戒められ、机の上で色を失うほど強く握り締められている。巻き付いた縄はおそらく右側に積まれた備品の一部だろう。自分で噛んで声を抑えていたのか、親指の付け根辺りに真新しい噛み痕があった。
 殆ど脱げていると言っていい襯衣一枚の尾形に対して、後ろに立つ中尉の方には全く着衣の乱れがない。だが確実に尾形の反応からして、そしてこの状況で尚その行為を止める気が無いらしい挙動によって、尾形の身体に隠れて見えない部分で尾形を今まさに犯しているであろうことが容易に伺える。
「おっと月島。勇作殿をお止めしろよ」
 言われると同時に少尉が駆け寄ろうとしたのを、つい反射的に抑え込んでしまった。後ろ手に動きを封じられた少尉が怒鳴る。
「止めるな月島ッ! 鶴見中尉殿! 貴方は、貴方は何ということを……っ」
「おやおや、この状況が勇作殿にはどう見えているのかな。私が一方的に尾形上等兵を強姦しているとでも?」
「そうじゃありませんか! 手をそんな風に拘束してっ」
「これはこうした方が反応が良いからだ。こういう嗜好がわりと嫌いじゃないのだ、尾形上等兵は」
「そんな!」
「本人に訊こうか。尾形上等兵、私とこうした行為に及んでいるのは同意の上だな? それとも私が無理矢理付き合わせたのか?」
 顔を伏せてひたすら耐えている様子の尾形の顎を掴み上向かせた。露わにされたその顔は辛そうに眉を寄せていたが、瞳が蕩け切っていた。
 少尉が息を呑むのが伝わる。
「ほら。早く答えろ」
 腰を突き入れて中尉が命令した。上向かされたせいで声を堪えられないのか、尾形から悲鳴が漏れた。それを恥じるように唇をぎゅっと噛み締めてから、震えた声で言う。
「……同意のっ、上、です……!」
「ここで隠れて私とこうしていたところに、たまたま運悪く二人が来てしまったんだよなあ」
 はだけた胸元をまさぐった指先が赤くなった乳首を掻き、まるであやすように腰を揺らされて尾形の眼に涙が滲んだ。一枚一枚尾形の余裕を剥ぎ取っていくような緩慢かつ規則的な愛撫は、情交というより尋問とか拷問といった印象を抱かせる。
 しばらく連続して深く突かれ、ずっと状況への拒絶を滲ませていた尾形の顔が不意に緩んだ。一瞬全てを忘れたように、薄く開いた唇の間から赤い舌を覗かせて、ただ快楽を拾うだけの安らいだような表情をした。その顔の淫靡さに、月島は思わず生唾を呑み込む。言わずもがな少尉などは見えている部分全てが真っ赤になっていた。
 完全に出来上がった尾形の反応からして、月島が少尉を伴い隣の部屋に訪れる暫く前から、中尉はここで尾形を嬲っていたのだろう。それでいて何度も情を交わしたというような痕跡は見られない。おそらく少尉が連れて来られるまで、焦らしていたのだ。ひたすら性感の余裕だけを奪って。何も知らせずに。
「仕方ない事だな? 事故みたいなものだよな」
 覆い被さるようにして、中尉は尾形の耳元に吹き込むように問いかける。入る角度が変わったのか、尾形の反応が切羽詰まった様子になった。
「あッ! で、でもッ、こんなの、は……!」
「しかし、丁度いいじゃないか。勇作殿は貴い任務に備えるため肉の快楽を知らない。だからお前がこういった事を”愉しんでいる”という事がいまいち分からず、心配が尽きないのだ。百聞は一見に如かず、何の気遣いも無用なのだと分かってもらえる良い機会だろう」
「そんなのっ、おかしいでしょう……っ」
 むずがるように身を捩りながら、最早涙声で反論する。それを嗜めるように鶴見は尾形の頭を撫でた。その感触すら感じるのか、尾形の背筋が強張った。
「おかしくはない。実際目の当たりにしてみなければわからない事というのはある。お前がどんなに淫らな人間か、勇作殿によく分かって貰え」
 中尉は口をつけた耳に掠れた声で囁き、腰をかき混ぜるように突く。あからさまな動きに尾形は啼いた。
「ああッあッ! いやだっ、いやです、いやだあっ……」
 目をぎゅっと閉じて泣きながら首を振る尾形に、言葉もなく見入っていた少尉がようやく震えた声を上げた。
「い、嫌がってるじゃないですか……! やめてください鶴見中尉……!」
「はっはっは、勇作殿、情事で“嫌”は“良い”という意味だぞ」
 相手にもしていない。しかし身体が悦んでいるだけで、尾形は本気で嫌がっているのだということは月島にもわかる。あの尾形が子供のように泣きながら嫌がるなど、普段を思えば考えられないことだ。何だかんだ尾形は尾形なりの矜持を持っており、そしてそれは決して軽いものではない。
 中尉は承知の上でその恥すらも嬲っていた。
「仕方がないな。ほら、よく見なさい」
 そう言うと、中尉は尾形の腰を掴んでいきなり引き起こし、後ろから抱える。
 尾形は怯んだように不安そうな目でその手を見下ろした。
「な、何を……」
 中尉の手は尾形の片脚の膝裏を掴むと、そのまま持ち上げ、容赦なく広げさせた。
 眩しいほど白い内腿と、色の違う他者の男根が挿し込まれた結合部、そして立ち上がり先走りを零す陰茎がありありと曝される。尾形の顔が一気に羞恥に染まった。
 そのまま中尉は抉るような動きを再開する。
「あっ、あ、うあ……っなん、なんで……ッ中尉! こんな……」
 あまりのことに混乱した表情で仰ぎ見る尾形の目を真っ直ぐ見据えながら、中尉は尾形の下腹部に手を添えて腰を押し付けるようにした。
「~~~~~ッ!!!!」
 目を見開いて、一瞬色を失くす尾形に、中尉の口元がこの上なく愉しげな笑みの形に歪む。
 そのままぐちゃぐちゃと卑猥な音を立てながら、完全に本気で責め立て始める様子に、月島は打ちのめされたような気分と共に少尉の手をそっと解放した。それはとても一口では言い表せない気分だったが、とにかく実感するのは、己は一生あの鶴見中尉という一人の人間に敵わないであろうという事だった。どういう人生を送ればああまで振り切った行動に出るようになるのか全く想像がつかない。格とか境地とかそういう類のものがまるで違う。
 少尉は自由になっても動く様子はなく、ぽかんと口を開けてすっかり呆然自失していた。
 尾形はなす術もなく喘ぎながら、完全に背を中尉に預け、額をその首筋に擦り付けている。繰り返す必死の呼吸すらも奪うように中尉は荒々しく唇を重ね、舌を絡み付かせた。
 今の中尉にとって最早月島と花沢少尉は観客ですらなく、例えるならば、虫……蟻とか団子虫とかその辺の存在に等しいものなのかもしれない。
 俺は一体今何をしているのか? 月島は現実を見失いかけるが、それでも奪われた視線がある一点に止まると、急にあらゆる実感が襲ってきて、眩暈のような感覚を覚え顔を手で覆った。
