いつか乾杯する日

 小さい頃、街を歩けばテラス席に座った大人たちが皆おいしそうに飲んでいた、黒っぽかったり黄色っぽかったりする液体。いつか大人になったら自分もああやって椅子に座ってのんびり通りを眺めながらアレを飲むのかなあ、なんて暢気に思っていたけど、きっともう本場のそれを自分が飲む機会は来ないだろう。今までの人生、いつかのことを考えた所でろくに当たった試しがない。確かなことなんて何もないのだ。周りを取り巻く世界は、この泡みたいにはかない。

「エビスとかキリンとか、サッポロとか」琥珀色の液体を眺めながら呟く。「日本のビールの名前って、めっちゃ日本スよね」
 自分でも物凄く適当な発言だと思う。だから返事は期待していなかった。けど一応、これは隣にいる先生に話しかけている。無視されてもいいから話しかけたいという気分の時もあるのだ。せっかく一人じゃなくて、言葉が通じて、自分の話を理解してくれる知り合いがそばにいるのだから。大きな熊のぬいぐるみとかではない、自分以外の他人がそこにいるのだから。
「確かに」
 先生から返事があった。わあしゃべった。うれしい。しかも同意だったので、にこにこしてしまう。

 招かれた宴もたけなわで、周りはガヤガヤと騒がしいほどなのだが、ここだけ切り取られたように落ち着いた空気が流れていて、眠気すらしてきそうだ。先生の隣に座るといつもこうだった。
 先生は村の有名人なので、案外こういう飲み会みたいな場所にけっこう呼ばれるのだが、どういう席だろうが先生は常に普段通りの静かな佇まいで座っているので、こういう賑やかな席で先生の隣にいると、周囲の空気とのギャップのせいかなんだかすごく落ち着いてしまう。喫茶店で勉強すると捗る、あの感じに似ているかもしれない。まあ普通に酔って気持ちよくなっているのもあるけれど。

「お前は、ドイツに居たんだったな」
「そーなんですよね」
 まさに考えていた話題が振られたので、変な返事になった。そう、ドイツに居たんですよね。オレという人間は。意外にも。
「でも子供の頃の話なんで、残念ながら本場のビールは飲んだことないんですよね。その場所で一番有名なとこを全然知らないって、結局何にも知らないみたいでむなしーっス。住んでた意味、あんまし無いみたいな」
「……そうか」
「まあ、普通の日本のビールで十分おいしいんで、いいんスけどね」
 本音なのに負け惜しみのような発言になってしまった。ばつが悪くて、グラスに半端に残ったそれをゴクゴクと飲み下す。美味しい。初めて飲んだ時は美味しくは思えなかったけど、大学時代何度も飲んでいるうちに慣れたのか、普通に好きになった。

 ビールだけじゃなくて、ドイツのことは大体知らない。子供で、親に一緒に連れ出して貰える機会も全然無かったので、知ってるところの周りでしか基本生息していなかったからだ。ドイツは日本ほど治安がよくないからあまり一人でフラフラ出歩くな、とかオフクロが言っていたっけ。日本の治安をまず知らねーよ、って感じのことを思った記憶がある。賢かったので口には出さなかったけど。

「これから知れるだろう。もう大人なのだから」
「え?」
「無くなったわけではないのだし、飲みに行くことだって出来る」
「えぇ~?」
 思わぬ意見を先生から頂戴し、面白くなって笑ってしまった。ビールを飲むためだけに? わざわざ? 特に用もなく頼りもないドイツへ? 現在絶賛臨床研修中なのに?
 確かに不可能ではないけれど。今後の人生でそれを実行しようと思える状況にいるイメージが湧かない。
 でもそういうことを言ってしまうのは野暮だって、昔の自分が言っている。
「そうですね。じゃあ、いつか」
 にっこりと、当たり障りない回答ってやつをする。いつか。子供の頃の自分のそれは裏切られた。でもそれは罪じゃない。いつかというのは、そういう他愛ない、お願いごとみたいなものだ。
 でも先生は、なんだかちょっとムスッとした顔でその態度を批判してきた。
「冗談だと思っているな」
「ええー?」
 どんどん面白くなって、クスクス笑ってしまう。自分より大人の先生が、自分より大人っぽくないことを言うのがおかしかった。
 怒らせないように、柔らかい口調を心がけて諭す。
「先生だって、あるんじゃないですか? そういう、ちょっとした行く理由が無くはないし、理論的には不可能じゃないんだけど、行ってない場所」
 先生は口を閉ざして、ちょっと考える素振りをした。そして口をへの字にしてぼそりと言う。
「……ある」
 素直な返答だ。あるんだ、と思いながら、なんだか微笑ましくなりつつ「そうでしょ」と言おうとした。
 けどそれを遮るように先生が言った。
「じゃあ俺も行くから、お前も行け」
 えっ。
 言葉を発そうとした口のまま、ちょっとぽかんとしてしまう。
 もしかしてこの先生、ちょっと酔ってるのかな? 内心首を傾げてから、ふと思いついてポロっと言った。
「いっそ一緒に行きますか」
 先生の目が少し丸くなる。その顔を見ながら、やはり深く考えてはいない適当な言葉をポロポロと繋ぐ。
「先生がその場所行く時、オレのぶんのチケットも買ってくださいよ。オレもドイツで先生のぶんまでビール注文するんで」
 自分で言っておきながら、想像すると面白くなって笑ってしまう。
 先生はグラスを傾けながら、少し考えるように沈黙していたが、やがてニヤッと笑った。
「……いいだろう。忘れるなよ、その言葉」
「もちろん。いつかですよ、いつか」
「いつかな」
 アハハ、と声を上げて笑ってしまう。先生も機嫌良さそうだ。
 本当にそんなことがあったらおもしろい。
 いつかそうなったら。今そう思うことだけは自由だ。