元々、他人の動向をよく見る性質なのだろう。
相手がどういう気分か、何をしようとしているか、今どういう状態か。
努めてそうしているというよりは、生来的な癖としか思えないほど、実に自然に観察している。生育環境がそうさせたのだろうか? 両親ともに常に多忙を極めていた事は想像に難くない。真正面から見るというよりは、相手の視界の外でそっと状態を把握して、それに合わせて自分の振舞いを決定するための術という印象を受けるのだ。
それは自覚症状に乏しい患者の様子を傍から診察しなければならない医者にとっては、うってつけの資質と言ってもいいだろう。しかし望まざるとに関わらず、そうまで他者から多くの情報を得てしまう鋭敏な視界には、人一倍の気苦労があっただろうとも思われた。親の病院でも、この村に来た初めにも。相手の気分や感情を悟った上で、それが悉く自分への望ましくない関心である状況は辛いだろう。
そう考えれば、基本的にこの村の中だけで生きてきた己には、そういった身の置き所のない気苦労という経験は縁遠かったように思う。
ついそんな風に自分と照らし合わせる思考すら湧いた。それというのも、己もまたよく他人を見る性質の人間だからだ。
俺の場合のそれは、医者という役割が先行して培われたものだが。
「今の、どういうやりとりだったんですか?」
遠慮がちに、困惑した様子で麻上君がこっそりと尋ねてきた時、一瞬何の話か分からなかった。
束の間考えて、それがたった今龍太郎と交わしたやりとりのことを指しているのだろうと見当をつける。
そのやりとりの結果、龍太郎は既に行動を開始しており、今は診察室に居ない。
「二人で見つめ合ったかと思ったら、高品先生が頷いてどこかに行っちゃって……」
首を捻りながらそう言われて、初めて気づいた。今し方のやりとりの際に、俺と龍太郎がまったく言語を使用していなかったことに。
「……患者の麻痺には中毒特有の特徴が見られた。お互い同じ見解を得たことが目を見たら分かったので、同定のために該当の資料を書棚から持ってくるよう目で指示した。龍太郎も同意して今取りに行った」
「えぇ……? 流石にそんな込み入った指示、目を見ただけじゃ……」
苦笑しながら言いかけた麻上君の後ろから「持ってきました!」という声と共に、龍太郎が正にさっき目で指示した通りの資料を手に抱えて戻ってきた。
「……ご苦労」
訳もなくばつの悪い思いをしつつ、龍太郎に声をかけて資料を受け取る。
麻上君は若干引いたような顔でこちらと龍太郎を交互に見ながら「テ、テレパシー……?」と呟いた。
龍太郎も不思議そうな顔で俺と麻上君の顔を交互に見ている。
俺だけがやけに気まずかった。
いつ頃からだったか。目を見てお互いの大まかな思考を理解し合うようになったのは。
初めは勿論そこまでの相互理解は発生していなかった。どちらかと言えばこちらが龍太郎の表情や仕草を盗み見て、感情や、その時注目している対象などを読み取ることが多かったように思う。
しかし龍太郎の方もこの村の環境に慣れてきて、前向きにここでの研修を捉えるようになると、患者だけでなく指導する俺の表情や仕草に積極的に意識を向けるようになってきた。
そしてそんな龍太郎を見て、自分の意図が正しく読み取られていることを俺も理解した。
要するに、お互い議論の前にまず相手をよく見て、その意図や感情を探ってから行動するのが癖になっている性質なのだ。そうする結果目が合い、お互いの意図と、相手が自分の思考をどこまで分かっているかまでも含めて観察して把握することを定常化する内、まず目と目で見つめ合うのがコミュニケーションの基本になった。そして遂には言語的会話に発展する前に必要なコミュニケーションが終了するまでになってしまった。
しかし何も言わずとも分かるからといって、横着してそのコミュニケーションだけで済ませるのも問題だろう。麻上君にも呆れたように「びっくりするので、患者さんの前では二人の世界で完結するのはなるべくやめた方がよろしいかと……」と尤もな苦言を呈されてしまった。
反省し、診療中は相手の内心に入り過ぎず適切な距離を保つように心がけ、以前のように指示を出す際にはハッキリと声に出して命じるようにした。そうすれば龍太郎は素直に「ハイ!」と返事を返してくるので、完全に俺が原因だった。
相手の理解を確認する時だけは目を見るが、意思を発する際には言語化という手段で外に出す。後学のためにも、医者としてやりとりする際には最低限この手数を守るべきだろう。麻上君の言う通り、少なくとも患者の前では〝二人の世界〟で完結させない方がいい。
いつか俺以外と組んで仕事する環境に身を置いた時、相手が俺や龍太郎のようなタイプとは限らないのだから。
だがそれでも診療時間外では、相変わらず目を見るだけで完結するやりとりは頻発していた。最早習慣化していると言ってもいい。