 晒された内腿の付け根の辺り、まだ消え切っていない痕が、赤く幾つか。
 そういえば、つけた。そう思い至ったのだった。あまりにも白く、艶めかしく感じたので、念入りにつけた。その時の衝動をはっきり覚えている。
 尾形が中尉に縋り付きながら哀願した。
「放してっ、放してくださいっ、見られたくないっ、どうか……っ」
 歪んだその顔には、恥辱と、そして、悔しさが滲んでいた。腕の中に抱かれ快楽に侵されながら、それでも尾形の目は中尉を非難している。
 例えどれほど被支配下に置かれようとも、絶対的に服従せず流されない一線が尾形の中にはあるのかもしれない。この仕打ちを、その目は決して許さないと言っていた。
 中尉は向けられる燻った怒りが快いとばかりに薄く笑いながら、脚は下ろした。その手で尾形の腹を撫でる。
「流石に限界か。しかしよく耐えたな、本当に見られたくないのだなあ」
「あたりっ、まえ、でしょう……! おねがい、します……許し……」
「花沢少尉、貴様のせいだぞ。少尉が居なければ尾形上等兵は今頃とっくに楽になれているのに」
「え……」
 突然水を向けられた少尉は間の抜けた声を出した。
「弟に見られながら達するのはどうしても辛いそうだ。ほら泣いている。可哀想に」
 言いながら尾形の目尻に浮かんだ涙を指で掬って捧げ示して見せた。どの口が言うのだろうか?
 少尉は一歩後退り、そのまま立ち尽くす。
「このまま止めても辛いだけだ。片を付けてやらないとな。その扉を開けて引き返し、このまま続けさせてくれるか……あるいは交代するか? せっかくの機会だ、譲っても構わんぞ」
 少尉は言葉の意味がうまく呑み込めないようだった。
 尾形は中尉を赤い顔で睨みつけて言う。
「止めていいですッ! 抜い……あぐッ」
「遠慮するな」
「く……」
 簡単に黙らされて涙目でぎりぎりと歯噛みする尾形に、鶴見中尉は苛めるのが楽しくて仕方がないという顔をしている。月島も正直尾形にああいう顔をさせるのは楽しいだろうなと思った。
「タダ見するだけで、不利益しか与えない……というのは卑怯だと思わないか?」
「……!」
 花沢少尉の中で何か引っかかるものがある言葉だったらしい。
 躊躇いながら、腰が引けていた身を一歩二人に近づける。尾形が嘘だろという顔をした。
「お? 交代か?」
 中尉が面白そうに訊くが、少尉は苦しげな表情で首を振った。
「大事な役目があります。それは、できません……」
「同性でも筆下ろしと言えるのか。どう思う尾形上等兵」
「……知りませんッ」
 涙声の尾形にやれやれと首を振り、中尉はようやく一旦抜いてやる気になったらしい。接合を解き、尾形が震えながら脱力するのを存外優しげな手つきで腕に囲う。改めて、よくこの状況で使い物になるなと月島は思わず感心した。
「しかし、だったら何しに来た? 花沢勇作」
 荒い息をつく尾形の頬を撫でながら訊く中尉に、少尉は制裁されている一兵卒のように背筋を強張らせて立ち、同じく強張った声で言う。
「せめて、手の縄を……解いてあげて頂けませんか」
 中尉と尾形は二人とも怪訝そうに眉を寄せて、それから同時にお互いの顔を見た。尾形は少尉に対しなんだこいつ……という顔をしつつ、とりあえずこう言ってるのだから解いてくれと中尉を見つめている。鶴見中尉は少尉に対しなんだこいつ……という顔をしつつ、難しい顔で尾形を見つめている。当然だろう、解いたら確実に尾形は逃げようとする。実際逃げられるかはともかく、中尉に完全に主導権を奪われたこの状況は終わる。”せめて”も何も無い筈だった。
 少尉は続けて言った。
「この間、兄様がお誘いになった遊郭を用意したのは、鶴見中尉殿なのでしょう」
 二人して目を丸くする。バレて驚いたというより、少尉がそれに気づいたこと、そしてそれを口にしたことへの驚きという様子だった。
 そして次の言葉に、尾形の顔色が変わった。
「父上が、以前仰っていました。鶴見中尉には気を付けよと。父上は師団内での中尉殿の動向を、危険視しておられるようです」
 はっきりと言う声には覚悟を決めた静けさがある。言われた中尉の顔も全くの平静だった。そんなことは予想していたと言わんばかりに。
 その間で一人、尾形は硬い表情で少尉の言葉に身構えている。
「兄様が予てより中尉殿と特別親しくされておられるのは知っています。お二人は、どういったご関係なのでしょうか。兄様は中尉殿の個人的な命令を遂行している。それはご自分の意思なのでしょうか。それとも、何かに縛られているのですか。その手の戒めのように」
「だとしたらどうする? 花沢少尉」
「……許すことは出来ません」
 鶴見中尉は愉快そうに笑った。
「どう許さない? “父上”に言いつけるのか。確かにそれは厄介だな。息子とは思わぬ落とし胤でも、信用置けぬ部下の慰み者にされていると勇作殿の口から聞けば、冷たい父上殿も何か行動を起こすかもしれんしなあ」
 尾形の頭を撫でながら言われ、少尉は唇を噛み締める。
「……どんな事でもします。貴方がもし兄様から何か奪っているのならば、私は見過ごせない。貴方から遠ざけ、兄様を、守ってみせます」
 毅然と言い切る様を、大きく頷き中尉は讃えた。拍手でもしそうな態度だった。
「その名に恥じぬ勇ましさだ少尉。薩摩の勇猛さは勇作殿の中にも確固としてあるようだな」
「しかし私は、中尉殿が人望厚いお方であることも知っています。頗る優秀な将校殿であられることも……貴方と共に居ることが、兄様にとって本意であるのか、そして兄様自身の為になる事なのか。それが何より重要と考えます。どちらにせよ、そのように手を戒め、行動の自由を奪われた状態は看過出来るものではありません。兄様に選択の余地を与えない関係は公正とは言えない……だからまず、その縄を解いてあげては頂けませんか」
「成る程わかった」
 中尉はあっさりと承諾し、器用な手つきで固く結ばれた縄を解いてみせた。
 解放された尾形は、解かれた中途半端な位置に腕を上げたまま、動かない。
「兄様……」
 気遣わし気に少尉が声を掛ける。
 尾形はその視線から束の間逃れるように顔を背けた。浮いていた手が、彷徨って中尉の軍服の端を掴んだ。
 縋るようなその手を中尉は目を細めて見つめている。月島の位置からは、尾形の横顔が見える。
 そこに滲んでいたのは、月島の勘違いでなければ、先程までのものとは比較にならないほど強烈で深い、屈辱だった。

