熊と魔女の森で

 今日の往診先は高台を越えた向こう側にあって、結構な運動になった。イシさんのご飯が美味しすぎて最近どう考えても飯を食べすぎているから丁度いいのかもしれない。
 長い帰路でようやく、上り坂の頂上まで来る。あとは下っていくだけだ。龍太郎はその前に、見晴らしのいい景色を堪能しながら小休止することにした。

 ちょうど良くゴツゴツが摩耗した手ごろな岩に腰掛けて、開けた視界を彩る沢や、生い茂る草花や、遠くに続く田園風景、その向こうに霞む山々の稜線などを、ぼうっと眺める。
 柔らかな風を頬に感じながら、ふと、今日の往診先で言われた言葉を思い出した。
 また来てくれるのが楽しみだ、と。
 高品先生、と屈託なく笑いかけてくれる村の人たちの顔。

 ここは優しい人たちばっかりだ、と思う。
 龍太郎も村の人たちの元気そうな様子を確認できるとホッとするし、うれしい。
 
 吹く風が少し強まった。それでも温い風は前髪を揺らすばかりで、どこまでも柔らかい。
 薫風を突っ切るように、鳴いた雲雀が青く澄み渡る空に遠ざかっていった。
 小さな黒い点になっていくその姿を眺めながら考える。
 
 ここはこんなに居心地がいいのに、どうして向こうでは何ひとつ上手くやれなかったんだろう。
 
 真昼を通り過ぎた穏やかな陽光が彩る風景は夢みたいにうつくしい。
 最近知り合った秋葉さんのことを思い出した。
 ここを、終の棲家にするつもりで移り住んだのだと言っていた。
 少しだけ分かる気がする。
 龍太郎もたまに思うことがある。
 ここは終点みたいだ。
 居心地のいい小さな駅舎。
 次の便はもう、無いんじゃないかという気がする。
 
「龍太郎」
 低い位置から聞き慣れた呼び声がして、龍太郎は目を丸くした。
 視線を下げると、下の道にいつものマント姿の〝先生〟が居て龍太郎は驚く。
「先生! おでかけっスか?」
「今帰りだ。電話で急患の報せがあってな。お前も帰りか」
「そっス。じゃあ一緒に帰りましょうよ」
 思わぬ道連れがうれしくて、自然と声が弾む。先生も肯定するように笑みを浮かべた。
 その顔を見て、ふと龍太郎は目を細めて破顔する。
 ここに来た日のことを思い出したのだ。
 
 終点だと思った。そこに、間違って着いたんだと思った。だから、すぐに帰りの便を捕まえようとした。
 でも、大きな熊が向こう側に行く道を塞いでしまっていた。
 それでおしまい。
 多分あの日の復路便が最後だった。
 あれからもうずっと、帰る目途は立たない。
 
 坂を下りて合流すると、不思議そうに先生が言った。
「なんだ。妙にうれしそうだな」
 龍太郎は笑った。
「いえ。先生がいると、夜道も安心だなあと思って」
「……まだ夕方にもなってないぞ」
「まあまあ。いずれはなりますよ」
「変なやつだ」
「へへ。今日の晩メシなんスかね?」
「お前はそればかりだな」
「先生はずっと食べてきて当たり前になっちゃってるせいで、イシさんのご飯の魔力を分かってないんスよ」
「魔力」
「そうです。世の中には色んな食べ物があるのに、ひとたびあの味を知ってしまったらもうイシさんのご飯のことしか考えられなくなるんス。早く帰らなきゃ!ってなるんですよ」
「フ……なるほどな。お前はもうその点では手遅れってことか」
「残念ながらその通りっス。恐ろしい話っスね。同じように囚われてしまう者がもう現れないことを祈るばかりっス」
「フフフ……」