1.山猫
階級が物を言い、上下関係が徹底された軍内で、人前でも平気で兄様と呼ばわり敬語で接してくる上官。腹違いの弟。
尾形にとっては目の上の瘤のような存在なのだろうと思っていた。見つかる度にまとわり付かれるのが鬱陶しいのか、なるべく接触を回避しようとしている印象もあった。
尾形の立場を考えれば当然だと、月島自身そのことに納得していたので、その花沢勇作少尉の囲い込みに関して尾形に一任したという話を鶴見中尉から聞かされた時は意外に思った。
ただ中尉からの要請に応じただけなのか、それとも、彼に関する事については己に任せてくれと鶴見中尉に自ら志願したのか。
ああ見えて尾形の中にも、血縁ゆえの特別な感情が存在するのだろうか?
士官学校を卒業した花沢少尉は、第七師団長・花沢幸次郎中将の嫡子として鳴り物入りで着任し、聯隊の顔となる旗手に拝命された。眉目秀麗、成績優秀、清廉潔白、文句のつけようがない模範青年。例の“兄様”への振舞いさえ除けば、絵に描いたような完璧な士官だった。
鶴見中尉としては今後の“計画”のため、早期の出世が約束されている彼とは協力的な関係を築いておきたい筈だ。だが役割上、聯隊旗手は大尉との接触の方が多い。下手に情報を共有すれば中央に筒抜けになる危険性がある。
そのため中尉自身は一歩引いた関与に留まり、現状花沢少尉の唯一の綻びである尾形への情を利用して、完全にこちら側へ引き込めるという確信を持ててからでなければ動かないつもりであるらしい。
使えるものは逃さず、使えないものには決して手を出さない。中尉の判断はいつも慎重だった。いざという時に邪魔をさせない為だ。情報を操り、裏から流れを支配するような手腕を傍で見ていれば、その抜け目なさは嫌でも分からされる。
正直月島から見た限りでは、中尉は花沢少尉を切り捨てる可能性の方が高いように思われた。
士官として既に頭角を現している花沢少尉だが、彼の持つ資質は上に立つ者のそれだ。人望もあり、勿論親の威光という要素は外せないが将官からの覚え目出度く、部下とも良好な関係を築いている。
”勇作殿”は、神の如き高みに居られる中将閣下と同じ名で呼ぶのが心苦しいという理由で部下から広がった呼称のようだが、本人に度量が見出されなければそんな風に呼ばれるものではない。他人からの信頼厚いその生来の人柄のまま、常に模範的な軍人足らんとするあの高潔さを戦場でも保つことが出来れば、求心力は更に増すだろう。
その他人からの目を常に惹き付けるような気位の高い在り方に、父君である中将閣下の影響が強くあることは間違いない。いくら“兄様”に執着していた所で、そういった人間が他所から齎された思想に下るようなことが果たしてあり得るのだろうか。
また、高みの者しか持ち得ず、それ以外では用を成さないそうした能力が、鶴見中尉にとって”使い勝手”が良いのかどうか?
だが仲間に引き入れないとなった場合、厄介な存在である少尉の扱いに中尉は手心を加えないだろう。ここに来ての尾形の積極的な干渉は、そうなることを回避する為だと見れなくもない。あの男が何を考えているかなど、ともすれば鶴見中尉のそれ以上に窺い知れない事ではあるが。
鶴見中尉と尾形がいつから、どういう縁でつるんでいるのか月島は知らない。気付いた時には既にその関係は密なものだった。尾形は早くから規格外の人間であったため、どこかで中尉が目を付けたのだろう。
それが師団長の実の息子という出自から来るものなのか、それとも尾形個人の適正によるものなのか……それは分からないが、しかし月島から見て鶴見中尉は、尾形という男に対して他の部下とは違う入れ込み方をしているように見えた。
上司と部下というより、もっと近い……例えるなら教師と生徒、師匠と弟子、そんな類の雰囲気が二人の間にはある。まるで何かを教え込んでいるような。
今も尾形は鶴見中尉の執務室の中だ。今日尾形は公用で外に出ていたから、その報告だろう。公用といっても、中尉が尾形だけに命じた極々個人的な用事だ。誰とも共有されていない、一対一の何かの指令。上官がその辺の兵卒に使い走り等を頼むことは珍しい事でもないが、従卒でもないのに継続的にそんな事をさせられている兵卒は他にはいないし、特定の兵卒にそんな事をさせている士官もまた然りだった。
鶴見はどういうつもりで尾形を重用し、何をさせ、そして尾形はどういうつもりで鶴見に使われているのか。側から見ているだけでは分かりようもない。だが誰が見ても、奇妙な関係であることは確かだ。当然、ある種の噂の種になるほどに。
報告が終わったらしく、鶴見の執務室から軍帽を被った姿勢のいい影が出て行くのが遠くから見える。手本のような敬礼をして部屋を辞する足取りに乱れは無いが、廊下の途中で尾形は口元を拭うような素振りを見せた。
見送って自身の報告のため執務室へ向かいながら、月島は今の仕草の意味を少し考える。
そう、あるいは教えというより、躾と称した方が相応しいかもしれない。
飼い主と飼い猫。そういう如何わしさが、二人の空気にはある。
あるいは、尾形という男には。
◇
「可愛いものだ。何だかんだと興味はあるのだろう。己に無いもの全てを持っている男だからな。己に与えられなかった全てのものの代わりに」
「……しかし、嫉妬にしてはやっている事が穏便に思えますが」
童貞が暗黙の了解とされている聯隊旗手の悪所通い……確かに実際成功したとして、露見すれば花沢少尉にとっては大事だ。握った秘密は弱味にはなり得るだろう。しかしお膳立てだけしてあくまで選択を少尉に委ねるような遣り口は、その後の失墜が目的というより、どちらかと言えば少尉の人格を試しているような印象を受ける。
「だから”興味”なのだ。あれに妬みなどという情緒的な感情はない。相手を貶めたいというよりも、確かめたいのだろう。相手もただの人だと、特別変わりなど無いと。そして今持っている興味を失いたいのだろうな」
「……それは……」
言い換えれば幻滅したい、という事か。だとすれば、今の尾形は花沢少尉に対して悪印象を持っているわけではないという事になる。兄様兄様とまとわり付いてくるあの態度にも、鬱陶しがっているだけで怒りを覚えてはいないのか。
寛大な事だと思う。月島は花沢少尉の尾形に対する振舞いを、内心軽蔑していた。尾形の出自を思えばあまりに短慮ではないかと感じていた。犠牲を伴う己の厚遇を、よりによってその犠牲者に見せびらかすようなものだと。
個人として見た時の彼の折り目正しさは知っている。立派な好青年であることは疑いようもない。なのに何故この件に関してだけは公正さを失するのか、常々不思議だった。悪意が無いことは分かるが、それと行為の善悪とは別の問題だ。もし全くの他人事として客観的に見れたなら、少尉自身でもおそらく自らの態度に疑問を覚えるだろう。