「……俺が何を持っているというんですか?」
 尋ねているというより、自問自答しているような声音で尾形が言う。
「奪われるものなんて何もない。俺には俺自身しかない。貴方は無いものの話ばかりする」
 抑揚のない、拒絶というには素っ気なさ過ぎる言葉だった。だが少尉は息を呑み、言葉を失ってしまった。

 尾形は中尉に身を預けて俯く。控えめに肩に触れる白い手がやけに目についた。そういえば、尾形の方から誰かに触れている所を今まで見た事が無いなとふと思う。
「中尉殿……」
「ん?」
「俺は……どうしたらいいですか?」
 初めて聞く声だった。そこには聞いている方が居た堪れなくなるほど無防備な、剥き出しの従順さがあった。
 ”うろ”のような声だ。しかし何かが抜け落ちた結果というよりは、その声こそが、完全な尾形自身の声なのだというように感じた。
 中尉は慰めの手つきでその背を撫で、軽薄に笑う。
「続きをするか」
 尾形は人形のように頷いた。最早この場所から、尾形の心は失せていた。

「外で待ってろ月島」
「…………………………はい」

 ◇

 少尉と共に少し前まで居た空間に逆戻りする。しばらく沈黙が続いた。もはや感覚が麻痺して気まずいのか気まずくないのかも分からない。疲れたということだけが分かる。
 居ろとも出ていけとも言われなかった花沢少尉は無言で月島に付いてきたのだが、まだ帰るというつもりも無いらしい。少尉はふいに机に近寄ると、置いてある薄汚れた灰皿を手元に引き寄せた。この部屋を使う機会が月島はあまり無かったので、そんなものが備え付けてあることも初めて知った。会議とまでは行かない会談、あるいは休憩にこの部屋は利用されているのかもしれない。
「一本吸うか」
 そう言って懐から煙草を取り出した少尉に瞠目する。
 少尉は少しきまり悪げに弁解した。
「この後は直帰する予定だったから、持っていたんだ」
「……少尉でも煙草を嗜まれるのですね」
 月島が驚いた部分はそこだった。正直似合わないなと思った。
 本人にも自覚があるのか、少尉は自嘲っぽく口元を歪めた。
「吸い始めたのは、最近だ。特に理由があったわけではないんだが……心が落ち着くものだと聞いて。それに父上もたまに、吸ってらっしゃるから」
 聯隊旗手。出征。師団長の嫡子。当然、様々な重圧があるのだろう。至極真っ当な理由だ。というより多分、この青年の心の中に真っ当でない部分など存在しないのだろうと思った。どこまで深く潜ったとしても。
 そのことが今は、ひどく虚しい。

