呪縛の血、祝福の肉、形代の霊、そして - 3/7

2.縄張りと領分

 二人で出掛けるといっても、お互い趣味性に乏しい性情であるため、歩いてはみるものの適当な行先が特にない。
 月島は非番の休日、遊興に耽るというよりは、どちらかといえば銭湯にでも行って本当に休んでいる事の方が多い。あとは酒を呑むくらいだ。たまに女を買うこともあるし博打に興じることもあるが、どれも程々で満足する性質だった。ましてや連れ立って赴く趣味は端から無い。
 地方から入隊してきて遊び方も知らぬ新兵を盛場に連れて行ってやるような慣習もあるため、遊ぶ場所を知らないわけではない。そうした手解きも上官としての責務の一環とされている。階級が上がって今はそうした案内の機会もあまり無くなったが、以前は持ち回りで行なっていた。尾形も上等兵として、まさに現在そうした役割をしばしば担っている筈だった。
 ただ愉しみ方を知っているのと、それが個人的な嗜好に合致するかは別の話だ。群れて何かをするのに向いていない事に関しては、月島も尾形のことを言えた立場ではなかった。

 こちらには特に行きたい場所が無いと正直に尾形に言えば、心得た様子で、知っている店があるからそこに行きましょうと言う。
 連れて行かれた場所は、民宿のような飯屋のような賭場のような、雰囲気の掴めない奇妙な場所だった。どこまでが敷地なのか傍目には分からず、目立った看板がある訳でもないが、そこが何の場所かすっかり知っているような人間だけがふらりと忍ぶように中に入っていく。
 内部では広い廊下の両端に大部屋がいくつも並んでいて、表で感じた奇妙な印象そのままの光景が広がっていた。通りに面した一番大きな一室では飯屋そのものの風情で賑々しく飯を食う人間が集まり、別の一室では茣蓙の上で男たちが花札を囲み、奥にある小さめの部屋には羽振りの良さそうな男が着飾った女を二人連れて入っていく。
「なんだここは」
「強いて言えば待合、ですかね」
 月島は少し固まった。尾形は下足札を手で弄びながら振り返り、月島の顔を見てちょっと笑う。
「といっても、そんなのは用途のほんの一部ですよ。真面目な集会所としても重宝されているようです。ああして一角じゃ飯屋をやってますし、何かしら暇をつぶせるものが置いてあって、一人でも利用できる。風呂もあります」
 確かに、通り過ぎた賭場の一室といい、どう見ても世間一般に言われる単なる茶屋の空間ではない。食事処には家族連れもいた。ただ、どの客も何処かしら訳ありそうな顔ぶればかりに見えるが。
 閑静だった通りからは全く伺えないほど中にはあちこちに人が居り、それでいて隔てた部屋の中の声はぼそぼそと遠く聞こえるだけで内容は分からない。建物自体がしっかりとした造りなのだろう。小奇麗にされているし、従業員も少なくないようだ。
 受付に向かう尾形の背に、思わず色々な疑問を端折って真っ先に訊いてしまう。
「……高い所じゃないのか」
 ぼそぼそと早口で問えば、何でもないような声で恐ろしい答えが返ってきた。
「安いですよ。払う人はいっぱい払ってるみたいですが。いわゆる“心づけ”ってやつで」
 つまりそれは付け値という事じゃないのか。若干青くなる月島に尾形が続ける。
「この店は紹介が無いと利用出来ないんです。秘密性の保持の代わりに、太っ腹な固定客で採算をとってるんでしょう」
「つまり、ここにお前は専ら連れとして来ていたんじゃないのか」
「初めは勿論そうでしたが、いつだったか俺だけでも好きに来ていいし金もいらないと言われて。静かだし、休日雲隠れするにはうってつけだったので、たまに利用します」
 基本休日は姿を晦ます男だが、こんな隠れ家のような所にも縄張りを持っていたのか。しかし一介の軍人がこんな場所で、そんな特別待遇を受けるようなことがあるだろうか。尾形の分は誰かがたんまりと払っているからこそ、そうした振る舞いが許されているのではないか? つまり今回は、己が払うべき立場なのでは……。
 そうした懸念が思い切り顔に出ていたのか、受付の婦人が愛想よく笑って尾形の言葉を補足した。会話を聞いていたのだろう。
「お連れ様も、尾形様と同じ代金で結構ですよ」
「しかし……」
「尾形様は、うちのお得意様でいらっしゃいますから」
「お得意様? 安い代金しか払わないのに?」
「ご同伴の方がいつも、沢山払って下さる方ですので」
 月島は無言で尾形を見た。尾形も真顔で見返してくる。
「お前……例の、相手の階級を上げていく話。どの階級まで行ったんだ?」
 尾形は答えず、意味深な笑みを浮かべた。代わりに受付の婦人に話しかける。
「御無沙汰しています。今日は沢山払えない人がご同伴なんですが」
 婦人は札を渡しながら、声を潜め、尾形相手になると途端にくだけた口調になって応じた。
「ほんとに久しぶりねえ。このご時世だし色々忙しいんでしょう? お金なんていいわよぉ」
 言いながらちらりと月島を見て声を潜める。
「自分で誰か連れてくるなんて滅多にないじゃない。もしかして本命?」
「いえ。ただちょっと今日は色々あって、大人しくしてたいのと……世話になったんでね。あの人に」
「あらあそうなの」
 婦人は何度も頷き、月島へにこにこと微笑みかけた。
「どうぞ、ごゆっくり寛いでいって下さい」

 未知の世界だ。月島は心なしか覚束ない足で尾形について行った。どうやら客によって入れる領域が違うらしく、食事処や賭博をしているような大部屋にはわりと一見に近い客も入れるようだが、奥の方に広がる個室を利用出来るのは信用ある馴染みの客だけの様子だった。
 ひっそりとした二階への階段に足をかけながら、尾形は思い出したように月島を振り返って言う。
「この店のことは、鶴見中尉殿も知らないようです。内緒にしておいて下さいね」
 笑みの形に細められた目は、月島を試して、あるいは揶揄っているようだった。