尾形という男は、喜びや好意といった愛想の欠片も見せない分、怒りや嫌悪といった感情も全く露にしない人間だった。正論で容赦のない叱責や嫌味を浴びせたりはするが、感情的な激昂などは見せた試しがない。むしろ普通怒るような場面になればなるほど不気味に笑う男だった。表に出さないようにしているというより、そもそもそうした情動を持ち得ないのではないかと思うほど感情の起伏に乏しい。他人の振る舞いをただの事実としてしか捉えず、それに対する善悪や好悪といった評価を、端から放棄しているような。
弟の行為も、そういう振舞いをするような人間だとしか捉えていないのだろう。それによって己が不快な目に遭っているとか、そういった因縁をつける回路が鈍いのかもしれない。悪意の無い態度だけを事実として認識し、その人格を積極的に否定する憤怒を持たず。
冷静さを欠いた弟に、感情を欠いた兄。遣り取りは平行線だ。
花沢少尉に関して尾形が見せている姿勢を、中尉は改めて簡潔にまとめた。
「興味があるからまだ捨てて欲しくない。あるいはそうさせないための過程で、興味が失せれば捨てられても構わない。そんなところだ」
「まるで、気に入りの玩具に対する扱いですね」
「実際他愛ない。今周囲の人間で一番珍しいものだから、このまま失くすのは惜しい。そのぐらいの情だ、あいつに持ち得るのは」
辛辣なようだが、それを言う中尉の顔はやけに微笑ましそうだった。
しかし尾形の行動姿勢はひとまず分かったが、中尉がその悠長なやり方を黙認している様子なのが気にかかる。結果はどうでもいいというような調子だ。
花沢少尉をたらし込むと言うのなら、もっと有効な手口があるように思うのだが。
月島はその“手口”に水を向けた。
「ただの人、というのは……師団内のあちこちに居るような男のことですか。尾形の噂をして、喜んでいるような」
遺憾なことだが、軍内で尾形にまとわり付く人間は件の花沢少尉だけではない。とにかく尾形という男は、妙にその手の輩の気を惹く。入隊当初から周囲には既に浮ついた噂が絶えなかった。やれ誰々のお気に入りだの、呼び出しがあっただの、古参兵同士が尾形を巡って乱闘しただのといったくだらない話だ。そして初年兵として尾形の動向が逐一把握されていた頃から、それらの噂がことごとく事実であったらしいことを月島は上官として知っている。
『山猫の子は山猫』
母親の職業や子を成した経緯がどこから漏れたものか不明だが、その言葉は出自への侮蔑に留まらない、尾形自身への嘲りとして実しやかに囁かれた。尾形百之助は、人を誑かす山猫だと。
尾形に対する花沢少尉の、その上官にあるまじき振る舞いも、離れて育った肉親は色恋沙汰になりやすいのだとか、薩摩の文化だとか言って噂の種にされている。そして、それを本気にしているわけではないが、確かに花沢少尉の尾形に対する視線は、単に兄弟のそれと片付けるには少し熱烈過ぎるような気もするのだった。
あれだけの執心を、その人心を掌握しようという段になって、何故中尉は利用させようとしないのだろう。
出来のいい人格へ抱いた興味、という話にもそれは同様だ。現状の規律を無視した暑苦しい態度でも見切るのに不足だと言うなら、尾形が歯牙にもかけていない周囲の浅ましい連中と同類と見做せれば、いい加減興味など失せるのではないか。
だが鶴見中尉は軽く笑って首を振った。
「あいつが初めからそう自覚して行動していたならば、話は早かったのだが。あくまで“ただの男”でありながら“まともな男”を思い描いているようだ。案外夢見がちな所があるな。そんなものが幻想だと、これまで散々味わってきただろうに」
「遊女に鼻の下を伸ばすような“まともな男”……ですか」
「そうだ。たらし込んでみせると息巻いているが、あれは思い違いをしている。とっくに少尉はたらし込まれているのだ。それをたらし込んだ当人が、とんと気付いておらん。既にこちらに傾いた心を、思う方へ誘導することに頭を割かねばならんのだが」
嘆いたような口ぶりだが妙に愉しげだ。
たらし込まれている、が具体的にどういう状態を指しているのか知らない。しかし尾形が一人で思い違いをしている、というのはありそうな話だと思った。尾形は、至極頭の切れる男だがたまに妙に抜けている所があった。
ふと鶴見中尉が訊いた。
「月島軍曹は、なぜ尾形上等兵はああまで“もてる”のだと思う?」
「……軍内の話ですか」
「無論そうだ。よく知っているだろう、奴の浮名は」
「存じております。が、何故と申しますと……」
月島は思いも寄らない質問に困惑したが、中尉は上機嫌な様子で答えを待っている。
一応、風紀のために考えたことがない訳ではない。思った通りを言う事にした。
「やはり、見目が良いからでは。軍服が映えますし、不思議といつも清潔感がありますし……あそこまで肌の白い男は、中々見ませんから」
「そうだな。確かに奴の肌は独特だ。何か被ってでもいないと、遠目でも目を引く。白粉を塗したような肌とも、あるいは白人の肌とも違う……生まれてから一度も、日陰から出た事が無いような昏い色だ。だが、それだけか? 他には?」
「他には、兵士としての卓抜さもあるかと。指導に当たられた初年兵や、演習で助けられた戦友などからは、憧れからか信奉者のようになる者がしばしば出ると聞きます」
「そのようだな。兵士としての才覚に自信がない者ほど惹き付けられるものがあるようだ。あとは?」
「あとは……雰囲気、でしょうか。陰があるというか……妙な色気があるとは」
「ふむ、なるほど。どれも頷けるものではあるが……そうか、まだ月島は尾形に妙な感覚を覚えたことは無いか」
「……おそらくは。妙な感覚、がどういった心境を指すのか、分かりかねますので」
「奴はな、底知れない男のように見えるが、その実ただ周囲を映している水鏡のようなものだ。尾形百之助に引き寄せられる連中は、奴の持つ何かへ惹かれているのではない。その身に己の内の願望を投影しているに過ぎんのだ。他者に好き勝手な像を思い浮かべる……それは相手に関わらず、大なり小なり皆がやっている事ではある。が、尾形百之助にはそれらを殊更引き寄せる、ある種の吸引力があるらしい。信奉者もいれば、反対に仇敵のように憎んでいる者も多いだろう」
確かに、傾倒する者が現れる反面、何故そこまでというくらい尾形を毛嫌いし忌まわしく思う者もしばしば現れた。たまに揉め事に発展するほど苛烈なものだ。敵を作らない性格ではない事は確かなので、あまり気にしてはいなかった。
だがそもそも恋慕であれ、憎悪であれ、そこまで強い感情が頻繁に一点に集まること自体が異常なのだ。ましてや何の意思も顕さない、ただ一人の男に。
「言わば”憑代”だな。見る者が持て余している無自覚の己の亡霊が、その身に浮かんで見える」
「本人の人格を無視して、ですか?」
「では、尾形百之助とはどういう人間だ? 月島軍曹」
月島は言葉に詰まった。
どんな人間か。あの男についてそれを一言で表すのは、ひどく難しいことのように思えた。
知らないわけではない。むしろ兵士としては上官として人一倍よく知っている。目立つ男であるし、特出して頼りになる部下だ。冷静を通り越して冷淡な部分もあるが、そのぶん合理的で明瞭さがある。ここぞという時の判断は速く、正確であるし、情はないが責任感はある。ゆえに、軍人としての能力は誰よりも信頼できた。