 月島自身たまにしか吸わないが、今この時煙草を吸いたい気持ちは非常によく分かったので、有難く頂戴する。
 暫し二人、無言で紫煙を燻らせた。頭が空になる。今扉の向こうではヤッてるんだなとかそういう事が、遠い出来事のように切り離されて感じられる気がする。
 自然と口から出ていくのを待つようにゆっくりと煙を吐き出した少尉が、独り言のようにぼそりと言った。
「家の者も歓迎すると兄様に言ったのは、嘘だった」
 月島は少尉の顔を見た。少尉はぼんやりとした無表情で、煙草の先を見つめながら淡々と己の過失を懺悔する。
「花沢家で兄様の存在が受け入れられたことはない。話題にしても黙殺される。妾を持つ男など珍しくはないのに父上がそうしなかったのは、母上の実家が許さなかったためのようだ。父上の家も由緒はあるが、母方の家系の方が古く、強いから」
「……そうですか」
「兄様にはお見通しだったようだが。申し訳ないことをしてしまった。騙そうとしていた訳ではないのに。自分で言うのも何だが、俺はあまり嘘をつく人間ではない。何故あの人には、俺は嘘をついてしまうのだろう。兄様を前にした時だけ自分が分からなくなる。何も分からないのに、全てわかっているのだと己を偽ってしまう。そして信じて貰うのではなく、信じさせようとしてしまうのだ」
 月島は煙を深く吸って、吐き出し、言った。
「……嘘のない人間などいませんよ」
 いるとすればそれは、人でなしだ。これは逃げの詭弁でしかないが。
 本当の感情は、本当のままでは手に負えないのだろう。真っ当な精神には。
 嘘をつかずにいられないその想いが、嘘ではないことを月島は知っている。だから口にできる助言など何もなかった。
 代わりに違うことを尋ねる。
「貴方も二人を待つ必要が?」
「あのまま兄様を残して帰れない。……一言謝りたい」
 何を謝るのだろう。その疑問を口にはしなかったが、察したように少尉は続けた。
「逆に迷惑だろうか。いや、迷惑なのだろうな」
 月島は答えなかった。確かに悪手だと思ったが、だからといって何が好手か分かるかと言うと、きっとそんなものはない。
 ただ事後と分かっている相手に顔を合わせるのはどうなんだろうと思うだけだ。
 少尉は思い詰めたような口調のまま言った。
「中尉殿のような振る舞いが、本当は望ましいのだろうか」
「それは無いと思います」
 食い気味に否定してしまった。あんなのは手本にしてはいけない。そもそも出来ないだろう。
 再び思考の迷路に嵌り込んだ様子の少尉を、やれやれという気持ちで見ていたが、ふと思いついて言った。
「猫は構いすぎると逃げますよ」
「猫?」
「尾形です。噂とは関係なしに、猫みたいなやつだと思いませんか。狭い道とかを悠々と歩いている、軒下なんかによくいる、あの猫です」
 少尉は虚をつかれた顔で呆けていたが、言葉を諒解すると、吹き出した。
「その言葉……もっと早くに聞きたかったなあ」
 珍しく若者らしい朴訥さを滲ませて呟く。浮かんでいたのは少し、寂しそうな笑顔だった。どこか尾形に似ている気がした。