 ◇

「どこかで噂を聞いて、食指が動いたんでしょう。中将殿への腹いせもあるかもしれませんね。それで興味本位に手を出したら、思いの外嵌ってしまったんじゃないですか。男所帯で相手に困るのは、地位が上がっても変わらないみたいですから」
 金回りがよく、こんな場所に顔が利くような“相手”となると、確実に上級の士官だろう。そう問えば、尾形は結局ここに連れてきた相手がどういった人間かは言わなかったものの、上級の士官から声が掛かる事自体については肯定した。しかも珍しくはないという口ぶりで。
「いくら偉くても兵営に寄りつかない階級まで行くと虫除けにはならないですし、立場上断れませんからあまり応じたくはないのですが。どこから聞きつけるものか……あとは、“斡旋業者”が居られますので」
 ふざけた形容だが、何故かパッと顔が思い浮かんでしまった。
「……鶴見中尉か?」
「ええ。あの方の人脈は何なんでしょうね。関係ないような所にまで、やたらと顔が広いようですが。……まあそれは置いといて、俺を用意するのと引き換えに何か旨味でもあるのでしょう。あくまで紹介という体で、たまに“上客”を取ってくるのですよ。まるで女衒ですね」
 自分のことだというのに愉快そうに喉の奥で笑った。月島の方が陰鬱な気持ちになりながら訊く。
「お前がそれに応じて得る特典は?」
 尾形は口元を歪めた。
「色々教えてもらえますよ。面白いことを。鶴見殿は、優秀な情報将校であられますから」

 そんなことが、得になるものだろうか。恥辱を受けてまでの。あるいは、尾形自身のそれも、腹いせなのか?
 考え込む月島を流し見て、尾形が不意に訊き返した。
「月島軍曹はどうして鶴見中尉に付いておられるので?」
 その目を一瞬見返して、逸らす。一言だけ口にした。
「……恩がある」
 尾形は探るように月島の顔を少しの間じっと見て、それからふうん、と気のない相槌をうち、湯船の淵に頭を預けた。月島も同じようにして、木組みの天井を見上げる。ぽとりと、冷たい滴が額に落ちてきた。

 二階の奥の方、用意された高級旅館のような部屋に驚いたのも早々に、風呂に入りますかと言って尾形はさっさと荷物を下ろし月島を促した。
 貴重品は預かってくれるし、必要なものは貸出されるし、脱いだ軍服の手入れすらしてくれるという。至れり尽くせり過ぎて、渡したが最後すべて盗まれでもするんじゃないかと思わず疑ってしまった程だ。
 だが尾形が当然とばかりに振舞っている手前、心配しても詮無いので言う通りにし、向かった先の浴場にもまた驚いた。薄暗いが、ちょっとした銭湯ほどに広いし綺麗だ。しかも他に人もなく貸し切り状態だった。
「まだ午前ですし、本当の湯屋でもないからこんなもんじゃないですか」
 何でもないように言う尾形の、贅沢への慣れが若干腹立たしい。
 しかし月島が風呂好きだと覚えていたのだろうか、どうせ長風呂でしょうからゆっくり入って下さいと言って自分は浴槽から腰を上げた。
 身体を洗う背中が視界に入るが、つくづく生白い男だ。だが染み一つない肌と禁欲的に鍛え上げられた肢体は、如何わしい話を幾らされてもそんな類の印象は浮かばず、むしろ人間味の希薄を感じさせる。肌の上を透明な雫が滴り落ちても、それは汗というよりは、玻璃の上を滑る水滴のようだった。そこに確かに在るものだが、生々しさがない。
 月島も一旦浴槽から上がり、先に体を洗っておこうと洗い場で手拭いを手に取る。すると、尾形が無言で手拭いを構えてこちらに身体を向けてきた。背中を流してやるというつもりなのだろう。黙って背中を向けると、丁度いい加減でごしごしと背中を擦られる。
「随分、ここの人間と親しいようだな」
「親しいという程でもないですが。言われた通り、相手の金回りが良いから親切なんでしょう」
 それだけにしては随分、気に入られているようだったが。尾形は気にも留めていないようなので訊いても仕方がない。別のことを尋ねる。
「いくら心づけといっても、そんなにここで金を使う機会なんかあるか?」
「料理とか、酒とか、贅沢しようと思えばいくらでも出来るみたいですよ。物を取り寄せるのが一番需要があって、且つ一番店の儲けになるみたいですね。金さえ出せば何でも用意されるとか」
 そんな店の人間が、沢山払ってくれると形容する尾形の相手は一体どれだけ金遣いが荒かったのだろう。
「……すごい経験してるな、お前。そんな贅沢に付き合ってると、軍隊暮らしなんかやってられないんじゃないのか」
「別に、そんな風には。こんな世界もあるんだなと思うだけですよ。金持ちで気前がいいと、何でもくれるんです。何でも持っているから何だって他人にあげられるんでしょう。なのに、何かくれようとする人間ほど、浅ましい……」
 何かを思い出しながらのような声には、言葉の通り何の感慨も見られなかった。与えられるものを、興味なくただ受け取る若い男は、与える側にどういう感情を抱かせるものなのか。猫に小判、という言葉を思い出したが口に出すのはやめておいた。
 湯で背中を流され、反対に尾形に背を向けろと促す。
「お前が貰って嬉しいものって何だ? 弾薬か?」
「いっ、……もっと他にもありますよ……いてっ、……双眼鏡とか」
「結局そういうものだろ。値段が違うだけだ」
「でも役に立つでしょう……痛った! 力入れすぎです軍曹ッ」
 苛立った声を上げられてスマンと謝る。そんなに強く擦ったつもりはないが、確かに背中が真っ赤になっていた。白いから目立つなと思いつつ流してやる。
 若干恨みがましい顔をしつつ尾形は最後に湯を被ると、立ち上がった。
「もう上がるのか。鴉の行水だな」
「軍曹が長いんですよ」
 鼻で笑って言い返し、一足先に出て行く。
 月島はしばらく言われた通りに広い湯船を堪能させてもらったが、やがて人が増えてきたため、程々で上がることにした。

 用意された浴衣に着替えて部屋に向かう途中、受付にいた女性を見かけたので会釈して少し話を聞いた。
 初め客の個人情報を探られるかと少し警戒していたようだったが、尾形はこの店でも有名なのかと水を向ければ、笑った。
「変わった方ですよねえ。独特な雰囲気があって……まるで、猫みたいな方ですねえ」
 思わぬところでまたその呼称が出て、月島は驚く。
「寄って行ってご飯でも食べていかないかしらって、世話してあげたくなるような、そんな雰囲気がありますよ。だから御立派な殿方にも可愛がられるんじゃないですか。気を惹きたくて、逆に気を取られてしまう。寛いでいても、すぐにでもフラッと居なくなってしまいそうで。きっとあれは天性のものですねえ。感心して見ているうちに、この店でもすっかり贔屓のお客様になってしまいました」