だが人間としてとなると、その能力の優秀さの分、隙がなく窺い知れない所が多い。喜怒哀楽はもとより、何か偏った思想を覗かせることもないし、不必要なことは喋らない。しかもそれは何かを隠しているという風でもない、自然な無為だ。まるで野生動物のような。
不意に先刻過った考えを思い出した。同時に、時折見かけるその独特な仕草が眼に浮かぶ。月島は言った。
「“噂”とは無関係に……猫のような男だと、思うことがあります」
中尉は珍しく驚いたような顔をした後、愉快そうに声を上げて笑った。
この上官が、これだけ素で笑っているのを見ることはあまりない。思いがけない所に踏み込んでしまったようで、妙な居心地の悪さを覚える。
一頻り笑った後、中尉はやけに満足気に頷いた。
「流石は軍曹、見る目があるな。そこまで的確に奴を見れるのなら、たらし込まれることも無いのだろう」
「……はい」
とりあえず返事をした。何故自分がたらし込まれる込まれないの土俵に入らされるのか疑問だった。
「だがそのかわいい猫も、血統書付きの高貴な弟の扱いに苦戦しているようだ。お前も必要そうなら助力してやれ。少尉殿の補佐官のよしみでな」
補佐官であることが、この場合何の関係があるのだろう。月島は内心馬鹿馬鹿しい思いに駆られながら敬礼し、その場を後にする。
明らかに鶴見中尉は面白がっているだけだ。やはり、花沢少尉の動向はそれほど重要視していないように見えた。むしろそれが及ぼす尾形への影響の方を気にしているような。
月島は思う。ああ言った中尉こそ、尾形の中に何かを見出したのだろうかと。
己の内にある、尾形自身のものではない心を映して。
◇
尾形は初年兵の頃から師団内で有名人だった。
無論出自のこともその理由の一端ではある。早いうちから何故か広まっていたそれを、上下関係の厳しい軍隊において、部下に対し憚ることなく兄様と呼ばわる少尉の存在が裏付けした。そこに加えて本人の、妙に目を引く存在感とあのふてぶてしさ。
師団長の実の子であるという事実も、捨てられた妾の子であることも、上官に兄と慕われていることも、人目を引くことも、それでいて愛想がないことも。何もかもが尾形の不利益に働いた。当然の成り行きだった。何を言われたところで、尾形は結局なんの後ろ盾もない新兵に過ぎなかったのだ。
入隊早々から古参兵より執拗な扱きに遭い、人一倍厳しくされた上に、早くから頭角を現して上等兵候補に推薦された時もひどく妬まれ、出自ゆえの伝手や贔屓ではないかと揶揄された。父親の血による威光、あるいは、母親の血による人を誑かす性質……だが尾形に対する庇護など何処にも存在しないことは、私的制裁に勤しむ古参兵たちが一番分かっていただろう。
ただでさえ厳しい訓練にそうした不遇を与えられ、相当な苦境を味わった筈だった。しかし尾形が辛そうな様子を見せたことは無い。それどころか尾形の名を知らしめた一番大きな要因は、偏にその優秀さだった。
銃に関しては達人と評され、表彰されるほどの腕を持つ。常人には不可能なその射撃性能だけでもその才覚を知らしめるには十分だったが、尾形は何をしても基本的に頭一つ抜けていた。どんな辛い訓練だろうと、誰もが眠くなるような座学だろうと完璧にこなしてみせる。それでいて理不尽な扱きにも弱音や愚痴を吐くどころか、本当に何とも思っていない様子で、やれと言われたことはやってのけた。
余裕すら感じられる程だった。上等兵候補者は皆洗濯する暇もないほど多忙な日々を過ごす筈だが、尾形だけはどんな時もくたびれた様子も見せず、端然としていた。基礎的な体力に恵まれているというのもあるだろうが、それだけでは説明のつかない強靭さだった。例えるなら肉体的な苦痛があったとして、それが精神的苦痛に繋がっていないかのような根本的な違いだ。それでいてその気丈さの裏に、不屈の精神力といったものがあるようには見えないのだった。
上等兵候補の選考基準には強い上昇志向の有無があり、基本的に上等兵になることを強く希望している人間だけが選ばれるようになっている。そうした精神的支柱が無ければ、耐え得る訓練ではないからだ。皆、数いる軍人の中から己がその希少な枠に選ばれたということを誇りとし、必ず上等兵になってみせるという志だけを頼みにして訓練期間を耐え忍ぶ。
実際成れさえすれば、上等兵というだけで一等卒とは除隊後の扱いも天と地ほど異なった。職にも嫁取りにも有利に働き、後の栄達は約束されていると言っていい。だからこそ候補者たちは耐えるし、耐えた者は耐えきったという自負で模範的な兵士たらんとその実力を奮うようになる。
だが尾形にはそうした社会的動機が欠けていた。上官が部下の書信や持ち物を勝手に検査することは珍しくないが、何度検められても尾形の私物からは郷里からの手紙はおろか嗜好品のひとつも出てこなかった。軍隊生活の辛さと不安の中で周囲の若者たちが親や兄弟、あるいは恋人と手紙を遣り取りする中で、尾形には書く宛てもないという。親類は皆鬼籍に入っているのだと。今後村に帰る予定も無いと言っていた。
そして件の父君とは、その関係性の周知が進むばかりで、接触の気配すら見られない。
棄てられた男は、優れた能力以外には何も持ってはいなかった。その秀でた能力だけが、尾形を誰もが一目置く上等兵にまで押し上げた。なると本人が言い、なれると周囲が見做し、実際早々になってみせた。優秀な成績と上官のお墨付きで。まるで、軍人になるために生まれてきたような男だった。
上等兵になろうが年功序列は兵卒である以上残るため、若い上等兵は何かと古参兵に目の敵にされるものだが、名が知れていくのと反比例するように尾形への私的制裁は行われなくなっていった。衆人の前で視覚的に辱められないことが、尾形の軍内での貫禄を更に増させている。今尾形が少しでも頬を腫らそうものなら、瞬く間に噂と詮索の目が広がるだろう。おそらくそれを恐れているのだ。尾形を噂で嬲っておきながら、だからこそ己が噂の対象になるのは嫌なのだろう。
兵卒でありながら鶴見中尉を始めとした士官と関わる機会を頻繁に持つことは本来ならば有り得ないことだが、実際に尾形は接触を持っている。そのことも抑止力となっていた。皮肉だが、精神的に辱めるための“噂”の信憑性が上がったことで、肉体的に辱められる機会は減少したということになる。
そして真偽不明のあらゆる噂と、”第七師団27聯隊の尾形百之助”の知名度だけが、一人歩きをするようになった。
この現状にどこまで尾形自身の意志が介在しているのか、師団内の全てを見通せるわけではない月島には分からない。しかし、少なくともその研鑽は本物だった。厳しい訓練や演習の中で死傷者が出たり、全体が危険に晒されて士気が落ちたような時も、尾形は常に率先して動く。そうすべきだと判断した事ならば、己の身を危険に晒す事でもやる。おそらく戦場に赴けば、存在感は更に増すだろう。あの不動心は命を獲り合う戦場にうってつけの資質だ。そしてこれまでがそうだったように、その行動で助けられる戦友が必ずいる。