 ◇

「待たせたな」
 煙草を二、三本吸い負えた頃、中尉は何事も無かったかのように涼やかに出てきた。あまりに堂々とした佇まいなので少尉も気圧されて礼している。
「では、あとは頼むぞ勇作殿。行くか月島」
「はい……」
 返事をしたのは少尉である。それでいいのかと何となく残念な気持ちになりつつ月島は中尉に従った。
 誰もいない廊下に出て、早速口を開く。ようやく真意を尋ねることが出来る。
「……何のためにあの部屋で少尉に話をさせたのですか?」
「中将閣下が、対外的に尾形に対してどういう姿勢を示すのか確認しておきたかったのだ。まあ大体予想はついていたが」
 中尉は鼻で笑うような素振りを見せた。
「尾形が“ままごと”に応じるようなら尾形本人に感触を聞くつもりだった。しかしそれだと勇作殿に言ったような態度を、もしかすると中将殿はとらないのではないかという懸念もあったからな。結果こういう流れになって良かった。いい働きをしたぞ月島軍曹」
 中将が尾形に対し抱いている考えについて、月島には窺い知れない部分の見当が、鶴見中尉にはある程度ついているらしい。
 それにしても自分で判断したつもりの行動が、別の思惑に役立ったと言われても複雑な心境だった。
「花沢少尉から、中将閣下の話を聞き出すとして……どうしてそれを尾形にも聞かせて、尚且つ、あのようなことをする必要があるのでしょうか」
 あのようなこと、を強調して訊く。
「肉体的に快の状態に置かれている時に吹き込まれた情報は、その身体感覚に影響されるかどうかの実験……といったところかな」
 嘯く顔は信じさせる気がない。絶対ただの趣味だと思った。勘弁して欲しい。上官の情交現場など目撃したくはなかった。
 月島の渋い顔を全く気にする素振りなく、中尉は肩を竦めた。
「少しは本当だぞ。尾形にはさっさと“父上”を見限ってもらいたいのだが、あいつは如何せん欲のない男だからな。中々都合のいい見方をしようとせんのだ。まったく扱いが難しい」
「都合のいい見方?」
「思考の傾向性の話だ。仕方がないとか、自分は悪くないとか、これが正しいはずだとか……あるがままの不合理に自分なりの合理性を付与する厚かましさ。いや、健全さと言うべきか」
「尾形には……それが無いと?」
「多少はあるのだろうが、非常にささやかだ。それこそ、弟君に比べれば雀の涙程度のな」
 薄々感じていたことだが、揶揄するような言い回しには、はっきりと花沢少尉への侮りがあった。
「……では中尉殿には初めから、花沢少尉を引き入れるつもりは無いのですか」
 あっさりと中尉は頷く。
「ああ。切り捨てることに尾形が抵抗を示したから自由にさせてやっただけだ。ああいう“良識的”な人間は使い物にならん」
 ……中尉に比べたら殆どの人間は“良識的”だと思うが。
 ようやく月島は知る。鶴見中尉が誑かそうと、その狙いを定めていたのは花沢勇作ではない。最初から、尾形百之助だけだったのだ。
 より深く、より逃げられぬ淵まで。

 しかしそうだとしても、あのような仕打ちをすれば流石に尾形も中尉に不信を抱くのではないか。
 問えば中尉はすぐに否定する。
「酷い仕打ちをされたところで、それを恨むほど自分を大事に思っていない。欲がないとはそういう意味だ。むしろ少し激しくしてやった方が印象に残るようだな。空っぽの水鏡に浮かぶ感情が珍しいのだろう。それがどんな醜い魚であろうと、現れれば関係なく眺める。普通の魚をそもそも知らんのだ。あれの中には、そういう哀れで無垢な、何も知らぬ子供が居る」
 ……そうと分かっているものを、中尉こそ都合よく利用しようというわけだ。
 月島の胸の内に苦い感情が溜まる。古くから馴染みのあるそれは、嫌悪感と称せるものに似ている。ずっと溜まり続けて無くなりはしないもの。結局は自分から生まれ、自分からは出ていかないもの。

 中尉は後にした部屋を振り返る。
「しかし図らずも御膳立てしてしまったな。勇作殿は手を出すと思うか?」
 白々しい言葉に、月島は憮然と返した。
「知りませんが、流石に悪趣味だと思います」
 珍しい月島の物言いに、中尉は可笑しそうに喉の奥で笑う。そして何気ない調子で言った。
「猫の抱き心地はどうだった? 月島軍曹」

 ◇

 様々な地位ある人物と対面したことのある今までの人生でも、一番くらいに緊張しながら勇作は兄しか居ない狭い室内へと再び足を踏み入れた。
 兄は机に浅く腰かけ、すっかり落ち着いた様子でこちらを見ていた。既に軍服は身に着けているが、上は前が開いたままだった。覗いた白い肌に動揺する。先日遊郭へ連れていかれた時も、遊女の柔らかな肌より遊女が触れていた兄の肌の白さの方が、やけに勇作の眼に残ったのだった。そして今はその肌に、先ほど見せられた痴態が重なり顔が熱くなる。とんでもないものを見てしまったという実感がようやく湧いてきた。
 思えばこうして兄が服を着崩した所すら、あの遊郭の時まで見たことは無かった。相対した兄はいつも完璧な上等兵として勇作に接してきたのだ。