 ◇

 部屋に戻ると、尾形は座卓の上にある玻璃製の器をまじまじと覗き込んでいた。中には二匹の小さな金魚が泳いでいる。さっき来た時は気が付かなかった。ただの貸し部屋にしては随分洒落た嗜好だと思った。高級品だろうに、どの部屋にも置いてあるのだろうか? それともこの部屋が特別なのか。
 浴衣を着た尾形と金魚の組み合わせは、性格を考えると暢気すぎて滑稽な気もするが、絵になる光景だった。生活の匂いのしない整えられた居室に、異物のようにそこに在る二対。愛玩として生きる魚、そして愛玩としての……。
 猫は狩猟者だ。だが多くの人々がそれを飼おうとするのは、そのためではない。
 奥には布団が敷いてあった。これはさっき来た時も気付いていた。
「言っておくが」
 襖を閉めながら月島は言った。
「俺はお前と寝る気はないぞ」
 直截な言葉に、尾形は面白そうに口角を上げた。
「そうですか。お礼にご奉仕でもしようかと思いましたが」
 本気なのか冗談なのか分からない口調で嘯く。月島は眉を顰めた。
「そんな礼は要らん。食い物でも寄越された方が余程ましだ」
「奢るほどの恩ではないかなと」
「なんで奢るよりソッチの方が安いんだッ」
 思わず声を荒げつつどかりと腰を下ろす月島の前に、尾形が猪口を置き、徳利を差し向ける。
 憮然としつつ猪口を持ち上げる月島に、尾形は慣れた手つきで酌をした。
「……ここに連れてきたのも、礼のつもりか」
 尾形は薄笑いを浮かべたまま答えない。月島は猪口を干した。いい酒だった。替わりを注がれながら言う。
「今日お前とこうしているのは成り行きだが、俺はこの機会にお前という人間をもう少し知っておきたいと思っていた」
「へえ。それはどのような理由で?」
「お前がどうしたいのか分からんからだ。花沢少尉……あるいは花沢家と、離れたいのか近付きたいのか。そして、この現状から抜け出したいのか、抜け出したくないのか」
「抜け出す」
 尾形は言葉の意味を考えているように鸚鵡返しに呟く。
「……辛くはないのか。こんな場所は、誰も知らない。同じように、他の者はお前がしてきた経験など知るべくもない。同じ場所に居る同じ男の筈なのに、お前だけ違う扱いをされ、違うことをさせられている。変えようのない出自や資質によってだ。不平等だ。理不尽だろう」
 鉢の中で金魚が跳ねた。黒い目がそれを目で追った。
「……変えようもない、初めから決まっている事柄で引き起こされた状況ならば、それもまた初めから決まっていた事なのでは? 変わるべくもないものを変えようなどという考えこそ、理不尽なのではないですか」
 月島は一瞬苦い感情が込み上げ、ぐいとまた杯を干した。
「ならお前はこの状況に満足するというのか」
「勝手に起こる事に満足も不満足も無いですよ。なるようになっている。そういうものでしょう?」
「本心か?」
 尾形は一応考えてみたのか首を傾げたが、逆に問い掛けるように月島の目を見つめた。
「……俺がどうしたいかを知ったところで何か意味がありますか? 貴方の行動方針は鶴見中尉殿の意向ひとつだ。そしてあの人は俺の意向など、どうでもいいのですから」
 ただ事実を述べるような淡々とした口振りだった。恨み言ではない。そこにあるのは、強いて言えば嘲りだ。
「お前は鶴見中尉の駒なのか」
「あの人にとっては、そうでしょうね」
「だがお前自身にとっては違うだろう。俺だってそうだ。俺が従っているのは従うという俺の意思だ。中尉が右を向けと言えば右を向くだけの木偶ではない」
「それでもその意思は強固でしょう。鶴見中尉に従う貴方の意思には理由がある。俺の意思を同情から鑑みるのとはわけが違う、大きな理由が」
 月島は少し沈黙した後、訊いた。
「俺の過去を知っているのか」
 尾形の唇がゆっくりと弧を描く。細めた目の漆黒が、浮き上がるように鮮やかに見える。
「……大層なお父上だったようですね」

 その時、部屋の外から控えめな声が掛けられた。尾形がどうぞ、と応えると襖が開く。店の者が手入れの終わった軍服を届けに来たらしい。二着受け取り、尾形は短く礼を言った。
 すぐにまた部屋は閉じた空間に戻る。月島の横を尾形が通り過ぎ、軍服を二着とも暖かい場所に吊るした。
「まだ少し濡れてます。乾くまで干しておきましょう」
 月島は尾形を見上げた。真っ直ぐ見つめ返して、尾形は笑った。今まで見せた中で一番親しげな笑みだった。
「言っておきますが、中尉殿から聞いたんじゃないですよ。中央のさるお方と話していて鶴見中尉の話題になり、その流れで貴方の名前が出たんです。珍しい話だからご披露下さったんでしょう。死刑囚を特赦で軍に戻すというのは、確かに印象的なお話だ。酒の肴になるほどにはね」
 今まで尾形は座卓を挟んで向かい合わせに座っていたが、より近く、卓の角を挟んだ斜め向かいに座った。そうして机に肘をつき月島を覗き込む表情は、話の不穏さと裏腹に、昔話を聞きたがる子供のように毒気が無かった。
 月島はそれを無表情に見返す。何度も回顧した記憶を紐解かれたところで、浮かぶ感情はやはりその記憶自体に浮かぶものと同じだ。虚しさしかない。
「それでお前は、その印象的なお話を持ち出してどうしたいんだ。お前の出自ぐらい広まるように周りに言い触らしたいのか?」
「まさか。そんなどうでもいい事しませんよ。俺が今日ここに軍曹を連れてきたのは、貴方の事が知りたかったからです。貴方がついてきた理由と同じだ」
「お前が今知っていること以上の、お前の知らない事なんてもう俺には無いぞ。俺はかつて父親を殺し、尊属殺により死刑と申し渡されたが、鶴見中尉の計らいによって従軍と引き換えに特赦となった。その大恩のため中尉殿には頭が上がらない。全てお前の言う通りだ」
 尾形は大きな目をじっと月島に向けて、問いを口にする。