時に献身的とすら映る、自他共に対する非情さ。それが善い方向に働くことを、喜ばしいと思う。月島は尾形のことが嫌いではなかった。
孤独でも、悪路でも、身軽さ故に悠々と通り過ぎていく“山猫”のような。そんなある種の気高さが好ましかった。
◇
土曜の夜。点呼の時間も近いというのに、兵営の裏に続く建物の角に、複数名の兵卒が屯していた。
「何をしている?」
「はっ月島軍曹殿ッ」
皆慌てて一斉に姿勢を正し敬礼する。二等兵から古参兵まで顔ぶれは様々だ。
その向こう、建物の陰になっている方角から、凄まじく冷やかな声が響いた。
「……お聞きになりましたでしょう。人が集まっているようですよ。手を離して頂いても宜しいですか」
「分かっております。先の件、頷いて頂けるならば」
「いいえ。お断り致します」
「兄様」
来たか、と内心うんざりしてしまった。覗けば、件の兄弟が向かい合って何事か揉めているような様子だった。
尾形の白い手を、日に焼けた花沢少尉の手が引き留めるように掴んでいる。そのあまりにも違う肌色と、向かい合う二人の体格差は、いつ見ても月島をどこか憂鬱な気分にさせた。尾形は小柄という訳ではないし、厳しい鍛錬で鍛え上げられた逞しい体つきをしている。しかし生まれ持った骨格の大きさが違うのだった。
「揉め事か」
「はっ。いえッ、明日の休日、花沢少尉殿が尾形上等兵殿をお誘いになられたのであります」
緊張した面持ちの二等兵が姿勢を正して答える。
花沢少尉が尾形を外出に誘うことは全く珍しい事ではない。それを尾形が断るのもまた同様だ。しかし、鶴見中尉の言っていた遊郭の件からまだ間もない。今は尾形が花沢少尉を懐柔しようという立場の筈だ。そんな時期にあくまで花沢少尉の方から尾形に誘いがあり、そしてそれを尾形が断っているという状況は些か不思議な気がした。
その疑問に答えるように、覗いていた頭を引っ込ませた一等卒が興奮気味に耳打ちしてくる。
「勇作殿は、父君であらせられる花沢閣下に尾形上等兵殿を会わせたいそうで」
月島は眉を寄せた。先の件の意趣返し……という訳ではないだろう。少尉の人柄から考えて。
別の古参兵が訳知り顔であとを続ける。
「珍しい事ではないんですよ。前々から会わせたがっておられましたが、いつも尾形上等兵はけんもほろろで。でも今回は勇作殿が、頷いてくれるまでは梃子でも動かぬとばかりに粘っておられるのです。第七師団の日露出兵も確実と言われている昨今、この機を逃してはならぬというお積りでしょうな」
「多忙な花沢中将閣下が久方ぶりに御宅にまとまった時間戻られるとの事で」
「千載一遇というわけです」次々と聞いてもないのに追加情報が齎される。
若い二等兵が唾を飲み込むようにして訊いた。
「何故尾形上等兵殿は父君にお会いになろうとなさらないのでしょう?」
「そりゃあ母子共々捨てられたんだ、許せんに決まっとるだろう」
「いや、そもそもいきなり家に招かれるというのは酷だろう。俺が尾形上等兵の立場なら、本家の敷居を跨ぐ度胸は無いよ」
「しかし呼び出すなんて畏れ多いことを出来る相手ではありませんしな」
喋り出すと止まらないといった調子で、噂好きの面々が好き勝手に話し合うのを、月島は呆れて眺める。
人間集まればこうして下世話な話に花を咲かすのは老若男女、どの界隈でも変わらないらしい。ましてやいよいよ出征が間近の現実として迫り、非日常がすぐそこまでじわじわと迫ってきている最中、兵達は常に浮き足立ったような興奮状態にある。近々死ぬかもしれないという恐怖、吊り橋の上のような高揚。そればかりは訓練や鍛錬でもどうにもならない個々の性質だ。
帰るべき日常と人情を求めて兵達は細かに家族へ手紙を送り、戦友との交流を深め、あちこちで屯しては少しでも戦争と関係のない話を貪るように求める。そんな中で、この非日常の中にこそ本来日常的であらねばならぬ家庭の問題を抱え込んだあの兄弟が、格好の噂話の的となり好奇の目を集めてやまないのは必然と言えた。それでなくとも目立つ二人だ。今や花沢少尉と尾形上等兵の進展は、第七師団の一大娯楽と化しているのだった。
「月島!」
漏れ聞こえる騒めきに我慢ならなくなったのか、よく通る花沢少尉の声が一喝した。止まらなくなっていた兵たちのお喋りがピタリと水を打ったように静まり返る。現金なことだ。
求めに応じて、月島はパンパンと手を叩き退散を促した。
「ほら、さっさと戻った! 愚図愚図すると拳固だぞ!」
一斉に返事して、野次馬は蜘蛛の子を散らすように去っていく。月島はため息をついて、渦中の二人の許まで近づいていった。
「兄様。確かにいきなり我が家にお招きしようというのは些か性急過ぎる事の運びです。また、父上の兄様への仕打ちが決して許されるものではないことも重々承知しております。ですが……」
しっかり野次馬の発言を聞いた上で、馬鹿正直に取り入れている。少尉は改めて両手で尾形の手を捧げ持ち、勢い込んで言った。
「家の者もみな、兄様を歓迎致します。ですからどうか、戦地へ赴く前に一度でもお二人に言葉を交わして頂きたいのです」
尾形は小さく笑みを浮かべた。昏い笑みだった。
「明日、お宅には将校殿が数名招かれる筈でしょう。お迎えの準備で大忙しなのでは?」
「……どうしてそれを」
少尉が動揺した声で呟いた。月島も知らなかったし、言わなかっただけかもしれないが鶴見中尉からもそんな話は聞かなかった。
私宅に招き、私的な交流として将校同士で話す用件。そんなものは非公式に軍事の相談をするために決まっている。
何故かそれを言い当てた尾形は、嗜めるように言った。
「嘘はいけませんよ、勇作殿」
「……ッ嘘ではありません! お招きすると言っても一日中居られる訳ではありませんから」
「だとしても、お歴々の方々の合間に俺のような余所者に入り込まれれば、お家の方はさぞご迷惑でしょう。何より、中将殿にとっても」
「そんな……余所者だなどと仰らないで下さい。実の息子に比べられる事情など」
「貴方で言うなら、そうなんでしょうね」
「兄様のことです!」
尾形は聞き分けのない子供を見る目をした。
「勇作殿。俺はあの方を恨んでいるという事も無ければ、許さぬなどという畏れ多いことも思っておりません。何度も言うように、閣下ご本人のご命令とあればお家だろうと何処だろうと参上致しましょう。一介の軍人としてです。今俺という兵を花沢中将殿が必要とするような用事がお有りでしょうか?」
花沢少尉は言葉に詰まった。弱々しく言う。
「私はただ……父上と貴方に、親子として会って頂きたいのです……」
「それでどうなります?」
「……ゆくゆくは、あの家を、貴方の帰る家にしたいと思っています」
尾形は笑った。単純に、面白い冗談を聞いたというような反応だった。
思わず月島は口を出す。
「少尉。尾形の言う通りです、中将殿が尾形を呼べと仰ったのですか?」
「……いや。私の、独断だ」