俺もそうだが、龍太郎も元来口数の多い方ではないのだろう。言語によるコミュニケーション自体を厭うわけではない。しかし内に溢れる自己完結した思考の中で、相手にリアクションを要求してまで外部化しなければならないものはあまりにも少ない。他者との距離が開いている者ほど、そしてその思考の内容が個人的な事柄に寄れば寄るほど。
いずれにせよ日常生活で目が合う殆どの時、それはお互い何かを伝えようとしてではない。ただ様子を見ているだけだ。自分のことを分からせようという意図はなく、相手のことを分かろうとして目が合う。
そうするとお互いそうである事が見れば分かるので、その時点で目的は達されてしまう。お互い変わりないことを確認し合って、会話に発展しないまま再び視線は離れる。結果、それほど会話が多いわけではないが、コミュニケーション自体はかなり頻繁に発生しているという奇妙な関係が出来上がっている。
だがコミュニケーションの多さがマイナスに働くことはない筈だ。そう考えると否が応にも生活を二人で共にしなければならないこの環境で、お互いの他者に対する間合いが偶然にも一致していたことは幸運だったと言えるだろう。
知り合ってそれほどまだ長いわけではないが、既に高品龍太郎という人間は俺にとってかなりよく知った存在の枠に収まっている。
そしてそれは、龍太郎にとってもそうだろう。
時が経つほどにその心が自分に開かれていくのが分かる。
生活の隙間にふと目が合った時、こちらも何も言わないし龍太郎も何も言わないが、龍太郎の方は実に色んな反応を見せるのだ。
ニコッと微笑む時もある。これは俺を見て何か知らんが楽しくなったらしい時だ。本人は笑った理由を話す気はないのでこちらとしては何とも言えない気分になる。
なんの反応も見せない時もある。これは俺を見てもまったく何の感情も浮かばなかった時だ。何か別のことを考えている時が多い。俺は、俺に対してこういう風景か何かを眺めるような顔を向けてくる相手にこれまであまり覚えがないので、こういう時の龍太郎がわりと嫌いではない。
眉尻を下げて困ったような顔で見てくる時もある。これは俺とは関係ないことだが気になることがあるので言おうかどうか考えている時だ。わりとそのまま言うのをやめて踵を返そうとするので俺は毎回呼び止めている。
不思議そうな顔でまじまじと見つめてくる時もある。これは何らかの要因で俺が普段と少し異なる状態だったのを見とがめて、様子を伺っている時だ。何故わかるのかと毎回驚くし、それどころか自分でも気づいていなかった変調にこちらが気づかされることもある。
心の内は目に見えないが、しかしこと龍太郎に関しては、その肉体は透けている。そしておそらく俺もまた龍太郎にとってはそうなのだろう。
しかしその日、往診から帰ってすぐ違和感に気付いた。
目が合わないのだ。
不自然ではない範囲で一瞬は合うが、いつものように真正面からこちらを見てこない。
「お疲れ様でした」
にこやかに麻上君が声をかけてくる。頷いて、龍太郎に尋ねる。
「今日の外来はどうだった?」
問われた龍太郎も、一見にこやかに淀みなく答えてきた。
「問題なかったっス。予約されていた患者さんですが……」
そのまま今日の外来患者についての搔い摘んだ説明をする。口調にも内容にもおかしな所はない。表情もいたって落ち着いている。しかし、目が合わない。こちらはずっとその顔を見て聞いているのに、非常にさりげなく、直視してこない。
勿論世間一般の他人の態度はこんなものだ。いくら一対一の会話でも、じっと目を見ながら話す人間の方が少数派だろう。実際俺自身も余人に対してはこうまで真っ直ぐ目を見続けたりはしない。威圧感を与えるからだ。しかし、こと龍太郎に関しては別だ。お互いの間で久しくスタンダードになっている距離感というものがある。今の龍太郎は、何故かいつもいるその場所まで降りてこなかった。
「夕飯の支度が出来たぞい」
イシさんの声がかかり、龍太郎がパッと笑顔を見せる。
「やったー。今日は何スかね?」
朗らかな笑顔だ。しかしそれは、見せるための笑顔だった。患者を安心させる時に浮かべるものだ。
いつもの、目が合った後に自然に零される笑顔ではなかった。
そしてやはり視線は完全に合う前に、するりと俺から逃げていく。
夕飯の席で龍太郎がおかわりに立った時、今日は薬品庫に来ていたため共に食卓を囲んでいた村井さんが、窘めるようにぼそりと囁いてきた。
「穴が開きますぞ」
「は?」
「高品先生の顔に」
一瞬考え込む。要するに、見過ぎだと言いたいらしい。確かに真意が分からないので、食事の間中龍太郎の顔を見ていた。一瞬でも視線がかち合えばこっちのものだからだ。その瞬間に今モヤモヤしている多くの謎が解決する自信がある。しかし龍太郎は不自然ではない程度に視線を逸らすのがやけに上手く、目論見は失敗していた。