「父親を殺したことを、後悔したことはありますか?」

 ひどく真面目な声だった。月島は沈黙した。
 応えがないことを見て取り、尾形は続けた。
「月島軍曹は、俺が今まで見た人間の中でもかなりまともな部類の人です」
 内心面食らう。そんな風に、目の前のこの男から評価されていたことが意外だった。誰かに反応以上の何かを思うことなど無いのかと思っていた。
「そんな貴方がとても重い罪とされている尊属殺を、既に十二分に分別のつく歳の頃にも関わらず行った。その心理が知りたい。それは衝動的な、我を忘れての行為だったのですか? それとも、必要だからそうしたのですか? 己の意思で、考えて」

 暫し、この奇妙な問答に間が出来る。
 尾形の質問が、どういう意図で発されたものなのか分からなかった。当然尾形と己の父に面識など無い。家族間で起こった閉鎖的凶行、その際の月島の心理状況などを、何故尾形が気に留める必要があるのか。
 わからない。だが、本当に訊きたいのだという事は伝わってくる。悪意の欠片もない、純粋な問いだということが。
 だから月島は正直に答えた。

「衝動的だった。気が付いたら殺していた。我を忘れて」
 言葉を待つ黒い瞳が揺れる。
「だが、後から何度考えても」
 この世で自分だけしか関わりのない過去。初めて他人へ口にする、そしてこの先二度と口にすることもない、取るに足らぬ一人の男の結論。
「殺さずに済む道があったと思えた事は、ただの一度もない」

 答えを聞いた尾形の表情が、微かに変化した。一本ピンと張られた糸が緩やかに撓むような。
 ……安堵?

「そうですか……」
 そう静かに呟いた表情は微かに笑っているようでもある。月島はその表情に見入っていた。
 外から差し込む柔らかい陽に照らされ、白い頰は静脈すら透けて見えそうに淡く光る。瞳の光を遮り烟る睫。整った唇。閉じた空気。
 妙な据わりの悪さを感じた。他に適当な形容が見つからないが、やけに、儚げに見えた。
 目頭を指で揉んで月島は言った。
「己が正しかったと考えているわけではない。俺は正しい人間ではなかったと自覚しただけだ」
「正しい人間って、なんですか?」
「人を殺さないような人間だ」
「戦争では正しく人を殺せよと命じられますが」
「自分のためにする殺しとは違うだろう」
「軍人である自分の名誉のために、そして自分が死なないために殺しているとも言えるでしょう。それに殺された方からしてみれば、殺した理由の違いなんか関係ない。同じですよ。行為として可能な以上、必要なら人は他人を殺すんだ」
 心なしか上機嫌になった尾形は、空になっていた月島の猪口に酒を注いだ。
「正しい人間なんてどこにも居ないんじゃないでしょうか。正しいと勘違いしている人間が居るだけで。彼らが気付かずに済んでいるのは、ただの幸運に過ぎない……」
 酒を味わいながら、月島は尾形の様子を眺める。
 来たる出征で確実に手を染める殺人への葛藤……という訳でも無さそうだ。また、考えるのも畏れ多いが、尾形にとっての父親……花沢師団長を想定した問いでも無いように思える。
 今後の不安を断つというよりは、抱えてきた苦悩に整理を付けたがっているような。
 おそらく、尾形にも後ろ暗い過去があるのだろう。月島の行為を知って尚、共感を示す程の。
 かつて誰かを殺したのだろうか? それもかなり関係の深い誰かを。
 その想像は、これまで見てきた尾形という軍人の印象からも、実にしっくりと来るものだった。
 だが深く知りたいとは思わない。血腥い過去に対し、月島には最早思う所など無い。尾形のように、未だ何らかの葛藤を引き摺っているようなことは。
 あるとすれば、そうなる切欠となった、一人の存在に対してだけだ。
 月島は放っとかれた尾形の猪口を引き寄せて、注いでやりながら言った。
「だが、勘違いしたままで居られた方が幸せではある」
「幸せ?」
 知らない言葉を聞いたように尾形が繰り返す。
 その拙い言い方に何処かやりきれない気持ちになって、月島は自分の猪口にも手酌して飲んだ。
「俺は自分の手で、持ち得たはずの何もかもを壊した悪人だ。知って何になる。俺の生き方なんて、何の参考にもならん」

 伝えた方が良かったか? と微笑う鶴見中尉は、暗に言っていた。伝えない方が、彼女のためであると。それが、彼女の幸せのためだと。
 その通りだった。己には、彼女を幸せにする資格が、基より無かった。

「それは、誰にとって悪いことですか?」
 誰に? ……少なくとも、彼女にとってではないのかもしれない。こんな男に、捕まらずに済んだのだから。
「持ち物を無くせば、身軽になる。何も無ければ、何処にだって行ける」
 何かの実感が篭った様に尾形は言う。
「……だが、人間の幸福は寄る辺を持つことだ」
 そこから遠ざかる事を良しとするような尾形の口振りに言い聞かせた。
「お前がこの先幸せになろうとするなら、分かり合わなければならないのは俺ではない。花沢少尉だろう」
 唐突に引き合いに出された名に、尾形がきょとんとした。月島自身も口に出して初めて自覚する。何だかんだ粗が目に付いたところで、己はあの未熟だが立派な将校の、尾形に対する想いそのものについては好ましく思っているのだと。
「あの人は、お前のためになってくれる人だ。何かを与えてくれる人だ」
 それは正しい人間だけが出来ることだ。己の正しさを信じて他者に関われる、彼のような人間が。
 例えそれが、勘違いの正しさであったとしても。

「幸福? ……それが何になります?」
 尾形は静かに言った。
「そんなものはいらない。俺は何もいらない」

 言い切る声に、胸の苦しさを覚える。
 亡霊のように蘇る感情。
「ではお前は何のために生きている」
「知りません。だから生きてるんでしょう」
「ならば何故耐える。何を望んで安楽な道を拒み続ける?」
 暫しの沈黙。

「俺はただ、本当のことが知りたいだけです」
 その言葉には何の虚飾もない、無垢な希求があった。

 月島の裡に怒涛のような感情が過る。
 この世でただ一人、誰にも知られず、お互いの秘密の何もかもを失くしたいと願い合った相手。
 かつてのその願いは、彼女の遠い幸せを願った瞬間から潰えた。
 全てが秘密にされたまま、今もこの世のどこかで彼女は生きている。
 幸福に残酷が勝る? 違う、尾形は彼女ではない。分かっている。
 尾形は異質な人間だ。幸福を望む事すらない、無形の憑代。