「それならば、尾形が断った以上は引き下がってやらねば尾形も困るでしょう。実際中将殿がご迷惑に思われない保証など、ご本人でない以上少尉にも出来かねるのではないですか」
直截な問いに少尉は苦い顔で月島を見た。その表情から察するに、否定は出来ないのだろう。
少尉が尾形をこれまで誘っていた気持ちが本当なら、同様に父君の方にも打診はしていた筈だ。だがこれまで先方から尾形に何らかの接触を図る素振りは一切なかった。今もそれは同様だという。ならば会いに行ったところで、門前払いをくらう可能性の方が高い。
それが分からないわけでもないだろうに、何故そうまで意固地になれるものなのか。月島は聞いていて正直苛立った。親と子の関係が無条件で尊ばれるべきものだと言えるのは井の中の幸せ者だけだ。
尾形が笑ったまま言った。
「あまり熱心なもので、てっきり今回は本当にお呼びがかかったのかと勘違いしてしまいました。先頃、余計な気を回して勇作殿を悪所にお誘いした事をお怒りになられたのかと」
明け透けな物言いにぎょっとした。
「尾形!」「兄様!」咎めるため発した呼び掛けが少尉と被る。
「私がそれを他言するとお思いですか!」
「勇作殿が仰らずとも、目撃した者が居たかもしれないでしょう」
しゃあしゃあと言ってのける。
「しかしそうではないとしても、あの件で何か勇作殿の中にわだかまるものがあるから、こうして今俺を引き留めておられるのでは?」
底のない黒い目がじっと見据えるように少尉へ向けられた。
「勇作殿は今、俺をどうしたいと思っていらっしゃるのですか?」
核心だった。初めから花沢少尉に分が悪い。尾形に失うものはないのだ。
少尉はしばらく言葉に詰まっていたが、やがて観念したように話し出した。彼にしては珍しく、低い声でぼそぼそと。
「……あのような高級な遊郭に、あの持成し。兄様一人のお心遣いで、用意出来るものではない。何方かと協力して、あの場は設けられた。違いますか」
尾形は答えない。沈黙は肯定だった。
「私は……私は悔しいのです。今回のことだけではない。一部の卑しい者たちから、不当な噂で貴方が貶められ続けていることが耐え難い。その上ああして、私に対し、まるで誘惑するような……噂のままに振る舞うようなことを、兄様にさせた者が居る。おそらく士官の中に。私はもう、我慢がならない」
吐露する拳は震えていた。それに目を落としてから、静かに尾形が尋ねる。
「それで、ご実家に?」
「はい。少なくとも家に招かれ、父上と交流した……その事実があれば、出自を蔑むような陰口など言えなくなるでしょう。兄様がこちら側だと見做されれば、謂れなき誹謗や身勝手な憶測など、黙らせられる筈です」
「“山猫の子は山猫”……」
尾形はまるで他人事のような無感動な調子で呟いた。少尉は己が言われたように痛ましげな顔をしながら言い募る。
「貴方を守りたいのです。貴方の名誉をこれ以上傷つけさせたくない。今会っても、確かに父上は貴方に良い顔をしないかもしれません。しかし挨拶だけでも交わして、御立派なその様子を御目にかければ、必ずいずれ父上のお考えも変わります。そもそも父上には兄様への責任がある。父上の息子であることで貴方が好奇の目で見られ、結果不当な扱いを受けているのなら、それはやはり父上によって解決されるべき問題だと思うのです。今はとにかくお話だけして、そして後々父上が兄様を歴とした息子であるとお認めになれば、このような不遇も完全に解消されます」
傍で聞いていた月島は、随分虫のいい話だと思った。
その“お認め”が無かったからこその尾形の現状なのだ。これまで散々放置してきたが故の不遇を、今更態度を改めることで改善されたとして、これまで被ってきた泥が無かったことになる訳ではない。
無論それを承知で言っているのだろうとは思う。後顧の憂いを断つために、という事だろう。だがその噂を思わせるような尾形の振る舞いが、いざ自分に向けられるに至ってこのような最後通牒じみた熱意を齎したのだとすれば、それは尾形の為というよりも、少尉自身の禍根を断つためなのではないかと勘繰ってしまう。
規律が乱れると苦言しても頑なに兄様と呼ぶのは、“尾形上等兵”と呼ぶのに抵抗があるからだと伺わせる話を何時だったかしていた。花沢の姓に生まれ、士官学校を卒業し、少尉として上官の立場となった自身。その身で違う名字を、違いすぎる階級を呼ばわることは、血を分けた兄を完全に疎外してしまうことだと。しかしその結果、件の“父上の息子であること”を広く吹聴してしまっているのは他ならぬ少尉自身だ。
眼前の行動も、真実尾形のためというより、そうした行動をとる事そのものが目的であるような気がしてならない。“これ以上名誉を傷つけさせたくない”……話は分かるが、そのために歓迎されない実家までわざわざ赴いて、その威光による間接的な庇護を得ることは、名誉の代わりに別のものを傷付けるのではないか。矜持とか、誇りとかそういったものだ。後ろ盾なしでこれまで折れずやってきた尾形の中に、そうした感情が若し在ったならば、の話だが。
それに、差し向かいで姿を見せさえすれば、いずれは中将殿も尾形を認める筈と言い切れるその根拠がまるで分からなかった。花沢少尉にとっては、それはさぞかし尾形の姿が立派に、慕わしく見えているのだろう。態度を見れば分かる。しかし父君にとってもそうに違いないというのは思い込みに過ぎる。
少尉には、己ならば絶対に兄をこんな目には遭わせないのに、という忸怩たる思いがあるらしい。しかし今となっては、やはり尾形の置かれた状況を改善出来るのは父上しかいないという結論に達したのか。そして理想通りになることを望むあまり、都合のいい展開を期待している。惚れた欲目、という言葉が頭を過って月島は頭を振った。
確かに、尾形の置かれた状況が理不尽であることは事実だ。中将殿がどう思うかは別にして、息子として家に招かれたという事実が尾形の立場を変える可能性があることも確かだろう。
家族の問題と言われてしまえば月島の出る幕はない。少尉の考え方に反感を抱くのは、己の出自に照らし合わせた、月島自身の個人的な偏見かもしれない。決めるのは尾形の考えひとつだ。
そもそも自身の置かれた立場について、尾形がどういう心境でいるのかすら全く分からないのだ。辛いと思っているのなら、少尉の申し出に乗ることもまた、悪くない選択肢ではあるだろう。
月島は尾形を見た。尾形は相変わらずの、人形のような無表情で言い放った。
「父君も誑かしたのだと言われるだけでは?」
恐ろしく冷えた返答だった。月島は目を剥いた。花沢少尉は絶句した。
尾形はボリボリと頭を掻いて、面倒な説明をしなければならない時のような薄笑いを浮かべる。
「俺に関して言われていることを、勇作殿がそこまで気にされておられたとは知りませんでした。勇作殿はお優しい方ですね……」
ひっそりと囁くようなその声音には、どこか胸をざわつかせるような湿った響きがあった。少尉の動揺が伝わってくる。