 まず何を言えばいいのかと勇作が口を半開きにしたまま固まっている間に、静かな声が響いた。
「お見苦しい所をお見せしてすみませんでした。何故こんな所で、と不思議に思いながら中尉に付き合っている内に、貴方と月島軍曹の声がしてきました。でも中尉はちゃんと聞こえていたんでしょうけど、俺はそれどころじゃなくて、断片的にしかお話が聞こえませんでした」
「そう……でしたか」
 間抜けな返答をしてしまう。この上なく端的な報告なのに、色々異議がありすぎてどこから指摘すればいいのか分からなかった。
「中将閣下は俺がこういう人間だとご存知なのですね」
 一番聞こえていて欲しくなかった部分は聞こえていたらしい。
 勇作は焦るが、ぼんやりと視線を落とした兄の表情からはこれといった感情が伺えない。
「まあ不思議ではありませんが。いつの間にか話が大きくなってしまっていましたから。そういうこともあり得るのかもしれない、とは……。だからといってどうなる訳でも無いし、それだけの話ですけど」
 声音は平坦だ。しかし、それでも兄はやはり父上に知られたくはなかったのだと、その声を聞いて思った。
「……何故……」
 言葉は続かなかった。しかし大意は伝わったらしく、兄は答えた。
「言われたことに、出来るから応じていただけのつもりでした。俺から望んだことは一度も無かった。でも、出来るということが、既におかしいのですね。だから群がるんだ。そういうものだと、分からなかった。比較できる人間が、こんなに沢山集まるところに来るのは、初めてだったもので」
 自らの勘違い、あるいは失敗を冷静に省みるがごとくの言葉には何の悲嘆も滲んでいない。それが却って悲しい。
「……兄様は、お優しすぎるのではないですか」
「優しい? 俺は何もしていません。勝手に俺にありもしないものを見出し、勝手に持っていく。それを眺めていただけです。何かをあげようとしたわけじゃない。……でもその無為が、“普通”ではなかったんでしょう。思えば、俺は俺にしかなれないのに、会った記憶もない遠い生まれの偉い方と並べて語られるなんて不合理だと感じていました。でもそれは、貴方がたにとっても同じことだったんですね。肉体は離れていても、人間は血で紐づけられている。そんなつもりはなかったけれど、俺は貴方がたにとっての汚点になっていた。噂は消せるものではありませんが……。申し訳ありませんでした」
「あ……謝らないでください!」
 情けなく声が震えた。
「わ、私の方こそ謝りたくてお待ちしていたんです。すみませんでした」
「……何がでしょうか」
「何も力になれない癖に、貴方を助けるなどと息巻いて、押しつけがましく色々言って……嫌な気持ちにさせてしまった」
 兄は意外そうに首を傾げてから、小さく笑みを浮かべた。
「俺が貴方に何かを求めたことなんて、一度も無かったんですよ」
 胸がつかえた。その言葉は拒絶の気がした。しかしそうではないのだと、続く声で知った。
「だから俺に関して、貴方が叶えられなかったことなどない」
 それは、控えめな赦しだった。そっと置いていくような。
 ぽつりと兄は呟く。
「お別れですね、勇作殿」
「え……」
「御父上の言いつけなのでしょう。俺にもう関わるなと」
 本当に、聞かれたくない所ばかり聞こえていたらしい。いや、というよりも……父上に関する話は、耳に届いたのだろうか。
「あ、兄様……」
「第七師団が参戦するとすれば年内だと聞きます。それが期限だった。引き入れずに生かす方法を探します。……貴方に近づいたら、貴方は遠い人だということだけが分かりました」
 視線を落として言う静かな声は、独り言のようだった。その言葉の詳細な意味は分からない。ただ、目の前に透明な壁が出来てしまった気がした。
 不意に勇作の胸の内に、出会ってからの兄の記憶が目まぐるしく蘇る。別れという関係の死を前にした走馬燈のごとく。
 遠い人……勇作にとってこそ、兄はいつも遠い人だった。近付いても近付いても。見えない膜で隔てられているかのような違う空気を常に纏って。
 ゆかしい面影と、神秘的な面影を併せて持った、不思議な人。
「勇作殿にも分かったでしょう。俺は貴方とは違う人間だ。……御父上の言う通りです。近付くべきではなかった。何も貴方に得る所はないのです。俺には……何もないのですから」

 兄を見ていると、いつも寂しい気持ちがした。

 気付けば勇作は泣いていた。
 黙ったままの勇作に、怪訝に思ったのかこちらを見た兄は、相当びっくりした顔で目をくわと見開いた。
「……それでも……」
 勇作は声を絞り出した。
「それでも貴方は、美しい」

 兄がこちらを見て、目が合った時。どこか遠くを見て物思いに耽っている横顔。視界に映るその存在の全て。一挙手一投足が、勇作に与えてきた、圧倒的な鮮やかさ。
 美しいという言葉が、この感情の正しい形容なのかは分からない。
 ただ、彼を見つめている時に、胸に満ちるその寂しさはまた、例えようもない、幸福であった。

 兄は珍しく困惑し切った表情でこちらを気遣う。
「……大丈夫ですか?」
 体調不良だとでも思ったのか、腕に手を触れて覗き込んできた。兄に触れられたのは初めてだった。衝動的に、その身体を抱きしめる。兄の身体は無理矢理抱き上げられた猫のように不自然に固まる。
「私は、貴方がいれば、それだけで何もかも得ている」
 戸惑いが抱きしめた身体から伝わってきた。
「だから私はむしろ、貴方に求めて欲しかったんです。私から何かを貴方に与えたかった……」
 それこそが不躾な要求に過ぎないのだとしても。