 死んだはずの感情を引き摺り出すその存在を憎む。
 己はずっと逃げ続けているのだ。後悔というこの世で最も惨い罰から。

 月島は気付けば、抜けるように白い足首を掴んでいた。
 驚きに目を見開いてその手を見下ろしている尾形に言う。
「父親を殺した事は後悔していないが、己がそんな人間だった事は、ずっと悔やんでいる」
 尾形は少し呆然として月島の顔を見た。
「俺には婚約者がいた」
「……父親に、殺されたという?」
「奴のせいで死んだと思った。だがそれは勘違いだった。彼女は何処かで生きている。もっとまともな男と」
 言う相手の誰も居ない筈の言葉が、底のない瞳に吸い込まれていく。

「俺が幸せにしてやりたかった」
 一生仕舞っておくはずの本音は声に出すと少し震えた。

 布団に引き倒しても、上に伸し掛かっても尾形は何の抵抗もしなかった。
 これからされようとしていることが暴力なのか、性行為なのかすら分からなかっただろう。
 だが何を問うことも、恐れる様子もなく月島の顔を見上げた尾形は、ただゆっくりと手を伸ばして、月島の頬を撫でた。
「きっと、そんな顔をしてたんでしょうね」
 殺した時に? あるいは、彼女に対して?
 訊き返すことは出来なかった。
 包むような手。確かめているのか、慰めているのか。
 まるで月島の罪過を愛でているような。

「やっぱり抱いていいか」
 見下ろして味も素っ気もなく申し出る。尾形は意外そうに笑った。
「構いませんよ」
 これ以上、心の深い部分を触られてしまわないように、または触ってしまわないために。
 肉体を繋げてしまえば、危うく精神の深い部分に繋がってしまいそうなこの均衡は断ち切れる。関係が片付く。この行為が遣り取りの結論になる。
 それは逃避だった。月島は尾形の精神性に呑まれることを恐れた。及ぶ影響を、肉体を支配して封じる。狡いやり方だ。汚れきった大人の。
 尾形はおそらく承知の上で許している。もう月島から知りたいと思っていた事は知り尽くしたのだろうか。それとも諦めたのか?
 微かに感じるのは罪悪感だった。都合の悪い真実を知りたがる子供に、嘘を教えて誤魔化すような。
 それすらも有耶無耶にするために、月島はその身に初めて意思をもって触れた。

 ◇

 記憶に残る円い輪郭、柔らかな手肌の感触を、感傷的になった頭が目の前の作り物のような肌へ勝手に重ねようとするのを振り払うため、目前の尾形の体形を執拗に確かめる。勢いよく押し倒したものの、やはり理性を捨てきるには月島の中の何かが歯止めをかけていた。仕切り直すように着物を剥ぐ月島に尾形は何も言わない。
 男の骨、男の筋だった。柔らかい脂肪と骨で出来た、折れてしまいそうな女の曲線は何処にもない。かっちりと締まった体は直線的で、頑丈に出来上がっていた。
 そして特有の、この陽射しを拒絶したような、妖しく翳った昏い肌。
「お前、皮膚が薄いな」
 浮き出た腹筋の筋を指でなぞりながら思わず評する。
 月島も含め、男の皮膚は大体ゴムのように均一に厚く筋肉を覆っているものだと考えていたが、骨や腱や筋肉、その間を満たす水、そこへただ膜が張られただけのように尾形の肌は瑞々しかった。所々蒼く血管が透けて見える。それでいて、使われず仕舞われた陶器の如く肌には何の傷跡も見当たらなかった。訓練や演習で少なからず怪我はしていた筈だが、跡になりにくい体質なのだろうか。思えば確かに、見える場所に傷を作っても毎回いやに治りが早かった気がする。
 銃ばかり撃っているせいか、体を支える脚の筋肉が常人より発達していて張りがあった。秀でた持久力もこの足腰から来ているのだろう。対して上半身は比較的細身で、全体的にそれこそ猫科の肉食動物のような鋭い印象がある。機動性と耐久性に特化した体つきだった。

 単純に、綺麗な身体だと思う。漂白したような肌色といい体毛の少なさといい、軍隊生活で嫌というほど目に入るむさ苦しさがそこにはない。それでいて備わった能力への疑いを差し挟む余地のない、磨かれた肉体。
 月島は自身に男色の気は全く無いと思っていたが、尾形の身体に対しては接触への嫌悪感が湧かなかった。同じ男ではないような気がした。純然たる機能としての雄であり、役割ではないような。流石に失礼な例えかもしれないが、撫でた猫が雄だろうと雌だろうと関係ないのと似ている気がする。
 この異質さが閉鎖的な状況に置かれた男たちの気を惹いてしまうのだとすると、気の毒なことだな、と他人事として思う。哀れむ資格はない。今から月島もその有象無象に仲間入りしようとしているのだから。

 剥いた着物と帯を脇にやると、黙って触られるに任せていた尾形が言った。
「徴兵検査かと思いました」
 冗談かと思いきや声が本気だった。じっくり観察してしまった自覚はあるので、素直に謝る。
「悪かった。こんな機会も無いから物珍しくてな」
「ただ見てるだけで楽しいですか?」
「割と楽しいが」
 尾形は沈黙した。
「言っとくが、男相手の経験は無いから何か違ってたら言えよ」
「それ以前の問題の気がしますが……」
 半笑いで言われる。白い爪先が持ち上がり、月島の裾を割って股間を柔く踏みつけてきた。
「その気もないのに頑張っても疲れるだけですよ」
 揶揄する声は、やめたいならやめろと言わんばかりだ。
「うるさいな。まだ何もしてないんだから急かすな」
「……口でしましょうか?」
 手をついて半身を起こし、どうするつもりかと思えばそんな申し出をしてきた。
 薄く笑った唇から挑発するように赤い舌を出して言う様は随分と様になっている。慣れた雰囲気に何となく苛立った月島はその舌を指で摘んで少し引っ張った。尾形は変な声を出した。
「俺はどちらかと言えば、お前がどんな顔で気をやるのか見てみたい」
 濡れた舌の裏をじっとりと指の腹で撫でながら言ってやると、涙目になった尾形の目がぎょっとした反応を見せる。
「心配するな。生意気なお前が善がる様を見れば、俺の方も使い物になるだろう」
 月島は、人のことを揶揄っておきながら同じく全く兆していない尾形の一物を、褌の上から意趣返しのように掴んだ。