龍太郎が席に戻ってくる。にっこりしたその顔だけでは、やはりハッキリした所が何も分からない。若干、恨みがましさすら感じてくる。
注意されても諦め悪くじっと龍太郎の表情を注視していると、村井さんが隣でやれやれという仕草をした。
夕食を終え、龍太郎がイシさんの片づけを手伝い、俺と龍太郎以外の三人が帰宅した。
診察室に鍵をかけて母屋に戻る帰り、三人を玄関先まで見送ってきた龍太郎と廊下で行き会う。
龍太郎は「今日も無事終わりましたね」とか「今日の晩メシもすごかったですね」とか何とか明るく言いながら、俺の横を過ぎてそのまま自分の部屋に行きそうな素振りを見せた。
この不自然さも明日の朝までの事なのかもしれない。一夜明ければこのわけの分からない挙動も消えて、いつも通り真っ直ぐ俺の目を見つめてくるのかもしれない。
しかし例えそうだとしても、まだ長いこれからの夜の間、目の前に居るのにずっとこの調子でいられるのは耐え難いと思った。たとえ傍から見れば、一瞬のすれ違いだったのだとしても。
俺がお前を分からず、お前も俺を分かろうとしない瞬間が在ることを許せない。
すれ違って行きかけた龍太郎の前で、横から壁に手をつく事で問答無用で行く手を阻む。
「えっ」
突然進路を防がれ、龍太郎は動揺した声を上げた。
「ど、どうしたんスか先生……」
俺の腕の辺りに視線を彷徨わせながら、細い声で問うてくる。何かあったことは確実、陥落は目前だ。
言葉でその謎を追及するのは簡単だった。しかしそんな迂遠なやりとりでは心が晴れない。
ぐっと身を寄せ、追いつめて壁に背中をつかせる。向かい合ったその体勢のまま、空いた右手で龍太郎の顎を掴んで上向かせた。
逃げられない距離で、とうとう真正面から視線がかち合う。
その瞬間、触れそうなほど近くにある大きな目が見開かれて、そして「つかまった」という顔をした。
他にも「もうダメだ」とか「申し訳ない」とか「でもホッとした」というような。諦めて兜を脱ぐような。そういう表情で、大人しく目を逸らさずに潤んだ目で俺を見上げてくる。
閉まっていた栓を抜いたように一気に流れ込んでくるその情報の洪水に、しばらく無言で見入っていた。
確かに、「つかまえた」という感じがした。
しばらく見つめ合った後、龍太郎が顔を覆い、その下からくぐもった声で言った。
「……スミマセン……」
「……内容は?」
問いながら手首を掴んで、顔を覆っている手を剥がす。
容赦なく頭の横に縫い留め直して促すと、この上なく情けなく、哀れを誘うような目で自供を始めた。
「今日、経過観察で来てた田所さんが、診療所の皆さんにってケーキくれて……」
「……ほう」
既に話が見えてきた気がするが続きを促す。
「すっごい美味しそうだったんですけど、四個しか無くて……」
「成る程」
「今日村井さんいらっしゃったじゃないスか……でも、先生に食べさせてあげなきゃダメじゃないですか……で、オレ一番身分的に下だし、皆さんでどうぞって麻上さんとイシさんと村井さんに譲ったんス……」
「そうか」
「でも美味しそうだなーってちょっと未練がましく見てたのがいけなかったのか……もう食べちゃったらどうですかって流れになってきて……」
「ふむ」
「いやいやダメですよ、先生のぶんだしって断ってた筈なんですけど……なんか……食べちゃって……」
「……」
笑いそうになったが耐える。
「初めから知らなかったら無かったのとおんなじですよって麻上さんは言ってくれたんスけど……でもすごいウマかったし……やっぱ先生が食べるべきだったよなって思ったらすごい申し訳なくなっちゃって……ホント、なんで食べちゃったんだろってスゲェ後悔して、先生帰ってきた後もすごい気まずくって……でも目が合っちゃったらもう無いケーキのこと絶対バレちゃうし……今更知っても遅いし……」
苦しい胸の内を切々と訴えて、許してください反省してますと、今は真正面から逸らさずに瞳を覗き込んでくる甘えた顔をしげしげと眺める。
別にどうでもいい、無いケーキ一切れのためにあれほど気を揉まされたのかと思うと凄まじい脱力感を覚えた。
しかし今は何よりも、ようやく合ったその目を見つめている充足感で胸の内が満たされている。
こうして他の何も視界に入らないぐらい間近で目を合わせていると、肉体を含めたお互いを隔てるものがこの世には存在しない気すらした。
「美味かったか」
指先でその頬の柔さを確かめながら訊く。
俺の声音から、仕草から、眼差しから赦しが正しく伝わったのだろう。はにかむように笑み崩れた。
そしてじっと見つめてくる、まだ少し申し訳なさそうな、それでもうっとりしたような眼差しが、声がなくともその答えを聞かせていた。