 兄は固まったまま大人しく抱かれていたが、顔が覗ける程度に身を離すと、まじまじと勇作の顔を見上げた。
 触れそうなほど近い距離で見つめてくる瞳に、勇作は動転する。これほどの距離で触れ合った事など無かったし、これほどの距離で見つめ合うことも無かった。しかも今情けなく泣いたばかりである。
 無性に唇の近さが気になった。いつも冷涼と結ばれた、端正な唇が、今は間近で何か紡ごうと薄く開かれている。
 真っ赤になっているであろう勇作の顔をとっくりと眺めて、兄は幾度か瞬きした。
「……じゃあ、抱いてくれと言ったら抱くんですか?」
「はっ?」
 聞き返す声が裏返った。涙が一気に引っ込んだ。
 兄は不思議なものを見るような目のまま、勇作の手をとり、自分の開いた胸元へ導いた。
 そうして手に触れる、えもいわれぬ滑らかな肌の感触に、一気に手汗が噴き出る。
「あ、あ、兄様」
 そのまま掌を撫で下ろさせられ、まるで誂えたように吸いつく肌と、綺麗に付いた筋肉が描く凹凸を如実に感じ、勇作は立ち眩みのような感覚を覚え一瞬前後不覚となった。逆上せた時に似ていた。
 現実の手触りと先刻の光景が鮮烈に結びつく。
「どっ、え、ええっ!?」
 狼狽えながら腕を引っ込めるとあっさりと手は離れ、一瞬後悔のような感覚が過った事を理性で悔いる。
「な、何を言いますか!?」
 両肩を掴んで問い質すと兄はきょとんとした。
「違うんですか?」
「ち、違いますよ!?」
 反射的に否定するが何の話をしているのかもうよく分からない。
 兄もよくわからないという顔で眉を寄せて言った。
「じゃあ勇作殿は何がしたいんですか?」
「えっ? 何が? したい?」
「居れば十分だという言葉と、求めて欲しいという言葉は矛盾している」
 勇作は言葉に詰まった。その通りだった。
「俺に何かをあげることで、勇作殿は何かを得ようとしているのでは? 俺から他者が得ようとするものといえば、経験から言って専ら身体であったので、そういうことなのかと思いました」
「そ、それは……そんなことは……」
 兄にとっては経験から導き出された至極順当な結論なのだろう。言い返したいが、頭が茹だって答えが思い浮かばない。兄と話しているといつも自分が馬鹿になった気がする。
 兄は煩悶する勇作の肩を押して、手近の椅子に座らせた。そして膝の上に乗った。
「!?」
 最早言葉も出ない勇作の上に跨り、兄は笑った。
「ほら。だから言ったでしょう。兄だ弟だと言ったところで、会ったことも無かった相手など他人と違わないと」
 それは自分で言っておきながら、どこか残念そうな笑みだった。跨られた位置的に、勇作が言い訳の出来ない生理的反応を示してしまっていることが、完全にばれている。
「こっこれは……! 先ほどまであんな場面を見せられ……! 混乱している所にその肌へ突然触れることになった驚きによるものであり……!」
「そうですか」
 どうでも良さそうに言いながら兄はその身を寄せた。前々から素晴らしく鍛え上げられているなと感心していた太股が、肉感的に勇作の腰を挟む。
「あわわ」
「すぐ出来ますよ?」
「兄様ッ!! そんな事を言ってはいけませんよ!!」
 思わず本気で叱ってしまった。兄は驚きながら「すみません」と言った。
「じゃあどう言えば……」
「何も言わないでいいです!!」
「わかりました」
 無言で勇作の袴に手を伸ばす兄の手を強く掴んで揺さぶる。
「兄様!! 違います!! そういうことではないです!!」
 手を掴まれたまま兄は再び勇作の勢いにびっくりした顔で大人しくなった。勇作は大げさに咳払いして言う。
「あ、兄様とそういう事は致しません。兄弟ですので」
「でも……」
 当たる感触を気にする素振りを見せる兄に恥で死にそうになる。
「そ、それは気にしないで良いです」
「はい」
 当面の懸念が一旦消えたからか、兄は背筋を伸ばして聞く姿勢をとった。素直な人だ。
「……私の発言が矛盾しているという話でしたね」
「そうですね」
 しかしそうは言っても膝に相変わらず乗られているので頭が真っ白だ。頭がぼうっとなる。何故か非常にいい匂いがした。顔を埋めたくなるような……。
「勇作殿。するなら早くして頂かないと点呼が……」
「えっ。あっ。すみませんッ。しませんッ」
 気付けば耳の付け根あたりの匂いを嗅いでいた。慌てて顔を離す。恥じ入りながら苦言した。
「す、すぐそうやって、身を任せるようなことを仰るのはお止めください。もっとご自分の身体を大切になさってください」
「何故です?」
「えっ」
「今更大事にして何になるでしょう。聯隊旗手の貴方とは違いますので」
 言う顔はあくまで大真面目だった。
「あ……貴方自身の為にです」
「俺自身が構わないと考えているのに?」
「でっ、では兄様は私と本当にまぐわいたいとお思いですか!?」
 自棄になり大きな声が出た。兄は意外なことを聞かれたように目を見張り、あっさりと言った。
「別に……」
「ほ、ほら……思ってないじゃないですか……」
 何故かとても虚しい。兄は真面目な顔のまま呟く。
「でも、これでも遊郭の一件の代わりになるかもしれないし……」
「代わり?」
「それに、やりたいのかと思って」
「や、やりたく……ありません。肉体的な反応と精神的な考えは別であります」
 せめて毅然と言い切ると、納得するところがあったのか、兄は頷いた。
「なるほど」
「わ、わかっていただけましたか」
「はい」
「……何よりです。……私がこういった行為に手を染めることで、兄様の為になるようなことが、何かあるのですか?」
 鶴見中尉殿の顔が思い浮かびながら尋ねる。何らかの見返りがあるとか……あるいはゆすられて?
 しかし兄は首を振った。
「いえ」
「で、では何のために? あなた自身の為でないのなら、何故それほど熱心なのです?」
「熱心というか……」
 考えてもみなかったのか、戸惑ったように兄は視線を逸らした。
 兄自身の為ではないというのなら……やはり鶴見中尉のためなのだろうか。
 考えると切なくなった。鶴見中尉殿を慕う者は多い。確かにあの方の求心力は白眉のものがあるようだ。兄も、中尉殿をお慕いしているからこそ……?