 ◇

 自分では舐めてやろうかなどと言っておきながら、こちらが同じ事をやってみようとすると嫌がった。それならばと自分のモノを扱くつもりで尾形のそれを構うと、「痛い」だの「前から思ってましたけどがさつですよね」だのと言ってやめさせようとしてきたが面倒なので無視した。
 口では文句を言っても、弄ってやればそのうち抗えず勃ち上がってくる。こいつも人間なんだなという妙な感慨が湧いた。
 尾形は今のこの状況が相当不本意なのか、耳を赤くして悔し気に視線を逸らしている。彷徨った手が躊躇いがちに月島の手をどかそうとするので、月島は手を止めないまま話しかけた。
「なんだ。往生際が悪いな。さっきまでの手慣れた様は何処に行ったんだ」
「……俺は別に……こういうの、されなくてもいいですから」
「は? いいことは無いだろ。いつもされてるんじゃないのか」
「し、ません」
 理解し難い返答に思わず手を止める。
「いつもは、入れるまで、俺が主導して……相手は初めからその気で、今すぐ入れたいって態度だから、逆らいませんし」
 尾形の言う普段の流れ、を呑み込むのに少し時間がかかる。入れるまで相手には何もさせないで尾形が主導する。相手はすぐ入れたがっているからそれに逆らわない。尾形の方は相手への愛撫には積極的だった。つまり。
「つまり……いきなり突っ込むのか?」
「いきなりっていうか……ある程度は慣らしますけど……」
 こんなに歯切れの悪い話し方をする尾形は初めて見た。月島は信じられないものを見る目でそこを見下ろす。
「経験ないから知らんが、痛いだけだろそんなの」
 言いながら何気なく親指で撫でると、明らかに尾形の身体が跳ねた。声こそ漏らさなかったが、息を呑んで目を見開いた表情は、とりあえず苦痛の反応ではない。
 月島はその顔をまじまじと見てから、今度は確かめるようになぞる。まるで女の陰部のように、滑りの良い液体で濡れていた。
「これ……何か塗ってるのか?」
「っ、……そうです」
「自分で?」
 尾形が手を押しやるままに一旦離す。尾形は羞恥にか、気まずそうに目を伏せながら答えた。
「もし、強引な相手だったら、怪我するのはこっちなんで……誰かの相手する可能性がある時は、なるべく塗っておけば、すぐ済むし……」
「自衛のため、ってことか」
 涙ぐましいことだ。月島は自嘲した。今回も、その備えが役立つ場面が来たというわけだ。
「だが怪我しなかった所で、その気にもなってない状態ですれば結局痛かったり苦しかったりするだろう」
「別に……気持ちよくなりたいわけじゃないので。相手が満足するために始める事なんだから、相手が出すもの出せばそれで終わりでいい」
 顔を逸らして言うその言葉は、本心だという気がした。
 昨日言っていた最小限の相手をすれば済む方策といい、相手とか過程など尾形にとってはどうでも良いのだろう。解消しなければならない問題があり、それを終わらせるために行為する。そこに尾形自身の欲求はない。
 刹那的な身体感覚の痛苦よりも、望んでしている事ではないという姿勢を保ち続ける事の方が重要だという事なのかもしれない。尾形が甘んじる閉塞的な立場を改めて突き付けられ、重苦しい気持ちをため息で吐き出しながら月島は言った。
「まあ、どうやったって痛いのかもしれんが。慣らすってどういう風にするんだ」
 本人がやめろと言うなら、言う通りにしてやった方がいいのだろう。質問に対し、尾形は狼狽えた素振りを見せた。
「どういうって……適当に……指で」
「適当ってお前」
 なんでそう投げやりなんだ、と思いながら、人差し指で再び襞を揉むようにしてみる。
 地の肌が地の肌なので、性器周辺の色までもが薄かった。肌よりも少し濃い色が、充血すると赤らんで肉色になり、濡れていると更に卑猥な様相になる。体毛も薄いので、じっくりと見るのが憚られるほどよく見えるが、綺麗なものだ。
 表面をなぞるだけの指を待つようにひくつくそこに、まあ本人が言うのだから大丈夫だろうと指を差し入れる。小さく濡れた音と共に飲み込まれた内部は、入ってきた異物を確かめるように粘膜で締め付けてきた。
「熱いな……」
 言いながら中をぐにぐにと探ってみる。生々しい肉の感触は否が応にも繋がった時を想像させ、思わず喉が鳴る。思ったよりも柔軟性があり、初め拒むようだった動きが、その内絡みつくようなものに変化してくる。
 ぐるりと撫でるようにして、腹側を掠めた時、耐えきれないというような声がしたので目をやった。その表情に面食らう。
 きつく口を手で覆い、頬は赤らみ、目は潤んでいる。そして今の上擦った声。
 暫し呆然と見入ってから、反応があった場所を今度はもう少し強めに撫でる。
「……!」
 身が撓った。先程扱いていた時よりも陰茎は強く立ち上がり、先走りを零している。
 二本目の指を挿入した。馴染むまでゆっくりと挿し入れし、慣れて来たら早めたり、バラバラに動かしたりしてみる。
 締まった腰がびくびくと動き、手で覆った口からは引っ切り無しにしゃくり上げるような喘ぎが小さく聞こえた。浮き上がった胸元では、快感の証のように乳首がぷくりと立ち上がっている。月島は内部を嬲る手はそのままに、伸び上がって胸元に顔を埋めた。
「ひ、あ」
 舌でそこを舐めしゃぶられた尾形は、切羽詰まった声を出して月島の頭を抱え込んだ。力の入らない指先で頭と項を掻くように何度も撫でられる。やめて欲しいという意思表示なのかもしれないが、逆効果だった。
 指を小刻みに出し入れしながら、じゅう、と強く吸うと、悶えるような声が上がった。
「も、う、いい、です……! っ、やめっ、ください」
 制止する尾形の声は最早悲鳴のようで、一旦止めてやる。胸に手を置くと、鼓動が酷く速い。
「……こっちの方が気持ちいいのか」
 確信して訊いた。尾形は赤く染まった顔を歪める。
「だから、……俺は……」
「そうか。適当に慣らして突っ込むだけでも、それなりにちゃんと気持ち良くなれるわけだ。お前も」
 濡れた瞳がまるで後ろめたいかのように揺れた。
「そんな顔をするな。むしろ安心したぞ。苦痛だけの行為に付き合ってるなんて事は無さそうで」
 ずる、と指の付け根から先まで抉るように大きく出し入れさせると、見開いた目が溶けるようにじわりと潤んで、震えた唇が空気を求めて開いた。
 話だけ聞いた限りでは、尾形に体の関係を求めてきたこれまでの男は皆、碌に愛撫もせずに、ただ耐えるだけの人形のような相手を一方的に性欲処理の道具として使うばかりだったのかと思った。自分の快楽さえあれば相手の状態など関係ないというような、そんな畜生のような性癖の人間ばかりなのかと一瞬うんざりしたが、身体の反応を見る限り杞憂だったようだ。
 尾形はどこか悔しげに、月島を睨んだ。
「気持ち、良かったとして、それが何だって言うんです。ただの刹那的な感覚です。どっちだって構わない」
 気持ち良くなりたい訳ではない。が、気持ち良くないとは確かに言っていなかった。そしてその事は、どちらかと言えば尾形にとっては不本意であるらしい。
「行為に付き合うことは割り切れるのに、何故それを楽しむ事が割り切れない?」
「……割り切ってますよ。でも身体はただ、そういう風にできているだけで……勝手に反応して善がるだけの……それを楽しんでいると言えるならば、十分楽しんでいるんでしょうが、それが別に良い事とは思わない。ただ、便利ではあります。早く咥えたいんだろうと相手もまだるっこしい事をしませんし……早く始まれば、早く終わりますから」
 求められ続けた結果、与えられるように適応した肉体。この分ではおそらく、軍に入って初めて、という訳ではないのだろう。どういう事情か知らないが、もっと以前からこうした事に慣れざるを得ない機会があった。そしてその経験への適応が、更なる経験を呼び込んだ。
 人を惑わす山猫。
 だが何もされなければ、そんな風にはならなかったのだ、きっと。誰も信じなくても。
「月島軍曹のやり方、苛々します。もっと他の奴みたいに、勝手に興奮して勝手にお前はこういう奴だって決めつけて、勝手に腰振って勝手に満足してください。俺を伺わないでください」
「悪かった」
 話していて少し落ち着いてきたのか、ばっさりと吐き捨てるように言われた文句に、月島は素直に謝った。他の奴の振舞いなど知るべくもないが、違ったものは違ったのだろう。
「どうせただの処理です。そこに意味なんかない。変な駆け引きみたいなのされると、うざったいんです。俺の方から強請らせようとする奴とか最低です」
「わかったわかった」
 そういうのが過去に居たらしい。頭を撫でて宥めると尾形は目を逸らし、幾分か小さくなった声で呟く。
「やっぱり軍曹はこういうの、気乗りしないんじゃないですか。その気も無いのに、強いてやったって意味がないでしょう。やめるなら……」
「いや」
 月島の腕に触れていた尾形の手を、股間に導く。
 触れた感触に、尾形は目を丸くした。
「もうその気にはなってる」
 ぱちぱちと瞬きして、それから純粋に、尾形は怪訝そうな顔つきになった。何故?というような。
 月島はその顔を眺めながら、ようやく分かった気がした。こいつはつまり、思っていたよりずっと、子供なんだなと。