「しかし、そういう事でしたらその件に関しては、お気になさるような事ではありませんよ。遊郭にお誘いしたのは本当に俺の差し出がましい思いがあっての事です。俺が好奇の目で見られるのも、まあ、成り行きみたいなものですから」
「しかし……あまりにも卑劣ではありませんか。貴方と、貴方の母君を揃って貶めるような……」
「さあ……故人を悪く言ったところで、聞く耳もありません。結局は、俺という人間がどこかおかしいのだと言いたいのでしょう。実際俺にも不思議なのですよ。新兵は皆こんなものなのかと思っていたら、お声がかかるのはどうも俺だけらしい。ある程度年次が進んで馴染んできても、やはり俺だけにそういう話が回ってくる。自分では分からないその差異の理由が、お前の生まれついた性質だと言うのなら……そうなのかと、納得する外はありませんし」
肩を竦める尾形に、狼狽えた少尉の声が訊いた。
「そ、そういう話というのは……」
「やらせろ、というような」
少尉は再び絶句した。月島は眉を顰めて問う。
「今もあるのか? 最近は大人しいと思っていたが」
「いえ、実際大人しいです。ここまで来るのに苦労しました」
喉の奥で笑う尾形の様子には、何の後ろ向きな感情も伺えない。しかし言い方が引っかかった。まるで己に向く周囲の動向を調整しているかのような言い回しだ。
それを問う前に、少尉が上擦った声を上げた。
「そんな……そんな直接的に、恥知らずなことを要求してくる輩が居るのですか!?」
「結構いますよ」
相手の知らないことをただ伝えるような単調さで尾形は肯定した。
「わ、私は……仮に下心があったとしても、兄様に向けられているのは、そんなあからさまな声ではないと思っていました。人の懐に入り込むのに長けている、というような、妬みであるのかと」
「勿論、そういう意味で言っている者もあると思います。純粋に俺に目をかけて下さる上官殿も居りますから……うまく取り入ったのだろうとね。しかし“山猫”には、枕で客をとる芸者の意味もあるのだとか。ご存知でしたか?」
「……私は……」
「ご存知だから、噂と遊郭の件を結び付け、そこまで強い抵抗を感じていらっしゃるのでは?」
少尉は唇を震わせた。
「……きっと、そういった意味にとる者も居るのだろうとは思っていました。しかし明け透けにそんな意味で言っているとはとても……そうでしょう、あんまり酷すぎるではありませんか。そんなものが、生まれついた性質であるわけがないでしょう! 勝手な欲望の不始末を貴方に責任転嫁しているだけだ!」
もっともだ、と月島は思う。だが同時に、それは“父君”にも言えることだと冷えた頭が思った。
孕ませて捨てた不始末が、捨てられた側に“山猫”として責任転嫁されているだけだ。
花沢少尉がここまで憤るのは、心の底ではそれに気付いているからか?
「誰ですか? 兄様を貶めた人間の名前を言って下さい!」
「誰といいますと……直接肉体の関係を求めてきた者ですか? それとも淫売という意味で山猫と蔑んできた者ですか? 陰でそう言っているらしいと分かっている者ですか?」
「全部です!」
「どうなさるのです?」
「然るべき処罰をします。仮に冗談にしても、あまりにも度を超している」
「全部となると、相当数居りますから、この重要な時期の師団の運営にも支障が出ると思いますが」
少尉は言葉に詰まった。その正直な反応を興味深そうに見つめながら尾形は続ける。
「それに罪の所在など決めるのは困難だと思います。冤罪ということもあり得ますし、証明も難しいですし。一部を罰して一部を罰しないという不均衡が出ても良くない。陰に隠れてこそこそとあげつらう者より、直接申し入れてきた者の方がましという考え方も出来る」
以前、月島が尾形に問い質した時も、同じように煙に巻かれたのだった。権力という、より大きな力の介入によって強制的に事態が解決されることを拒んだのだと思った。生まれという強制的に付与された属性によって付きまとう問題の処理を。
「しかし……せめて、肉体の関係を迫るような、危険な輩はどうにかしなければ」
「いえ、そっちは先ほども言った通り、最近は静かなものなのですよ。というのも、そういう輩を黙らせるコツというものがありまして。続けてきた効果が出ているのでしょう」
「コツとは……?」
「簡単なことなのですが。例えば複数人に誘いを持ちかけられていたとして、その中で一番階級や立場が上の者の誘いだけ受けるのです。その際に条件をつける。“他にも声を掛けてくる者がいて困っている、そいつらを黙らせてくれるのならあんただけには身を許してもいい”とね」
少尉は呆然とした。月島も初めて聞く話だった。
「そいつに逆らえない階級の誘いはこれで切り捨てられますし、報復を恐れて無理やり手を出そうとしてくることも無くなる。しかし同じ程度の階級の者には効果がないので、小競り合いになったりはしますが」
「以前、たまにお前を巡って乱闘騒ぎが起きていたのはそれが原因か!」
「大体そうでしょう。そしてそいつよりも上の階級の者から誘われればそいつに同じ事を持ちかける。相手も後ろめたさ故か必ず約束は守ろうとしますので、皆勝手に露を払ってくれます。そうやって上に行けば行くほど母数も減っていき楽になるという寸法です」
「そんな事してたのかお前!?」
「きっ危険ではありませんか!? 逆恨みされてしまったりするのでは!?」
我に返った少尉の懸念を、尾形はけろりと肯定する。
「まあ多少は。その時はその時で対処します」
「危機感が無さすぎる!!」
憤りも露わに頭を掻き毟る少尉に月島も同意した。
「何度も言ったが何故報告しないんだ! 相手に正式に罰則を与えられる案件だぞ!」
「非があろうが無かろうが、問題の当事者として軍に何度も報告を上げたという時点で内申は下がるでしょう。そんな事をしていたら上等兵にはなれていなかった。長い目で見れば、付け焼き刃の救済処置を繰り返して低い階級のまま対処するよりも安泰と言えます」
月島は頭を抱えて重いため息をついた。尾形の思考と理屈が選んでいるのは、独りで完結した最善手だ。尾形という一個の人間と周囲の環境、そのあまりにも単純な二項対立には、尾形のために協力する他者というものがまるで想定されていない。
確かに身に起こった問題を正規に談判すれば、仮に被害者側であろうとも加害者との区別なく、密かに要注意人物の欄に加えられてしまうのは事実だろう。困ったことがあれば何でも相談しろというのは、対処し保護するためという体裁を取った、内情把握のための方便に過ぎない。組織など得てしてそんなものだ。
だが、そうした結果を見越して一人で対処できること自体がどこか歪んでいる。権力に助けを求めるのは、結果のためというよりむしろ、もう自分に出来ることはないという諦めをつけるためだ。その過程で個の意に沿わない不都合が生じたとしても、手を講じたのだからきっと改善される筈という期待と慰めを頼みにやり過ごし、やがて最善ではなくとも変化した状況に迎合する、被支配者の処世術。だが尾形にはそうする必要すら無いのだろうか?