 その想像で気が沈んだことにより、冷静に考える頭が戻ってきた。己の発言を顧みる。自分が、兄に対し抱いている思い。
「先ほどの話ですが。……あなたがそこに居てくれるだけでいいと、本当に思っているのに、何かを受け取って欲しいとも願ってしまうのは……ずっとそこに、居て欲しいがため、だと思います」
 兄は腑に落ちない顔をした。勇作は乞うように語り掛ける。
「居るだけでいいということはつまり、離れることだけが恐ろしいのです。あなたが居ないというだけで何もかもが足りなくなる。だからあなたが、ここに居てくれるという確信が欲しいのです。私のそばにいてくれる理由が、何か一つでも。……何でもいい。あなたが私に“ここに居て欲しい”と、欠片でも思ってくれれば、あなたは傍に居てくれると、そう信じられる」
「俺が、あなたに?」
「そうです。だからこの間、兄様から外出に誘って頂けた時は本当に嬉しかったのです。私と過ごす時間を求めてくれているのかと。でも、もっと些細なことでも構わない。以前とても寒い日に、手が氷のようだったので手を握ったら拒まずそのままいてくれた。あの時はとても嬉しかった」
「俺は凍えそうだったので助かったとして、勇作殿が嬉しいのですか?」
「ええ、そうです。あと土産に持参した菓子をお気に召された様子の時も。餡子菓子がお好きですね」
「はあ」
「浅ましい思いかもしれませんが、あなたを喜ばせれば、私がそばに居ることも良い事だと思って貰えるのではないかと……期待してしまうのです。私と居ることを受け入れて欲しい。あなたの中に、私の存在を見つけたいのです。湯たんぽでも饅頭でもいい。私が渡したものを受け取って貰えたら、あなたの中で私はひとつ、価値のあるものになったと思える。それを積み重ねて、この先もあなたのそばに居て良いのだという、自信が欲しいのです」
 無防備にこちらを見つめる、どこかあどけない顔にそっと問いかける。
「これは、我が儘でしょうか。不毛な……願いでしょうか」
 兄は勇作の言葉に、しばらくじっと、考えていた。すると不意に、何か思い当たったことでもあるのか視線を翳らせた。
 そこに表れた表情は、とても……悲しげに見えた。胸が痛むほどに。
「兄様……?」
 まるで深く傷付いたような兄の様子に、内心ひどく動揺しながらそっと伺うと、兄は垣間見えた悲しみを無表情の下に隠した。しかし瞳にはまだその残滓がある。
 兄は話を逸らすように言った。
「……御父上からの言いつけはどうなさるんですか?」
「か、関係ありません! 私は……私の意志で行為します」
 勢い込んで返した勇作の答えに、兄は沈黙した。やがて目と目がひたりと合う。
 瞳越しに心を覗くような真直ぐな眼差し。間近のその透明な暗がりの中にこちらから見出せたのは、只々純粋な、孤独だった。

「俺は、あなたが居ろと言うなら、お傍に居ます」
「……本当ですか?」
 あっさりと明瞭な結論を出され、勇作は驚きと共に訊き返す。兄は頷いた。
「はい。あなたが、本当にいてほしいなら。そうします」
 勇作自身にとっても漠然としたそれを、兄がどう捉えているのかは確りとは分からない。しかし答えを口にする兄の声は少なくとも、偽りなき本心から発される響きを持っていた。
「や……約束ですよ。いいんですね。これからもあなたに会いに来ていいんですね? 許して下さるんですね」
 勢い込んでまくし立てる。
「ずっとですよ。戦争から帰ってきた後もですよ。毎週のようにあなたを休日誘いますよ。あなたを待ち伏せて毎日一度は言葉を交わそうとしますよ。規律なんて無視して兄様と呼び続けるんですよ? いいんですね兄様、俺を……拒まなくて、いいんですね? そばに、居て頂けるんですね」
「待ち伏せてたんですか?」
 勇作は黙った。
 兄はちょっと呆れた顔で勇作を見つめて、それでももう一度、頷いた。少しだけ悲しみの気配を残した、仄かな微笑を浮かべて。
「いいですよ」

 深い感動に勇作はしばらく口がきけなかった。
 思わず兄の胸元に顔を埋めて、頭を擦り付ける。
 我が世の春だと思った。

「あの……本当に大丈夫ですか?」
 人生で一番幸福な静寂が続いた後、兄がぽつりと言った。
 勇作はしまったと深く後悔した。肉体が精神に水を差している。膝から降りて貰ってから真面目な話をするのだった。
「い、意思ではないのです……不可抗力で……そもそもそんな所に乗られていては……! 降りて頂いてもよろしいですか!?」
 顔を赤くして訴える。兄は困惑した顔で言った。
「手を離して頂かないと……」
 言われて下を見る。己の手が両手でがっちりと兄の手首を掴んでいた。それはもう二度と離すまいとばかりに、縛めの如く。
「…………、……すみませんでした」
 勇作は謝った。

 ◇

 それから日露戦争への第七師団の投入が決定するまであまり間はなかった。準備に追われ、話せる機会は多くなかったが、それでも安寧の未来を胸に過ぎゆく日々は輝き、勇作の世界の全てをこの上なくたおやかに彩ったのだった。