 ◇

 “何も無ければ、何処にだって行ける”。尾形のその言葉が、妙に頭に残っていた。
 己がそんな風に思える日は来ないであろうと、月島には自覚がある。いつだって月島の足には何かが絡みついて離れない。離れたことがない。
 そのせいか、振り返ると尾形の姿はいつも、やけに月島の目を引いた。初めから常にどこか浮いた印象の男だった。いつも遠くを見つめて、何からも切り離されて、少し目を離せばフラッと何処かに行ってしまいそうだった。現実は、誰よりも堅牢な檻に閉じ込められていたとしても。
 思えばそれは、持たざるが故の孤高だったのだろう。過去すら己のものとはせず、未来に携えるものも持たず。何をも与えられず、何を求めることもない。その瞬間とその場所だけに生きている、一匹の無情な人間。
 今、月島の中には尾形への相反する感情がある。肉体への哀れみ。精神への憧憬。
 どちらにせよ遠い存在だ。しかしその肉体は今この腕に抱かれ、内に流れる血潮の熱さを感じている。混乱した頭、あるいは身体が、異常なほど昂っていた。
 抱えて閉じ込めた身体を揺さぶると、縋るように月島の背を抱きしめる腕が、まるで取り込もうとするかの如く狂おしく背を撫でる。
 快感に浸る尾形の姿はこれまでに見たどんな生き物よりも妖艶だった。震える吐息に隠し切れない悦楽が滲み、辛そうに眉を顰めながら、待ち望んだものが与えられた恍惚の目で、忘我の感覚に酔う。
 滅茶苦茶にしてやりたかった。募る欲は底が抜けたように際限がない。それは性的欲求というより、暴力衝動に似ていた。自分のものにしたい、という、予め決められていたかのような明確な欲動。
 白い肌に歯を立てると淫らがましい掠れた声が上がる。
 このまま食い殺してしまえたらどんなに良いだろうか。
 そうして、もう二度と、何処にも行けなくしてしまえれば。どんなにか充たされることだろう。
 不完全の男。それは今、己に足りぬものすべての、憑代だった。

 思い切り抉るように奥を突くと、苦し気なほど感じ入った声を上げて尾形は背を浮かし達した。絡みつくような肉の感触に耐え切れず、間一髪のところで月島も外に出す。
 喘ぐような呼吸を繰り返し、快楽に浸りきった身体を鎮めようとする尾形の性器からは、殆ど何も出ていなかった。これで数回目になるが、出し尽くしたわけではないと思う。さっき気をやった時も似たようなものだった。吐精せずに極まる、という現象があり得ることに月島は初め驚いてしまったのだが。
 それに最初に達した時も、射精はしたが普通とは違っていた。前への愛撫はとりあえず置いといて後ろを慣らそうと、ひたすらゆっくり抽送を繰り返していた時だった。だらだらと先走りを垂らしながら、蕩けきった表情で震えた呼吸を繰り返しているので気持ちがいいのだろうとは思っていた。
 肉壁を捏ねるようにずこずこと擦り付けていると、尾形が切羽詰まった表情で月島の腕を掴んで、喘ぐような声を出した。
「あ、あ、もう、……ッつき、……ッ、!」
「尾形……?」
 月島が訊き返すのと同時に、声にならない声を上げて尾形の背が撓り、吐き出された精液が尾形の腹を汚す。例えようもない蠢きで絞り上げてくる中の動きに耐え凌ぐため、月島はかなりの忍耐を要した。中に出してしまうと尾形が困るだろうと思ったのだ。
「くッ……!」
「はーッ、はあっ、はあ……ッ」
 涙を浮かべて脱力し、打ち上げられた魚のように弱々しく息をする尾形の姿に、暫く月島も息を荒げながら放心していた。興奮に頭の回路が焼き切れそうだった。前を弄りもせず、己のそれに突かれただけで気をやった尾形のあまりに淫蕩な様を、哀れみたいのか悦びたいのかもう分からなかった。