尾形には初めから、期待がない。己の行動以外に、己にとって何か良い結果を齎すものが存在するかもしれない可能性を、端から放棄している。社会性が無いのではない、むしろ社会の中で生きる能力が高すぎるのだ。個のまま群の中で立ち回ることが出来るほどに強い。
だが尾形は気付いているのか。そうした性質こそが、群を引き寄せてやまないのかもしれない可能性に。
「だから腹が立つ立たないも無いのですよ。ある程度事実ですから。うまく言うものだと感心しております」
どこまで本気か分からない無表情でのたまう。
動揺しながらも、だからこそ感情が追い付かず理性だけで喋れているかの如く、はっきりと少尉は反論した。
「しかしッ、それは止むを得ず、苦難を払うためした事ではないですか! 始めからそんな声を掛けてくる連中が居なければ、せずに済んだ事ではないですか!」
「……卵が先か、鶏が先かなんて意味のない問いですよ。もう卵も鶏も有るのですから」
尾形は俯いた。その落とされた視線に滲むのは、諦観なのだろうか?
花沢少尉は再び尾形の手を掴んだ。
「やはり父上とお会いして下さい」
「勇作殿」
「兄様は一人ではありません。血の繋がった家族が居るのです、すぐそばに!」
そう言って強く握られた手を前に、尾形が始めて顔色を変えた。それは、怯んでいるような表情に見えた。
「貴方には、帰る場所があるのです。これからはもう耐える必要など無いのです。どうか聞き入れて下さい」
「嫌です」
首を振って言う。初めての理屈抜きの答えだった。はっきりした表情のない、どこか心許ない顔で拒絶する様は、やけに幼い。
「兄様、」
「花沢少尉。もう勘弁してやっては如何ですか」
月島は見兼ねて間に割って入った。
少尉は珍しく忌々しげな色すら浮かべて月島を睨む。
「退がっていろ月島。この問題がこれまで放置されてきた件は、お前にも責任があるだろう」
「無論そうです。しかし今回のこの話は尾形自身が断っています。最終的に身の振り方を決めるのは、本人の意思です」
「本人の意思ではどうにもならない事の所為でこうなっているんだ!」
不意に尾形がぽつりと呟いた。
「勇作殿。俺は哀れですか?」
少尉は目を見開き、水を浴びせかけられたかのようにサッと血の気を引かせた。
「そ、そんな……そういう事では……兄様……兄様! 私の眼を見て下さい。私の貴方への誠実をどうか疑わないでください!」
狼狽した少尉は、まるで一生を誓った相手に対するような大仰な口調で強く言い募った。尾形は顔を上げてその目をじっと見つめたが、やがて再度拒絶を口にする。刺激しないように気を付けているような大人しい声だった。
「お誘いには応えられません。先約があります」
「だ……誰ですか」
「名前は言いません。しかし前々から申し入れてきていた者です」
そう言って断ろうとする尾形に、少尉は苦しげな表情で師団内の2名の名前を口にした。突然飛び出した個人名に月島は尾形と揃って眼を見張る。
「書き置きの手紙で外出に誘ってきていましたね。差し出がましい事をして申し訳ありませんが、二人には私から断っておきました」
尾形宛の文を読んだらしい。上官が部下の書信を無断で検めることは珍しい事ではないが、花沢少尉に限って言えば酷く珍しい。おそらくこれまでそんな行動をとった事はない。ましてや勝手に返事を済ませておくなど、自身でも善い行いではない事を十分承知の上で、それでもやったのだろう。それだけ尾形に関しては形振り構わない覚悟という事か。
尾形は言葉が続かず、視線を彷徨わせ躊躇いを見せた。それは打つ手が無くなったという沈黙ではなく、少尉の熱意に気圧されたという様子だった。
あくまで理屈で線を引こうとする尾形に対して、感情的な熱意でもって干渉しようとする少尉。どちらの押しが強いのかは明白で、突き付けられたその差を前にどうして良いのか分からなくなったのだろう。
月島は花沢少尉の言う通りにするのが尾形にとって良いのか悪いのか、判断を付けかねていた。本人の意思を尊重するべきだという考えは依然としてある。しかし、本人にとっては不本意な行動が、後になってみれば本人のためになっていた……という事も、当然あり得る。少なくとも少尉はそうなる事を望んで話を持ちかけていた。実際、尾形の置かれている立場は、本人の意向を無視してでも引き離さなければならないという主張が通るほどに理不尽で酷だ。
尾形の拒否の理由が、現状では弱いと感じた。必要がないからというような消極的な言い訳しか出ないのならば、もはや今の少尉を納得させられはしないだろう。だとすると少尉の言う通りにしてみればどうだと、尾形の背中を第三者として押せば、この問題は収束するのかもしれない。それにより関係が強化されれば、例の懐柔の話にも有利に働くだろう。
先程尾形が言った「嫌だ」という拒絶は、どういう思いで出た言葉だったのだろうか。
鶴見中尉の話では、尾形が物心つく前に花沢閣下とは没交渉だったという。おそらく碌に面と向かって話した事もない父親。尾形は、恨んですらいないと言っていた。
父親とは思えない相手に、息子として今更顔を合わす事への抵抗か。その前提に父としての閣下への無関心さがあるのならば、尾形の言うように軍人としての任務と割り切って、少尉の考えに従う事も無理ではないことの気もするが。
やはりこうなっては尾形が折れてやるしか無いのではないかと、心を決めかける。その時、俯いたまま、尾形が小さな声でぼそりと言った。
「貴方と一緒に、会いたくない」
月島は目を見開いた。そして、理解する。
この男はまだ、父親を思い切れていないのだ。
「少尉」
尾形の言葉に固まっている花沢少尉に声を掛ける。言葉もなくこちらを向く、その精悍な顔立ちに言った。
「尾形が約束しているのは私です」
「な……」
少尉が唖然とした。尾形も目を丸くして月島を見る。
「黙っていて申し訳ありませんでした。しかし決まっている事ですので。ご遠慮頂いても宜しいですか」
「何を……そんな筈が、……いや」
少尉は頭を振って、落ち着こうとするように俯き眉間を揉んだ。深く息を吐いて、低い声で言う。