 虚脱した尾形の胸元に頭を伏せて、月島はしばらく呼吸を整えながら特有の疲労感と、酩酊感を味わっていた。すると不意に、尾形が月島に身を起こせと手で押して伝えてくる。
 その通りに起き上がった月島に、尾形は逆に体重をかけて伸し掛かってきた。
 仰向けに倒れ込んだ月島の腰の上に尾形が跨って、快楽の余韻を滲ませた表情で見下ろしてくる。吐息のような声が囁いた。
「軍曹は、俺が楽しんでいないって言ってましたけど……気持ちいいよりも、楽しいと思うことはちゃんと別に、あるんですよ。こういうことをする時に、いつも」
「……それは?」
「顔を見てるのが、楽しいんです。これをしている時、人は素の表情をする。その人の、本当の顔がみえる」
 言いながら、月島のモノを扱いた。 これからどうするつもりなのか如実に分かり、浅ましい期待で欲望はすぐに硬く勃ち上がる。
 目を細めた尾形は、腰を浮かし、そこへ誘導した。しかし亀頭だけが僅かに埋まったまま、尾形は思わせぶりに動きを止めてしまった。
 朱に染めた目元でこちらをぼんやりと見つめながら、浅く埋めては引き、そしてまた浅く埋めては引いて、先端だけを愛撫する。すぐそこに絶品の快楽があると既に知っている陰茎は、そうしている間にみるみる育ち、血管が浮いていく。
「……ッ尾形……」
 月島の腹に支え置かれた尾形の手、その手首を掴み掠れた声で呼ぶと、尾形は首を傾げて艶然と笑った。
 施すようにゆっくりと腰が落とされる。密やかに濡れた音を立てる接合部の卑猥さに眩暈がした。
「はっ……、かた……」
 緩く眉を寄せながら、中で月島の形を確かめているように尾形はじっくりと腰を揺らめかせる。溶けそうだった。
 そこが快楽の出口なのに、恍惚は全身に散っていき、月島を支配する。感覚全てを掌握された気分だった。
 余裕を無くしているであろう月島の顔を見つめて、尾形はどこか嬉しそうに表情を緩める。
「あっ、はぁっ、は、気持ち、いい、ですか……?」
 自分よりも月島の快感をひたすら煽る動きで、それでもたまに辛そうなほど感じ入った色を見せながら、淫猥に腰を振る。
 見ているだけで頭に血が上りそうな痴態。しかしそれでいて、こちらを見つめる蕩けた瞳には、どこか無邪気さのようなものがあった。
 捏ねるように締め付け、しゃぶるように吸い付く。齎される快感に月島は長くは耐えられず降参した。
「もう……出る……ッ!」
 尾形は機嫌良く笑い、ねっとりと全てを締め上げてくる。
「おいっ! ほんとにもう……!」
 乗っかる腰に手をやり、焦って上擦った声を上げる月島を上から見下げ、尾形は甘く掠れた声で告げた。
「中に……ください。その方が、イイ、んです……」
 恍惚とした表情で、待ち望むように白い手が自らの平らな下腹部を撫でる。
 頭の血管が何本か切れた気がした。
 多分これまでの人生で一番の量を出した。

 ◇

 街道の真ん中を並んで走りながら、思わず月島は声を掛ける。
「さすが、体力あるな」
 盛大に舌打ちされた。

 時間という概念を忘れて行為に耽っていたと認めるのは葛藤があるが、数えることもやめて耽りきって蕩けきった頭が幾分か覚めて、身体を清め、綺麗になった軍服を纏って、言われた額より少し多めに清算し、ふと気付いてみれば点呼の時間が迫る夕刻だったことは紛れもない事実だった。点呼までに戻れなければ厳罰である。結果こうして兵営まで駆け足している。
 今日早くに出て、あの店に着き、そういう流れになるまでどれだけ掛かったのかは分からない。だがそれを長く見積もったとしても、一体何時間、途中だらだらと休息を挟みながらとはいえ肉の快楽に溺れていたのか。考えると気が遠くなる。やりすぎて妙に体がすかすかする気がする。
 しかし身体的疲労は尾形の方が大きいだろうに、走る足取りにはそれを伺わせない機敏さがあった。これも慣れなのか、それとも意地なのか。どちらにせよ伊達に上等兵にはなっていないなと感心する。
 真顔で走る軍人二名を見た通行人が、すわ変事かという顔をして見送っているのが何度か目に入った。だが走った甲斐あって何とか余裕をもって兵営に辿り着き、少し手前の道で息を整えながら、ゆったりした歩みに切り替える。
 しばらく無言で歩いていた。最早行き着く所まで行ってしまった今、あえて交わす言葉もあまり無いが、これだけは言わねばと思っていたことを月島は口にする。
「俺の階級でもお前の“虫除け”にはなるだろう。またしつこく声を掛けてくるような奴が出たら、俺の名前を出せ」
 尾形はそれを聞いて足を止め、月島の顔を呆れたような目で眺めてきた。
「なんだその顔は」
「……お人好しだな、と」
 肩を竦めた尾形は、気のない素振りでまた歩き出す。
「どうせ今のうちですよ、何もかも。戦場に行って帰ってきた時、果たしてどれだけの”虫”が残っていることやら」
 醒めた男だ。だが本当のことではある。
 月島は鼻を鳴らして、反論はせずしばらく黙っていたが、ふと尋ねた。
「出征が恐ろしいか?」
 尾形は振り返り、目を見て答えた。
「いいえ」
「そうか」
「楽しみなんです」
「は?」
 予想外の言葉に聞き返す。
「戦場に行ったら、勇作殿もきっと、人を殺すでしょう」
 見てみたいんです。
 そう言って、尾形は猫のように目を細めた。その瞳にはただ他愛のない期待だけがあり、ゆったりとした口調は良い夢の話をするように安らかだ。
 瞬間、月島は無性にその身体へ再び触れたくなった。手でも頬でもいい。温度と形が感じられる場所に。しかしそう願ったところで既に、白い肌は夕暮れの中に浮き上がり、尾形という男は最早どこか遠い存在なのだった。基よりの性質のまま、何も変わらずに。