「……そうか。譲れないのだな」
「はい。恐縮ですが」
「兄様も、その方が良いのですか?」
問われ、尾形は瞬きした後、コクリと頷いた。
少尉はそれを見て一瞬切なそうな顔をしたが、葛藤を飲み込み潔く言う。
「わかりました。このお話は諦めましょう。……良い休日を。兄様」
尾形はその顔をしばらく見つめた後、敬礼した。
◇
であるならば明日は兄様をくれぐれも頼むと託され、月島は尾形と共に少尉のもとを辞して兵営に戻る。
戻る途中、先程までの話が聞こえていたかは分からないが、まだ性懲りも無くこちらを伺っている者がちらほら目についた。皆目が合うとそそくさと散っていく。
ああいう視線、そしてその後に囁かれるであろう噂が、少尉の話に付き合いさえすれば本当に解消されたものだろうか。だとすれば月島は尾形の道行きをひとつ塞いだことになるのかもしれない。だが尾形の拒絶は本物だった。正解など無いのだ。
しばらく無言で歩いていたが、ふと口をついて言葉が出る。
「……許してやれ。少尉に悪気はないんだ」
庇う必要は無かったが、気付けばそう言っていた。尾形は少し目を見張って、考え込むような沈黙の後、静かに応える。
「善いひとなんでしょうね。……本当に」
その声はどこか、寂し気に響いた。月島の思い込みかもしれない。しかしそう感じた。
尾形は全てわかっているのだろう。少尉が彼なりに本当に尾形のためを思っていることも。月島が尾形を庇って嘘をついたことも。それを分かっていて少尉が折れてみせたことも。それが誠意ゆえであることも。何より、それらがどうしようもない茶番に過ぎず終わってしまうことこそが、本当の損失なのだと。
まるで尾形を取り巻く人間は皆、尾形を孤独にするために存在するようだ。
「少尉にああ言った手前、明日は朝一番で出掛けるぞ。特に行き先は無いが、放っとくとお前はどこに引っ張っていかれるか、分かったもんじゃないからな」
半ば捨て鉢に宣言すると、思いも掛けない言葉だったのか、尾形はさっきよりも驚いた表情を見せた。そして珍しく、零れるように自然に笑った。
笑ったといっても、笑い声を立てるようなはっきりした笑顔ではない。ただ普通に、目を細めて、微笑んだだけだ。
初めて見る顔だった。柔らかい表情をすると顔つきに残る幼さが目立つ。それでいて、やはり何処となく、寂し気に笑うのだなと思った。
「軍曹も、みんなに噂されてしまいますよ」
『だすけん基ちゃんはみんなに嫌われたっちゃね』
突然、どこに眠っていたのか分からないほど鮮やかな記憶が、過日の懐かしい声と潮の香りが、月島の胸裡に過ぎった。
心臓を握られたような心地がして狼狽える。誤魔化すように慌てて月島は尾形の腕を小突いた。尾形は首を傾げ、不思議そうに笑う。その笑顔はいつもの小憎たらしい笑顔だったので、少しほっとした。
◇
消灯されてもなかなか寝付けず、寝台の上で組んだ手を枕に天井を眺めて過ごす。先刻蘇った情景のせいか、月島の内に浮かんでくるのは遠い故郷のことだった。多忙の中、久しく思い出していなかった、子供の頃の暮らし。
良いものではなかった。悪人の子供は悪人、いつもそう言って石を投げてきた近所の子供達がいた。成敗するが如くのそれは、ならば善行なのか?
無論、そんな筈もなかった。許されない者へ断罪という名の暴力を振るうことで、己が許される側の人間であると誇示する……それも悪行には違いない。そこには許される悪人と、許されない悪人が居るだけだ。
何もしない内から責められるのを、負けん気のままやり返し、その反撃を悪の証拠だと責められる。悔しかった。やり返さずには済まない己の拳は確かに汚れているが、何もされなければきっと何も起こらなかった。誰にも信じてもらえなくても。
いや、一人だけ信じてくれた子が居た。大人しくて、いつもはにかみながら、それでも”基ちゃんはそんな人じゃない”と言ってくれた子が。
善い人間だと言ってくれて、そして彼女の前では善い人間で居させてくれた、優しい娘が。
彼女が居れば他に何も要らなかった。そもそも、他には何も無かった。己にとって善いものは何も。
だが結局は彼女と添い遂げる事も、己には許されなかったのだった。彼女が許していても、彼女が許すことを周囲が許さなかった。
そして何も知らぬ己は、募らせた恨みのままに、本当に許されざる罪を犯した。
尊属殺。
軍で鍛えた拳には、子供の頃絶対に敵わなかった父が呆気ないほどに弱かった。
牢獄の中でいつも考えていた。やはり悪人の子は悪人なのだと。
悪人の子は何もせずとも基から悪人だとすれば……あるいは悪に染まることを運命付けられているという意味で、それが真実だと言うのならば……それは何の為に生まれ、何の為に生きていく人間なのだろうか?
悪とされずに済む人間と、そうでない人間の差は、どこで付けられるのか?
あの娘は知らぬ土地で、まともな人間と添うて無事に生きていると鶴見中尉に告げられてからは、ただただ虚しさという冷たい水に浸かるような日々がこの身に過ぎていく。
己の全てだと思い、生きるよすがとしてきたものは、所詮己の手には届かぬものだった。
ならばこの人生とは一体何なのか。
血の所為だ、と思っていた。人は血によって峻別され、己はあの父親から続く卑しい血統によってこの有り様なのだと。
だがあの兄弟はどうだ。
彼らを見ていると絶望的な気分になる。血を半分共有した人間同士ですら、あれ程までに絶対的に分かたれた人生が用意されるのだ。
その差に一体どんな意味がある? もう一方に混じった血、その卑しさを証明するためか? この師団内で囁かれている戯言のように?
血統など意味を持たぬと、恵まれた弟の悪徳を探す尾形は哀れだ。哀れでいじらしい。誰もが無くてはならないと口を揃えるものが、自分にだけ与えられていなかったとして、それが無くてもいい理由を探すことは当然の努力ではないのか。あるいは、その逆であっても。
正しい行いも、悪しき行いも確かにあるのだろう。間違った人間は、罪人なのだろう。だがそもそも歩まされる道が異なるのに、違う行き先に向かうことを、誰が責められるのだろうか?
